「恵みによって選ばれた者」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:列王記上 第19章1-18節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第11章1-10節
・ 讃美歌:14、129、432、72
9~11章の主題
主日礼拝において、ローマの信徒への手紙を読み進めていますが、いろいろと特別な礼拝が入ったりしたので、前回は5月14日でした。約一か月半ぶりにこの手紙を読み進めるのですが、本日から第11章に入ります。この手紙は9~11章が一つのまとまりをなしている、と前に申しました。ひさしぶりということもありますので、本日は先ず、今読んでいる9~11章全体の主題と話の流れを振り返っておきたいと思います。
9~11章でパウロが語っているのは、同胞であるユダヤ人たちの救いについてです。ユダヤ人、即ちイスラエルの民は、神がご自分の民として選んだ人々でした。9章4節にこうあります。「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです」。神はイスラエルの民をご自分の子とするために選び、特別な関係を結んで下さったのです。ユダヤ人はこのように神に選ばれ、恵みを受け、救いの約束を担ってきた特別な民であり、彼ら自身もそういう自覚と誇りを持って生きていたのです。ところがそのユダヤ人たちが今、神が遣わして下さった救い主イエス・キリストを受け入れず拒んでいます。イエス・キリストによる救いを説いている教会を迫害しているのです。神の民であるはずの彼らが神の救いに敵対し、そこから落ちてしまっている、そのことをパウロは深く悲しみ嘆いており、9章3節にあるように、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」という激しい思いをもって、彼らがキリストの救いにあずかることを願っているのです。その思いは10章1節にも語られていました。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」。これが9~11章を貫いているパウロの思いなのです。
9章と10章のまとめ
9章においてパウロは、ユダヤ人たちがキリストを受け入れず頑なになっているのは、神ご自身の自由な選びのみ業によることだ、と語っています。エサウとヤコブという双子の兄弟がまだ生まれる前から、つまり善いことも悪いこともする前から、神はヤコブを選び、祝福を受け継ぐ者としておられたのです。そのように神の救いは、人間の側の行いによってではなく、神の自由な選びのみ心によって与えられるのです。だから今ユダヤ人たちが頑なになり、救いを拒んでいるのも、神のみ心によることであり、そこには神の御計画がある、というのが9章におけるパウロの主張でした。しかし10章においては、根本的には神のご計画によることだが、だからといってユダヤ人たちに責任がないのではない、彼ら自身が信仰において間違いに陥っているのだ、ということが語られています。その間違いとは、10章3節にあるように、神の義ではなく自分の義を追い求めた、ということです。神の義とは、神が恵みによって与えて下さる義です。それを感謝していただくことが救いにあずかることだったのに、ユダヤ人たちは、自分の力で律法を守ることによって義となり、救いを獲得することができるかのように思ってしまったのです。そのために彼らはイエス・キリストによる救いを受け入れないのです。自分の力で正しい者となって救いを獲得しようとしている彼らにとっては、キリストの十字架によって罪を赦されて救われるという教会の教えは、自分の正しさを否定され、自分の力で救いを得ることが出来るというプライドを傷つけられる、受け入れ難いものだったのです。さらに10章の後半でパウロは、彼らがそのように自分の義を求め、神の義を求めようとしないのは、彼らが、遣わされた者を通して語られた神の言葉を聞くことができていないからだ、と言っています。信仰においては、「み言葉を聞く」ことが決定的に大事なのです。「聞く」という姿勢が失われると、自分が語ること、自分の思いや言葉で心が満たされてしまいます。それは、自分の良い行いによって義を得ようとすることにつながります。自分の義を立てようとするところには、神の前に沈黙してみ言葉を聞こうとする姿勢はありません。自分の義を追い求めている者は、神のみ言葉を聞こうとしないのです。そのように、神の義を求めることとみ言葉を聞くことは一つです。神はイスラエルの民の歴史において、常にみ言葉を語りかけて下さっていたが、ユダヤ人たちはそれをちゃんと聞こうとしなかったのです。そのために今ユダヤ人たちは救いから落ちてしまっているのです。
ユダヤ人たちの救いの確信
