主日礼拝

目覚めていること

「目覚めていること」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第59編1-18節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第12章35-48節
・ 讃美歌:13、227、472

弟子たちへの教え
 今読み進めておりますルカによる福音書第12章には、その1節にありますように、主イエスのもとに数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった中で、主イエスがその群衆たちに対してではなく先ず弟子たちに向かってお語りになったみ言葉が記されています。周りにはおびただしい群衆がいますが、語りかけられているのは弟子たち、主イエスに従って来ている人々なのです。本日読む35節以下もその続きであり、弟子たちへの教えです。そのことは内容からも分かります。主イエスは35節で「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と言っておられますが、それは36節にあるように「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」ということです。主人が帰ったらすぐに戸を開けるために腰に帯を締め、ともし火をともして待っているこの人は、37節によれば、「僕」です。僕、召し使いが、主人の帰りを待っているのです。つまり主イエスはここで、あなたがたは僕なのだから僕としての役割をしっかりと果たせ、と教えておられるのです。それは、相手が弟子たちだから言えることです。ご自分に従い、仕えている弟子たちに、弟子としてのあり方を教えておられるのです。逆に言えば、弟子でない人々、主イエスに従おうとしていない、自分が主イエスの僕だとは思っていない人々にとっては、ここに語られている教えは無意味なものです。つまりここに語られているのは、誰にでもあてはまる一般的な倫理道徳の教えではなくて、あくまでも主イエスに従っていこうとしている弟子たち、信仰者に対する教えなのです。

僕として生きる
 そのことが、41節のペトロの問いを通しても示されています。ペトロは主イエスが「目を覚ましている僕」のたとえを語られたのを聞いて、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と問うたのです。このペトロの問いにおける「わたしたち」とは誰のことで、「みんな」とは誰のことかについてはいろいろな読み方があります。「わたしたち」はペトロら弟子たちのことであり、「みんな」は周囲にいる群衆たちのこと、というのが最も一般的な読み方でしょう。しかしこれはもともと弟子たちのみに対して語られた教えを受けての質問なのだから、「わたしたち」とはペトロを中心とする主イエスの最も側近の者たちであり、「みんな」はその他の弟子たちみんなを指している、という読み方もあります。この読み方は42節以下で主イエスが、主人が召し使いたちの上に立てる管理人について語っておられることとつながるとも言えます。同じ召し使いたちの間で、ある人が管理人として立てられるのです。そこに、一般の弟子たちと、特に指導的な立場を与えられている弟子たちとの区別が語られていると考えることもできるわけです。しかし先ほどの第一の読み方を取るなら、この「管理人」は弟子たちの中の特定の人々のことではなく、主イエスの弟子たるもの皆がこの「管理人」であり、その後に語られているように管理の務めをしっかり果すことを求められている、ということになります。信仰者の間に区別を設けないこちらの読み方の方が主イエスの意図に叶っていると思いますので、そのように読んでいきたいと思います。しかしどちらの読み方をするにせよ、ペトロのこの問いとそれに対する主イエスの答えによって、主イエスの弟子たち、信仰者のあり方が教えられていることに変わりはないわけです。

