主日礼拝

命と平和

「命と平和」 教師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書第12章1-6節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第8章1-11節
・ 讃美歌:18、142、504

肉の思い
 ローマの信徒への手紙第8章1~11節よりみ言葉に聞くのはこれで四回目となります。本日をもってこの箇所を終えて次週からは12節以下に進んで行きたいと思っていますが、この第8章は、パウロがこの手紙においてイエス・キリストの福音、つまりキリストによる救いの知らせの内容を語っている部分の一つの締めくくりとなっている大変重要な箇所です。それゆえに丁寧に読み進めたいのです。これまで、いろいろな角度からこの箇所を読んできましたが、本日手掛かりとして注目したいのは6節の「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」という言葉です。パウロは「肉の思い」と「霊の思い」とを対比しています。このことによってパウロは何を見つめているのでしょうか。その前の5節には「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」とあります。「肉に従って歩む者が考える肉に属すること」これが「肉の思い」であり、「霊に従って歩む者が考える霊に属すること」が「霊の思い」です。つまりパウロはここで私たち人間が「肉に従って」歩んでいるか、「霊に従って」歩んでいるか、その二つの歩み方、生き方を見つめており、それぞれにおける思いを対比しているわけです。この場合の肉と霊というのは、いわゆる肉体と、霊魂あるいは精神のことではありません。肉体と霊魂ないし精神を対立させて、肉体は悪いもので霊魂や精神は良いものとする考え方は聖書にはありません。肉体も、霊魂あるいは精神も、共に神が造り与えて下さった良いものであり、感謝して受けるべきものです。ですから「肉の思いは死である」というのは、肉体において生きていることには意味がないとか、肉体に左右される思いはだめなものだ、ということではありません。パウロが「肉」という言葉によって見つめているのは、3節において「肉の弱さ」と言われていることです。それについては7章18節に、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」と語られていました。つまりパウロが「肉」において見つめているのは、善が住んでいない自分、善を行なう力のない弱い自分のことです。自分の肉には善が住んでいない、では何が住んでいるのかというと、その後の7章20節に「わたしの中に住んでいる罪」とあります。また23節には、自分の五体が罪の法則のとりこになっている、とも言われています。このようにパウロは、体も心も含めて罪に捕えられ、支配されている自分を見つめつつ、「肉に従って歩む者」と言っているのです。そういう罪の支配下での思いが「肉の思い」なのです。

霊の思い
 それに対して「霊の思い」という時の「霊」とは、やはり人間の精神や魂のことではなくて、9節に「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」とあるように、私たちの内に宿って下さる神の霊です。つまりそれは私たちの心や魂の内に元々ある何かではなくて、外から、神から与えられるもの、神が遣わして下さり、私たちの内に宿って下さるものなのです。この「宿る」という言葉は「家を建てて住む、定住する」という意味であると何回か前の説教で申しました。神の霊は父なる神から遣わされて、肉の弱さの中にある私たちの内に来て下さり、そこに住んで下さり、私たちを支配して下さるのです。その神の霊が支配して下さることによって私たちは、罪の支配から解放されます。2節に「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」と語られているのはそのことです。この神の霊のご支配の下に心も体も生かされ、罪の支配から解放されている者が「霊に従って歩む者」であり、その霊の支配下での思いが「霊の思い」です。ですから、「肉の思い」に生きているか「霊の思い」に生きているかは、つまるところ、私たちの心と体を支配しているものは何か、ということです。生まれつきの私たちは皆、罪に支配されている「肉に従って歩む者」です。そこでの私たちの思いは全て「肉の思い」です。だから生まれる気の私たちは「霊の思い」を持ってはいないのです。そのような私たちの内に、神の霊が宿って下さり、支配して下さることによって初めて私たちは「霊に従って歩む者」となり、「霊の思い」を持つことができるようになるのです。

