夕礼拝

生きるとはキリスト

「生きるとはキリスト」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: ヨブ記 第19章23-27節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙 第1章18-26節
・ 讃美歌 : 10、518

パウロの喜び
 フィリピの信徒への手紙は、「喜びの手紙」と言われます。パウロは喜んで、この手紙を書いています。しかし、この時、パウロは、人間的に見るならば、全く喜べないような大変苦しい状況にありました。福音を語ったことによって牢獄に捕らえられてしまったのです。肉体的に拘束されたことだけが苦しみなのではありません。1章の17節には、「他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」とあります。教会の中にパウロを苦しめようという動機でキリストを告げ知らせる人々がいたのです。パウロのことを嫉んでいた人々が、パウロが捕らえられたのを今がチャンスとばかりに、教会の中での自分達の勢力を拡大し、自分の利益のために活動していたのです。それは、パウロにとって、非常な苦しみであったに違いありません。もちろん、多くの人々は獄中のパウロを思い、愛の動機から福音を伝えていたのです。しかし、たとえ少数であっても、自分を良く思わない人々がいて、自分の不幸に乗じて活発に動いているというのは大きな苦しみです。しかし、パウロは、18節で次のように記しています。「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが宣べ伝えられているのですから、わたしはそれを喜んでいます」。何故、苦しみの中で喜ぶことが出来るのかと言えば、パウロが、自分自身のプライドや世間体を気にせず、ただ福音が宣べ伝えられることのみを求めていたからです。そして、福音を前進させて下さるのは、根本的には人間ではなくキリストであることをわきまえていたからです。パウロは、ただ神さまが福音宣教を進めて下さっていることに信頼しているのです。だから、牢獄に捕らえられて、宣教の働きに直接従事することが出来なくなっても、その出来事の背後に神様が働かれていることを信じているのです。又、自分をおとしめるような人間の悪意による活動があったとしても、パウロはそれを喜ぶと語るのです。

教会の働き(神の業)の中での苦しみ
この喜びの根拠について、19節では次のように語られています。「あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです」。パウロは、福音宣教という神さまの働きに用いられる中で苦しみを受けています。しかし、そうであればこそ、その苦しみが自分自身の救いになると言うのです。十字架で死に復活されたキリストが聖霊と言う形で、この世で神さまの救いの働きを進めている。そして、自分自身は確かに、その業の中に加えられているのです。「あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助け」とあります。「あなたがた」と言うのは教会の人々ですし、「イエス・キリストの霊」というのは、教会を建てている聖霊の働きです。つまり、パウロは神様の御業が具体的に形となっている教会に属し、聖霊と祈りの現実の中に置かれているのです。そこでの苦しみは、すべて自分自身の救いにつながっていると言うのです。神さまの救いの働きによって苦しみがあるのであれば、その苦しみは無意味なものではなく、救いに至る苦しみなのです。そうであるが故に苦しみの中でも喜ぶことができるのです。パウロの喜びは、常に、嬉しさの中にあるというような喜びでも、平穏な生活が約束されることによる喜びではありません。自分自身の歩みが中断されてしまうような苦しみの中にあっても、神さまの救いの御働きを見つめて喜ぶ喜びです。だからこそ、18節の最後では、「これからも喜びます」、と語っているのです。「これから」と言うのは将来のことです。将来、どのような状況に置かれるかは誰にも分かりません。今より苦しい状況になるかもしれません。もしパウロが、自分の平穏無事が約束されることによる喜びを語っているのであれば、未来に渡る喜びを断言することはなかったでしょう。しかし、パウロの喜びは、現在の喜びであると共に将来にわたって続く喜びなのです。終わりの日まで、キリストが教会を建て、自らを用いつつ、福音宣教を導いて下さるからです。

