主日礼拝

主の食卓

「主の食卓」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 申命記 第31章30節-32章44節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第10章14-22節
・ 讃美歌;15、206、74

 
イスラエルの民の偶像礼拝
 先週の主日礼拝において私たちは、コリントの信徒への手紙一の10章1~13節を読みました。そこには、旧約聖書の時代のイスラエルの民のことが振り返られていました。イスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しめられていたところから、主なる神様によって解放され、荒れ野の旅を導かれ、ついに約束の地カナンを与えられました。しかし先週読んだところには、エジプトを出て荒れ野を旅していく中で、彼らの内の多くの者たちが、神様の怒りにふれて滅ぼされてしまったことが語られていたのです。彼らが神様の怒りにふれた原因の中心は、偶像を造って拝んだことです。生けるまことの神様は、人間が造った像などによって表される方ではありません。本当の神様を信じる本当の信仰は、人間が造った像などを必要とせず、目に見えない神様を目に見えないままで信じ、従い、礼拝するものなのです。ところが、目に見えないままで神様を信じることにどうしても不安を覚えてしまうのが人間です。それで、神様を目に見える形に表したいという思いが起ってくるのです。イスラエルの人々も、彼らをエジプトから導き出した指導者モーセが、シナイ山に登ったきりなかなか帰って来ないという不安の中で、目に見える、金の小牛の像を造り、それを神として拝んだのです。そのことが神様の怒りを招きました。なぜなら、このように偶像を造り、それを神として拝むことは、人間が、神様を自分のものとして所有しようとすることだからです。人間の要求に応え、人間の必要を満たしてくれる、都合のよい神を自分のものとして持っていたい、という思いがそこにはあります。それは、人間が主人になり、神様を自分の僕とするようなことであって、生けるまことの神様と人間の関係における、全くの主客転倒です。神様が主人であり、私たちはその僕である、神様が私たちをご自分の民として所有して下さるというのが、まことの神様と私たちとの正しい関係です。偶像礼拝は、それを全く逆さまなものにする、人間の罪の最たるものなのです。この罪のために、イスラエルの民の多くの者たちは、せっかくエジプトの奴隷状態からの解放という救いの恵みにあずかりながら、結局滅ぼされてしまった、そのことをパウロは先週のところで振り返っていたのです。

コリント教会における偶像礼拝
 本日の箇所の冒頭の14節にも、先週のところを受けて「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」とあります。パウロがこのように偶像礼拝にこだわり、それを避けるように教えているのは、この手紙の宛先であるコリントの教会の人々の中に、偶像礼拝に参加している人がおり、そのことが周りの人々にある影響を及ぼしていたからです。そのことについては、既に8章の10節にこのように語られていました。「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」。ここに「偶像の神殿で食事の席に着いている」とあるのが、偶像礼拝に参加することです。ギリシャ、ローマの世界には、様々な神々の神殿があり、そこには様々な偶像が祭られていました。そしてその神殿で、神々の像の前で食事の席を設け、そこに親戚や友人を招待することがしばしば行われていたのです。それは神々への礼拝を伴う宗教的な食事です。神々の加護の下に、親族友人たちの健康と繁栄を喜び祝うという意味があったのでしょう。そういう席に、教会の信者、キリスト信者である者が連なっているということが問題にされているのです。

