主日礼拝

神の真実と憐れみ

「神の真実と憐れみ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第11章1-10節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第15章7-13節
・ 讃美歌:336、151、542

希望を祈り求める
 2015年の3月から、礼拝においてローマの信徒への手紙を読み始めました。3年かかって、いよいよその終わりが近づいています。本日の箇所の最後、第15章の13節をもって、この手紙の本文は終わります。14節からは、この手紙全体の締めくくりの部分に入るのです。この手紙は、初代の教会における最大の伝道者であるパウロが、まだ会ったことのない、そしてこれから訪ねようと計画しているローマの教会の人々に、自己紹介のように、自分が宣べ伝えているイエス・キリストの福音を書き送り、これから訪れることへの備えをし、また彼らの協力を得てローマ帝国のさらに西の方への伝道を進めたい、という願いを語っているものです。そういう意図によって書かれたこの手紙の本文において彼は、自分が宣べ伝えているキリストの福音とはこのようなものだ、ということを語ってきたわけですが、その本文が本日の箇所をもって終わるのです。その本文の最後に彼が語っていることは何でしょうか。本日の箇所の最後の13節を読みたいと思います。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」。これはローマの教会の人々のための祈りです。パウロが祈り求めていることの中心は、彼らが希望に満ちあふれることです。「希望の源である神」とありますが、「源である」という言葉は原文にはありません。直訳すれば「希望の神」です。神は希望の神であり、私たちを希望で満たして下さる、それが、彼が宣べ伝えてきたキリストの福音の、言わば結論なのです。しかもここに語られているのは「希望を持ちなさい」という勧めではなくて、神があなたがたを希望に満ちあふれさせてくださるように、という祈り願いであることも大事です。希望は私たちが決意して、頑張って抱くものではなくて、神が与え、満たして下さるものなのです。私たちは、自分の現実の中に何か希望の根拠となるものはないかと捜し回り、どんな小さなものでも見出せたらそれにすがって希望を持とうとしています。しかしパウロはこの手紙を、希望の神が自分たちを希望に満ちあふれさせて下さることを祈り求めることをもってしめくくっているのです。信仰に生きるとは、希望の神を信じて、希望に満たされることを祈り求めつつ生きることなのです。

喜びと平和
 神からの希望はどのようにして与えられるのでしょうか。この13節は「信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし」ということも祈り求めています。信仰によって得られる喜びと平和によって希望が与えられるのです。「信仰によって得られる」というところは直訳すれば「信仰における」です。「信仰によって得られる」と訳すと、私たちが信仰という手段によって喜びや平和を獲得するかのように聞こえてしまいますが、喜びや平和は獲得するものではなくて、主イエス・キリストを信じる信仰において神から与えられるものです。信仰において喜びと平和を与えられることによって、私たちは神による希望に満たされるのです。パウロがこの手紙で語ってきたことの中心はまさにこの、主イエス・キリストを信じる信仰において与えられる喜びでした。その喜びを伝える言葉は「福音」と呼ばれています。「良い知らせ、喜びの知らせ」という意味です。それをパウロはこの手紙で語ってきたのです。この手紙の本文は1章16節から始まっていますが、その直前の1章14、15節にこのように語られていました。「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」。これを受けて16節からの本文は「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と語り始められたのです。救いをもたらす神の力である福音を全ての人々に告げ知らせたい、パウロはそういう思いでこの手紙を書いており、今その締めくくりにおいて、この福音の喜びに満たされることによってあなたがたに希望が満ちあふれるようにと祈っているのです。

