「清められた誇り」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編第49編1-21節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第5章1-11節
・ 讃美歌:278、227、527
神との平和
ローマの信徒への手紙の第5章1~11節において使徒パウロは、イエス・キリストを信じる信仰によって神に義とされ、救われたことによって与えられた喜び、確信、希望を語っています。要するに、キリストを信じて生きることはこんなに素晴しいことなのだ、ということを語っているのです。それゆえにこの箇所は昔から多くの人々に愛され、親しまれてきました。この箇所から説教をするのは本日で三回目です。本日は、これまでの二回の説教で見つめてきたことをも振返りつつ、なお語り残していることを通して、キリストを信じる信仰によって与えられる恵みをさらに深くかみしめていきたいと思います。
パウロはこの箇所で先ず、キリストを信じる信仰によって義とされた私たちは神との間に平和を得ている、と語っています。その平和とは、私たちが神のみ前に安心して出ることができる、ということです。私たちは元々はそういう平和を持っていません。生まれつきの私たちは、人生の主人は自分だと思っており、自分が神となって生きていますから、たとえ神の存在を認めるとしても、それは自分の願いや望みを叶えるための神であって、自分のために役に立たなければ神など信じる意味はないと思っているのです。つまり生れつきの私たちは、自分の願いや望みを叶えてくれる自分のための神、言い換えれば偶像の神としか仲良くできないのであって、この世界と私たちを造り、み心のままに導き、そして私たちを裁くこともなさる、本当に生きているまことの神とは良い交わりを持っておらず、そのまことの神の前に安心して出ることが出来ないのです。そのように神に敵対している罪人である私たちが、イエス・キリストによって神との和解、平和を与えられ、み前に安心して出て、良い交わりを持つことが出来るようになった、それが信仰によって与えられる第一の恵みなのです。
信仰のみによって義とされる
この神との平和がどのようにして与えられたのかを語っているのが6?8節です。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。神との平和は、私たちの方から手を差し伸べて打ち立てることが出来るものではありません。神ご自身が、独り子イエス・キリストを遣わして下さり、そのキリストが私たち罪人のために十字架にかかって死んで下さったことによって、神が私たちの罪を赦して下さり、平和を回復して下さったのです。そこに神の愛が示されています。この神の愛を信じて、それを感謝して受けることが信仰です。まだ罪人であった時に、主イエスが死んで下さったことによって神の愛が示された、その愛を感謝して受ける信仰によって、その信仰のみによって、罪人である私たちが、無償で、善い行いなしに、義とされ、救いにあずかり、神との平和を与えられるのです。それがパウロの宣べ伝えている福音の中心である、信仰によって義とされる、ということなのです。
苦難は忍耐、忍耐は練達、練達は希望
そしてパウロはここで、信仰によって義とされた私たちは、苦難、苦しみによって滅ぼされてしまうことのない人生を歩むことができる、と語っています。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを私たちは知っている、そして希望は私たちを決して欺くことがない、失望に終わることはない、と言っているのです。これは先週の説教でも申しましたが、「艱難汝を玉にす」というような一般論ではありません。イエス・キリストを信じる信仰においてこそ起ることです。なぜならその信仰によって私たちは、神が独り子イエス・キリストを、罪人であり本来なら裁かれ滅ぼされるべき私たちのためにこの世に遣わして下さり、十字架の死に至らせるまでして赦して下さった、その神の愛の中で生きることができるからです。10節に「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」とあります。このことを信じているから、苦難は忍耐、忍耐は練達、練達は希望を生むのです。自分の忍耐力によって苦難に打ち勝つのではありません。イエス・キリストにおける神の愛を確信し、その愛が最後まで自分を支え守って下さるという希望を与えられているから、苦難を忍耐することが出来るし、忍耐によって苦しみを練達への機会とすることが出来るのです。つまり全てを支えているのは、キリストによって与えられている希望です。2節に「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」とあり、それに続く3節に、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」と語られていくのです。神の栄光にあずかる希望こそが、苦難の中で私たちを支え、忍耐から練達を生み出していくのです。
誇りとしている
そして今読んだところに、本日新たに見つめたい一つの言葉があります。それは「誇る」という言葉です。この言葉は本日の箇所に三回出て来ます。2節の「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と、3節の「苦難をも誇りとします」、そして11節の「わたしたちは神を誇りとしています」です。パウロはここで三度「誇りとしている」と語っているのです。先週も申しましたが、この言葉を口語訳聖書は「喜ぶ」と訳していました。2節から3節の口語訳は「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる、それだけでなく、患難をも喜んでいる」となっていました。11節も「そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」となっていました。語られている内容からしてそのようにも訳すことができます。しかしこの言葉の本来の意味は「誇る」なのです。そのことは、同じ言葉が他の箇所でどのように用いられているかを見ればはっきりします。この手紙では2章17節にこの言葉がありました。「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし」という箇所です。同じ2章の23節にも「あなたは律法を誇りながら、律法を破って神を侮っている」とありました。同じ言葉の名詞の形が出て来るのは3章27節です。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」。このようにこの言葉は通常「誇る」と訳されるのです。だから新共同訳のように、私たちは神の栄光にあずかる希望を誇りとし、苦難をも誇りとし、神を誇りとしている、と訳すのが原文に即しているのです。