どんなことにも恥をかかず
 パウロの喜びとは、キリストが今も働いて、教会を建て、不完全な人間を用いて、救いの御業を行って下さっており、自らもそこに加えられているという喜びです。この喜びに生きる者の具体的な姿が20節に記されています。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」。「どんなことにも恥をかかず」と言われています。これは簡単なことではありません。パウロは牢に捕らえられているのです。投獄というのは、人間的に考えれば恥としか言えないような出来事です。しかし、誰であっても恥と思いたくなるような状況にあって、パウロはどんなことにも恥をかかずと言うのです。このような主張をすることの理由を知るために、そもそも、私たちは、どうして恥をかくのかを考えてみたいと思います。それは、自分自身に誇りがあるからです。別の言い方で表現するならば、自分の業が人から誉められ、そのことによって人からあがめられたいと思っているからです。「あがめる」と言うと大袈裟に聞こえますが、少しでも、自分が人々から認められたいと言う思いは誰にでもあるでしょう。そのような者にとって、周囲の人々が軽蔑するような出来事に遭遇することは恥となるのです。牢獄に捕らえられると言うのは、そのような出来事の最たるものと言っても良いでしょう。しかも、自分の望んでいることは何も出来ない中で、自分を快く思わない人々は活発に活動しているのです。自分自身は何と惨めなのだとの思いも沸いてくるでしょう。自分が生きていることの意義も見失ってしまうような事態なのです。しかし、その中でも「どんなことにも恥をかかず」と語ることが出来るのは、パウロが、自分の誇りのために歩んでいるのではないからです。生きるにも死ぬにも、パウロ自身の身によってキリストが公然とあがめられることのみを切望しているのです。「切に願う」と言うのは、自分の体全体を、その方向に傾けるという言葉です。つまり、パウロはキリストがあがめられることに全身を傾けているのであり、そうであれば、そこで、起こる、どんなことも恥とするようなことではないのです。パウロの生活全体、パウロの身は、栄光をキリストに帰するための手段なのです。ですから、そこで起こることを恥とするのであれば、キリストを恥とすることになるのです。

キリストがあがめられる
 ここで、「あがめる」という言葉は、「大きくする」と言う意味がある言葉です。キリストが大きくされるようにと言うのです。キリストが大きくされるためには、その分、人間が小さくならなくてはなりません。しかし、私たちは、実にしばしば、この世で自分を誇り、自分があがめられることを求めます。そのような時、自分を大きくして、キリストを小さくしてしまっているのです。そして、自分の歩みを否定されるような苦境に立たされ、恥を感じてしまうような時ほど、私たちは賢明になって、自分を大きくし、自分の誇りや名誉を回復しようとあくせくするのです。キリストをあがめることなどどこかへふっとんでしまうのです。しかし、パウロはそうではないのです。それは、パウロがどこまでも福音の前進のみに自分の救いがあることを知っているからです。そのために自分に恥となるようなことが起こっても、そこで、救いを希望することができるからなのです。20節には、「これまでのように今も」と言う言葉が加えられています。これまで、パウロは自由に福音を宣べ伝えていました。そこに、様々な困難があったことも確かですが、基本的には福音の前進のために働き、その成果が見て分かる中での苦しみだったのです。しかし、牢獄に捕らえられ、自由に活動出来ず、明日の命も保障されないと言う状態に置かれたのです。それは、人間的な思いに従えば、自分の存在意義を確かめることが出来ないと言う、根本的な苦しみに襲われたと言うことです。しかし、そのようになった今も、以前と変わらずにキリストがあがめられることを願っているのです。
 ここにはキリスト者の姿勢が良く示されているのではないでしょうか。本来人間は、自分のことがあがめられること、自分がより良く生きることを節に願っているのではないでしょうか。それ故に、私たちは、自分のことについて、様々なことで恥をかきます。そして、様々な後悔や満たされない思いに支配されるのです。しかし、自分の身を通して、キリストが働いておられることを受けとめ、キリストがあがめられることを望む者は、様々な苦しみや不幸を他者の目を気にして恥とすることはなくなるのです。キリスト者とされて教会に仕える中で、尚、私たちが、様々なことに恥をかくのであれば、そこに、キリストよりも自分があがめられることを求める思いがないか省みなくてはならないでしょう。福音の前進のための歩みを恥としないことと、キリストがあがめられることは一つです。そして、私たちが教会の働きの中で、様々なことを恥とせず、救いの業を進めておられるキリストに委ねつつ、キリストのみをあがめて行く時、どのような時にも喜ぶ喜びに生きる者とされるのです。

