「心の割礼」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:エゼキエル書第11章17-21節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第2章17-29節
・ 讃美歌:16、361、449
全ての人の罪
礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めておりますが、今読んでいるのは、1章18節から3章20節にかけてのひとつながりの部分です。そこに語られているのは、一言で言えば、人間の罪とそれに対する神の怒りです。しかもそれは、人間の中には罪人がいて、そういう連中に対して神は怒っておられる、という話ではありません。この部分の結論を語っているのが3章9節以下なのですが、そこを先取りして読んでおきたいと思います。3章9~12節です。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない』」。ここに語られているように、正しい者、善を行う者はただの一人もいない、とうのがここの結論です。つまりパウロがここで語っているのは、人間の中には罪人がいる、ということではなくて、全ての人が罪を犯しており、それゆえに神の怒りの下にある、ということなのです。
ユダヤ人の自負、誇り
そして注目すべきことは、パウロはそのように全ての人の罪を指摘する中で、今の3章9節にもありましたが、「ユダヤ人もギリシア人も皆」という言い方をしていることです。これは、世界にいる様々な民族の中でユダヤ人とギリシア人だけを取り上げてその罪を見つめている、とうことではありません。この場合のギリシア人は、ユダヤ人以外の全ての民族、つまり「異邦人」と呼ばれている人々の代表です。ですから「ユダヤ人とギリシア人」という言い方は、全ての人類という意味であり、全ての人間が罪を犯しており、神の怒りの下にある、とパウロは言っているのです。しかしそのことを語るために彼は「ユダヤ人もギリシア人も」という言い方をしました。それはユダヤ人たちが、「異邦人は罪人だが、自分たちユダヤ人は違う」と思っていたからです。ユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた民であって、選ばれていない異邦人とは違う、自分たちは神のみ心を知っており、神にどう仕えたらよいかが分かっている、だから自分たちは罪人ではない、神の前に正しい者なのだ、という自負、誇りを強く持っていたのです。そのユダヤ人たちの自負や誇りが、本日の箇所の冒頭の17~20節に語られています。「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理とが具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」。ユダヤ人たちは異邦人に対してこういう優越感を持っていたのです。「ユダヤ人と名乗り」とは、「自分たちはユダヤ人で、異邦人とは違う」と誇りを持って名乗ることです。「律法に頼り」は直訳すれば「律法の上に安んじる」です。律法は神がイスラエルの民つまりユダヤ人に、神の民として生きるために与えて下さった掟、戒めです。彼らはその律法を与えられていることを、自分たちが神に選ばれた民であることの印であると考えて、そこに安心を覚えていたのです。それは「神を誇りとし」ということでもあります。神に選ばれた民であることを誇りとし、神を知らない異邦人を軽蔑する、それは神を自分たちが持っている所有物のようにみなして、自分の持っている神を誇りの種にしていることです。パウロ自身も他の箇所で「誇る者は主を誇れ」とか「私はキリスト・イエスを誇りとする」という言い方をしていますが、それは、自分の中には何一つ誇るべきものはない、ただ主イエス・キリストの救いの恵みのみが私の支えだ、という意味です。それに対してこの場合の「神を誇りとする」は、神を自分の持ち物の一つとして誇ることなのです。18節の「その御心を知り」は次の「律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」と同じことであり、さらに次の19節の「また律法の中に、知識と真理とが具体的に示されていると考え」も同じことを語っています。ユダヤ人たちは、律法を与えられたことによって、自分たちは神の御心、その知識と真理とを知らされており、何をなすべきかをわきまえていると誇っていたのです。そしてそれゆえに自分たちは「盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負して」いたのです。