キリストが受け入れてくださった
 パウロが語ってきたキリストの福音、キリストを信じる信仰において与えられる喜びとはどのような喜びなのでしょうか。自分の願いが神によってかなえられ、欲望が満たされることによる喜びでしょうか。この世の人生における様々な苦しみや悲しみ、不幸が取り除かれるという喜びでしょうか。この世にはそういう喜びを約束する宗教が多くありますが、福音の喜び、キリストを信じる信仰における喜びはそのようなものではありません。福音の喜びとは何かを本日の箇所において一言で語っているのは7節の前半です。「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださった」とあります。これこそがキリストの福音の根本です。キリストを信じる信仰における喜びとは、キリストが私たちを受け入れて下さった、ということなのです。それはもっと詳しく正確に言えば、神が独り子キリストの十字架の死のゆえに罪人である私たちを受け入れて下さった、ということです。それは、神が私たちを愛して下さったということですが、しかしその私たちには神に愛される資格などありません。私たちは神に敵対し、背き逆らっている罪人であるのに、その罪を神が赦して下さって、私たちをご自分のもとに召し集めて神の民として下さったのです。これがキリストの福音です。この福音による喜びは、自分の願いがかなうとか苦しみが取り除かれるということとは違います。自分の願いがかなうこと、苦しみが取り除かれることによる喜びを求めているところでは、キリストの福音は喜びとは感じられません。そんなもの何の役にも立たない、としか思えないのです。しかし自分の願いがかなうことによる喜びというのは、私たちの人生を本当に喜びに満たし、支えるものではありません。そういう喜びはある時は得られ、ある時は失われるものです。そしてそれが最後決定的に失われる時が必ず来ます。それが死です。死においては、私たちの願いはことごとく否定され、私たちはこの世で持っており頼りにしている全てのものを失うのです。その死においてもなお私たちを支える喜びとなることができるのは、「神が自分を受け入れて下さった、神が自分を愛し、罪を赦し、ご自分の民として迎え入れて下さっている」ということなのです。キリストの福音はそういう根本的な喜びを私たちに与えます。あれこれの願いがかなうという喜びは、その都度その都度人生の歩みを対症療法的に支える喜びであるのに対して、キリストの福音の喜びは、すぐには役に立たず、効果がないように思えるけれども、私たちの人生の体質を根本から新しくして、喜びに満ちたものとするのです。キリストの福音によって、私たちの人生の土台に、神による確かな支えが与えられます。私たちは、罪と弱さをかかえて、いろいろな苦しみ悲しみを背負って人生を歩んでいますが、その私たちの人生を丸ごと、神が愛のみ手の内に受け入れ、担って下さるのです。それが主イエス・キリストの福音によって与えられる喜びなのです。

キリストは仕える者となられた
 「キリストがあなたがたを受け入れて下さった」という福音は8節においては、「キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです」と言い表されています。神の独り子でありまことの神であられるキリストが、「仕える者」となって下さった、それがキリストの福音です。主イエス・キリストは「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とおっしゃいました。マルコによる福音書第10章にそう記されています。神の独り子が、罪人である私たちのために十字架にかかって死んで下さることによって、ご自分の命を身代金として献げて下さったのです。キリストはそこまでして罪人である私たちに仕えて下さったのです。「キリストがあなたがたを受け入れてくださった」というのは、このようにして私たちに仕えて下さったということなのです。ですからそれは、「いろいろ問題はあるが、仕方がないから受け入れてやる」というようなことではありません。キリストは、ご自分の命を献げて下さるほどに私たちを愛して下さったのです。そのようにして私たちに仕える者となって下さったのです。この「仕える者」という言葉の原語は「ディアコノス」です。それは「奉仕する者」という意味であり、後に「執事」という教会における一つの務めの名称になりました。キリストはディアコノスになられた、執事となられたのです。キリストがディアコノスとなって奉仕して下さったことによって私たちは神に受け入れられ、救いにあずかったのです。このキリストご自身の奉仕が、教会における私たちの奉仕の土台です。教会の務めは牧師も長老も執事も、その他の様々な教会の営みのための務めも、奉仕の務め、仕える務めです。主イエス・キリストが私たちのために奉仕して下さった、仕えて下さった、その恵みを受けている者として、私たちもキリストに従って、それぞれの賜物を用いて、与えられている奉仕の業をしていくのです。それが、キリストの福音の喜びに満たされて生きるキリスト信者の生活なのです。

