「主にある兄弟を迎える」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書: 創世記第33章1-12節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙第2章25-30節
・ 讃美歌 : 251、525
手紙の締め括り
本日朗読された箇所には、牢獄に捕らえられているパウロが、自分の側にいるエパフロディトをフィリピ教会に帰すということが記されています。この箇所は内容的に、前回お読みした、直前の19-24節に続いています。そこには、パウロが、教会の様子を知って力づけられるために、囚人となった自分を世話してくれていたテモテを教会に遣わすということが記されていたのです。新共同訳聖書は、19-30節までの部分に「テモテとエパフロディトを送る」と言う見出しを付けています。現在パウロは牢に捕らえられ、牢獄の中から教会に手紙を書き送っているのですが、その最後の部分で、自分の世話をしてくれている二人の人をフィリピ教会に派遣するという計画を記しているのです。最後の部分と申しましたが、この手紙は、パウロがフィリピ教会に宛てた三通の手紙を編集したものだとされています。この箇所は、1章1節から始まる、その内の一つの手紙の終わりの部分なのです。より正確には、3章1節前半までの所に一つのまとまりがあります。3章1節には、「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」とあります。ここで「では」とあるのは「終わりに」とも訳すことができます。パウロは、教会に向けた教えを一通り語り、最後に自分が考えている今後の計画を述べて、「喜びなさい」との勧めをもって一つの手紙を締めくくっているのです。今後の計画と言いましても、手紙の本文の付け足しのようなものなのではありません。ここはパウロの教えが教会で事実生きられ、福音にあずかった者の共同体が形成されて行くためにはどのようにすれば良いかが語られている大切な箇所なのです。私たちは、「喜びなさい」と聞くと、直前の箇所、2章の18節を思い起こします。そこには次のようにあります。「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」。パウロの計画を記す箇所は、「喜びなさい」という勧めで挟まれているのです。ここには、キリスト者が喜びに生かされていく時の具体的な姿が示されているのです。
エパフロディト
ここに登場するエパフロディトとはどのような人物なのでしょうか。この人は、フィリピの信徒への手紙にのみ登場します。パウロは25節の後半で、次のように語っています。「彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」。「あなたがたの使者」とありますが、彼は、フィリピ教会から、パウロの下に贈り物を届けるために派遣された人だったのです。フィリピの信徒への手紙4章18節には次のようにあります。「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています」。しかし、彼はただの配達人ではありません。窮乏のとき奉仕者となってくれたとあるように、パウロの下に留まって、パウロを助ける働きを担っていたのです。パウロにとっては、まさに自分と共に福音のために戦っている戦友だったのです。そのような意味で、エパフロディトはテモテと似ています。テモテも又、パウロの身の回りの世話をしていました。このテモテについてパウロは22節で次のように語っていました。「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めることであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」。ここで、確かな人物とは、自分のことを追い求める人ではなく、福音に仕える信仰に生きている人のことです。そして、そのような人物は、信仰者を励まし、力づけるのです。聖書の信仰は個人的なものではありません。信仰者各自が、それぞれに聖書の教えを学んで行くことによって救いが得られると言うようなものではないのです。信仰者たちが福音に生かされて、共に主にある交わりを形作る中で、互いに助け合い、励まし合いながら信仰の歩みを続けていくのです。そこにおいて何より大切なのは、テモテやエパフロディトのように具体的に福音に仕える人々の働きです。そのような人々の働きは、信仰者たちを信仰によって結びつけ、教会の交わりを形作るのです。エパフロディトも、福音に仕えた人物であり、教会とパウロを結びつけている働きを担う確かな人物だったのです。だからこそ、パウロはテモテやエパフロディトを教会に送ろうとしているのです。
エパフロディトを帰す
