夕礼拝

キリストを誇りとして

「キリストを誇りとして」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編第16編1-11節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙第3章1-11節
・ 讃美歌 : 267、529

外からの救いにあずかって
 本日、主日礼拝は、クリスマス礼拝として捧げられました。クリスマスとは、神の一人子である、主イエス・キリストが人となって地上にお生まれになった日です。キリストが世に来て下さったのは、私たちの罪を担い十字架につくためでした。世に来て、十字架の死を死んでくださることによって、私たち人間の罪が贖って下さったのです。私たち人間は、罪に支配されて、命の源である神様の下を離れ、それ故に死の力に支配されています。しかし、主イエスが世に来て下さり、その力を取り去って下さったのです。これが、聖書が語る福音の中心です。フィリピの信徒への手紙は、2章6~8節において、この救いの出来事を次のように記しました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。神が自分を無にして人となって下さったということがクリスマスの出来事です。本来、神と人との間には無限の隔たりがあります。しかし、その隔たりを超えて、キリストが私たちの下に来てくださったのです。ここには、私たち人間の救いが、私たちの外から来たこと、そして、それは、徹底的にへりくだる神の愛によって実現したことが示されています。この外から来る神の救いの恵みにあずかって行くことが、世にある信仰者たちの歩みです。パウロは本日の箇所で、このキリストの救いにあずかって歩む信仰者の歩みを、「キリストを誇りとする」という言葉で表しています。私たちは、この世で自分自身に誇りを持って歩んでいます。自分の持っているものや、自分が出来ること、即ち、自分の内側にあるものを見つめ、それを誇りとして歩むのです。しかし、キリストの救い、即ち、外にある救いにあずかる者は、自分のことを誇るのではなく、キリストを誇るようになるのです。私たちは、クリスマスの恵みに目を留めつつ、本日与えられた箇所から、救いの恵みにあずかって行く信仰の歩みがどのようなものなのかを見つめて行きたいと思います。

パウロの警告
 フィリピの信徒への手紙を読み進めていまして、3章に入りました。フィリピの信徒への手紙はパウロが教会に宛てて送った3通の手紙がまとめられ編集されたものです。そして、本日朗読された3章1節の後半からは、これまでの箇所とは別の手紙に入るのです。ここで語られることは1~2章と比べると、内容や、記し方が異なるのです。1~2章で、パウロは教会の人々に対する勧めを語って来ました。しかし、本日朗読された箇所では、より激しい口調で、ある具体的な事柄に対する警告が語っているのです。信仰生活において注意しなくてはいけないことが見つめられているのです。3章1節の後半には次のように始まります。「同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとっては安全なことなのです」。この記述が、これまでの手紙と別の手紙であることを考えるならば、ここで言う「同じこと」とは、フィリピの信徒への手紙の1~2章までの箇所で語られていたこととは限りません。この記述から私たちが読み取っておかなくてはならないことは、ここから語られる内容は、パウロが教会に対して繰り返し語って来ているということです。同じ事の繰り返しというのは、普通に考えれば煩わしいことです。しかし、ここでの警告は、何度でも繰り返すべきことなのです。なぜなら、ここでは、私たちが信仰生活において繰り返し陥ってしまうある間違いに対して警告がなされているからです。ここで見つめられている危険が、信仰生活を送る時常につきまとうために、繰り返し語ることが安全なのです。もし、繰り返し語られ、聞かれることが無くなってしまったら、私たちの信仰はたちまち危うい状況に陥ってしまうのです。少し大袈裟に聞こえるかもしれませんが、私たちの信仰生活、キリストの救いにあずかって歩む信仰生活において大切なことは、繰り返し警告に聞き、注意をすることであると言うことが出来るかもしれません。

