「何とかして、幾人かでも」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:申命記 第32章19-21節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第11章11-16節
・ 讃美歌:16、134、402
神の深いご計画
ローマの信徒への手紙の第11章11節に、「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない」とあります。ユダヤ人がつまずいた、この手紙を書いたパウロが9~11章において見つめているのはそのことです。ユダヤ人は、主なる神によって選ばれ、神の民とされた人々でした。神との特別な関係、それを聖書は「契約」と言うわけですが、その契約を与えられ、神の民として生きてきたのです。そのユダヤ人がつまずいた、つまり神の民として歩み続けることができなくなったのです。それは具体的には、神が遣わして下さった独り子イエス・キリストを救い主として受け入れず、十字架にかけて殺してしまい、またキリストを信じる人々の群れである教会を迫害しているということです。そのようにしてユダヤ人たちは、神の民としての道を踏み外しているのです。自分もユダヤ人であるパウロはこのことを心から悲しみ、何とかして、同胞であるユダヤ人たちがキリストを受け入れて救いにあずかってほしいと願っています。だから彼はユダヤ人がつまずいたことをただ眺めているのではありません。彼らの救いのために真剣に祈りつつ、神のみ心を問うているのです。そのように問う中で彼が示されたのが、「彼らがつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない」ということでした。ユダヤ人たちは今、キリストにつまずき、神の救いから落ちてしまっているが、それは彼らがもう倒れてしまって起き上がることができない、神に見捨てられて救いにあずかる可能性がない、ということではない。神は彼らを滅ぼしてしまおうとしておられるのではない。このことの背後には、神の深いご計画、み心があるのだということを、パウロは祈りの中で示されたのです。
異邦人の救い
ユダヤ人がつまずいたという現実の背後に隠されている神のみ心とは何なのでしょうか。そのことが11節後半から12節に語られています。「かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」。「彼らの罪」とありますが、この「罪」という言葉は「道を踏み外す、間違った歩みをする」という意味です。つまり「つまずいた」ことが「罪」と言い換えられているのです。そのユダヤ人のつまずき、罪によって、異邦人に救いがもたらされる結果となった、パウロは先ずそこに、神のみ心を見出しています。異邦人とは、ユダヤ人でない人々、神の民でない、神との契約を与えられていない、つまり神の救いの外にいると思われていた人々です。ユダヤ人がイエス・キリストにつまずいたことによって、神の救いが、本来救いの外にいると思われていた異邦人にもたらされた、それが今起っていることなのです。キリストによる救いの福音は、ユダヤ人の多くには拒否されており、かえって異邦人が大勢、イエス・キリストによる救いを信じて教会に加えられ、救いにあずかっています。パウロがこの手紙を書き送っているローマの教会も、その多くは異邦人の信者たちだったと思われます。ユダヤ人のつまずきは、神の救いが異邦人たちへと広げられていく契機となった、そのことをパウロは見つめているのです。主イエスはユダヤ人たちによって異邦人であるローマの総督ピラトに引き渡され、十字架につけられました。ユダヤ人が救い主を異邦人に引き渡したのです。それによって、キリストによる救いも異邦人に引き渡されたのです。12節で「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば」と言われているのはそのことです。ユダヤ人のつまずき、罪によって異邦人に救いの富がもたらされた、そういう神のご計画が実現しているのだとパウロは言っているのです。
ユダヤ人にねたみを起こさせるため
そしてパウロは、神はさらにその先のことまでを見つめておられるのだと言っています。神の民であるユダヤ人がつまずいたことによって異邦人に救いがもたらされたのは、そのことによってユダヤ人にねたみを起こさせるためだった、異邦人が神の救いにあずかるのを見て、ユダヤ人がねたみの思いを起こし、彼らも主イエス・キリストによる救いを求めるようになる、そのようにして、最終的には異邦人もユダヤ人も共に救いにあずかるようになる、それが神のご計画なのだ、とパウロは言っているのです。それゆえに、今ユダヤ人がつまずいているという現実は、異邦人も含めた全ての人を救いにあずからせようという神のご計画の一環なのであって、ユダヤ人が倒れてしまってもう起き上がることができない、神に見捨てられてしまった、ということではない、それが、同胞のための執り成しの祈りの中でパウロが示されたみ心だったのです。