神を侮り、御名を汚す者
パウロはこのようなユダヤ人の自負、誇り、異邦人に対する優越感を徹底的に打ち砕こうとしています。そのためにユダヤ人たちに対して、21節以下の問いを突きつけているのです。「それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている』と書いてあるとおりです」。パウロが突きつけている問いは「あなたがたは、自分たちは律法によって神の御心をわきまえており、無知な異邦人の導き手だと言っているが、自分自身はその律法を破っているではないか」ということです。律法は、それを持っていることを誇っていても意味がない、実際に自分の生活の中でそれを行い、神の御心に従った生き方をしていないなら、律法を誇り神を誇ることは実は神を侮ることに他ならず、神の御名はそのようなあなたがたによって汚されているのだ、とパウロは言っているのです。「盗むな、姦淫するな、偶像を拝むな」はいずれも十戒に語られていることであり、律法の基本中の基本です。その基本的な戒めをユダヤ人たちは守っていないとパウロは指摘しているわけですが、この指摘は当っているのだろうか、という議論があります。「盗んだり、姦淫したり」ということは確かにユダヤ人の中にもなかったわけではないでしょう。しかし特に多くのユダヤ人がそういう罪を犯していたわけではないと思います。また「神殿を荒らす」こと、これは以前の口語訳聖書では「宮のものをかすめる」と訳されていましたが、そういうことを多くのユダヤ人がしていたわけではないでしょう。だからパウロのこの批判は事実ではないとも思えるのです。しかし問題は、盗みや姦淫や神殿の冒涜がどれだけ行われていたかではありません。パウロはここで、律法を与えられていながら、その求めているところを行っていないユダヤ人のあり方を断罪しているのです。それは彼自身の体験でした。彼自身がもともとユダヤ人であり、ファリサイ派という、律法を守ることに特に熱心な党派に属しており、今ユダヤ人たちが抱いているのと全く同じ自負と誇りをもって、異邦人に対する優越感を抱いて生きていたのです。ところが彼は復活なさった主イエス・キリストと出会ったことによって、自分の抱いていた自負や誇りがいかに間違ったものであったかを知らされました。律法によって神の御心を知っており、それを熱心に守っていることによって、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負していたその自分の歩みが、実は神が遣わして下さった救い主である独り子主イエスを拒み、主イエスを信じている人々を迫害するという、神の御心から全くかけ離れた間違った歩みだったことに彼は愕然とさせられたのです。どうしてそんな間違いに陥ったのか、それは彼が、律法を熱心に守ることによって神を自分の所有物のように誇ることができると思ってしまったからです。その結果彼は他人に律法を教えながら自分は神の御心を少しもわきまえていない、神を侮り、御名を汚す者となってしまっていたのです。「盗むなと説きながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫し、偶像を忌み嫌いながら神殿を荒らす」というのはそのような彼自身の以前の姿を振り返りつつ語られているのです。要するに、律法を与えられていながら、その根本にある神の御心をわきまえることをせず、神の御心よりも自分の思い、誇りによって生きている、それがユダヤ人の姿だ、とパウロは、自分の過去を振り返りつつ語っているのです。
割礼を誇る
25節以下には、割礼のことが語られています。割礼も、律法と並んで、ユダヤ人であることの印であり、ユダヤ人と異邦人を区別するものでした。ユダヤ人の男子は皆、生後8日目に割礼を受け、それによって自分が神の民ユダヤ人であることを体に刻みつけられたのです。この割礼を受けていることも、ユダヤ人たちにとって大きな誇りでした。自分たちは割礼を受けている特別な民だ、と考えていたのです。パウロはそのユダヤ人たちに対して25節で、「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」と言ったのです。律法に示されている神の御心を本当に行ってこそ、神の民である印も意味あるものとなるのであって、そういう内実なしに印だけを誇ってみても無意味だ、ということです。律法や割礼を与えられているというだけで優越感を抱き、自分たちは特別な者だと思い、異邦人を罪人として裁き、見下している、そういうユダヤ人の思い上がりに対してパウロはこのように激しく戦いを挑み、あなたがたも異邦人と全く同じく、神の前に罪人だ、と指摘しているのです。