以上が9、10章に語られていたことのまとめです。これらのことを受けて11章が語られていくのです。11章の主題は何でしょうか。それが1節の前半にはっきり語られています。「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」。ユダヤ人たちは救い主イエス・キリストを拒み、救いから落ちてしまっている。それではもう彼らには救いにあずかる望みはないのだろうか。いや、決してそうではない。それがこの11章におけるパウロの主張なのです。そしてそれが9~11章全体の結論でもあります。パウロがこの手紙に、同胞であるユダヤ人たちがキリストを受け入れず救いから落ちているという現実を語っているのは、そのことを嘆き、彼らも救われて欲しいという願いを語るためだけではありません。彼は、今キリストを拒み、教会に敵対している同胞たちも救いにあずかる希望がある、神は彼らを決して見捨ててしまったのではない、ということを確信しているのです。その確信を語ることが9~11章の目的なのです。その確信の根拠は何でしょうか。それがこの11章に語られているのです。それを読み取ることがこれからの私たちの課題なのです。
わたしもイスラエル人
パウロがその救いの希望の根拠として真っ先に挙げているのは、1節の後半に語られていることです。「わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です」。つまり、自分もイスラエル人の一人だ、ということです。このことが、イスラエルの民、ユダヤ人の救いの希望の根拠とされているのです。それはどういうことでしょうか。それを知るためには、パウロとはどのような人かを思い起こす必要があります。彼はユダヤ人の中のファリサイ派のエリートとして育ちました。ファリサイ派とは、神の掟である律法に特別に熱心であり、一般の人々よりずっと厳格にそれを守り、人々にも、律法を守って生きるための具体的な指示を与えていた人たちです。そのような律法への熱心によって彼らは神の前に義なる者、正しい者となろうと努力していました。つまり自分の力で自分の義を立てようとしていたのです。彼らが主イエスを救い主として認めないのはそのためです。イエス・キリストを信じることによって義とされる、という教えは、律法を守ることで義となる、という彼らの信仰からしたら、許すことのできない間違った教えだったのです。パウロ自身も元々はそのように考え、キリスト信者たちを迫害し、教会を撲滅することに情熱を傾けていました。つまり今キリストを拒み、教会を迫害しているユダヤ人の姿は、かつてのパウロ自身の姿なのです。そのパウロが、ある時復活した主イエス・キリストと出会い、180度の方向転換を与えられて、今やキリストを宣べ伝える伝道者となっている、そのような自分の存在こそが、神がイスラエルの民を見捨ててしまったのではないことの第一の根拠なのです。キリストを拒み、教会に敵対しているユダヤ人の代表であった自分を、神が選び、キリストによる救いを与え、さらにはそれを宣べ伝える者として下さった、それゆえに、今は敵対している同胞たちにも、同じ恵みが与えられる希望があるのだ、とパウロは言っているのです。
家族、同胞の救いの希望
私たちはこのパウロの言葉をよく噛み締めたいと思います。これは私たち自身の置かれている状況と重なり合うからです。私たちも、自分の同胞たち、もっと身近な所で言えば家族の者たちの多くが、主イエス・キリストを受け入れず、その救いにあずかっていない、あるいはさらに敵対している、という現実の中を生きています。つまり私たちの中にも、パウロが同胞のことを嘆き、その救いを祈り求めているのと同じ嘆きと祈りがあるのです。その嘆きと祈りの中でパウロは、自分が信仰を与えられ、救いにあずかっていることを、今敵対している同胞たちにも救いが与えられる希望の根拠として見つめています。私たちも、自分が主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、救いにあずかっていることを、同じように、同胞の、家族の救いの希望の根拠として見つめることができるのです。日本においては伝道が困難だと言われ、私たちもそのことを感じます。また家族への伝道はとりわけ難しいと嘆くことがあります。しかし、日本人である、あるいは日本に暮らしている私たちが、また今自分が属している家族の一員である自分が、キリストの福音を信じて救いにあずかっているという事実があるのです。そこに希望があります。神が私たちを導いて福音を知らせ、それを受け入れ信じる者として下さったのですから、私たちの同胞をも、家族の者たちをも、導いて下さる希望があるのです。そういう意味で私たちは、自分が信仰を与えられているという事実に、神の特別な恵みのみ業を見て、もっともっと驚かなければならないのです。自分に与えられている神の救いの恵みが驚くべきものであることを知る時に、そこに、同じ神の驚くべきみ業によって同胞たちが、家族が、救いにあずかることへの希望もまた与えられるのです。
エリヤの孤独