しかし私たちはこのパウロの言葉にある違和感を感じるのではないでしょうか。片方に救いを与えることによってもう片方にねたみを起こさせ、救いへと導こうとするというのは、何か姑息なやり方であり、神のするべきことではないように感じるのです。そもそもねたみというのは人間の抱く様々な感情の中で、決して良いもの、美しいものではありません。むしろ悲惨な罪をも生むどす黒いものです。神がそのような人間の醜い思いを用いて救いのみ業を行うというのはどうか、と思ってしまうのです。そういう思いからでしょうか、以前の口語訳聖書はここで「ねたみ」という言葉を使わずに、「彼らの罪科によって救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである」と訳していました。しかし原文の言葉は明確に「ねたみを起こさせる」という意味です。パウロはここではっきりと、神がユダヤ人にねたみを起こさせようとしている、と言っているのです。それはどういうことなのでしょうか。
ねたみを起こさせる神
実はこれはパウロが考えたことではありません。パウロは、同胞たちのつまずきの現実を見つめつつ、神のみ心を祈り求めていく中で、一つの聖書の言葉を示され、それに導かれてこのような結論を与えられたのです。その聖書の言葉とは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記第32章19節以下です。申命記は、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民が、神が遣わして下さった指導者モーセによって奴隷状態から解放され、四十年の荒れ野の旅を経ていよいよ約束の地カナンに入ろうとしている、その約束の地を目前にして死のうとしているモーセが語った遺言です。モーセはその遺言の締めくくりに当るこの32章で、イスラエルの民がこれから約束の地に入ってどのようなことが起るかを予告しています。イスラエルの民は、約束の地で次第に豊かになると、自分たちをエジプトの奴隷状態から解放して下さった主なる神を忘れ、他の神々、豊かさや繁栄を約束する偶像の神に心を寄せるようになるのです。それに対して主なる神は激しくお怒りになるのです。21節の前半にそのことがこのように語られています。「彼らは神ならぬものをもってわたしのねたみを引き起こし、むなしいものをもってわたしの怒りを燃えたたせた」。「神ならぬもの」「むなしいもの」、それが他の神々、人間が作った偶像の神々です。イスラエルの民は、天地の創造者であり、彼らをエジプトから解放してくれた神を忘れて、むなしい偶像の神、神ならぬものの方を頼りにするようになるのです。この民の裏切りに対して、神は激しくお怒りになります。その怒りが「ねたみ」という言葉で言い表されています。同じ32章の16節にも「彼らは他の神々に心を寄せ、主にねたみを起こさせ、いとうべきことを行って、主を怒らせた」とあります。神は、ご自分の民が他の神々に心を寄せることをねたまれるのです。そしてそのねたみのゆえに神は、21節の後半にあるように、「それゆえ、わたしは民ならぬ者をもって彼らのねたみを引き起こし、愚かな国をもって彼らの怒りを燃えたたせる」のです。「民ならぬ者」とは、神の民でない者、つまり異邦人のことです。神の民でない異邦人たちを用いて、彼らイスラエルの民にねたみを起こさせる、それは、本来イスラエルの民に与えられるべき恵み、祝福を異邦人に与えることによって、イスラエルの人々にねたみを起こさせ、もう一度主なる神の下へと立ち帰らせようとする、ということです。パウロはこの申命記の言葉によって、ユダヤ人のつまずき、罪によって異邦人に救いが及んだのは、ユダヤ人にねたみを起こさせ、それによって彼らをもう一度ご自分の下に立ち帰らせようとする神のご計画なのだ、という確信を与えられたのです。
ねたむほどに愛している神
この申命記32章から、パウロがここで「ねたみ」という言葉を用いて語ろうとしていることが何かを知ることができます。神がユダヤ人たちにねたみを起させようとしておられるのは、申命記が語っているように、ユダヤ人たち、イスラエルの民自身が神のねたみを引き起こしているからです。彼らが神ならぬもの、偶像に心を寄せていることで神はねたんでおられるのです。ねたむなんて神らしくない、と私たちは思いますが、それは神が彼らユダヤ人たちを本当に真剣に愛しておられるということです。神は彼らを特別に愛して、ご自分の民とし、エジプトでの苦しみから解き放ち、豊かな地を与えて下さったのです。そしてさらに今、ご自分の独り子を遣わし、その十字架の死によって彼らの罪を赦し、復活によって永遠の命の約束を与えて下さっているのです。神はその独り子をお与えになるほどにご自分の民を、ユダヤ人たちを愛しておられるのです。