割礼を持つ者たち
 パウロは何に対して注意を促しているのでしょうか。2節には「あの犬どもに注意しなさい」と語られています。非常に激しい言葉をもって注意すべき具体的な相手が見つめられています。この人々について「よこしまな働き手」とありますが、これは人々を間違った信仰に導こうとする指導者のことです。フィリピ教会には、誤った信仰に導こうとする人々がいたのです。更に、この人々のことが、「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」とも言われています。割礼というのは、ユダヤ人たちが、神に選ばれ、救いにあずかった神の民であることの徴として受けていたものです。自分の体、具体的には、男性の包皮に傷をつけるのです。割礼は、旧約聖書に定められていて、ユダヤ人たちは皆受けていたのです。パウロが手紙を書いている当時、割礼を受けているユダヤ人キリスト者とそうではない異邦人キリスト者がいました。そのような中、ユダヤ人キリスト者の中には、割礼を受けている者こそ真の救いにあずかるのだと主張する人々がいたのです。そして、割礼を受けていない異邦人キリスト者にも割礼を受けることを要求していたのです。パウロは、そのように割礼を主張する人々の信仰に注意をするようにと警告しているのです。
 パウロは、ここで単純に、割礼というユダヤ教の儀式を非難しているのではありません。もし、そうであれば、割礼を受けていない私たちには、ここでのパウロの警告は関係がないことになります。ここでパウロは、割礼を主張していた人々の信仰の根本にある姿勢を見つめているのです。それは、自分の体にある徴、つまり、自分の持っているものによって救いの根拠を見出そうとする姿勢です。この時は、割礼という肉体につけられた徴が見つめられていますが、それは、割礼の傷に限られません。自分自身の信仰生活や良い行い等、あらゆる者がこの徴になるのです。このような信仰の姿勢を肉に頼る信仰と言っても良いかもしれません。自分自身の内側に自分が救われていることの根拠を見つけようとするのです。そして、そのような信仰に対してパウロは忠告をしているのです。

真の割礼を受けた者
 パウロは3節において、次のように語ります。「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」。パウロは割礼を主張していた人々、自分たちが割礼を受けていることに救いの根拠を見出そうとしていた人々は真の割礼を受けた人ではない。むしろ、形の上では割礼を受けていないけれども、自分たちこそ真の割礼を受けているのだと言うのです。割礼というのは、旧約の民においては、神様に選ばれ、その救いの恵みにあずかっていることの徴でした。しかし、ここで割礼を主張していた人は、それを神様から与えられた恵みの徴ではなく、人間が、自分で自分の救いを確かなものとし、自らを誇るための手段にしていたのです。神の恵みを、人間の徳目のように捉えてしまっていたのです。そのように割礼が本来の意図とは異なる形で割礼が主張されるようになれば、割礼の傷は、切り傷にすぎないものになります。割礼を主張していた人々は、形式的には割礼を受け、肉体に徴があっても、実際に神様の救いの恵みにあずかって歩む歩みをしていないのです。
 パウロは、自分たちこそ、真の割礼を受けていると言いますが、そのことの三つの理由を語っています。それは、神の霊によって礼拝すること、キリスト・イエスを誇りとすること、そして、肉に頼らないということです。これら三つは結びついています。礼拝と言うのは、私たち人間の信仰の中心です。その礼拝を、神の霊すなわち聖霊によって捧げているというのです。即ち、信仰が、根本的には人間の力によるのではないと言うことが言われているのです。そして、それ故に、信仰生活においては、自分自身を誇るのではなくキリストを誇りとするのです。そのことを言い替えれば、自分の肉に頼らないということになるのです。ここで見つめられているのは、キリストによって成し遂げられた、自分の外から来る救いにあずかって、信仰の道に生かされている者こそ神の恵みにあずかっている者であり、真の割礼を受けた者であると言うことです。

誰もが陥る誤り
 私たちは割礼を受けている訳ではありません。しかし、誰でも、この肉を頼りとする信仰に陥ると言って良いでしょう。この手紙においては、ユダヤ人キリスト者という具体的な人々が見つめられています。しかし、パウロが語る信仰の姿勢と、割礼を主張する人々の姿勢を、はっきりと区別することは出来ません。つまり、私たちは、この警告を聞いて自分の周囲の人々を見つめ、あの人は、パウロが語っているように真の割礼を受けている人で、この人は、肉を頼りにする信仰に生きている「よこしまな働き手」だ等と分けてしまうことはできないのです。又、少なくとも自分は、切り傷にすぎない割礼を受けている人とは違うと思ってしまい、パウロの警告を聞かないのであれば、それは誤りです。下手をすると、自分は肉に頼る信仰には生きているのではなく、神の救いの恵みにあずかって生きていると言う主張が、一つの、自分の内側にある救いの確かさになってしまうこともありうるのです。私たちは、ここで、この地で信仰生活を歩む者は誰であっても、肉に頼る信仰から自由ではないと言うことを見つめなくてはならないのです。神様の恵みとして与えられる救いを人間が受けとめる時、その恵みを自分が救われていることの徴とし、それを自分の誇りにしてしまうことがあるのです。その理由は、私たちのこの世での生き方と関係しています。私たちが、この世において、誰しも自分の持っているものを頼り、それによって自分を高め、向上して行こうとしています。そして、自分自身と他者を比べて、自分自身に誇りを持って歩んでいるのです。そのような歩みをしている私たちは、この人間の自然な生き方、価値観によって信仰をも捉えてしまうことがあるのです。信仰も、自分を高めるための道具にし、自分の誇りとしてしまうことがあるのです。そして、他者と自分の信仰を比べ、周囲の人々の信仰の姿勢を裁くということも起こり得るのです。そのような態度は、信仰生活から平安を奪い、教会の交わりを壊します。そして、真の救いから、私たちを遠ざけて行くのです。
聖書が語る救いは、そのような自分の力で自らを向上させて行き、それによって救いに到達するようなものではなく、神から与えられる救いにあずかっていくものです。日常生活において、自分を高め、自分を向上させ、そのことを誇りとしている私たちは、自分自身の誇りを捨ててしまうことは出来ないかもしれません。しかし、信仰は、同じ次元で考えられては行けないのです。信仰の歩みを、この世の歩みと混同し、救いの事柄においても自分の内側を見つめ、そのことによって自分を誇ろうとする姿勢を常に警戒しなくてはならないのです。それは、本当の救いにあずかることから遠ざけるからです。

