「愛する者の祈り」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書: 詩編 第111編1-10節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙 第1章1-11節
・ 讃美歌 : 10、461
はじめに
「愛する者の祈り」との題を掲げました。本日お読みした箇所で、パウロは、フィリピ教会の人々を愛しつつ、教会を覚えて祈りを捧げています。愛に生きると言うのはキリスト者にとって極めて大切なことです。教会生活において、私たちは聖書の教えの中心は、神を愛することと、自分自身を愛するように隣人を愛することだと、繰り返し聞かされています。教会に集う者にとって、愛に促されて、教会や隣人を覚えて祈りを捧げることは、大切な努めであると言って良いでしょう。私たちは、愛すると言うと、大抵、夫婦や男女の間の恋愛関係のような特別な関係を先ず思い浮かべますが、ここでは、そのような狭い意味ではなく、広く隣人との良い関係を結ぶことであると言うことが出来るでしょう。夫婦の間の愛、恋人間の愛、親子間の愛、友人間の愛等、人々との間に関係が結ばれる時、そこに愛すると言う関係が生まれます。繰り返し語られ、当たり前のことのように聞いていることですが、これは、私たちにとって、決して簡単なことでは無いと言って良いでしょう。私たちは、愛に生きると言うことに欠け多い者だからです。
様々な、人と人との関係の中で、私たちは、裏切られ、絶望することがあります。更に、自分自身についても、周囲の人々と本当に良い関係が結べているかを省みる時、愛の破れを覚えずにはいられないのではないでしょうか。周囲の人から愛されたいと思っている反面、自分が他人のことを愛すると言うことについては、あまり真剣に考えないと言うのが、私たちの現実です。そして、隣人に裏切られた経験や、愛から遠く離れた自分自身を規準にして、そもそも、人間は、愛に生き得ないのだと考えてしまうことすらあるでしょう。自分が把握する人間の愛の破れが、自分が隣人を愛する愛も、隣人が自分に寄せる愛も、信じることが出来ないと言う状況を生み、しばしば、人間の愛に幻滅すると言うことも起こるのです。私たちは愛すると言う関係を結ぼうとしては、その破れを経験し、それでも尚、愛を求め続けるのかもしれません。そのような私たち人間が、真の愛に生きるとはどのようなことでしょうか。ここで、パウロの姿を通して、聖書が語る一つの答えを示されていきたいと思います。
教会の交わりの中での愛
パウロは1章の3節以下で、フィリピ教会の人々について、彼らが、福音にあずかっているが故に、喜びをもって祈っていると語った後、7節で次のように語っています。「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは当然です。というのは、監禁されるときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです」。ここで大切なことは、教会の交わりとは、一つのキリストの救いの恵みに共にあずかることに基づいていると言うことです。つまり、ここでは、一般的に語られる愛ではなく、教会の交わりの中での愛が見つめられているのです。キリストの恵みにあずかっていない所で語られる愛と、この恵みにあずかっている者たちの中での愛は異なります。私たちがしばしば語る一般的な愛は、私たちの内側から生まれ出てくるものですが、教会の交わりにおいて語られる愛は、外から来るものが根拠になっているのです。私たちの外側から来る神様の救いの恵みに共にあずかることから始まる愛なのです。そのことを8節でパウロは、はっきりと次のように語ります。「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」。パウロは、教会を愛することについて、「わたしの愛の心で」とは語りません。「キリスト・イエスの愛の心で」と語っているのです。パウロが教会の人々を愛しているのは、パウロ自身の愛によってではないのです。キリスト・イエスに愛された者として、その愛を持って教会を愛しているのです。
愛するよりも裁く者となる
なぜ私たちは、自分自身の愛に破れを覚えずにはいられないのでしょうか。私たちの内側から出る愛は、自分が愛を向ける対象に、愛するに足る何かがある時に愛の対象となるからです。その対象が、美しさや、優秀さ、高潔さと言った、好ましいものを持ち合わせいる時に、その対象に愛を向けるのです。そのような意味で、美徳を目指す愛と言うことが出来るでしょう。更に、私たちは、自分の内側から生み出される愛で愛する時、そのことに何かしらの見返りを求めます。ですから、私たちの内側から出てくる愛は、隣人を、無条件に愛すると言うことが出来ません。私たち人間は誰しも、罪人であり欠けのある者だからです。誰にでも、自分に合う人とそうでない人がいるでしょう。又、一人の人物であっても、その人の受け入れられる部分とそうでない部分があったりするのです。そして、自分自身の愛のみで生きる時、必ず生まれるのは、周囲の人々を自分の思いに従って裁くと言う態度です。愛すべきこととは異なる、隣人の姿に直面する時、その隣人と良い関係を結ぶことが出来なくなってしまうことがあるのです。又、自分が愛をもって関係を結ぼうとしても、それが裏切られる時に、その人と敵対してしまうのです。
