夕礼拝

福音の前進を喜ぶ

「福音の前進を喜ぶ」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編 第46編1-12節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙 第1章12-18節
・ 讃美歌 : 14、529、77

パウロの喜び
 フィリピの信徒への手紙を読み始め、1章1節から11節までを読み終えました。ここには、当時の手紙の形式に従って書かれた挨拶文と、パウロの神様への感謝と、フィリピの教会のための祈りが記されていました。この手紙の冒頭から既に記されていることはパウロの「喜び」です。3節に「いつも喜びをもって祈っている」とある通りです。そして、フィリピの信徒への手紙は、喜びの手紙と言われるように、手紙全体にわたって、この喜びが貫かれているのです。しかし、パウロが、この手紙を書いた時、人間的に考えて見るならば、決して喜べるような状況にはありませんでした。福音を語ったことによって獄に捕らえられていたのです。ここには、人間の常識を越えた喜びがあるのです。何故パウロは喜ぶのでしょうか。パウロは、牢獄の中で教会を思い起こして喜んでいるのです。教会が建てられ、キリスト・イエスに結ばれた人々の交わりがあると言うことは、神がキリストによって始められた業が進められていると言うことです。そして、パウロ自身も教会に連なる者として、その御業の中に置かれているのです。だから、どんな苦しい時でも、教会が神様の御業を進めており、その交わりの中に自分もいると言うことを信じて喜ばずにはいられないのです。ここには、自分自身に関するすべての出来事が、神様の御業として行われていると言う信仰があります。6節で「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」と語られています。たとえ、人間的には、決して喜べないような状況に置かれる時にも、神様がそれによって善い業を進めて下さっていることを信じることが出来るのです。ここに福音を信じる者とそうでない者との決定的な違いがあります。信仰者の歩みとは、このパウロの喜びに生きることであると行って良いでしょう。本日お読みした箇所にも、福音の喜びに生きる信仰者の具体的な姿が示されています。

福音の前進
 パウロは12節で次のように語ります。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」。パウロは、パレスチナ地方を旅しながら、それぞれの地域の教会を訪れて福音を宣べ伝えていました。しかし、そのような中で、牢獄に捕らえられてしまったのです。これは福音宣教と言う視点から言えば後退としか言えないような出来事です。捕らえられてしまったがために、それまでのように自由に行動することが出来なくなってしまったのです。しかし、パウロは、このことが、「福音の前進に役立った」と言うのです。そして、続く13~14節で、次のように語るのです。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他すべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。ここで、「兵営全体、その他すべての人々」と言うことで見つめられているのは、牢獄に関わる全ての人々で、キリスト者とされていない人々も含まれます。そのような人々に、パウロが、キリストのために監禁されていることが知らされたと言うのです。一方、「主に結ばれた多くの兄弟たち」と言われているのは、既にキリスト者とされた人々です。そのような人々がパウロの姿を通して、勇敢に御言葉を語るようになったと言うのです。これらのことから分かることは、人間的に見て好ましい状況にある時に、より伝道が進むのではないと言うことです。事実、教会が迫害や困難な状況に直面して、より活発に福音を証しすると言うことは教会の歴史の中でしばしば起こることです。私たちはパウロのように牢獄に捕らえられることはないかもしれません。しかし、私たちにも人間的に見て、明らかにマイナスとしか言えないことに見舞われることがあります。病のために入院したら、それこそ、自由に体を動かすことは出来ません。もし、入院さえしなければ、日曜日に礼拝に行くことも出来たし、教会の様々な奉仕をすることが出来たと思うことがあるでしょう。しかし、そのような状況にあっても、実は、その病や災いによって、福音が前進していると言うことが出来るのです。病になった人を覚えて祈り合うことで、教会の交わりが豊になることがあるでしょう。困難を経験する人々のことを聞かされて、勇気づけられ励まされると言うこともあるのです。教会の業は、そのようなことを通して豊にされ、進められて行くのです。