それにしても、何故、テモテだけでなくエパフロディトをも遣わすと言うのでしょうか。パウロは、25節で、次のように語ります。「ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています」。パウロは、そもそもテモテを教会に遣わそうとしていましたが、彼はすぐに派遣することが出来ない状態だったのです。23節で「わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています」とある通りです。パウロは、牢獄に捕らえられている自分がこれからどうなるかと言うことがはっきりしてからテモテを遣わそうとしていたのです。そこで、テモテではなく、今すぐに派遣出来るエパフロディトを送ると言うのです。しかし、エパフロディトを送る理由は、ただ、彼ならばすぐに派遣出来るということだけではありません。送ることが可能だというだけではなく、そのことが必要だったのです。そのことは、テモテについては「遣わす」と言われているのに対して、エパフロディトについては「帰す」と言われていることにも表されています。テモテは、パウロが教会の様子を知って力づけられたいという積極的な理由によって派遣されるのです。しかし、エパフロディトを帰すのは、少なくとも人間的に見るならば、積極的な理由だけによるのではありませんでした。その理由は、彼が、パウロの世話をするために派遣されたにも関わらず、病にかかってしまったと言うことです。彼の病がどのようなものなのか定かではありません。しかし、27節に「ひん死の重病」とあることから、簡単な病ではないことは確かです。もちろん、彼は、その後、その病から快復したのです。つまり、これからも、体を気遣いながら、パウロの下にいて働くことは出来るのです。彼自身もそうしたい思いがあったことでしょう。しかし、知らない人々が多い地で生活を続けることは負担にもなります。自分が生まれ育った、気心の知れた人々の大勢いる、最も落ち着く地に戻って、養生した方が良いとも言えるのです。ですから、エパフロディトの帰省については決断を要するのです。
エパフロディトの思い
この時のエパフロディトの状況が、26節の記述から分かります。「しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです」。ここで会いたがっておりと訳されている言葉は、「慕う」とも訳せる言葉です。彼はフィリピ教会の人々を心から慕っています。おそらく、病の苦しみの中で幾度と無くフィリピに帰り、教会の人々に会いたいとの思いになったことでしょう。しかし、彼が自らそのような選択を下すことはありませんでした。彼は、自分が病になった時、教会の人々にそのことを隠そうとしていたのです。彼は、フィリピ教会を代表してパウロの下に派遣され、教会のパウロに対する思いを一身に背負っているのです。エパフロディトがフィリピ教会のことを思っていれば思っているほど、教会の人々を心配させてはいけないと言う思いになったことでしょう。更には、期待を裏切るようなことは出来ない、そう簡単にフィリピに帰る訳にはいかないとの思いにもなったことでしょう。しかも、パウロを助けるという教会の働きは、神様のための働きです。自分の病のために、簡単に止めてしまう訳にはいかないとの思いになるのは当然です。エパフロディトは、病を教会には隠しておいて、なんとか体調を保ちながら、奉仕を続けようとしていました。しかし、何かのきっかけで、病が知られてしまったのです。そして、そのことを心苦しく思っているのです。彼は、教会の人々の自分に対する心配を想像したことでしょう。又、人々が果たして自分のことをどう思うのだろうかとの不安もあったかも知れません。そのような中で、彼は、帰りたいという思いを主張することも出来ず、一方で、そこでの奉仕にも専念することも出来ずに自分のことを責め続ける苦しい状態にあったと言って良いでしょう。ここで「心苦しく」と言う言葉は、「もだえる」という意味もある言葉です。十字架を前にゲツセマネで祈る主イエスの苦しみを表現する時にも使われる言葉です。それ程までに苦しんでいるのです。
神の憐れみを見つめて
そのような中、パウロは、エパフロディトをフィリピに帰すことを決断します。しかし、パウロは、そのことについて失望してはいません。せっかく自分の世話をしてくれていたエパフロディトを帰すことになってしまい残念だとは思っていないのです。パウロは、彼の一件について、27節で次のように語っているのです。「実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」。パウロはエパフロディトが「ひん死の重病」にかかり、そこから快復したという出来事に神の憐れみを見ているのです。そして、その神の憐れみによって、エパフロディトだけでなくパウロ自身も憐れまれたと言うのです。エパフロディトが病は、人間的に見れば失敗でしかありません。しかし、パウロは、彼が快復したと言うことによって神の憐れみを示され、それによって自分が力づけられたと言うのです。さらに続けて、28節では次のように記します。「そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう」。パウロ自身も受けた神の憐れみを、教会の人々にも知ってほしいと言う願いから、大急ぎで彼を送ると言うのです。エパフロディトと再会することによって、教会の人々もパウロと同じように、神の憐れみの業を喜ぶことが出来るからです。