損失と見なす
 4節で、パウロは次のように語ります。「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです」。パウロは、自分はキリストを誇りとし、肉に頼らないと言いますが、それは、パウロが頼れる肉の業を持っていないと言うことではありません。パウロ自身は、人間が、それを頼り、誇りとしたくなるようなものをたくさん持っているのです。その具体例は、5~6節に列挙されています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン属の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。ここには、パウロが純粋なユダヤ人の家計に生まれたこと、律法を厳格に守り、信心深い歩みをしていたこと、信仰の歩みにおいて誰よりも熱心であり、誰からも非難されることがなかったことが語られています。パウロは、肉を頼り、それを誇ろうとすれば、他の誰よりも誇れるのです。しかし、パウロは、7節で「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストの故に損失と見なすようになったのです」と語ります。本来有利であると考えられるものが、損失になると言うのです。人間が自分を誇るために有利なことが損失だと言うのです。もちろん、パウロは自分の持っているものを様々に用いてキリストに仕えているのです。しかし、自分の持っているものが、実は、神の恵みであることが忘れられ、自分を誇るための手段となる危険性を見つめているのです。そのようになったならば、有利であるはずのものは、人間を真の救いの恵みから遠ざけるものになるのです。だからこそ、はっきりと損失だと言うのです。私たちは、割礼を受けている訳ではありませんし、パウロ程誇れるものを持っていないかもしれません。しかし、人間の肉に頼る思いは様々な形で信仰生活に入り込みます。例えば、受洗を受けて何年目であるとか、自分は何代目のキリスト者であるということが語られることがあります。もちろん、そのようなことは神様の恵みであり、祝福です。共に喜ぶべきことです。しかし、そのようなことが語られる背後で、人間が、神様の恵みとして受けているものを、自分自身が持っている救いの徴と捉え、そのことを誇ろうとするのであれば、それは肉を頼りにする信仰に足を踏み入れていると言って良いでしょう。そして実にしばしば、私たちは恵みとして与えられているものを、肉を誇るためのものにしてしまうのです。つまり、肉に頼る態度は信仰生活と密接に結びついているのです。だからこそ、信仰が深まれば深まる程、私たちの肉に頼る信仰に伴う損失を知り、それを気をつけなくてはならないのです。

クリスマスの恵みを示されつつ
 肉を頼みとする信仰は、私たちの常識、私たちの自然な生き方が引き起こす当然の結末と言って良いかもしれません。信仰生活において、私たちは、この自然な在り方、人間の価値観を転換させなくてはなりません。この転換を私たちの内に起こすものこそ、クリスマスの出来事であると言って良いでしょう。神の子がへりくだり人となって下さった。このクリスマスの出来事は、救いが、私たちの外側から到来したことを示しています。更に、私たちの救いは、人間が自分を高め、自らを誇って行こうとする歩みに真っ向から対立する形で、神であるキリストが、へりくだって人間となることを通して実現していることを示しています。私たちは繰り返しそのことを示され、それを確認するのです。そして、このキリストのへりくだりに倣って、私たちも隣人に仕え、共に歩む者とされて行くのです。私たちは、このクリスマスにも、キリストの到来を示されつつ、パウロの警告に耳を傾けたいと思います。キリストが私たちの外側から、罪にまみれた私たちの内側に来て下さり、罪を滅ぼして下さったことを覚えつつ、私たちの内に働いている「よこしまな働き手」、肉を頼る信仰に陥りそうになる思いに注意しつつ歩み出したいと思います。そのような歩みを繰り返して行くことの中で、私たちは自分ではなく、真の救いをもたらすキリストを誇りとし、その救いの恵みにあずかって行くのです。

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