ところがそのように愛されている者たちがそっぽを向いている、神の独り子の十字架の苦しみと死とによる罪の赦しの恵みを何とも思わず、むしろそれに敵対しているのです。そういう彼らに対して神はお怒りになります。しかしその怒りは、彼らを心から愛しているという思いと表裏一体です。だからそれは「ねたみ」となるのです。そして神は、本来神の民でない異邦人に救いの恵みを与えることによって、ユダヤ人たちにねたみを起させようとしておられる。それはユダヤ人たちに、ご自分のねたむほどの愛に気づいてほしいと神が切に願っておられる、ということです。つまり神は、何とかしてご自分の愛を分かってほしいと願っておられるのです。「彼らにねたみを起させるため」というのは、そういう神の切なる思いの現れです。実際には、異邦人がキリストによる救いにあずかるのを見て、ユダヤ人がねたみを覚えるなどということはありません。ねたみは、自分が望んでいること、願っているものが他の人に与えられることによってこそ起るものです。つまりイエス・キリストによる救いを求めていなければ、それが誰に与えられようとねたみなどは起らないのです。だから、世界の多くの人々がキリストを信じているという現在でも、ユダヤ人たちがそれをねたましく思ってキリストを信じるようになる、などということは起っていません。このねたみは、主イエス・キリストによる救いを求める信仰があってこそ起るのです。それゆえにこれは、人をうらやましがらせて、そういう餌で釣って信者にしよう、ということではありません。パウロがここで語っているのは、イエス・キリストによる救いを与えられていることは、本来人々にねたましく思われるような素晴しいことなのだ、ということです。神はユダヤ人たちを愛して、その素晴しい恵みを与えて下さっているのです。それにつまずいているユダヤ人たちは、大きな罪を犯すと同時に大変な損をしているのです。彼らをねたむほどに愛しておられる神は、彼らの罪に対してお怒りになると同時に、何とかしてこの救いにあずかってほしいと願っておられるのです。そのような神のみ心があるのだから、今はつまずいているとしても、彼らがもう救われないということはない、神の愛に気づき、それに応えていくならば、そこには救いの希望がある、パウロはその希望を見つめているのです。
ユダヤ人の優越感の否定
ユダヤ人のつまずきによって異邦人に救いが与えられ、そのことによってユダヤ人がねたみを起こす、という神のご計画にはもう一つの大事なポイントがあります。そこにおいてはユダヤ人たちの神の民としての優越感が徹底的に打ち砕かれている、ということです。ユダヤ人たちは、自分たちこそ神に選ばれた民であり、救いにあずかる権利を持っていると思っていました。異邦人はその権利を持っていない、だからねたむとしたら異邦人がユダヤ人をねたむのであって、ユダヤ人が神の救いに関して異邦人をねたむなどということは思いもよらなかったのです。ところがパウロは、今やユダヤ人が異邦人をねたむべき事態となっている、と言っています。それは、神が独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架と復活による救いを実現して下さった今や、救われる権利を持って神の前に立つことのできる者など一人もいない、ということです。ユダヤ人は、イエス・キリストにつまずいて罪に落ちてしまったことによって、異邦人と同じになったのです。異邦人とは、元々救われる可能性のない罪人です。神の民だったユダヤ人もその異邦人と同じになったことによって、ユダヤ人も異邦人も、世界の全ての人々が、自分の中には救われる可能性を全く持っていない罪人であることが明らかになったのです。
ただ神の憐れみと恵みのみによる救い
その異邦人に、主イエス・キリストによる救いが与えられました。それは、彼ら自身の中にある何らかの力や価値や正しさによることではありません。彼らが特別に信仰深かったからでもありません。異邦人に救いが及んだのは、神が主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みに彼らをもあずからせて下さったからであって、ただ神の恵みと憐れみによることです。その異邦人に対してユダヤ人がねたみを起こす。それはつまりユダヤ人も、異邦人に与えられたのと同じ救いを願い求めていくということです。ユダヤ人がユダヤ人であるゆえに救われるということはもはやありません。ユダヤ人も異邦人と同じ罪人であり、救いにあずかる権利などないのです。しかし神の愛と恵みと憐れみとによって、異邦人と同じようにユダヤ人にも、主イエス・キリストによる救いにあずかる希望が与えられているのです。