パウロはこのように、神は同胞たちを見捨ててしまったのではないという確信の根拠として、先ず自分自身のことを挙げています。イスラエルの民の一人であり、彼らと同じようにキリストに敵対していた自分が、今やその救いにあずかり、キリストを宣べ伝える者となっているという事実に、彼らの救いの希望が示されているのです。しかしパウロが、同胞の救いの希望の根拠としてさらに積極的に語っているのは2節以下のことです。そこに語られているのは、「エリヤについて聖書に何と書いてあるか」です。エリヤは、イスラエルがアハブという王の下にあった時代に生きた主なる神の預言者で、その働きのことは旧約聖書列王記上第17章以下に記されています。エリヤの働きの頂点とも言うべきことは、18章にある、バアルの預言者450人と一人で対決して勝利したことです。アハブ王の妻イゼベルは旧約聖書に登場する悪女の代表とも言うべき人で、彼女は主なる神の預言者たちを殺し、偶像の神バアルの預言者たちを自分の周りに集めていました。エリヤはそのバアルの預言者たちに挑戦し、カルメル山で、どちらの仕えている神がまことの神であるかを明らかにする勝負を行ったのです。450人が束になって必死にバアルに呼ばわっても何も起らなかったのに、エリヤが主なる神に祈ると、たちまち天から火が降って、供えられた献げ物を焼き尽しました。このことによって、主なる神こそがまことの神であることが明らかになり、エリヤは人々に命じてバアルの預言者を皆殺しにしたのです。本日の箇所でパウロが引用しているのは、そのことの後の19章に語られていることです。イゼベルはエリヤによってバアルの預言者が皆殺しにされたことを聞くと怒り狂い、「明日までに絶対にエリヤを殺してやる」と誓いました。それが19章1、2節です。それでエリヤは3節にあるように恐れて逃げ出しました。18章の大勝利から一転してエリヤは恐れ、逃げているのです。主こそ神であることが示されたのだから、恐れて逃げることはないのにとも思いますが、しかしそれがこの世の現実の中を生きている私たちの姿だと言えるでしょう。神の力によって一旦は勝利を得ましたが、それによってかえって敵の憎しみはこれ以上ない程に燃え上がっているのです。激しい憎しみにさらされて命からがら逃げているエリヤは孤独です。アハブとイゼベルの支配の下で、自分の味方になって共に戦ってくれる仲間はいません。その孤独に耐え切れず、彼は「もう沢山だ、死んでしまいたい」と思うのです。4節の「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」という言葉は、そういう思いの現れだと言えるでしょう。そのように彼は四十日四十夜逃げて行って神の山ホレブに着きました。そこで彼は主なる神と出会い、そのみ言葉を聞いたのです。神はエリヤに、9節「エリヤよ、ここで何をしているのか」と語りかけます。エリヤは「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」と答えました。このような深い孤独の中で彼はもう疲れ果て、生きていく元気を失っているのです。パウロは本日の箇所でこのエリヤの言葉を引用しています。「彼は、イスラエルの神にこう訴えています。『主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています』」。パウロはこのエリヤの言葉に、自分たちの現在の様子を見ているのです。主なる神が独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死と復活によって救いを与えて下さっているのに、イスラエルの民はそれを受け入れず、むしろ憎しみをもって敵対している、その人々に囲まれて、主イエスを信じる教会はエリヤのように孤独で、力なく、弱い存在でしかないのです。
あなたは孤独ではない
そのエリヤに主なる神がお与えになった言葉を、パウロは教会に対して与えられた言葉として聞いています。列王記上の言葉で言えば18節、「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」。この主の言葉はエリヤに「あなたは孤独ではない」と告げています。「あなたは、自分一人だけが残った、もう独りぼっちだと思っている。しかし私は、この背きに満ちたイスラエルの人々の中に、バアルにひざまずかない七千人を残しているのだ。その人々はまだあなたの目には見えていないかもしれない。しかし私は確かに彼らを選び、立てている。だからあなたは一人ではない。あなたの戦いは孤軍奮闘ではない」と主は語りかけておられるのです。