私たちにおける偶像礼拝?
 同じようなことは私たちの生活においてもしばしばあると思います。私たちは、亡くなった家族や親族のお葬式に参列する中で、あるいは法事などを行うことにおいて、仏前で食事を共にすることが多々あります。そのような食事はこの「偶像の神殿での食事」に当たるのではないか、もしそうなら、クリスチャンは仏教のお葬式や法事に連なってはならない、ということになるのか、さて困った、立場上どうしてもそういう所に連ならなければならないことがあるのだが…、そう思う人が多いのではないでしょうか。確かに、コリント教会の人々が連なっていた偶像の神殿での食事と、私たちが連なる法事などの食事とは、重なる点も多いと言わなければならないでしょう。ただ、そこには大きな違いがあることも確かです。それは、食事の意味の違いと言うよりも、そこに連なる私たちの思いの違いです。私たちがこのような食事の席に連なる時の思いは、亡くなった家族や親族、親しい人への追悼の思いであり、遺族への慰めの思いです。あるいは、少しいやな言い方になりますが、親族や知人への義理立てという思いもあると言えるでしょう。そのような思いをもってこの席に連なる私たちクリスチャンは、しばしばある迷いやうしろめたさを感じます。このような仏教の儀式に連なることは自分の本意ではないが、しかしいろいろな関係の中でやむを得ず出席しなければならなかったり、あるいはそれを主催しなければならないこともある、そのような時、自分の信仰との間にある葛藤を感じながら、このような食事の席に連なっている、というのが、多くの場合の私たちの思いなのではないでしょうか。ところが、偶像の神殿の食事の席に着いていたコリント教会の人々には、そういう葛藤、悩みや迷いはなかったのです。むしろ彼らは喜んで、積極的にその席に着いていたのです。そのことは、今読んだ8章10節の中の、「知識を持っているあなたが」という言葉から分かります。彼らにとっては、偶像の神殿で食事の席に着くことは、知識を持っていることの表れだったのです。その知識とは、8章4節に語られていた知識です。このようにあります。「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」。つまり、神様はただお一人であって、偶像など神でも何でもない、ただの人形と同じだ、という信仰における知識です。彼らは、自分たちがこの信仰的知識を持っており、信仰において進歩、成熟していることを誇り、それをひけらかすような思いで、喜んで偶像の神殿の食事に連なっていたのです。つまり彼らには葛藤や悩みはなく、むしろ、こういう場に平気で連なることができる自分を誇る思いがあったのです。そしてその彼らの行動が、教会の他の人々にも影響を及ぼしていました。洗礼を受けて教会に連なっている信仰者は皆、神様は主イエス・キリストの父なる神お一人だ、偶像の神などまことの神ではない、ということを信じて、その信仰を告白していたわけですが、しかしその信仰的知識がまだ完全に自分のものとなっていない、つまり頭では信じていても、気持ちや心においては、体や生活にしみついた古い感覚から抜け切れていない、という状態の人もいたのです。そのような信仰の「弱い」人々が、彼ら知識のある「強い」人々の行動によって、信仰者はこうしなければならないのか、と思うようになり、無理をして、まだ本当に自分のものとなっていないことをしようとする、それによってその人の思いと行動のバランスが崩れて、信仰そのものが動揺し危機に陥るということがあったのです。パウロはそのような事態を見つめながら、8章1節で、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と語ったのです。知識があるのはよいが、それを他の人にひけらかしたり誇ったりするのでは、その知識は人を高ぶらせ、弱い人を傷つけるものとなってしまう、正しい知識には愛が伴わなければ、かえって有害なものになってしまうのだ、と言っているのです。そしてパウロは8章から9章にかけて、正しい知識に伴わなければならない愛とはどのようなものかを語ってきました。それは、信仰によって自分に与えられている権利や自由を、弱い兄弟への配慮、思いやりのために制限し、放棄するということでした。その教えを私たちは9章において丁寧に読んできたのです。

偶像礼拝を避ける
 このように、コリント教会の人々が偶像の神殿で連なっていた食事と、私たちがお葬式や法事で連なる食事とは、現象としては似ていても、意味が全く違います。ですから私たちはここでのパウロの教えを、仏教のお葬式や法事に連なってはならない、という意味に取る必要はありません。そのことにおいては、パウロも認めているあの正しい知識、偶像など神ではない、という信仰的知識が確かに私たちに自由を与えるのです。ただ一人の生ける神様を信じる者は、偶像など気にすることなく、その前でも平気で食事ができるようになるのです。私たちもこの信仰によって、お葬式や法事の席での食事も、家での普通の食事も、何も違いはないことを示され、うしろめたい思いを持つことなく、そのような食事の席に連なることができるようになるのです。このことを先ず確認しておきたいと思います。その上でしかし、本日の箇所でパウロが、偶像礼拝を避けなさい、とはっきり言っていることを、私たちはやはり重く受け止めなければなりません。私たちは、主イエス・キリストの父なる神様を信じる信仰者として、偶像礼拝を避ける必要があるのです。それはどういうことなのでしょうか。どうすることが求められているのでしょうか。そのことを考えるために、パウロがここで何故偶像礼拝を避けなさいと言っているのか、その理由を読み取っていかなければなりません。その理由は16、17節に語られています。パウロはそこでこう言っているのです。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。これは、教会の礼拝における聖餐のことです。礼拝の中で、信者たちが、パンと杯をいただく、その聖餐のパンは、キリストの体にあずかることだ、杯は、キリストの血にあずかることだ、と言っているのです。また聖餐において、一つのパンを分けて共にいただくことによって、大勢の信者たちが一つの体になる、とも言われています。この聖餐のことが、偶像礼拝を避けなさいという教えの理由として語られているのです。それは何故なのでしょうか。