主の再臨を待つ
 さて、主人の帰りを待っている僕のたとえにしても、召し使いたちの上に立てられている管理人のたとえにしても、共通していることは、主人が帰って来るのを待っている、という設定です。36節によれば、この主人は婚宴に出かけています。この婚宴を私たちが招かれる披露宴と同じに考えてしまってはなりません。当時の婚宴は何日にも亘ってなされたのです。そこに入れ替わり立ち代わり多くの人々がやって来て、食べたり飲んだりしてお祝いをするのです。ですから招待された人がいつまでいるか、いつ帰るかは分かりません。待っている僕たちにしてみれば、主人の帰りは今日なのか、明日なのか分からないし、真夜中なのか、夜明けなのかも分からないのです。予測ができない、予定が立たない中で、主人の帰りを待っている、それがこの僕たちの置かれた状況なのです。主イエスはこのようなたとえによって、弟子たちのあり方、信仰者の生き方を教えておられます。それはどういうことなのでしょうか。40節に、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」とあります。「人の子」とは、主イエスがご自分のことをおっしゃる言葉です。主イエスが思いがけない時に来る、それは、この時の弟子たちにと言うよりも、主イエスの十字架の死と復活と昇天とを経て誕生する教会の人々に対して、ということは私たちも含めた信仰者に対して語られているお言葉です。主イエス・キリストは十字架にかけられて死に、三日目に復活なさいました。そして四十日に亘って弟子たちに生きておられるお姿を現し、そして弟子たちの見ている前で天に上げられました。そのことはこの福音書の最後の24章50節以下に語られています。この世を肉体をもって一人の人間として生きられた主イエス・キリストは、復活して天に昇り、今は父なる神様のみもとにおられるのです。だから私たちは今、この地上で、主イエスをこの目で見ることはできないし、手で触れることもできないのです。しかし昇天に伴って、その主イエスがもう一度この地上に来られる、という約束も与えられました。ルカはこの福音書の続編である「使徒言行録」の第1章11節でそのことを語っています。天に昇られた主イエスはいつかもう一度この世に来られるのです。それを「再臨」と言います。主イエスが最初に地上に来られた時には、誰にも顧みられない貧しく弱い姿で、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったわけですが、再臨の時には、まことの神としての栄光を帯びて来られ、全ての者を審くいわゆる最後の審判がその主イエスによってなされます。それによって今のこの世は終わり、神の国が完成します。ですからそれは、主イエスを信じる信仰者にとっては救いの完成の時です。主イエスの復活と昇天の後、弟子たちはこの主の再臨による救いの完成を待ちつつ歩んでいったのです。主イエスの再臨を待つことは教会の信仰の一つの中心です。「人の子が来る」というのはこの再臨を意味しています。福音書には、「主人の帰りを待つ僕」という設定のたとえ話がいくつもあります。主イエスはこのような話によって弟子たちに、そして私たちに、主の再臨を待つ信仰を教えようとしておられるのです。

緊張感
 再臨を待つ信仰における大事なポイントは、それがいつなのか私たちには分からない、ということです。再臨の時期は神様がお決めになることであって、人間には知ることが許されていないのです。だから、予測ができない、予定が立たない中で、主人の帰りを待っているというのが、まさに私たち信仰者の姿なのです。主イエスは39節で「家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう」と言っておられます。ここには主イエスのユーモアがあります。ご自分の再臨のことを、いつ来るか分からない泥棒になぞらえておられるのです。頭の堅い人は、「イエス様のことを泥棒にたとえるなんて相応しくない」と怒るかもしれませんが、主イエスご自身がそう言っておられるのだから仕方ありません。主イエスは、ご自分のことを泥棒にたとえることもできる、自由な、柔軟な心を持っておられたのです。それはともあれ、ここには、主イエスがいつもう一度この世に来られるのか、今日なのか、千年後なのか、真夜中なのか夜明けなのか分からないのだから、しっかり用意をしていなさい、主人が帰って来た時にすぐに戸を開けようと、腰に帯を締め、ともし火をともして待っている僕でありなさい、と教えられています。それは言い換えれば、信仰者として生きるとは、「主人の帰りを用意して待っている」というある緊張感を持って生きることだ、ということです。

目覚めている僕の幸い
 緊張感を持って主人の帰りをちゃんと待っている僕は幸いだ、ということがここに繰り返し語られています。特に37節には、「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」とあります。腰に帯を締めて給仕をするというのは、僕の仕事です。僕は食卓に着く主人にそのようにして仕えるのです。ところが主イエスはここで、主人自らが、ということは主イエスご自身が、そのようにしてあなたがたに仕える、と言っておられます。主人の帰りを、つまり主イエスの再臨を、緊張感を持ってしっかり待っていた信仰者には、再臨の主イエスがそのような恵み、酬い、幸いを与えて下さるのです。その幸いは、43、44節にも語られています。「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」。こちらの僕は42節にあるように、「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした」管理人です。その人が「忠実で賢い」管理人として職務を全うするなら、主人は彼を信頼して全財産を管理させてくれるのです。