キリストにおいて進められる業
 しかし、ここで「災い転じて福となす」と言うようなことが語られているのではありません。信仰者にとっては、マイナスとしか思えないことが実はプラスに働くのだと言うメッセージのみを聞き取ってはならないと言うことです。確かに、ここには、投獄と言う人間的に見て、災い、マイナスとしか言えないような状況が、福音が力強く語られると言うプラスの効果を生み出したと言う出来事が記されています。それは、喜ぶべきことです。しかし、パウロは、ここで、そのプラスの成果を一番に見つめているのではありません。
 13~14節の中にある二つの言葉に注目したいと思います。一つは、13節の「キリストのためである」と言う言葉です。この部分は原文では「キリストにおいて」と訳せる言葉です。この言葉を「知れ渡り」にかけて、「キリストにおいて知れ渡り」と取ることも出来るのです。そうすると、ここではパウロの投獄が、キリストの働きによって知れ渡ったと言うことが言われていることになります。更に、14節で「主に結ばれた兄弟たち」とあります。この「主に結ばれた」と言う部分は、「主において」と訳せる言葉です。それを「確信を得」と言う言葉にかけて、パウロの投獄を知った多くのキリスト者が「主において確信を得」と取ることも出来るのです。そうすると、ここで、教会の人々が、キリストの働きによって、確信を得て勇敢に御言葉を語ったと取ることが出来るのです。そのように読むのであれば、パウロの投獄と言う出来事が知れ渡ったこと、更に、それを知った人々が確信を得て御言葉を語るようになったことは、共に「キリストにおいて」であると言うことになります。パウロの投獄によって起こった出来事が深い所でキリストによって行われたことであり、キリストの御支配の中で起こっていることを見つめているのです。つまり、パウロは、福音の前進と言うのは、人間の業ではなく、キリストの業であることを何よりも先ず見つめ、それを喜んでいるのです。

主の業は、私たちには分からない
 私たちの信仰生活の中には人間的にマイナスとしか言えない苦しみが、キリストにおいて良く用いられたと言うことがはっきりと分かることがあるでしょう。しかし、一方で、結局、自分の納得出来るような形でプラスに転じたと思えないと言うこともあるのです。しかし、そのような中でも、その出来事が神さまの働きの中にあることを信じることが出来ると言うことこそ大切なのです。この世で直面する出来事が、人間の目から見て、どのようなプラスを生み出すかと言うことに注目するのではなく、災いを含めた全てのことはキリストによって用いられて、主イエスの御業が進められていくと言うことを見つめるのです。私たちは、どこかで人間的に見て、好ましい状態に無いと福音の宣教が進んでいないと考えてしまう所があるのではないでしょうか。それは、宣教について考え違いをしている所から来ていると言って良いでしょう。宣教は、私たち人間の営みとは異なります。人間の営み、人間が作り出す様々な集団の業においては、人間的に見た時の善い業、プラスになる業が求められますし、目に見えた成果が何よりも大切になります。しかし、教会の宣教、伝道は、それらと全く同じなのではありません。もちろん、教会の宣教も、人間の手を通して行われますから、そこで人間の目から見て積極的に捉えることが出来ることを求めることはあり得ることです。しかし、大切なのは、その業は、根本的にはキリストにおいて進められている神様の業なのであり、私たちが、それについて判断、評価は出来ないと言うことです。それは、神様が始め、神様が完成させて下さる業であるが故に、私たち人間の思いもしない仕方で進められるのです。

