主日礼拝

その兄弟のためにも

「その兄弟のためにも」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第42章1-4節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第8章7-13節
・ 讃美歌;344、353、543

 
力を求める私たち
 いろいろなことを通してつくづく感じさせられることですが、私たち人間はいつも、自分の力、自分の強さを頼みとして、それを拠り所として生きているものです。私は自分の弱さをいつも感じて嘆いている、という人もそれは同じです。そもそも、自分の弱さを嘆くというのは、もっと強くなりたい、強くなれれば、今よりももっと良く、もっと有意義に、もっと喜ばしく生きることができるのに、と思っていることの裏返しです。私たちは誰でも根本的に、強くなりたいと願い、強さにあこがれながら生きているのです。それはもう良いとか悪いとかではなくて、人間の本質に属することだと言うことができるでしょう。  そのような私たちに、聖書は、それとは別の生き方があることを教えています。聖書が教えるのは信仰、つまり神様を信じて、神様のみ前で生きることです。神様を信じるとは、神様こそが自分を守り、導き、生かして下さっていることを信じて、その神様の力にこそ依り頼んで生きることです。そこにはおのずから、自分の力に頼り、強さを求めていくのとは違う生き方、歩み方が生まれるのです。しかしこのことは、聖書が、自分の力を求めたり、強くなろうとすることをいけないことだと言っているということではありません。私たちが力を求め、強くなろうとするのは、自分の持っている力を存分に発揮して歩みたいということであり、そのことによって人々に、社会に貢献したい、ということでもあります。聖書はそういう生き方を否定しているわけでは決してありません。力を得ることを求め、また自分の力を高め、強めていくために、訓練、練習、勉強に励むことは大切なことです。人間は自分の力を発揮して有意義な働きをしていくことによってこそ、本当に人間らしく生きることができるのです。
 昨年全十五巻が完結した、塩野七生の「ローマ人の物語」というシリーズがあります。ローマ帝国の誕生から滅亡までの歴史を叙述した壮大な歴史物語で、大変面白いと同時に、いろいろなことを考えさせられる本です。主イエスがこの地上を歩み、また教会が誕生し発展していった時代とはどのような時代だったのかを知ることができるので、聖書を理解するための参考にもなります。この本について語り出せばきりがないのですが、ローマ帝国が発展していく過程で、このようなことがあったというところに、興味を引かれました。ローマの支配が次第に地中海世界の広い地域に及ぶようになっていった結果として、ローマの社会に奴隷の労働力が流入してきました。その安い労働力の流入によって、多くの人々が職を失い、失業者があふれていったのです。この失業者問題は、福祉政策によって、つまりそれらの人々に安く、ただ同然で食物を売って、職がなくても生きていけるようにする、ということによっては解決しない、と塩野さんは言っています。なぜなら、人間は自分の力を発揮して仕事をして人々に、社会に、国家に貢献するということによってこそ、人間としての尊厳をもって生きることができるからです。つまり人間、毎日遊んで暮らしていければそれが一番いいというものではない。やはり自分の力を発揮して働く場というものが必要なのです。

知識は人を高ぶらせる
 そのように私たちは、自分の力を発揮して生きることによってこそ人間らしく生きることができるのであり、そのための強さを求めていくことは人間として必然的なことなのです。聖書はそれを決して否定してはいません。しかし聖書は、そのように強さを求め、力を求めて生きるところにしばしば起って来る問題を見つめています。今私たちが読んでいるコリントの信徒への手紙一の第8章はそういう箇所なのです。ここには、強さを求めて生きるところに起ってくる問題のことが語られているのです。その問題とはどういうことなのでしょうか。パウロは1節の終わりのところで、その問題を一言で、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と言い表しています。「知識」とありますが、これは内容的には「力」と言い換えてもよいものです。この知識とは何かが4節から6節にかけて語られています。その中心は4節にある「世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」ということです。つまりこれは神様についての知識、信仰における知識です。その知識を持つことによって人は、様々な束縛から自由になることができます。ここで取り上げられている具体的問題は、唯一の神を信じるクリスチャンは、偶像の神々の神殿に一旦捧げられ、そこから下げられて来た肉を食べてもよいのか、それは偶像礼拝に加担することにならないか、ということでした。そういう恐れを抱いている信仰者たちに対して、この知識、偶像の神などいない、という知識を持った人々は、偶像などただの人形と同じなのだから、それに供えられた肉もその他の肉も何の違いもない、食べたってどうということはない、という自由を得ることができていたのです。そのことは、私たちの身近な例で言い換えるならば、父なる神と、その独り子主イエス・キリストを信じる者は、様々な占いや運勢、今流行りの風水などを気にしない、そういうものから自由な生活を送ることができる、ということです。信仰における正しい知識はそのように私たちに、いろいろな束縛からの自由、解放を与えるのです。本日の9節の「あなたがたのこの自由な態度が」という言葉は、そのような、信仰的知識によって得られる自由を指しています。そして実はこの「自由な態度」と訳されている言葉は、直訳すれば「権威」という言葉なのです。つまり、自由にふるまうことができるというのは、それだけの権威を持って、力強く生きることができるということなのです。いろいろなものを気にせず、それらの束縛から自由に生きることができるのは、それだけの力が自分の内にあるからです。占いや運勢や風水などにしても、それを気にしないだけの確固たる力、確信が自分の中になければ、それらから自由であることはできないでしょう。つまり問題は、そういうものを気にすることは正しいか間違っているかではなくて、それに打ち勝つ力が自分の中にあるかどうかなのです。信仰における正しい知識はそのような力を、強さを私たちにもたらします。それゆえに、このような正しい知識を求め、力を、強さを求めることは、間違っているわけではない、それは基本的に必要なことなのです。しかしそこには同時に「知識は人を高ぶらせる」という問題が起ることがある、そのことをパウロは見つめています。知識を持ち、それによって力を持ち、自由を得た者が、その力、自由によって高ぶるということが起るのです。