福音のもたらすつまずき
 つまりパウロがこの6節で言っているのは、生まれつきの私たちの思いは全て肉の思いであって、死をもたらすものでしかない。神の霊が内に宿って下さることによって初めて、命と平和をもたらす霊の思いに生きることができる、ということです。これは非常に大胆な、そしてつまずきに満ちた言葉です。この言葉の持っているつまずきに私たちは先ず気づかなければなりません。「肉の思い」というのを、肉体において生きている私たちが抱く欲望と考えるなら、そういうものが虚しいことを私たちは知っています。肉体の欲望を満たして快楽や喜びを得ても、例えば具体的には大金持ちになったとしても、そういうものが人生を本当に支えることはない、人間最後には必ず死んでいくのであって、財産を墓場にまで持って行くことは出来ない、そういう意味で「肉の思いは死である」という言葉に私たちはうなずくことができるわけです。しかし先ほど申しましたように、パウロが言っている「肉の思い」はそういうことではありません。「肉の思い」とは、神の霊によって支配されていない私たちが抱く思いです。いわゆる「肉の欲」のようなことのみが意味されているのではありません。私たちが、神から離れ、神の霊のご支配を受けることなしに思っていること、行なっていることの全てが「肉の思い」であり、それは死をもたらすものでしかない、とパウロは言っているのです。これは私たちにとって、すんなりと受け入れることができることではありません。神との関わりなしになされることが全て死でしかない、などということは納得できない。神から離れて行なわれていることの中にも、人生を充実させ、喜びや楽しみを与え、私たちを生き生きと生かすものは沢山あるではないか、と私たちは思うのです。だから「肉の思いは死である」というのはとてもつまずきに満ちた、納得しにくい言葉なのです。
 このつまずきを取り去るために、先ほど申しましたように、「肉の思い」の意味を肉体における欲望と理解したり、何か道徳的に問題がある悪い思いのことにしてしまい、「霊の思い」をその反対の、道徳的に正しい思い、立派な考え、善いことをしようとする思い、という意味にしてしまってはならないのです。そうしてしまうと、この6節はとても分かりやすくなります。しかし分かりやすくなると同時にそれは、「悪い思いである肉の思いは捨て去り、正しい清い思いである霊の思いを持って生きましょう」という、まことに平板な倫理道徳の教えになってしまいます。そしてそこでは、パウロが語っているイエス・キリストによる救いの知らせ、福音は見失われてしまうのです。福音は、倫理道徳の教えとは違います。倫理道徳の教えにつまずく人はいません。なぜならそれは人間の常識の範囲内の教えだからです。しかしキリストの福音は人間の常識の中に収まるものではありません。だからそれはつまずきをもたらすのです。すんなりとは受け入れられないのです。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」というパウロの言葉もつまずきに満ちたものです。しかしそのつまずきをしっかり見つめることによってこそ、キリストによる救いの知らせ、福音が見えてくるのです。

パウロ自身の体験から来る言葉
 続く7、8節では「肉の思いは死である」という言葉がこのように言い換えられていきます。「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」。肉の思いが死であるのは、それが神に敵対しているからです。神の律法つまりみ心に従わない、神に喜ばれない思いだからです。つまりここで「死である」と言われているのは、神に敵対し、従わず、神に喜ばれないことです。そこで見つめられているのは神との関係です。肉の思いが死であるというのは、私たちが私たちの感覚において生き生きとした喜びや充実感を得ることができないということではなくて、肉の思いで生きている限り私たちと神との関係が良いものとならず、敵対関係のままである、ということなのです。天地を造り、私たちに命を与えて下さっている神との関係を良くするものでなければ、つまり神に喜ばれるものでなければ、たとえどのように生き生きとした喜びや充実を与えるとしても、それは「死である」と言う他はない、人を本当に生かすことのない歩みだ、とパウロは語っているのです。それはパウロ自身の体験に基づく言葉でした。彼は、復活した主イエス・キリストと出会う前には、教会を迫害し、キリスト信者たちを殺すことに熱心でした。その時彼はまことに生き生きと充実した、生きる喜びに満ちた生活を送っていたのです。しかもそれは世俗的に豊かだったり充実した生活だったというのではなくて、神に忠実に熱心に仕えているという自覚を持った、信仰的に充実した、喜びに満ちた生活だったのです。しかし復活して生きておられる主イエス・キリストが彼と出会って下さり、ご自分こそ神から遣わされた救い主であると示して下さった時、彼は自分のそれまでの歩みが、肉に従った生活だったことに気づかされたのです。自分では充実した生活を生き生きと喜んで送っていると思っていたけれども、実はそれが神に敵対している、み心に反する、神に喜ばれない、死に至る歩みだったことに気づかされたのです。「肉の思いは死である」というのは、彼自身のそういう体験を通して与えられた言葉だったのです。
 ですから私たちがここで知らなければならないことは、神との間に良い関係を持っておらず、神に敵対しており、神のみ心に従わない生き方は、たとえ私たちがそこで生き生きと充実した生活を送っていると感じているとしても、実は死でしかないのであって、命と平和をもたらすものではない、ということです。言い換えれば、私たちの本当の命と平和は、神との良い関係をもって生きることの中にこそある、ということです。「肉の思いは死であり」というパウロの言葉が本当に分かるとは、このことが分かること、このことを受け入れることなのです。