二つの態度
 15節以下には、パウロの投獄によってより活発に宣教に励むようになった教会の姿が示されていきます。投獄されたパウロは、全てがキリストの御支配の中で起こっていることを見つめています。事実、パウロが牢獄の中にいても、以前よりも活発に福音が伝えられているのです。しかし、このパウロの投獄によって活発になった宣教の熱心さの中には、二つの態度がありました。パウロはそのことを、次のように語っています。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます」。神様に仕える宣教の働きにおいて、「善意」でする者のみでなく、「ねたみ争いの念にかられ」てする者がいたと言うのです。続く16節では、この二つの態度の違いを、動機という点から見つめています。「善意でする者」とは「愛の動機からそうする」のであり、「ねたみと争いの念にかられてする者」とは、「自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からそうする」と言うのです。ここで、具体的にどのような状況があったのか定かではありませんが、はっきりしていることは、当時、教会にパウロのことをねたんでいた人がいたと言うことです。教会の外にいるパウロの敵対者、つまり、教理的な点、信仰的な点で対立しているキリスト者を迫害する人々が見つめられているのではありません。教会の中にあって、共に福音を伝えている人々のことが語られているのです。「自分の利益を求めて」と言われていますが、これは「党派心から」、とも訳すことも出来る言葉です。教会の中にパウロを快く思わないグループがいたと考えることが出来るでしょう。たいてい、人々がグループを作る時と言うのは、そこで語られる集団を作る目的もさることながら、共通の敵を見つめ、その敵を批判しねたむことによってお互いの一致を強めると言うこともあるのです。党派が生まれる所には、必ずねたみや争いがあるのです。

伝道に対する熱心さ
 それにしても、この人々は何故、パウロのことをねたむのでしょうか。それは、パウロが教会の働きの中で、大きな賜物を与えられて、良く用いられていたからであると考えることが出来ます。当然、この人々も教会を想い、熱心に福音のために働いていたのでしょう。しかし、パウロほど大きく用いられていなかったのです。与えられた賜物が人間的に見てパウロに及ばなかった。そのような中でいつしかパウロをねたむようになって言ったのです。人間はどのような時に、激しく他者をねたむのでしょうか。それは、その人が、自分が人生をかけ、そのことを大切にし、一生懸命励んでいる分野で、他の人が自分よりも用いられ成功しているのを見る時ではないでしょうか。たとえ、どんなに成功している人がいたとしても、その人の業が、自分が熱心に取り組んでいることと全く異なる畑のことであればねたみの感情は、それ程大きくならないのです。つまり、ねたみは、その人が、どれだけ、そのことに熱心であるかのバロメーターでもあるのです。つまり、ここに記されているねたみや利己心は、教会に対する反抗が生み出したものではなく、教会に対する熱心さが生み出したものなのです。ここには、人間の熱心さがしばしば生み出してしまう人間的な思いが見つめられているのです。教会の業に熱心に仕えようとすることの背後に、利己心が入り込むと言う事態が起こりえるのです。熱心に奉仕するあまり、自分が行う奉仕が人々に認められ、自分たちが人々から重んじられることを求めると言う姿勢が生まれることがあります。教会の中で自分がどれだけ用いられているかと言うことに関心が集中し、自分の熱心さを誇ったり、自分の至らなさを嘆いたりすることが生まれるのです。そこでは、表面的には、神様のための働きだと語りながら、実際には、自分が高められることを望んでいるのです。人間的に見たときに大きく用いられている人に対するねたみも生まれてくるのです。パウロと対立する人々は、パウロが教会にいない今がチャンスとばかりに、熱心に自分たちの勢力を拡大しようとしていたのかもしれません。このような現実があることは、獄中にいるパウロにとって大きな苦しみであったのです。
このようなことが起こる背後には、伝道が神様の御業であると言うことが忘れられてしまうという事態があります。そのような時に、教会においても、人間的に見た、より善い業や、より大きい働きが得に尊ばれ、そのような奉仕に従事する人が尊重されると言うことが起こります。そのような中から生まれる熱心さは、時に成果主義に支配され、隣人に対する嫉みや利己心、党派心を生み出して行くのです。そこには、教会を喜ぶ喜びは生まれることはありません。