このみ言葉が、今私たちにも語りかけられています。私たちも、この社会の中で、あるいは家族の中で、主イエス・キリストを信じ、従っていくことにおいて孤独を感じます。独りぼっちであると思う時があります。孤軍奮闘の果てに疲れてしまって、もう力が出ない、元気が出ないと思うことがあります。しかし神は私たちに、あなたは一人ではない、私はあなたの仲間を、あなたと共に私を信じ、従い、仕える者たちを立てているのだ、と語りかけて下さっているのです。先週の主の日は、神奈川連合長老会の交換講壇が行われました。私は愛川町の半原教会の礼拝で説教をしました。宮ヶ瀬ダムの近くにある教会です。廣瀬良枝さんが奏楽のために同行して下さいました。半原教会は普段は奏楽者がおらず、ヒムプレーヤーで礼拝をしています。教会のオルガンが弾かれての礼拝は何年ぶりか、と喜んでおられました。先週の礼拝は、私と廣瀬さんを含めて十名でした。そういう礼拝が、この礼拝と時を同じくして毎週行われているのです。交換講壇を通して、同じ信仰に立っている仲間たちの存在を意識することができるのは、主なる神がエリヤに語って下さったみ言葉と同じ意味を持っていると言うことができるでしょう。それは半原教会の人たちにとって支えや励ましになる、というだけではなく、私たち指路教会の者たちにとっても同じです。半原教会の教会員は現在8名です。その人々が教会を守り、毎週礼拝をささげているのです。そのことを示されることは、大人数での礼拝に慣れてしまっている私たちにとってむしろ大きな励ましであり、また自分たちの信仰を振り返る良い機会となるのです。
まだ見ぬ兄弟姉妹
しかし主の言葉がエリヤに示したのは、交換講壇において私たちに示されることとは違う、ということも確認しておく必要があります。主がエリヤに語ったのは、他の場所にも主に仕えている仲間がいるのだからあなたは孤独ではない、ということではありません。イスラエルの民の中に、バアルにひざまずかない人々が七千人もいるということは、まだ目に見える事実とはなっていないのです。つまりこの七千人は、主が選んでおられるけれども、今はまだ現れていない人々です。私たちに引き寄せて言うならば、今はまだ教会に加わっていない、信仰を持っていない人々です。私はその人々の中に七千人の私の民を既に選んでいる、と主はエリヤに、そして私たちに告げておられるのです。私たちは、主がそのように選んで下さっている神の民、主の救いにあずかる人々を、これから見出していくのです。それが伝道です。伝道というのは、神が既に選び、立てて下さっている、しかし私たちがまだ知らない兄弟姉妹を発見していくことです。私たちが伝道して人を救いに導くのではなくて、神が私たちに先立ってご自分の民を選んでおられ、その人々があらわになるために私たちを用いて下さるのです。私たちに先立って神が救いのみ業を行っていて下さる、そこに、私たちが信仰に生きることへの、そして伝道していくことへの支えと希望があるのです。
恵みによって選ばれた者
けれどもここでもっと大事なことは、パウロが、このエリヤに与えられた主のみ言葉を、ユダヤ人たちが見捨てられてしまってはいない、という確信の根拠として受け止めている、ということです。このみ言葉はエリヤに、「あなたは独りぼっちではない」という励まし、力づけを与えているだけではなくて、「私はこの背きに満ちたイスラエルの民をなお見捨ててはいない、七千人を私のために残し、その人々を通して、イスラエルをもう一度私の民として回復しようとしているのだ」と宣言しているのです。パウロは列王記の文章を引用しつつ、そこに「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と、「自分のために」という言葉をつけ加えています。そこにパウロの思いが表されています。つまり神は、ご自分のために「残りの者」を選び、立てておられるのです。ということは、この七千人は、彼らだけは主なる神に従ったから救われるが、他の人々は罪人として滅ぼされる、という七千人ではないのです。主なる神が、ご自分のために、ということはイスラエルの民全体への救いのみ業を行うために、彼らを選び、お立てになったのです。つまり彼らは5節にある「恵みによって選ばれた者」です。パウロは「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」と言っています。神が今ご自分のために、ご自分に仕える民を残しておられる、それは教会のことです。私たちのことです。私たちは、自分の善い行いや立派さによって信仰者として立っているのではありません。ただ神の恵みによって選ばれ、教会に導かれ、主イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しを信じる信仰を与えられて神の民とされているのです。その私たちが、教会が、神の恵みによって今ここにあるということが、この社会全体への神の恵みのみ心の印なのです。ユダヤ人たちの大部分が今キリストを受け入れず、教会に敵対している、しかし神はそのユダヤ人の中に、少数ではあるが、主イエスを信じ、従っていく者たちの群れを残して下さっている、そのことが、この民全体が見捨てられてはいないことの印なのだ、とパウロは言っているのです。私たちも、自分が信仰を与えられ、教会へと導かれていることにそのような大きな恵みの意味を見出すことができます。神はご自分のために、ご自分の救いの恵みをこの民全体にもたらすために、私たちを選んで下さったのです。そのみ心を受け止めるなら、もはや私たちは自分一人の救いと平安のことだけを考えていることはできません。恵みによって選ばれた者として、神が与えて下さった信仰の仲間たちと共に、これから与えて下さるまだ見ぬ仲間たちを見出しつつ、この民の全ての人々への神の救いを、希望をもって祈り求めていきたいのです。