悪い管理人
 しかし45節以下には、主人の帰りを待っているという緊張感を失ってしまう僕の姿が描かれていきます。「もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば」。私たちはこのような管理人にならないように気をつけなければならないのです。この管理人は主人の僕、召し使いの一人ですが、召し使いたちの上に立てられており、時間どおりに皆に食べ物を分配することを命じられています。ところがその管理人が、「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになる」。「下男や女中を殴る」とは、自分が主人になったかのように錯覚して、同じ僕仲間に威張り散らし、自分に従わせようとすることです。「食べたり飲んだり酔うようなことになる」とは、主人から皆を養うために預けられているものを、自分のものであるかのように勝手に用い、自分の欲望をかなえようとすることです。つまりここに描かれているのは、僕であることを忘れ、自分が主人として振舞う者の姿です。そういうことが、教会において指導的な立場に立たされている者の間に起ることがあります。牧師が自分の勝手な考えで教会を私物化したり、長老などの役員が教会員を威圧して自分に従わせようとしたり、ということです。しかしここに語られていることは、指導的な立場にある人のみの問題ではないでしょう。私たちは誰でも、自分の人生の主人が神様であり、主イエス・キリストであることを忘れ、自分が主人であるかのように振舞ってしまい、自分の思いや願いを遂げることを第一にしてしまうことがあります。その結果、同じ僕仲間である兄弟姉妹のことを大切にすることができなくなり、傷付けてしまうようなことが起るのです。つまり私たちの誰もが、ここに語られている悪い管理人になってしまうことがあるのです。そういう意味でここは、先ほど申しましたように、信仰者の中で指導的な人とそうでない人とを区別していると読むのではなくて、全ての信仰者に対する教えとして読むべきだと思うのです。

緊張感を失う時
 私たちがこのような悪い管理人になってしまうことの根本的原因は、「主人の帰りは遅れると思い」ということにあります。主人はまだ当分帰って来ない、いやもう帰って来ないのではないか、と思ってしまう。つまり、キリストの再臨と最後の審判、この世の終わりと神の国の完成などは絵空事で、真面目に信じるようなことではない、と思ってしまうのです。そうなると私たちは、主人の帰りを用意して待つという緊張感を失います。それに伴って自分が僕であることを忘れ、主人になったかのように錯覚して自分勝手に歩み始めます。そこには、隣人を大切にして共に生きることが失われ、人を利用し食い物にするようなことが生じるのです。自分のもとにいる人々に暴力を振るい、ひたすら自分の欲望を満たそうとするこの悪い管理人の姿は、罪に支配された人間の有り様の典型です。今私たちが日々この社会で体験しているのは、お互いがこの悪い管理人となった人間どうしの醜いせめぎ合いではないでしょうか。勿論私たち自身もそのせめぎ合いに巻き込まれ、当事者の一人となってしまっています。自分はこの悪い管理人でない、と言える者はいないのです。この悲惨な現実の根本的原因は、自分は僕であるということを見失い、主人となろうとしていることです。主人の帰りを待つという緊張感を失ったことです。キリストの再臨において最後の審判が行われることを畏れかしこむことがなくなり、その審判を通してこそ神の国が完成するという究極の希望を真剣に見つめなくなったことです。それは同時に、自分がいつか死んで神様の前に出るのだということをまじめに考えなくなった、ということでもあります。死について考え、備えることは、社会の高齢化に伴って盛んになってきてはいます。しかしそれは結局、この世をいかに元気に、充実して生きるか、ということの延長として、いかに安らかに、悔いを残さずに死ぬか、という話でしかありません。決定的に欠けているのは、死において人生の本当の主人の前に出て、僕としての働きを問われる、という緊張感です。この緊張感を失う時、私たちは、人間は、社会は堕落するのです。