自由な態度が、弱い人々を罪に誘う
 高ぶるというのは、他の人に対して高ぶることです。知識を持ち、力を持ち、自由を得た者が、そうでない者、つまり自分よりも弱い者に対して高ぶり、相手を見下すようなことが起るのです。これが、力を求めて生きるところに起って来る問題の根本です。自分が力を求め、それを発揮して生きようとすること自体が問題なのではありません。それが、弱い者、力のない者に対する高ぶりを生むことが問題なのです。コリント教会においてこのことは具体的にどのような問題だったのでしょうか。その事情は今日の私たちにはいささか分かりにくいことですが、おそらくこういうことだったのでしょう。10節にこうあります。「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」。「偶像の神殿で食事の席に着く」というのは、ある人が、何か家族の冠婚葬祭のための祭りをある神殿で行い、その一環として宴席を設けてそこに客を招く、その招待を受けてその席に着くということでしょう。その食事には、その神殿の神、つまり偶像に供えられた肉が料理されて出されるのです。それは当時の世間一般の感覚で言えば、招待する側の特別な好意の現れであり、招かれた方は、ありがたい、縁起のよい食事に招待されたと思って喜んで出かけるのが普通だったのでしょう。そしてその食事は、偶像の神のまん前でなされたのです。私たちで言えば、法事などの時に、開かれた仏壇のまん前で宴を設けることと似ているかもしれません。そういう食事に招かれた時に、先程の信仰的知識をしっかり持っている強い人は、少しも気にせずにそこに連なることができる、偶像の神が目の前にあっても、そんなものはただの人形か、あるいは置物が置いてあるのと同じだから全然気にせず、おいしくごちそうをいただいて帰ることができるのです。ところが、7節に「この知識がだれにでもあるわけではありません」とあるように、同じキリストを信じる信仰者であっても、そこまではっきりと割り切ることができないでいる人々がいたのです。彼らも勿論イエス・キリストを信じて洗礼を受け、教会に連なっている人々です。偶像の神など神ではない、唯一の神、唯一の主イエス・キリストのみがまことの神であられることを教えられ、その信仰を言い表した人々です。けれども彼らは、そう信じながらも、それまで生きてきた社会の慣習や言い伝えから自由になれないでいるので、偶像の神の前で食事をすることにはどうも後ろめたい思いがしてしまうのです。だから彼らはなるべくそういう所には行きたくないと思う。そういう招待は理由をつけて断わりたいと思うのです。ところが、あの知識のある、強い、自由な人が、そんなもの断わる必要はない、むしろ我々は偶像など気にしないのだということを示すためにどんどんそういう所に行ったらよいではないか、と言う。そういう声に押されて、内心では躊躇しながら出席することになる、それが「その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」ということの意味です。「良心が強められる」というのは良いことではないかと私たちは思いますが、この「強められる」という言葉は、「家を建てられる」という意味です。その人の良心は弱いのに、その弱い土台の上に無理やり家を建てられてしまうというような意味なのです。そうすると、次の11節にあるように、「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます」ということが起ります。「滅びてしまう」というのは表現がきついですが、その内容は7節に語られていることでしょう。そこには「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」とあります。自分の本意ではないのに、知識のある人にそそのかされて偶像に供えられた肉を食べてしまう、しかしどうしても「これは偶像に供えられた肉だ」ということが念頭から去らず、ためらいながら、いやな思いで食べることになる、そうすると、自分が汚されてしまうことになるのです。それは、パウロがローマの信徒への手紙の14章23節で言っている、「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです」ということと関係していると言えるでしょう。確信が持てず、あやふやなうちに、従っていろいろなことが気になりながら、人に勧められるままに信仰的な行為をすることは、本人の信仰にとって好ましいことではない、むしろ罪になってしまうのです。そしてそのようなことを引き起こしているのは、知識を持った、力のある人の自由なふるまいです。9節にあるように「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことに」なっているのです。