同じことは異邦人に対しても言われます。パウロは13節以下で、特に異邦人の信者たちに向かって語っています。そこで彼が先ず言っているのは「わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います」ということです。パウロは、神によって異邦人のための使徒として立てられました。イエス・キリストによる救いを異邦人に宣べ伝え、異邦人たちの中に、キリストを信じる者たちの群れ、教会を生み出し、育てていくことがパウロに与えられた使命であり、彼はその使命を光栄に思っているのです。そしてその使命をローマにおいても果たすために、ぜひローマを訪れたいと願いつつこの手紙を書いています。そのように彼は、異邦人の救いのために熱心に仕えている者です。しかしそれは、異邦人の方がユダヤ人よりも素直にキリストを受け入れるので、彼らの方が救いにあずかる資格があると彼が思っているということではありません。異邦人とは、自らの中には、神の救いにあずかる可能性を全く持たない人々なのです。異邦人が救われるとしたら、それは彼らの中にある何かによってではなくて、主イエス・キリストの十字架と復活において神が実現して下さった罪の赦しが、神の恵みと憐れみによって彼らにも与えられることによってのみです。パウロが異邦人のための使徒として宣べ伝えているのは、このような救い、つまり人間の側の一切の条件によらない、ただ神の憐れみと恵みのみによる救いの福音です。つまり、ユダヤ人がユダヤ人であるゆえに救われることはないのと同じように、異邦人も異邦人であるゆえに救われるのではなくて、ただイエス・キリストによる神の恵みと憐れみによって救われるのです。その福音を異邦人に宣べ伝えているパウロの視野には、いつも同胞であるユダヤ人のことが置かれています。だから13節に続く14節に「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」と語られているのです。異邦人が、自らの中には何の理由も根拠も資格もないのに、ただ主イエス・キリストによる罪の赦しを与えて下さる神の恵みと憐れみによって救われるならば、今はつまずいて罪に陥っているユダヤ人もまた、同じ恵みによって救われることを信じて待ち望むことができるからです。
現実の厳しさの中で希望を失わず
それはまさに待ち望むべきことです。人間の力で実現できることではありません。「何とかして、幾人かでも」という言葉には現実の厳しさが滲み出ています。パウロは、ユダヤ人のつまずきによって異邦人に救いが及び、それによってユダヤ人も救われていくという神のご計画を確信し、また神がねたむほどにご自分の民であるユダヤ人を愛しておられることを見つめていますが、しかし現実には、ユダヤ人の救いはなかなか実現しないことを身をもって体験しているのです。愛する同胞が神の愛に気づき、それに応えてキリストによる救いを求めていくことはなかなか起らないのです。大伝道者パウロでさえ、「何とかして、幾人かでも救えれば」と言わざるを得ないのです。15節の後半で、「彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう」と言われているように、まさにこれは死者が復活するような奇跡だと言わざるを得ないのです。パウロはそういう現実の厳しさに目を塞いでいるのではありません。彼が抱いている希望は、決して楽観的な、そのうち何とかなる、という希望的観測ではありません。しかし彼はこの厳しい現実を正面から見つめつつも、悲観的になり、諦めに陥ってはいません。「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない」という確信をもって、希望を失わずに、同胞の救いを待ち望んでいるのです。
何とかして、幾人かでも
パウロが抱いている希望を語っている12節をもう一度味わっておきたいと思います。「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」。ユダヤ人の罪、失敗が、世の、つまり世界の全ての人々の富となり、異邦人の富となった、神の民だったユダヤ人がつまずいたことによって、自らの内に救いの根拠を全く持っていない異邦人たちに、神の救いにあずかる道が開かれるというすばらしい富が与えられたのです。それは神のすばらしい恵みのみ業です。その恵みのみ業によって、全くの異邦人である私たちが今、主イエス・キリストによる罪の赦しと永遠の命の約束という救いにあずかっているのです。私たちも、救われるのに相応しい何かを自分の内に持っているわけでは全くありません。ただ神の、キリストにおける恵みと憐れみによって救いにあずかっているのです。そこに希望があります。神はその救いをユダヤ人たちにも、今キリストによる救いにつまずいており、敵対している全ての人々にも、与えたいと願っておられるのです。この神のみ心に信頼して歩むならば、私たちもパウロと共に、厳しい現実の中でも絶望せずに、「何とかして、同胞の幾人かでも救いたい」という願いをもって歩むことができます。この神の恵みのみ心のために少しでも用いられるならば、どんなにか素晴しいことでしょうか。