霊の思いは命と平和
 そしてこれと表裏一体の関係にあるのが、「霊の思いは命と平和であります」ということです。霊の思いとは、先程も申しましたように、神の霊が私たちの内に宿り、支配して下さることによって与えられる思いです。それは私たちが自分で心を入れ替えて新しい思いを持つことによって得られるものではありません。私たちは元々肉に従って歩んでいるのであり、神に敵対する肉の思いに生きているのです。そういう私たちの内に神の霊が宿って下さることによって、私たちは罪の支配から解放されて、神の霊の支配下に置かれるのです。この神の霊のご支配によって、神と私たちの関係が回復されるのです。神に敵対し、従わず、喜ばれない者だった私たちの罪が赦されて、神との良い関係に生きる者とされるのです。そのことによって、肉の思いによっては得られない、本当の命と平和が与えられるのです。

神の霊はキリストの霊
 しかしこれだけでは余りにも抽象的な話だと言わなければならないでしょう。神の霊のご支配によって神との良い関係が与えられ、そこに命と平和が与えられると言われても、それだけでは実感が湧かないし、本当に私たちを生かし支える力にはなりません。しかしパウロが語っている福音は決して抽象的なものではありません。神の霊が内に宿ることについてパウロは9節の後半で「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」と言い換えています。神の霊が宿っているというのは、キリストの霊を持っており、キリストに属する者となっていることなのです。神の霊とはイエス・キリストの霊である、ここに、パウロにとって神の霊のご支配がまことに具体的な事柄だったことが示されています。さらに次の10節には「キリストがあなたがたの内におられるならば」と言われています。神の霊が宿るとはキリストの霊を持つことであり、それはキリストが私たちの内にいて下さることなのです。主イエス・キリストは、一人の人間となってこの世を具体的に生きて下さった方であり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった方であり、肉体をもって復活して下さり、天に昇られた方です。神の霊は、その主イエス・キリストと私たちを結び合わせ、キリストによる救いの恵みにあずからせ、キリストと共に生きる者として下さるのです。それが神の霊の具体的なお働きです。神の霊は、イエス・キリストによる救いにあずからせて下さることにおいて、私たちに具体的に働きかけ、また私たちを具体的に生かして下さるのです。

福音は具体的
 イエス・キリストによる救いのこの具体性にこそ、先ほど申しました福音のつまずきの原因があると言うことができます。福音は倫理道徳の教えではない、それは福音が抽象的な話ではない、ということでもあります。倫理道徳の教えにつまずく人はいないように、抽象的な話にもつまずく人はいないのです。しかし福音は、神の独り子イエス・キリストが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神が私たちの罪を赦して下さり、私たちとの良い関係を回復して下さった、という具体的な出来事です。パウロはそのことを3節で、「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」と語っています。御子イエス・キリストの肉において、神が私たちの罪を処断し、それを取り除いて下さったというのは、まことに具体的なことです。そこにこそ私たちの救いがある、というのがイエス・キリストの福音です。神の霊は私たちをこのイエス・キリストによる具体的な救いにあずからせて下さるのです。このイエス・キリストにおける神の具体的な救いのみ業と関わりなしに、その神の救いを離れて歩んでいることが「肉に従って歩む」ことであり、そこでの思いが「肉の思い」です。それに対して、神の霊が宿って下さり、イエス・キリストによる神の具体的な救いの恵みにあずかって歩むことが「霊に従って歩む」ことであり、そこでの思いが「霊の思い」です。キリストにおける神の具体的な救いのみ業との関わりがないゆえに、「肉の思いは死であり」、それがあるゆえに「霊の思いは命と平和」なのです。