食物が神のもとに導くのではない
 パウロはこのようなことをまとめて「知識は人を高ぶらせる」と言っているのです。つまり、知識のある強い人、それによって自由を得ている人が、その知識が本当に自分のものになっていない弱い人々に対して、自分の自由をこれ見よがしに示し、本当に信仰があればこういうふうにできるはずだ、などと言うのは高ぶりだとパウロは言っているのです。そういう思いを込めて8節が語られています。「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」。食物が私たちを神のもとに導くのではない、何を食べるか食べないかということは、信仰とは、救いとは関係がない、食べなくても、体の力は失われるかもしれないが、信仰的には何も失われない、食べても、体の力はつくかもしれないが、信仰的には何かが得られるわけではない、ということです。そこには、自分は知識を持っているから、偶像の神殿で食事をしても平気だと言っている強い人々への揶揄が込められています。つまり彼らは、偶像に供えられた肉を気にして食べない人というのは、信仰においてまだ不十分な未熟者だと考えており、逆にそれを食べることができる自分たちは信仰においてより優れていると考えているのです。そのように自分たちの信仰を誇り、高ぶり、弱い者たちを見下し、軽んじている人々に対してパウロはここで、おまえたちがその肉を食べることは信仰において何の益にもなっていないし、彼らがその肉を食べないからといって信仰において何も失われてはいない、神のもとに導かれることはそんなこととは関係がないのだ、と言っているのです。

自由と力の行使を差しひかえる
 正しい知識を求め、力を求め、それによって得られる自由を求めることは決して間違ってはいません。それが与えられているなら、心から感謝し、喜んでその自由に生きるべきです。しかしそれが、高ぶりを生み、自分の力を誇り、人を見下すような思いを生むならば、その知識、力、自由は何の意味もないもの、いやむしろ有害なものになってしまうのです。その場合には、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」とあるように、知識や力よりも愛の方が尊い、建設的なものとなるのです。この場合に見つめられている愛とは、9節にあるように、「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけ」ることです。具体的には、パウロ自身が13節で言っているように、「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と決意することです。この「肉」は勿論、偶像に供えられた肉のことです。肉食をやめて菜食主義になる、ということを言っているのではありません。パウロ自身は、信仰の知識をしっかりと持っていますから、偶像に供えられた肉だろうと、気にせず食べることができるのです。そういう自由に生きているのです。しかし、そのことでつまずきを覚えてしまう弱い兄弟がいるなら、その人のために、自分はその肉を食べることをやめる、と言っているのです。これはつまり、弱い兄弟のことを思いやり、その兄弟のつまずきを防ぐために、自分の得ている自由を行使しない、ということです。自由というのは先程申しましたように、自分が得ている力の行使ですから、それは自分の力を発揮することをやめるということでもあります。弱い兄弟のために、自分の持っている力を発揮することを自分で制限する、自分の持っている自由の行使を差しひかえる、そういうことこそがここで見つめられている愛なのです。この愛が、「高ぶり」の対極にあります。このような愛こそがキリストの体である教会を造り上げていくのです。

その兄弟のためにもキリストが死んでくださった
 自分の自由を、力の行使を差しひかえるというこの愛は、単なるセンチメンタルな愛情とは全く違うものです。それはむしろ理性的な自己抑制、セルフ・コントロールに生きることです。感情的になっていてはこの愛に生きることはできません。この愛に生きるためには、冷静な判断力と強靱な意志の力が必要なのです。パウロは私たちに、そのような愛を持つことを求めています。そのような愛によってこそ教会が建て上げられていくのだと言っているのです。そんな愛はいったい誰が持てるのか、少なくとも自分には無理だ、と私たちは思ってしまうかもしれません。しかしパウロはこれを、特別な人にしかできない難題だとは思っていません。信仰をもって生きる者は誰でもこの愛に生きることができる、と言っているのです。なぜそう言うことができるのでしょうか。それは、誰でも、たった一つのことさえ弁えていれば、この愛に生きることができるからなのです。そのたった一つのこととは、11節の後半の「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」ということです。自分よりも知識において乏しい、力も弱い、自由にもなれていない、いろいろな意味で弱さを持ち、束縛の中にいる兄弟姉妹がいる。しかしその兄弟姉妹のためにも、主イエス・キリストが、十字架にかかって死んでくださったのです。主イエスの十字架の死は、その兄弟姉妹の罪を、弱さを、主イエスが全て背負って下さり、身代わりになって死んで下さったということなのです。その主イエスの死によって、父なる神様は、彼らの罪を赦し、ご自分のもとへと導き、恵みの内に入れ、神様の家族である教会の一員として下さっているのです。そのことをしっかりと弁えるならば、その弱い兄弟姉妹に対して高ぶることなどできないはずです。今の11節の言葉を受けて、12節ではこのように言われています。「このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」。弱い兄弟姉妹に対して高ぶり、彼らを傷つけるのは、彼らのために十字架にかかって死なれた主イエス・キリストご自身に対して罪を犯すことに他ならないのです。このことをしっかりと弁えて生きるならば、私たちは、自分の力や自由の行使を差しひかえる愛、「教会を造り上げる愛」に生きる者となることができるのです。