否定されている誇りと肯定されている誇り
そうするとそこには大きな疑問が起こって来ます。今読んだいくつかの箇所では「誇る」という言葉は否定的な意味で使われていました。2章17節以下に語られていたのは、ユダヤ人たちが自分たちは神の民だと自負し、律法を与えられていることを自慢し、神を自分たちの誇りとしていることへの批判でした。そして3章27節は、人の誇りはもはや取り除かれた、神の前で自分の行いを誇り得るような者は一人もいない、ということです。そのことが4章2節では、イスラエルの民の先祖であり信仰の父であるアブラハムについても見つめられています。「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません」。ここにも同じ「誇る」という言葉が使われています。このようにパウロは、人間の誇りを徹底的に否定しようとしているのです。私たちはしばしば、神をすらも自分の誇りのために用いようとします。自分は神を知っている、信じている、それに比べてあの人は…と誇り高ぶろうとするのです。そういうことがいかに間違っているかをパウロは強烈に意識しているのです。そのように人間の誇りを戒めているパウロの言葉は他の手紙にも沢山あります。例えばコリントの信徒への手紙一の3章18節以下にこのようにあります。「だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。『神は、知恵のある者たちをその悪賢さによって捕らえられる』と書いてあり、また、『主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを』とも書いてあります。ですから、だれも人間を誇ってはなりません」。またその先の4章7節にも「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」。この「高ぶる」も同じ「誇る」という言葉です。このようにパウロは、人間の誇りを神に逆らうこととして退けています。パウロにとって神を信じるとは人間の誇りを捨てることなのです。自分の誇り、プライドを満たすことを求めている者は、神を本当に信じることはできない、神を信じ、その救いをいただくためには自分の誇りを捨てなければならない、と言っているのです。そのパウロが本日の箇所では、イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは誇りを与えられている、誇りに生きることが出来るようにされていると語っています。これは注目すべきことです。ここでの誇りは勿論、これまで見た箇所で退けられている誇りとは別のものです。しかし同じ「誇る」という言葉が用いられていることも確かです。つまりパウロは、信仰によって誇りを捨て、自分のプライドにこだわる思いを放棄したけれども、そこに全く新しい、別な誇りを与えられたのです。あるいは言い換えれば、彼の誇りは信仰によって清められた誇りとなったのです。その清められた誇りとはどのようなものなのでしょうか。主イエス・キリストを信じる信仰によって私たちには、どのような、新しい、清められた誇りが与えられるのでしょうか。
誇りがなければ生きていけない
これが大切な問題であるのは、私たちは誇りがなければ生きていけないからです。「誇る」という言葉をある国語辞典で引くと「自分に属するものをすぐれたものであると確信する」ことだと書かれていました。自分は、あるいは自分に属するものは、良いもの、優れたものだという確信、それがなければ私たちは生きていけないのです。私たちは自分のそういう誇りを必死で守りながら生きているのではないでしょうか。誇り、プライドを傷つけられ否定されることほど大きな苦痛はありません。それは人の心に立ち直ることが出来ないような傷を負わせるのです。私たちはそのような傷を負わされることを恐れて、いつも自分の誇り、プライドを守ろうとして堅い鎧を着込んで生きているのではないでしょうか。そしてそこには、人の誇り、プライドを傷つけるような思いや言葉が生まれるのです。なぜなら、「自分に属するものがすぐれたものであると確信したい」という思いは必ず、「自分に属するものが人よりもすぐれていると確信したい」、「人に属するものが自分よりもすぐれていることには我慢がならない」という思いを生むからです。それによって誇りは高ぶりとなり、人を軽蔑し、人の誇りを残酷に傷つけるようなことが起ります。ですから私たちは、誇りがなければ生きていけないけれども、同時にその誇りによって互いに傷つけ合ってしまうというジレンマの中にいるのです。この「誇り」は、私たちの人生におけるまことに厄介な、然し根本的な問題です。誇りのために私たちは、ある時はおごり高ぶり、ある時は劣等感にさいなまれながら、互いに傷つけ合ってしまうのです。この私たちの誇りが、イエス・キリストを信じる信仰においてどのように清められていくのか、それは私たちにとって大切な問題だと言わなければならないでしょう。
誇りを清められたパウロ