誰の食卓に連なるのか
 パウロは明らかにここで、偶像の神殿で食事の席に着くことと、教会の礼拝における聖餐とを重ね合わせて考えています。偶像礼拝とは、偶像のもとでの食卓に連なることです。それに対して私たちキリスト信者は、生けるまことの神様のもとで、その独り子イエス・キリストの体と血とにあずかる聖餐の食卓に連なっている者なのです。つまりパウロはここで教会の人々に、つまり私たちに、自分がどの神のもとで食卓に連なっている者なのかをわきまえなさい、と言っているのです。ある神のもとでの食卓に連なることによって、その神との交わりが生じます。18節でパウロは、旧約のイスラエルのことをひいてそのことを語っています。「肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか」。神の前での食事においては、その神の祭壇に供えられたものを共に食べるのです。それによって、その祭壇とかかわる者になるのです。祭壇とかかわるとは、そこに祭られている神とかかわることです。イスラエルの人々は、主の祭壇に供えられたものを共に食べることによって、主なる神とかかわる者となり、主なる神との交わりに生きました。それがイスラエルの民の信仰の歩みだったのです。それと同じように、聖餐にあずかって生きる者は、主イエス・キリストとかかわる者となり、主イエスとの交わりに生きるのです。それが私たちの信仰の歩みです。それゆえに偶像のもとでの食事に連なる者は、偶像の神とかかわる者となり、偶像の神との交わりに生きることになるのです。しかしそう言ってしまうと、生けるまことの神様の他に偶像の神が存在することになってしまいます。そうではない、と釘をさすためにパウロは次の19、20節でこう言うのです。「わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません」。つまり、自分が言っているのは、偶像の神が存在するということではない、神はお一人であって、偶像は神ではない、というあの信仰の知識はその通りなのです。けれども、それでは偶像の前での食事は何も問題がないのかというと、そうではない。「偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている」とパウロは言います。偶像の神はいないけれども、偶像に供えられたものは悪霊に供えられたものだ、これは要するに、まことの神様以外の偶像を拝む時に私たちは、神様に逆らう力である悪霊とかかわりを持ち、悪霊の支配下に置かれてしまうのだ、ということでしょう。偶像の前での食卓に連なる者は、悪霊の仲間となってしまうのです。

主の食卓と悪霊の食卓
 悪霊の「仲間になる」という言葉は、18節に「祭壇とかかわる者になる」とあった、その「かかわる者になる」と同じ言葉です。そしてそれはさらに16節で「キリストの血にあずかる、キリストの体にあずかる」と言われていた、「あずかる」とも同じ言葉です。つまりここでパウロが問題にしていることは、あなたがたは悪霊とかかわり、悪霊の仲間になるのか、それともキリストとかかわり、キリストにあずかる者となるか、ということなのです。21節には「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」とあります。主の杯、主の食卓と、悪霊の杯、悪霊の食卓のどちらにあずかる者となるか、それは二つに一つなのです。どちらかでしかあり得ないのです。信仰とは、主の杯、主の食卓に連なって生きることです。それはつまり聖餐にあずかりつつ生きるということです。聖餐にあずかることが、信仰において中心的な重要性を持つことがここに教えられています。ただ心の中で神様を、主イエスを信じて、神様に従おうという思いを持って生きることが信仰ではないのです。聖書の教える信仰は、そのような主観的な事柄ではなくて、神様が用意して下さった杯と食事を、この体をもっていただくという、極めて客観的、具体的、あるいは肉体的な事柄なのです。

ねたむ神
 その主の食卓にあずかっている者が、他の神々の、偶像の、即ち悪霊の食卓につき、その仲間となることはあり得ません。22節には、主の食卓にあずかっている者が、偶像の食卓、悪霊の食卓にもあずかるようなことがあれば、それは「主にねたみを起こさせる」ことだと言われています。神様がねたみを起す、やきもちを焼くなんて神様らしくない、と思うとすれば、それは神様の愛が分かっていないということです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記32章の「モーセの歌」には、イスラエルの民が、主なる神様の大きな愛によって選ばれ、導かれ、養われ、豊かにされてきたのに、その恵みによって豊かになると、感謝を忘れ、造り主なる神様を捨てて、他の神々、むなしい偶像に心を寄せていった、そのことが主なる神様のねたみと怒りを引き起こしたことが歌われています。神様の愛というのは、一般論としての、抽象的な愛ではありません。神様は私たち一人一人を、真剣に愛し、具体的に交わりを結ぼうとしておられるのです。そのために食卓を用意して、私たちを招いて下さっているのです。もしも私たちが、主の食卓もいただくけれども、他の神々の食卓も魅力があるのでそちらへも行ってみる、というようなことをするなら、神様はねたみを起こされるのです。それほどに、神様は私たちを真剣に、具体的に愛しておられるのです。