この私のために、キリストが死んで下さった
 「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」。この言葉を、私たちの教会の今月の聖句として掲げました。このことを覚えることが、高ぶりではなく愛に生きるための土台であり、私たちが、本年度の教会の年間主題である「キリストの体である教会―とりなし祈る群れの形成のために」を実現していくための要となります。神様の独り子イエス・キリストが、私たち全ての者のために十字架にかかって死んで下さった、そのことを私たちは毎週の礼拝において聞いています。おそらくコリント教会の人々だって、そのことは既によく知っていたのだろうと思うのです。それでも高ぶりが起りました。いやむしろ、彼ら知識ある、力ある人々は、自分が高ぶりに陥っているとは思っていなかったのでしょう。むしろ彼らは、弱い人たちを愛しているつもりだったのかもしれません。彼らを教育して、その信仰をより強めてあげようと思って、偶像の神殿での食事に参加することを勧めたのかもしれません。私たちも同じようなことをよくします。相手を愛しているつもりで、親切に指導してあげているつもりで、実はそれが高ぶりであり、相手に重荷を負わせ、傷つけてしまうということがしばしばあるのです。私たちの中にある高ぶりの思いはそれほどに深く根を張っているのです。そのような私たちが、まず第一に弁えなければならないことは、「この私のために、キリストが死んで下さった」ということなのではないでしょうか。あの兄弟、あの姉妹のためよりも先に、この私のためにキリストは十字架にかかって死んで下さった、そのことをしっかりと弁えている者こそが、あの人のためにも、この人のためにも、キリストが死んで下さったことを本当に覚えることができるのです。「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではない」と8節にありました。それではいったい何が私たちを神のもとに導くのか。それは、私たちが立派な強い人間であることでもないし、信心深く神様の掟を守って生きることでもありません。主イエス・キリストがこの私のために十字架にかかって死んで下さった、そのただ一つのことによって、私たちは神のもとへと導かれているのです。そこにおいては、私たちの力や、強さなどは何の意味もありません。主イエスの十字架の死による罪の赦し、それのみが、私たちを神様と結びつける絆なのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書42章1~4節には、主の僕が、傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、救いを実現することが歌われていました。神様は、弱い者、傷ついている者を、大切に守り支え導いて、救いのみ業を実現して下さるのです。そのために、独り子イエス・キリストが、ベツレヘムの馬小屋で生まれ、十字架にかかって死んで下さったのです。傷ついた葦、暗くなってゆく灯心とは、あの兄弟、この姉妹のことであるより前に、まずこの私のことです。主イエス・キリストはこの私を、多くの人々の中から選び、招き、導いて下さり、この私のために十字架にかかって死んで下さったのです。この後共にあずかる聖餐はそのことを私たちに深く味わわせるために主が備えて下さっている恵みの食卓です。聖餐にあずかることによって私たちは、主イエスがこの私のために肉を裂き、血を流して救いのみ業を成し遂げて下さったことを味わい知るのです。そしてその時、共に聖餐にあずかっているあの兄弟のためにも、この姉妹のためにも、キリストが死んで下さったということもまた、本当にわかってくるのです。そして、高ぶりから解放され、本当の愛に生きる者となることができるのです。私たちは誰でも皆、自分の力を発揮する場を求め、強さを求めていく人生を歩んでいます。それは決して間違ったことではありません。しかし、聖餐にあずかり、主イエスがこの私のために死んで下さったことを味わい知りつつ歩むならば、私たちは、強さを求めて努力していく中でも一味違う生き方が、「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」ことを常に忘れず、一人の弱い兄弟のために、自分の力や自由やそれを発揮していく権利を放棄することができる、そういうまことの愛に生きることができるようになるのです。

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