この手紙を書いたパウロは、この「信仰と誇り」の問題と格闘した人でした。それは彼自身の中心的な問題だったのです。彼はキリストを信じる者となる前には、まことに誇り高い人でした。「自分に属するものがすぐれたものである」という確信を非常に強く持って生きていたのです。そのことを彼自身が語っている箇所を読んでみます。フィリピの信徒への手紙第3章4?6節です(364頁)。「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。これが、キリストと出会う前のパウロの意識です。他の誰よりも肉に頼ることができる、それは自分の中に誇りとすべきものを他の誰よりも持っているということです。彼はそのように誇り高い人でした。その誇りのゆえに、キリスト教会を迫害していたのです。律法を守り行うことによって神の前に正しい者として立つことができる、と誇りをもって確信していた彼にとっては、律法の行いによってではなく、イエス・キリストを信じることによって義とされ、救われるというキリスト教会の教えは、神の民イスラエルの誇りを傷つける許し難いものだったのです。ところがそのパウロが、復活した主イエスと出会い、自分がその信者たちを迫害していたイエスこそキリスト、つまり神から遣わされた救い主であられることをはっきりと示されてしまったのです。彼はそれによって人生の180度の方向転換を迫られたと同時に、それまで依り頼み誇りとしてきたことの全てを否定されたのです。自分がすぐれたものと確信して誇ってきたものが、実は全く間違っていたことが明らかになってしまったのです。それは本来ならもう生きていくことの出来ないような、絶望して自殺でもするしかないような体験です。しかし彼は、自分の誇りを全て奪い去られたことによって、それまでは決して知ることのなかった、自分に対する神の徹底的な愛、恵みを知らされたのです。本日の箇所の6節以下に語られていたのはパウロのその体験です。もう何度も読んでいますが、もう一度読みます。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。これはパウロ自身が体験したことなのです。彼は主イエスと出会う前は、自分が弱いとも不信心であるとも、まして罪人であるなどとは全く思っていませんでした。しかし主イエスと出会ったことによって彼は一切の誇りを奪い去られ、自分が実は弱い、不信心な罪人であることを思い知らされたのです。そしてそれと同時に、その弱い、不信心な罪人である自分を、神が徹底的に愛して下さり、独り子イエス・キリストが自分のために十字架にかかって死んで下さったことを示されたのです。人間の全ての誇りを奪い去るキリストとの出会いは、何も誇ることができない者を愛し、義として下さる救い主との出会いとなったのです。この出会いによって彼は、自分の誇りを求めて生きることを喜んで捨てました。そのことが、先程のフィリピの信徒への手紙第3章の続きにおいてこのように語られています。7節以下です。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。自分の誇りを満たすために大切であり、有利であると思っていた一切のものを、むしろ損失と、塵あくたのように価値のないものと見なすようになった。それは、自分が誇っていたものよりもはるかに価値のある、はるかに素晴しい、主イエス・キリストによる神の愛をいただいたからです。彼は今や、自分のすぐれたところ、自分の正しさや立派さを誇る者から、何ら誇るところのない自分を救い、喜びをもって生かして下さる主イエス・キリストによる神の愛を誇る者となったのです。信仰によって与えられる、新しい、清められた誇りとはこれです。11節に「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」と言われているのはこの誇りなのです。先程の2章17節には、神を誇りとするユダヤ人のことが否定的に語られていました。それは以前のパウロの姿でもありました。その頃彼は、神を、自分に属するすぐれたものとして誇っていたのです。そのように自分に属するものを誇っていた彼は、自分に反対する人を迫害し、殺していました。しかし今彼は、もはや神を自分に属するすぐれたものとして誇るのではなく、すぐれたものを何一つ持っていない自分を愛し抜いて下さる神の愛に感謝し、キリストによってその神と和解させていただいたことを喜びつつ、神を誇り、支えとしているのです。
清められた誇りを抱いて希望に生きる
そのような新しい、清められた誇りを抱いて、パウロは今どのように生きているのでしょうか。先程のフィリピの信徒への手紙3章の10、11節にこのように語られています。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。彼は、キリストの十字架の死の姿にあやかろうとしています。つまり、キリストが受けて下さった苦しみと死を自分も担おうとしているのです。そこに、苦難をも誇りとする、ということが生まれるのです。パウロが苦難をも誇りとすると言っているのは、自分の苦難を、主イエス・キリストの自分のための苦難と死にあずかることとして見つめているからです。苦しみ自体が喜びや誇りであるわけではありません。しかし主イエスが罪人である自分のために十字架の苦しみを背負って下さり、それによって神の愛が私たちに与えられたことを覚える時に、私たちの苦しみに、キリストの苦しみにあずかるという意味が与えられるのです。そこに、苦しみを忍耐する力が与えられ、その忍耐によって信仰の練達が与えられていくのです。そして十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスが復活の栄光をもお受けになったことは私たちの希望の根拠です。パウロは、キリストの苦しみと死にあずかることを通して、キリストの死者の中からの復活にあやかり、キリストと共に永遠の命の栄光にあずかる希望を見つめているのです。彼が「神の栄光にあずかる希望を誇りとしています」と言っているのはそのことです。その希望は、私たちを欺くことのない、失望に終わることのない、死に勝利する希望なのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所である詩編49編には、この世においてどのように誇りとなる名誉や財産を得ても、死んでしまえばそれは何の役にも立たない、墓にまでそれを持って行くことはできない、ということが歌われています。私たちがこの世においてすぐれたものを持つことによって得られる誇りはそのように、死に勝利することはないのです。しかし、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって示された神の愛を信じ、喜びと感謝をもってその神の愛をこそ誇る者は、死によっても奪われることのない真実の希望に生きることが出来るのです。