私たちの戸惑い
 それにしても、私たちは、利己心から宣教に励む者がいると言うことに、少なからず戸惑いを覚えます。私たちは、伝道の働き、教会の奉仕と言うのは、一人一人が、神様の愛に応答し、それぞれの賜物を用いて神様に自分自身を捧げることであり、それは当然「善意」からするもので、そこに「ねたみや争いの念」などが入り込んではならないと思っているからです。そもそも、利己心によって行われることはキリストを宣べ伝える働きとは言えないと思うかもしれません。キリストを宣べ伝えると言うことは口実に過ぎず、実際は、自分のことしか考えていない。そんな不純な動機で伝道をするなんてことはあり得ないと思うのではないでしょうか。確かにその通りです。しかし、聖書は、そのような教会の姿を記しているのです。
 ここで私たちが注意をしなくてはならないことは、私たちが周囲の人々の伝道の姿を見て、その動機を問題にして批判することは出来ないと言うことです。事実、パウロは、人間的な思いで宣教が進められている事態を裁いてはいないのです。18節には次のようにあります。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」。パウロは、そこでの宣教の業が人間的に見た時に、不純な動機によって行われていることであったとしても、それによって自分が苦しめられるようなことになったとしても、そこで結果としてキリストが宣べ伝えられているのであれば、それを喜ぶと言うのです。もちろん、教会の群れの中で行われる業が、キリストとは異なるものを指し示しているのであれば、それは問題です。しかし、もし、そこで、キリストが証しされ、福音が宣べ伝えられているのであれば、そこで、人間が他人の動機を批判する必要はありません。そもそも、宣教は罪ある人間を用いて、神様が働かれる神の業だからです。もし、私たちが、他人の動機を批判するのであれば、その態度の背後には、やはり、宣教が神さまの御業であることを受け入れることをせずに、「人間の業」としての宣教が求められていることが出来ると言えるでしょう。動機を問題にする態度の中には、何か素晴らしい業を求めようとする人間の思いと同じものが潜んでいるのです。私たち人間の一つの行動を生み出すに至る動機は決して一つではありません。実に様々なものが複雑に絡み合っていると言って良いでしょう。高潔な志を立てつつ、その中に打算的な判断が入っていたりするものです。しかし、宣教とは、そういった様々な人間の動機がある中で進められていくのです。大切なことは、教会の業は、罪に満ちた人間を用いて主なる神が進めておられると言うことを受けとめ、それを喜ぶと言うことなのです。このパウロの姿勢の中に、主の御業が進められていることに信頼する信仰者の姿が非常に良く現されていると言って良いでしょう。

キリストの姿を見つめて
 私たちが常に覚えたいことは、主は、私たち人間を用いて、救いの御業を前進させて下さっていると言うことです。福音の前進を喜ぶとは、そのことに対する信頼と喜びに生きることであると言って良いでしょう。人間の業には、様々な欠けや弱さがあります。しかし、神様が私たち人間を用いて、神様の善い業をなして下さると言うことに目を留め、そこに信頼して歩むことが大切なのです。パウロは、何故、そのような信頼に生きることが出来たのでしょうか。それはパウロが、「キリストにおいて」神様の御業が進められていると語っているように、主イエス・キリストのお姿を見つめているからです。キリストは人間の罪のために十字架で死なれました。それは、人間的に見れば、苦しみと恥辱の極みでしかないことです。しかし、この十字架を通して神の御業が成就したのです。主イエスは、その十字架に至るまでの苦しみを身に引き受けつつ、尚、そこで、神様の救いの御業が進められていることを受けとめて、そこに向かって進んで歩まれました。このキリストのお姿を見る時に、キリストに結ばれた者たちも、苦しみや弱さを経験しつつ、そこで尚、主がこの世で、救いの御業を進めておられることを信じることが出来るのです。そのような時にのみ、私たちは、成果主義に陥ることもなく、自分が高められることを望んで、嫉みや利己心が支配されることもなくなるでしょう。そして、隣人の宣教の動機を見つめて、裁き合うこともなくなるでしょう。パウロがそうであったように、ただ、教会の交わりの中で、キリストの業が進められていることを喜ぶ者とされるのです。このパウロの喜びに共に生きる者とされたいと思います。

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