そして、もし教会が、そのことを喜ぶのであれば、パウロの悲しみは更に和らぐことになるのです。人間的には計画の挫折であり、消極的な意味しか見いだせないようなエパフロディトの帰省は、教会と言うキリストの救いにあずかる者の交わりにおいては、積極的な意味を持つのです。それは、テモテの派遣と同じように、考え方によっては、テモテの派遣にも勝って、人々に神の恵みの御業を示し、教会を建て、主にある交わりを豊かにするものなのです。パウロにとっては、教会の様子を知らせるためにテモテを送ることも、エパフロディトを帰すことも共に、教会の交わりを豊かにし、共に喜ぶためのことなのです。 パウロのエパフロディトを帰すと言う決断には、パウロの配慮や優しさを感じます。しかし、パウロは並はずれた優しく温情な人であったと言うのではありません。そうではなく、彼は、ただ神の憐れみ、神様の救いの御業をしっかりと見ているのです。そして、教会が共に、この神の憐れみを見つめて、真の交わりが形成されることを求めているのです。
大いに歓迎する
それ故29節では、「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして彼のような人を敬いなさい」と記すのです。共に主に救われた者として受け入れるようにと言うのです。人間の一般的な思いからすれば、エパフロディトの件は、必ずしも、大いに歓迎するようなことではないのです。「わざわざ派遣されたのに、その目的を達成することなく帰って来た」と言う思いで見られることもあり得るでしょう。心から歓迎するのではなく、失敗を責める気持ちが生まれると言うこともあるのです。フィリピ教会にも、エパフロディトの失敗を嘆き、彼のことを歓迎しない人々が出てくることも考えられたのでしょう。だからこそ、パウロは、人間の思いを超えて、神の憐れみの業を見つめ、彼の帰還を歓迎するようにと勧めるのです。しかも、ここでは、ただ歓迎すると言うだけでなく、はっきりと、「彼のような人々を敬いなさい」と言うのです。彼のような人とはどのような人なのでしょうか。30節には、「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」とあります。彼のような人とは、人間の業ではなく神の業に仕えた人のことです。エパフロディトは、フィリピ教会の人々に変わって、他の人には決して出来なかった働きを担ったのです。それはパウロを物理的に助けると言うことにおいてのみ行われたのではありません。自身が病という苦しみを負わされることを通して、神の憐れみを示すということにおいても行われているのです。死ぬほどの目に遭ったにもかかわらず、神の憐れみによって救われたエパフロディトの姿には、確かに、神の導きと救いの御業が示されているのです。 キリスト者とは、共に、神の憐れみによって生かされている者です。主イエス・キリストの十字架の救いにあずかって生きているのです。罪に支配されて死ぬべき状況にある者が、キリストの十字架の贖いによって示された神の憐れみによって生かされていると言っても良いでしょう。キリスト者は、この同じ救いの御業につながって、それによって、主にある兄弟姉妹とされているのです。エパフロディトは、ひん死の重病からの快復と言うことを通して、その救いの出来事を示しているのです。そのような身をもって神の救いの御業を証ししている者は信仰者を強め励ますのです。だからこそ、神の憐れみの業を、身をもって示しているエパフロディトのような人々を主にある兄弟として受け入れると共に、心から敬うことが出来るのです。
憐れみを見つめて
私たちは、共に、同じ救い、神様の憐れみにあずかって生きています。もし、そのことを忘れ、神の憐れみの業を見つめないのであれば、私たちの目から見た時に失敗と移る出来事は、全て、人間が人間を裁くことの対象となるでしょう。そこでは、自分で自分の失敗を裁き、心苦しさの中で過ごすと言うことが起こります。又、他人の失敗を裁き、それを嘆き、その人を心から歓迎しない態度も生まれます。私たちも、教会生活、信仰生活の中で、人間的に見た時、消極的にしか受けとめられない出来事が起こる時、実にしばしば、心苦しさを覚えるのではないでしょうか。しかし、もし、パウロのように、皆が、神の憐れみを見つめ、真の教会の交わりが形成されるのであれば、自分の失敗を責めることによって生じる心苦しさや、互いの失敗を指摘し合うことによって生まれる、心から相手を歓迎しない態度から解き放たれて行きます。互いをキリストの憐れみを受けて生かされている者であることを受け入れつつ、人間の思いからすれば失敗にしか見えないことの中にも、神の憐れみを見つめて、事実、苦しみを担っている人を、心から歓迎し受け入れ合う交わりが生まれるのです。そのようにして、皆が、神の憐れみを根拠にして真に優しく寛容に振る舞う者とされて行くのであれば、そこには本当の喜びが生まれるでしょう。アドヴェントのこの時期、主なる神が、御子主イエスを私たちの下に遣わし、私たちに対する憐れみを示して下さったことを覚え、私たちも、共に主にある兄弟姉妹として、互いに受け入れ合う者とされて行きたいと思います。