生きるとはキリスト
 キリストがあがめられることを求めて歩むパウロの歩みについて、21節は、その理由をより鮮明に記します。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。ここでパウロは、この世を生きることにおいて、自分自身が生かされることを全く求めていません。パウロが、この世で、生きているのはキリストを証するためだけなのです。そして、死ぬことは、キリストと共にいることになる故に、パウロにとっては利益だと言うのです。私たちは、このようなパウロの言葉を聞くと、さすが使徒パウロだけあって語ることが違う。自分はこのような信仰に生きることは出来ないと思うのではないでしょうか。しかし、ここで、単純に、進んで殉教するような強い信仰に生きなくてはならないと言うことが語られているのではありません。「生きることはキリストであり」と言われているのは、キリストの救いにあずかることによって、始まる新しい命にあずかっていることです。キリストが十字架で死なれそこから復活させられた、その救いの命にあずかって生きているのです。そして、「死ぬこと」とは、もちろん、地上の生を終えることを意味しますが、それと同時に新しい命に生かされることによって罪に死んでいくことが意味されています。ですから、この言葉は、自分自身の罪が滅ぼされていき、キリストの命に生かされているキリスト者全ての歩みが見つめられているとも言えるのです。信仰者は全てパウロと共に、生きるとはキリスト、死ぬことは利益と語りつつ歩むのです。

パウロの二者択一
 更に、22節では、次のように語られています。「けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。」。パウロは死ぬことは利益と語りました。しかし、肉において働くことも見つめているのです。23節には「このことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」とあります。「実り多い働き」とは福音宣教とその成果のことです。キリストと共にいたいという自分の熱望を語ったパウロが、もう一方で、「あなたがた」つまり教会の必要性を見つめるのです。ここで、はっきりしていることは、死ぬことは自らの願いであるのに対し、生きることは教会の必要に関わると言うことです。それは、教会の必要であると共に、神様の必要でもあります。パウロは、自分自身の熱望よりも神の必要にとどまるのです。だからこそパウロは、25節では、「こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう」と言うのです。パウロは自分がキリストと共にいたいと言う思いではなく、教会の一同と共にいることによって教会の信仰を深めことに生きるのです。生きて、フィリピ教会の一同のところに赴き、一緒にとどまることこそ、福音の前進になるからです。様々な弱さがある中で、教会にとどまりつつ、福音の前進のために用いられていることを喜び、救いの完成を待ち望む。この姿勢の中に世を生きるキリスト者の姿を見出すことができるでしょう。