神の愛の食卓にあずかる
 神様のその真剣な、具体的な愛によって、私たちのために整えられ、用意されているのが聖餐の食卓です。聖餐のパンは、キリストの体にあずかることです。聖餐の杯は、キリストの血にあずかることです。神様の独り子主イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかり、肉を裂き、血を流して、苦しみを受け、死んで下さったことを、聖餐のパンと杯は表しているのです。そこに、神様の私たちへの真剣な、具体的な愛があります。聖餐にあずかることは、この神様の主イエスにおける愛のもてなしを受け、その愛を味わい、主イエス・キリストとの交わりに生きることです。また私たちは、聖餐にあずかることによって、一人の主イエス・キリストの体に共にあずかり、大勢でも、キリストの体に共に連なる一つの体となるのです。聖餐に共にあずかることが、私たちを結び合わせ、キリストの体である教会がそこに具体的に形造られていくのです。教会とは、聖餐に共にあずかる者の群れです。それゆえに、洗礼を受けた教会員のことを、「陪餐会員」と言うのです。それは「聖餐にあずかる者」という意味です。聖餐にあずかりつつ歩むことによって、私たちは、イエス・キリストにおける神様の真剣な具体的な愛を受け、キリストの体である教会のえだとして生きるのです。

もはや偶像を必要としない
 聖餐はこのように、主イエス・キリストによる神様の恵み、愛にあずかるための食卓です。聖餐のパンと杯そのものがそのような恵みの力を持っているということではありません。それらは、目に見えない神の愛の目に見えるしるしです。神様が私たちを愛していて下さる、その神様も愛も目には見えませんが、神様はその愛のゆえに独り子をこの世に遣わして下さり、独り子主イエスの命を、その肉と血とを与えて、私たちの罪を赦し、新しい命に生かして下さるのです。その真剣で具体的な愛が、聖餐において私たちに、目に見える仕方で差し出されているのです。この神様の愛のしるしである聖餐の食卓にあずかっているがゆえに、私たちは偶像の食卓を避けるのです。それは、他の宗教の葬式や法事における食卓に連なってはいけない、ということではありません。その食事は肉体を養う食事です。そこにおいては、偶像は神ではない、という信仰の知識によって、私たちは、どんな食卓にでも安心してあずかり、肉体の養いを受けることができるのです。しかし大事なことは、私たちが常に、自分は教会の礼拝において、主イエス・キリストの父なる神様が備えて下さった食卓である聖餐に連なり、そこで与えられる神様の愛によって養われている者なのだ、ということをしっかりと覚え、その食卓をこそ何よりも大切にすることです。礼拝において、本当に自分を養い、生かし、力づけてくれる神様の愛の食卓にあずかっている者は、それ以外の食卓による養いを求めることはなくなるのです。そういうものはもはや不必要だからです。偶像礼拝を避けるというのも、そういうことをしてはいけないという掟が与えられているからと言うよりも、むしろ、私たちにはもはや、偶像は必要がないからです。人間の要求に応え、人間の必要を満たしてくれる、目に見える神を自分のものとして持つ必要は、主イエス・キリストによる救いにあずかった私たちにはもはやないのです。なぜなら私たちは、そのような人間が造り出した目に見える神々よりもずっと確かで、具体的な、神様の愛を受けているからです。目に見える、この世の何かによって得られる平安や支えよりも、もっとすばらしい、もっと充実した、もっと恵みに満ちた生ける神様の真実な愛を私たちは与えられているのです。その神様の愛の、目に見えるしるしとして与えられているのが聖餐です。聖餐において、主の食卓にあずかっているから、私たちは、目に見えない神様を、目に見えないままで信じ、従い、礼拝することができるのです。
 今この礼拝の場には、まだ聖餐にあずかることができない方々も大勢おられます。神様は、そのお一人お一人をも、同じ愛をもって、主の食卓へと招いて下さっています。その招きにあずかる道はただ一つ、主イエス・キリストを信じる信仰を言い表し、洗礼を受け、キリストの体である教会に連なる者となることです。まだ洗礼を受けておられない全ての方々が、神様の招きを信じて、主の食卓に共に連なることができる日が来ますように、主の導きを祈りたいと思います。

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