いつでも神の祝福を信じて生きる
 神の霊が私たちの内に宿り、支配して下さることによって私たちは、神が御子イエス・キリストによって具体的に打ち立てて下さった救いの恵みにあずかって生き始めます。そこで私たちは「命と平和」を与えられるのです。この「命と平和」について、今は亡き竹森満佐一牧師は説教でこのように語っておられます。「命と平安と言っていることが大切であります(以前の口語訳聖書では「平安」でした)。なぜなら、それによって、そのいのちの性質が分かるからであります。元気な、活気に満ちた生活が、いつもいのちとは限りません。神に対して平安を持ち、いつでも神の祝福を信じうる生活こそ、まことの命であります」。命は、その性質が問題なのです。言い換えれば、それがどんな生活を生んでいるかが大事なのです。本当の命とは、神との平和、平安つまり神との良い関係をもって生きることです。先程も申しましたように私たちは、神から離れて生きていても活気ある充実した人生を歩むことはできると思っています。しかし、元気な、活気に満ちた生活があればそこに本当の命があるとは言えないのです。本当の命があるところにはむしろ平和、平安こそが与えられるのです。その平和、平安とは、竹森牧師の言葉で言えば、「神に対して平安を持ち、いつでも神の祝福を信じうる」ことです。「いつでも」が大事です。どんな状況においても、例えば病気や老いによって元気や活気が失われても、神との良い関係による平安があれば、そこでなお神の祝福を信じることができます。そこには病の中にも命と平和があるのです。そして神のみ心によって私たちの人生が終り、死を迎える時にも、神に対する平安があり、神の祝福を信じることができるならば、そこには肉体の死を乗り越える命と平和が与えられるのです。このように「いつでも」、どんな時にも神の祝福を信じることができる平安、平和を私たちに与えるのは、主イエス・キリストの十字架の死によって神が具体的に実現して下さった救いの恵みです。「神の愛」を抽象的一般的に信じているだけでは、病気や、さらに死においてなお神の祝福を信じて歩むことは出来ないでしょう。神がその独り子イエス・キリストを私たちと同じ人間としてこの世に遣わして下さり、その主イエスが私たちのために十字架にかかり、肉を裂き血を流して死んで下さることによって救いを実現して下さった、その具体的な救いを信じることによってこそ私たちは、自分の苦しみや死においても、神の祝福を信じる平安を得ることができるのです。神の霊が私たちの内に宿って下さることによって私たちは、このイエス・キリストにおける神の具体的な救いの恵みにあずかり、いつでも神の祝福を信じる者とされます。それが「霊の思い」であり、そこにこそ命と平和があるのです。

イエスを死者の中から復活させた方の霊
 11節には「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」とあります。私たちは「死ぬはずの体」をもってこの世を生きています。それは誰でもいつか必ず肉体の死を迎えるというだけのことではなくて、「体は罪によって死んでいる」と言わざるを得ない、罪に支配された肉の弱さの中を生きているということです。しかしそのような私たちの内に、神の霊が宿って下さるのです。神の霊は「イエスを死者の中から復活させた方の霊」でもあります。主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さった神の霊が私たちの内にも宿って下さることによって、「死ぬはずの体」をもって生きている私たちが新しく生かされるのです。いつでも神の祝福を信じて、命と平和の中を生きる者とされるのです。それだけではありません。「あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」という約束は、最終的には世の終わりの救いの完成において実現するのです。私たちの肉体はいつか死んで朽ちていきますが、それが私たちの歩みの終りではありません。主イエスを死者の中から復活させて下さった神が、終りの日に私たちをも復活させて、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さると約束して下さっているのです。イエス・キリストによる救いにあずかるとは、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みにあずかるだけでなく、主イエスの復活によって与えられている復活と永遠の命の約束にあずかることでもあるのです。私たちの内に宿って下さる神の霊は、主イエスの十字架の死によって神が具体的に実現して下さった罪の赦し、神との良い関係の回復という救いにあずからせて下さると共に、復活と永遠の命という救いの完成を信じて待ち望む信仰をも与えて下さるのです。

聖餐の恵み
 これから聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯にあずかることにおいて私たちは、神の霊、聖霊のお働きによって、主イエス・キリストが十字架の上で肉を裂き、血を流して死んで下さることによって具体的に実現して下さった罪の赦しの恵みを、心と体の全てをもって味わいます。聖餐はそれと共に、世の終わりに私たちも主イエスの復活にあずかり、永遠の命を生きる者とされる、その救いの完成において神の前で共にあずかることが約束されている喜びの食卓の先取りでもあります。聖餐にあずかることによって私たちは復活と永遠の命の約束を確認し、希望をもってそれを待ち望む信仰をも養われるのです。私たちの内に宿って下さっている神の霊の働きを私たちは聖餐において、この体をもって具体的に味わいます。「霊の思いは命と平和であります」というパウロの言葉はそこで私たちの言葉ともなるのです。

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