審判の警告
 主イエスはその堕落の中にいる私たちに警告を発しておられます。46節「その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる」。私たちはこの警告を心して聞かなければなりません。主イエス・キリストは、私たちが予想しない日、思いがけない時に帰って来られるのです。しっかりとそれに備え、待っていること、つまり自分が僕であり、主人の帰りを待っている者であることをいつも意識していることが求められているのです。それをしないならば、再臨の主イエスによる審判において、厳しく罰せられることを覚悟しなければなりません。その罰について、47節以下にさらに語られています。ここには、主人の思いを知りながらその帰りに備えていなかった者と、それを知らずにいて同じことをした者とでは、罰せられ方が違うことが語られています。主人の思い、つまり神様のみ心を知っている者と知らない者、ここに、信仰者とそうでない人との区別が語られていると言ってよいでしょう。主イエスのこのお言葉は、ペトロが「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と問うたことを受けています。主人の帰りを目を覚まして待っている僕であれと教えられた主のみ言葉を受けてペトロは、これは自分たち弟子たちのための話なのか、それとも群衆たちも含めたみんなのためなのか、と問うたのです。主イエスはそれに答えて、主人が僕たちの上に立てる管理人の話をすることによって、これが主イエスの僕たち、信仰者に対する教えであることを示されました。しかし、主イエスの再臨においてその前に立たなければならないのは弟子たちだけではありません。主の再臨においては、その時まで生きている者も既に死んだ者も、全ての人々がそのみ前に立ち、最後の審判を受けるのです。その審判において、神様のみ心を知らされている信仰者と、それをまだ知らない、信仰を持っていない人々とではどちらが厳しい審きを受けるのか、それは信仰者の方だ、ということをここは語っているのです。キリストを信じる信仰者は、自分がキリストの僕であり、主人の帰りを待っている者であることを既に知らされています。それを知りながら主人の帰りに備えず、むしろ自分が主人であるかのように振舞うなら、その罪はより重いのです。「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」。ここに、主なる神様の公平さがあるのです。

主人の思いを知って生きる
 本日の箇所の特に後半のこれらのことを読むと、私たちは自分が最後の審判において厳しい罰を免れないのではないか、と不安になります。いっそ信仰などなかった方が罰せられても少しで済んでよいのではないか、とも思ってしまいます。しかしそれは違うのです。主イエスがここで私たちに求めておられるのは、主イエスの再臨において、神様のご支配、神の国が完成することを信じて、それを待っていることです。そしてそれこそが、先週読んだ31節にあった「ただ、神の国を求めなさい」ということなのです。神の国を求めるとは、神様のご支配が完成する時が来ることを信じて待ち望むことです。その神の国は、主イエスの再臨において完成するのです。つまり本日の35節以下は、神の国を求めて生きるとは具体的にどうすることなのかを教えているのです。それは主イエスの再臨による救いの完成を信じて待つことです。緊張感を失って眠り込んでしまうことなく、目を覚まして主イエスの帰りを待つのです。その私たちに神様は喜んで神の国を与えて下さいます。先週の32節には、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とありました。私たちのことを心から愛して下さっている父なる神様が、喜んで神の国を与えて下さるのです。その神様のみ心が37節の後半に示されていました。主人が帯を締めて、僕たちを食事の席に着かせ、給仕をしてくれる、つまり神様ご自身が僕となって私たちに仕えて下さり、救いにあずからせて下さるのです。これは世の終わりにおける救いの予告として語られていることですが、神様は既にそのことを私たちのためにして下さいました。それが独り子主イエス・キリストの十字架の死です。主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった、それは主人であるはずの主イエスが、命をなげだして私たちに僕として仕えて下さったということです。神様はそこまでして私たちを愛し、神の国、神様の恵みのご支配を与えようとして下さっているのです。信仰者とそうでない人の違いは、主人の、つまり神様の思いを知っているか知らないかにあると47、48節にありました。主人の思いを知って生きることと、知らずに生きることと、いったいどちらが幸せなのでしょうか。知らずにいた方が鞭打たれることが少ないからよいのでしょうか。しかし私たちに示されている主人の思い、神様のみ心とは、独り子の命をすら与えて下さった父なる神様の愛のみ心です。先週の30節の言葉を用いれば、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」ということです。この父なる神様の愛のみ心を知らされた私たちは、そのみ心に信頼して、神の国をこそ求めていくのです。主イエスの再臨によって神様のご支配が完成することを信じて、その再臨を目を覚まして待っている僕として生きるのです。それは、厳しい罰を恐れてびくびくして生きることではありません。むしろ神様が自分に多くのものを与え、多くのものを任せて下さった、その恵みと信頼に感謝して、私たちも神様を信頼して生きていくことです。そこに、22節以下に語られてきた「思い悩み」からの解放があります。天の父である神様が、私たちに必要なものをご存じであり、それを与えて下さるという信頼に生きるところに、思い悩み、心配からの解放が与えられるのです。主人の思いを知って、それに応えて目を覚ましている僕として生きる信仰者にこそ、このような幸いが与えられます。主イエスは私たちを、この幸いへと招いておられるのです。

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