神の真実を現すために
 しかしこの8節には、キリストは「割礼ある者たちに仕える者となられた」と語られています。「割礼ある者たち」とはユダヤ人のことです。主イエス・キリストは、ユダヤ人たちに仕える者となられたのです。私たちはユダヤ人ではありません。皆、いわゆる異邦人です。だったらキリストが仕えて下さったのは私たちではない、ということになるのではないか、という疑問が生じます。このことは、パウロがこの手紙の9-11章で語ったことと関係しています。彼はそこで、割礼あるユダヤ人、旧約聖書以来のイスラエルの民である人々が、元々神に選ばれた民、神との契約を与えられた神の民であったはずなのに、今、神が遣わして下さった救い主イエス・キリストを受け入れず、敵対している、キリストによる救いから落ちてしまっている、という現実を見つめていました。このことは、自分もユダヤ人であるパウロにとって大きな悲しみでした。単に同胞たちの運命が気になるというだけでなく、このことは、神はどのようなお方であり、神による救いとはどのようなものか、という信仰の根幹に関わることだったのです。というのは、もしも、元々神の民だったユダヤ人がその罪のために結局神に捨てられて救いから落ちてしまうのなら、今自分たちに与えられている救いだって不確かなものとなるからです。今は救いの恵みが与えられていても、それは今後の私たちの心がけ次第で失われてしまうかもしれないのです。神の民だったユダヤ人が不信仰によって神に見捨てられてしまったのであれば、元々異邦人である私たちはなおさら、いつ見捨てられてしまうか分からないのです。パウロが9-11章において語ったのは、神による救いとはそのような不確かなものではない、ということでした。神は、ご自分が選び、契約を結んで下さった民に対して、どこまでも真実を貫いて下さる方だ、ということをパウロは強く語ったのです。本日の箇所の8節にもそのことが語られています。「キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり」とあります。キリストによって、神の真実が現されているのです。「神の真実」とは、神が先祖たちつまりイスラエルの民に与えて下さったご自分の約束、契約を確証して下さる、つまりその約束を忘れることなくしっかりと果して下さる、ということです。そのために神の独り子主イエス・キリストが遣わされて、割礼ある者であるユダヤ人たちに仕える者となって下さったのです。キリストが十字架の死によって罪の赦しを実現し、罪人を受け入れて下さったのは、神の民とされていながら背き逆らっている割礼あるユダヤ人たちに対する神の真実、愛、慈しみを示すためだったのです。

異邦人の救い
 そして主イエスは、割礼あるユダヤ人だけに仕えて下さったのではありません。8節に続く9節に、「異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです」とあります。つまり、主イエス・キリストによって、ユダヤ人に対する神の真実、神が彼らの罪にもかかわらずご自分の約束を誠実に実行して下さることが示されたのと同時に、異邦人に対する神の限りのない憐れみのみ心も示されたのです。なぜそう言うことができるのでしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架による救いのみ業によって、神が割礼あるユダヤ人にも異邦人にも、同じ救いを与えて下さることが明らかにされたからです。ユダヤ人が救われるのは、彼らが律法を忠実に行い、神の民として相応しい行いをして正しく生きているからではありません。彼らは神に背いており、神がお遣わしになった独り子を受け入れずに殺してしまうようなとんでもない罪人なのです。キリストはその彼らに仕える者となって下さり、恵みと憐れみによる救いを実現して下さったのです。それに対して異邦人たちも、元々神の民とされていない、自分の中に救いにあずかる資格など全くない者たちです。しかしキリストは彼らのためにも十字架にかかって死んで下さって、恵みと憐れみによる救いに彼らをもあずからせ、神の民として迎え入れて下さったのです。ユダヤ人も異邦人も、共に罪の中にあり、救われる資格など全くないのに、ただ神の恵みと憐れみによって救いを与えられる、そのことが主イエス・キリストの十字架によって実現したのです。
 本日の箇所の9節後半から12節にかけてのところには、神の憐れみによる救いが異邦人にも及んでいくことが既に旧約聖書において語られていた、そのことを示すいくつかの引用が並べられています。9節の「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」は詩編18編50節の引用です。10節の「異邦人よ、主の民と共に喜べ」は申命記32章43節です。11節の「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」は詩編117編1節です。また12節の「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける」は本日共に読まれたイザヤ書11章の10節です。これらがどの箇所からの引用であるかは、新共同訳聖書の後ろの付録に、「新約聖書における旧約聖書からの引用個所一覧表」がありますので、それを見ていただければ分かります。注目しておきたいのは、これらの引用が、申命記、イザヤ書、詩編から、つまり旧約聖書の三つの区分である律法、預言者、その他の書のそれぞれからなされているということです。このことによってパウロは、旧約聖書全体が、異邦人への神の憐れみのみ心を語っているのだ、ということを示そうとしているのでしょう。そして特に最後のイザヤ書からの引用には「エッサイの根から出る芽」とあります。エッサイはダビデ王の父親ですから、これはダビデの子孫として生まれる救い主イエス・キリストの預言です。イエス・キリストが、異邦人をも治める方として、つまり異邦人をも救って下さる方として現れる。そこに、異邦人の救いの望みがある、と語られているのです。