私たちの問題
私たちはこのようなパウロの言葉をどう読んだらよいのでしょうか。昔のユダヤ人というのはそんなに思い上がった鼻持ちならない人々だったのか、確かに傲慢な話だな、と思えばよいのでしょうか。しかしそのように思ってしまった途端に、私たちはパウロがここで語ろうとしていることを見失ってしまいます。見つめるべきなのは、パウロがここで読者に「あなた」と単数で語りかけていることです。17節も「ところで、あなたは」と始まっており、25節も「あなたが受けた割礼も」と言われています。パウロは読者一人一人に、これはあなたのことだ、と語りかけているのです。この手紙はローマの教会に宛てて書かれたものです。ローマの教会の人々の中には、勿論ユダヤ人もいましたが、むしろ異邦人の方が多かったのです。異邦人の方が多いローマの教会に対してパウロは、ユダヤ人の罪、高慢を指摘する言葉を「あなた」のこととして語っています。それは、パウロがこのことをもはやユダヤ人だけの問題としてでなく、むしろキリストを信じ、教会に連なっている信仰者一人一人の問題として見つめているからでしょう。私たちはここを読んで、ユダヤ人を批判しているだけではだめなのです。むしろそのユダヤ人のあり方に、キリストを信じて神の救いの恵みにあずかっている私たち自身が陥ってしまうこと、つまり信仰によって神を自分のものとしてしまったかのように他の人々に対して誇り、それによってかえって神を侮り、御名を汚してしまうような罪に、私たち自身が陥ってしまいやすいことを真剣に見つめ、自分自身を振り返らなければならないのです。
本当のユダヤ人、本当の神の民
28節以下のパウロの言葉も、私たちに対する問かけです。このように語られています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく〝霊〟によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」。ここでパウロが語っているのは、ユダヤ人であることや割礼を受けていることには何の意味もない、ということではありません。むしろ、本当のユダヤ人、本当の割礼とはどのようなものかを語っているのです。そしてこの手紙を読む者たちに、あなたがたは本当のユダヤ人、本当の割礼を受けた者とならなければならない、と語っているのです。それこそがパウロがここで語ろうとしていることです。つまりパウロは、神の救いにあずかるとはユダヤ人になることだと言っているのです。神が多くの人々の中から選び、ご自分の民として下さったユダヤ人の群れに加えられることこそが救いなのです。しかしそれは外見的にユダヤ人になり、肉体的に割礼を受けることではありません。「内面がユダヤ人であること」「霊によって心に施された割礼」を受けていることが大切なのです。つまり本当のユダヤ人、本当の割礼を受けている者となることです。主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、教会に加えられることは、その本当のユダヤ人になること、本当の割礼を受けることです。教会は「新しいユダヤ人、新しいイスラエル」であると言われます。それは、教会こそ、神が主イエス・キリストを通して地上に新しく興し、選びによって召し集めて下さった神の民の群れだからです。その新しいまことのユダヤ人の群れである教会に連なる者となることが私たちに与えられる救いなのです。パウロがここで見つめているユダヤ人の罪とは、彼らが、外見上のユダヤ人の印、肉に施された外見上の割礼にこだわることによって、本当の意味でのユダヤ人、神の民でなくなってしまったことなのです。そしてそれは私たちへの警告でもあります。私たちも、ユダヤ人たちと同じように、本当の意味での神の民でなくなってしまって、外見のみの教会、内実のないクリスチャンになってしまうことがあり得るのです。
心の割礼
それでは、外見上のユダヤ人と内面がユダヤ人である者、肉に施された外見上の割礼と、霊によって心に施された割礼との違いはどこにあるのでしょうか。私たちが、外見でなく、内面において神の民であるためには、つまり外面的な見せかけでなく本当の教会となるためにはどうすればよいのでしょうか。「内面が」と訳されている言葉は「隠れた所で」という意味です。つまり内面がユダヤ人であるまことのユダヤ人、まことの神の民とは、見える所においてではなく、隠れた所、人に見えない所において神の民となっている者のことなのです。このことは、私たちが神とどこで関わりを持ち、神との交わりがどこで成り立っているのか、という問題でもあります。神を誇りとし、異邦人に対して優越感を抱いているユダヤ人たちは、他の人の前で、つまり人に見える所、人と自分とを見比べることができる所で神と関わりを持っているのです。