肉にとどまる信仰
 私たちは、パウロのように牢獄に捕らえられている訳ではありません。又、明日殉教しなくてはならないと言うような状況にあるのでもありません。しかし、だからと言って、ここでパウロが直面していることが、私たちの現実から遠いことのように考えてしまうのは誤りです。ここでは、「肉から去ろうとすること」と、「肉に留まること」の間の二者択一が見つめられているのです。肉と言うのは、私たちがこの世で生きる時、常に支配している罪と、その罪に翻弄される命です。そのような肉が引き起こす様々な苦しみに直面すると、私たちは、実にしばしば肉にとどまることに疲れてしまいます。そしてその疲労は時に肉をもって生きて行く気力をも奪って行くのです。パウロのように、自分の存在意義が見いだせず、人間的に考えれば自分が生きていることが恥としかとらえられないような状況に置かれる時、誰でも、そこから離れたいと思うでしょう。もはや生きていてもしょうがないと言う思いになるのです。そして、この肉の現実から離れられ、キリストと共にいることが出来ればと願うのです。それは、実際に命を絶つと言うことにおいて問題になるのではありません。そのようなことも無関係ではありませんが、もっと身近なこととして考えることもできます。私たちが集められている教会はこの世に建てられています。そうであれば、そこには必ず、肉の現実があるのです。様々な罪が渦巻く、教会の現実に直面し、宣教の業の背後にすら自分に対する悪意があることを知らされる。そのような時、ともすると、そのような現実を裁き、そこに自らが積極的に関わることを止めようとしてしまうことも起こるのです。世の直中で、即ち、私たち人間の肉の現実の直中で、主なる神さまの御業が進められていることを忘れ、何か、人間的に見て、もっと素晴らしく、清く正しい歩みの中で、主の業が行われると錯覚してしまうのです。しかし、そのような錯覚の背後にあるのは、神の業に仕え、神をあがめることよりも、自分の業を誇り、自分をあがめる姿勢だったりするのです。私たちは、パウロのように、この世、即ち、人間の肉の現実に留まり続けなくてはなりません。人間的に見た素晴らしい行いを求めて行くことによってではなく、肉に留まりつつ、尚、そこで、神の御業を求めて行くことによってこそ、キリストをあがめ、キリストを証することになるのです。なぜなら、キリストこそ、神の子でありながら人間の肉を取り、その肉の中に介入して来られた方だからです。そして、教会に連なり、肉に留まりながら、キリストの命に生かされていく時にこそ、私たちは、キリストと共にいるのです。この世を去って、もしくは、人間の肉、即ち、罪の現実から逃避しつつ歩めば、キリストと共にいることが出来ると言うのではありません。キリストは、教会という形で、様々な弱さに満ちた世に具体的な形を持ち、不完全な人間を用いて神さまの救いの御業を進めておられるからです。

キリストに結ばれている誇り
 パウロは、26節で、「そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります」と語ります。ここには、教会に連なる者の誇りが語られています。それは、自分が「キリスト・イエスに結ばれている」という誇りです。自分自身が人から誉められ認められることによって増し加わる誇りではありません。自分がもっている様々な良いものが与えてくれる誇りでもありません。ただ、キリストのものとされていること、キリストの救いにあずかっていることがもたらす誇りです。「誇り」という時、そこでは信頼ということも見つめられています。何を誇るかは、何を信頼するか。何を頼みとするかなのです。自分自身を誇る人は、自分を信頼しています。キリスト・イエスを誇るとは、キリスト・イエスに信頼することなのです。パウロが、この世に残ることで、即ち、人間の罪が渦巻いている教会に留まることで、人々のキリストに対する信頼が深められるようになるのです。パウロの肉に留まって、キリストをあがめる姿が、確かに、人間の罪のために死に、死から復活された主イエスの救いを証ししているからです。その姿は、パウロ以外の、キリストに結ばれている人の誇り、キリストへの信頼が増し加わることになるのです。教会の交わりは、このような交わりを生んでいきます。教会は、自分自身の人から認められるような行いによって、清く正しい交わりを形成しようとすることで生まれるのではありません。そうではなく、キリストに結ばれた人々が、キリストに倣い、様々な人間の肉の弱さを経験する中で、尚そこに留まり、主を証することを通して、キリストのみをあがめて行くところに生まれるのです。そこで、互いに、自分を誇り、自分を信頼する態度を悔い改めつつ、キリストを誇り、キリストに信頼する態度を養われて行くのです。そのようにして、キリストに結ばれているという誇りを互いに増し加え合う時、確かに、福音が前進しているのです。わたしたちが自分自身の内に誇れるようなことは何も見いだせないとしても、それぞれが、確かに、キリストに生かされ、キリストを生きているからです。肉に留まりつつ、キリストによる真の救いにあずかる希望と喜びに生きる者とされたいと思います。

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