福音は平和をもたらす
 このように、主イエス・キリストにおいて、ユダヤ人に対する神の真実と、異邦人に対する神の憐れみが共に現され、実現している、ユダヤ人も異邦人も共に、キリストにおいて神に受け入れられ、愛され、罪を赦していただき、神の民とされている、それがキリストの福音、喜びの知らせです。従ってこの福音は、それまで敵対関係にあったユダヤ人と異邦人とを、神の恵みの下で一つに結び合わせるのです。13節に「信仰における喜びと平和とであなたがたを満たし」とありましたが、その「平和」は、神と人間との間の平和な良い関係ということでもありますが、同時に、ユダヤ人と異邦人の間の平和でもあります。ユダヤ人と異邦人の間に平和な関係が築かれ、一つの群れとなるなどということは、旧約聖書の時代には考えられないことでした。主イエス・キリストによる救いの知らせ、福音がそれを可能にしたのです。パウロらがその福音を宣べ伝えたことによって、各地に、ユダヤ人と異邦人が共に連なる教会が生まれました。ローマの教会もその一つです。そこではユダヤ人と異邦人が共に、主イエス・キリストの救いにあずかるしるしである洗礼を受け、聖餐にあずかる交わりがあったのです。しかし、ユダヤ人と異邦人を隔てていた昔ながらの感覚は教会の中になお尾を引いていました。14章以来パウロが語って来た、強い者と弱い者、肉を食べる者と野菜だけを食べる者の対立はそれによって起っていたものです。ユダヤ人が大切に守ってきた律法をキリスト教会においても守るべきだという人と、キリストの福音によって我々はそれらからもう解放されているのだという人とがいて、平和が脅かされていたのです。パウロはそういう対立を見つめつつ、お互いに裁き合うことはやめよう、と語りかけました。その勧めの締めくくりが本日の7節、「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」です。「キリストがあなたがたを受け入れてくださった」という福音、神の真実と憐れみによる救いの喜びの知らせは、私たちを、互いに相手を受け入れることができる者とするのです。それによって、人間の思い、意見、自己主張がぶつかり合ってなかなか一致できず、対立してしまう私たちの間に、神が、キリストを信じる信仰において喜びと平和を満たして下さる、ということをパウロは見つめているのです。その平和は、自分が、全く相応しくない罪人であるのに、主イエス・キリストが十字架の死によって罪を赦して下さり、自分を受け入れて下さり、愛して下さって、ご自分の民に加えて下さった、その恵みへの感謝の中で、他の人たちも、自分とは意見が違い、対立してしまうことのあるあの人この人も、同じようにキリストによって受け入れられ、神の民に加えられている、そのことを見つめる信仰によって実現していくものです。キリストの福音は私たちを、お互いに相手を受け入れる者へと作り変えることによって、平和をもたらすのです。

喜び、平和、希望
 このように神は信仰において私たちを喜びと平和とで満たして下さいます。その喜びは私たちの中に根拠のある喜びではないし、その平和は私たちの努力によって実現する平和ではありません。喜びも平和も、主イエス・キリストにおける神の恵みと憐れみにこそ根拠があるのです。それゆえに、この喜びと平和は、私たちの状態によって失われてしまうことはありません。自分の中に喜びの種を捜し回り、自分の努力で平和を築こうとして、いつも挫折し、喜びを見失い、対立に陥って行くのが私たちです。その私たちに、神が独り子イエス・キリストによって私たちを受け入れて下さったという福音が告げられています。この福音を信じるところには、失われることのない喜びと平和が満たされていくのです。
 この後共に聖餐にあずかります。聖餐は、主イエス・キリストが私たちのために、十字架にかかって、肉を裂き、血を流して死んで下さったことによって、神が私たちの罪を赦し、ご自分の民として受け入れて下さった、その福音の喜びを私たちが体全体で味わうために備えられているものです。聖餐にあずかることによって私たちは、罪人である私たちを受け入れて下さった主イエスの恵みを味わい、その喜びによって、共に聖餐にあずかっている信仰の兄弟姉妹との間で、互いに相手を受け入れ合う平和な交わりに生きることへと押し出されていくのです。そこに、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださる神の恵みのみ業がなされていくのです。

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