彼らの神との交わりはいつも人との比較によって成り立っているのです。神の民であることが異邦人に対する誇りとなっているのはそのためです。彼らは自分たちが神の民であることを、異邦人との比較の中で確認しているのです。つまり彼らの神との交わりは外側の見える部分に留まっており、隠された内面の事柄になっていないのです。それが「外見上のユダヤ人」です。それに対して内面がユダヤ人である本当のユダヤ人、本当の神の民は、隠れた所で、つまり誰も見ていない、見ることができない、それゆえに人と比べることのできない、従って優越感も劣等感も生じることのない、心の奥底において、自分が神のもの、神の民とされていることを知っているのです。またそれは、肉に施された外見上の割礼ではなく、霊によって心に施された割礼を受けているということです。割礼とは、先程も申しましたように、自分が神の民とされていることを体に刻みつける印です。その割礼が肉体にではなく心に施されている、つまり自分が神の民とされていることが心にしっかりと刻みつけられており、そのことの消えることのない印がいつも意識され、見つめられているのです。それが、心の割礼を受けている内面的なユダヤ人、まことの神の民です。
聖霊が刻みつけて下さるキリストの救い
この「心の割礼」は、私たちが主イエス・キリストによる神の救いの恵みを自分の心にしっかり刻みつけて決して忘れないようにしている、ということではありません。この割礼は私たちが自分で自分の心に施すものではなくて、「〝霊〟によって」施されるのです。神の霊、聖霊が私たちの心にそれを刻みつけて下さるのです。聖霊は何を私たちの心に刻みつけて下さるのでしょうか。それは主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しの恵みです。私たちは皆罪の下にあり、神の怒りを受けるしかない者です。自分の力で罪の支配から抜け出して神の前に正しい者として立てるものは一人もいないのです。そのような私たちのために、神は独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって新しい命、永遠の命を与え、そして私たちを選び、召し集めてその救いにあずからせ、ご自分の民として下さったのです。その救いの恵みが私たちの心に、聖霊の働きによってしっかりと刻みつけられることが、まことの割礼、心の割礼です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、エゼキエル書第11章の19節はそのことを、「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える」と言い表しています。つまり神が私たちから石の心、頑なで神の恵みを受け入れようとしない心を取り除いて、新しい、瑞々しく柔らかな心、神の恵みを信じ、神の民とされていることを感謝し、神と共に、神に従って生きようとする心を与えて下さるのです。それが霊による心の割礼です。洗礼を受けることによって私たちはこの割礼を受け、まことの神の民、まことのユダヤ人とされるのです。
神からの誉れを受けて生きる
29節の終わりには、「その誉れは人からではなく、神から来るのです」とあります。外見上の、目に見える人との比較の中でしか神との交わりを持っていない者は、常に人からの誉れを求めます。人からの誉れ、人に認められ褒められることがなければ信仰を維持できないのです。いつも自分と人とを見比べて、誇ったりいじけたり、優越感を抱いたりねたんだりしているのです。そこに、ユダヤ人が陥った間違った誇りが生まれます。しかし聖霊によって主イエス・キリストの恵みを心に刻みつけられているまことの神の民は、人からの誉れを必要としないのです。誰も見ていない隠された心の奥底で、神からの誉れを頂いているからです。その誉れとは、主イエス・キリストがこの私のために十字架にかかって死んで下さり、私の罪を赦して下さったこと、私はこの主イエスによる罪の赦しの恵みの中に置かれており、それによって神の民、キリストの体である教会の一員とされていること、人間の、この世のいかなる力も、出来事も、苦しみや悲しみも、挫折も、そして肉体の死も、この神の恵みから私を引き離すことはできないのだ、ということです。この神からの誉れを、洗礼を受けることにおいて、聖霊によって心に刻みつけられて生きるなら、私たちは、人からの誉れを求めて誇ったり人を裁いたりするのではなく、誰も見ていない片隅で、誰も褒めてくれない隠された所で、神からの誉れに支えられて、神と人とに仕えて生きることができるのです。