しかし、ここで注意をしたいことは、私たちが隣人を裁く時に、その隣人の姿の中に自分自身の罪の姿を見つめていると言う側面があると言うことです。周りの人々を愛し、受け入れることが出来ない時、大抵、そのような隣人の罪の姿が自分自身にも当てはまるからなのです。つまり、隣人の姿に嫌悪感を覚え、それを裁く時は、実にしばしば、自分自身の内に秘めた嫌な部分を、周囲の人々の振る舞いの中に見出す時であったり、心の中に密かに持っている願望や欲望を自分の信念で自制している時に、隣人が、そのことを何のためらいもなく、欲望のままに行っている姿を見る時だったりするのです。そのような時、私たちは、周囲の人々を受け入れ愛することよりも、拒絶し裁いてしまうのです。そのような意味で、私たちが隣人を愛することに破れを覚えると言うことは、自分自身の罪とも密接に関係しているのです。私たちは、自分も罪人でありながら、どこかで、自己弁護しています。隣人の姿と自分自身を比較して、自分の方がまだ良いと思ったりするのです。そのような自己弁護こそ、人間の自分を愛する自己愛と言って良いかもしれません。「自分を愛する」と言う時、自分が好きか嫌いかと言うことが問題なのではありません。自分をも支配する罪や弱さを、他人の姿の中に見出し、それを裁くことによって自分を守ろうとすることなのです。
罪を担う愛
そのような人間の愛に生きる私たちに、キリストの愛が示されているのです。キリストの救いの恵みにあずかる時、私たちの罪を担って下さった方がいることを知らされます。このキリストの愛は、十字架に示された神の愛です。主イエスは、私たち人間のために御自身を献げて下さいました。そこでの愛は、罪人のために自らの命を献げる、自己犠牲の愛です。しかも、そこでキリストが命を投げ出す程に愛した対象は、決して、立派でも、美しくもないのです。キリストが私たち人間を愛して下さったと言うことは、人間の愛を規準に考えればとうてい愛せないような者を愛し、そのために命を捨てて下さったと言うことなのです。そこには、罪を忍耐する愛が示されています。それは、何か素晴らしいものを求める愛ではなく、罪を担う愛なのです。このキリストの愛を知らされ、神さまの救いにあずかった者は、自分を救った愛によって、隣人を愛するものとされます。何よりも先ず、自分自身の罪の赦しを知らされ、そして、その同じ愛で隣人の罪も担われていることを知らされるからです。そのことを知らされる中で、私たちの隣人との関係は変えられて行きます。この世を歩む限り、私たちは依然として不完全な中にいます。そこでは、人間の罪の現実があるのです。しかし、自分の罪も隣人の罪も、キリストによって担われていると言うことを知らされるのであれば、私たち自身も、罪赦された者として、お互いの罪を担い、忍耐しつつ歩む者とされるのです。自分を愛するように、隣人をも愛する者とされるのです。自らの罪が赦され、担われていると言うことを経験していない限り、私たちは隣人と良い関係を結ぶことが出来ません。この恵みにあずかることのない所では、隣人の姿の中に自らの罪を見、隣人を裁くことを通して自己弁護する歩みが生まれるからです。しかし、罪人に過ぎない自分を赦し、担って下さる方を知らされる時、私たちは、心から愛に生きる者とされます。たとえ、隣人の罪、欠けや弱さに直面しても、その罪や弱さは、自分自身も持っているものであり、それは、既に、同じ愛によって担われていることを知らされるからです。人間の愛によって関係を結ぼうとする時、自己弁護のために裁くものでしかなかった隣人の欠けや罪の姿は、神の愛による赦しに生かされる時、自分自身の欠けや罪の大きさと、神の恵み深さを知らせてくれるものとなるのです。そこからお互いに罪を担い合うことによって愛し合う関係が生まれます。共に、救いの恵みにあずかった者として互いに愛し合う歩みが生まれていくのです。
キリストを見つめ続ける歩み
ここで語られていることは、私たちが自分の力で成し遂げることではありません。私たちは、ともすると、この愛について、不十分な愛に生きている私たちに、より高い次元での愛が示されていて、そこに到達することが求められていると感じてしまうかもしれません。確かに、キリストの愛を示された人が、その姿に倣って行こうとするのは大切です。しかし、それは自分の力、自分の努力で、人間の愛の限界を乗り越えて行こうと言うことではありません。パウロが語る、「キリスト・イエスの愛の心」と言うのは、「わたしの愛の心」の延長にあるものではありません。ですから、それは私たちが到達するものではなく、キリストの救いにあずかっていると言うことが自然と生み出していくことなのです。
ですから、私たちは、自分の振るまいや、自分の努力を見つめて、自分は、よりよく愛に生きていると言うことを示すことは出来ません。更に、ここまでのことが出来れば、自分は愛に生きることにおいて合格ラインに達していると言うように確認することは出来ないのです。そのような成果や、効果を目に見える形で確認しようとする態度の背後には、やはり、自分の力で何かを成し遂げようとする思いがあるのかもしれません。私たちに出来るのは、ただ、キリストを見つめ、その恵みにあずかる者とされていくことなのです。それは、繰り返し御言葉に聞いて行く歩みと言うことが出来るでしょう。キリストが私を、そして私の周囲の人々を愛して下さったと言うことをのみ繰り返し見つめていくのです。キリストが愛によって救って下さっていると言う恵みに思いを向け続ける。その時、そこから、自ずと、キリストの愛に生かされる歩みが、結果として生まれてくのです。つまり愛に生きる歩みとは、私たち自身の罪や欠けの中で、キリストの愛を知らされ、それに生かされていくことに他ならないのです。
神が証しして下さる
そのことは、8節の後半で、パウロがフィリピ教会の一同を、どれほど思っているかは「神が証ししてくださいます」と語っていることに示されています。パウロが生きている愛を証しするのは、パウロ自身ではないのです。私たちは人間の内側から生まれる愛によって誰かを愛する時に、そのことを証ししようとします。言葉や態度で表現することがあるでしょう。その人のために尽くしたり、その人に贈り物を贈ることもあるでしょう。様々な方法を考え、そのことに心を砕くのです。愛に生きることに不十分な人間が、自らの愛を証明することほど難しいことも無いと言えるかも知れません。しかし、ここでパウロは、パウロが教会を愛しているという時の愛は、パウロではなく、神が証明して下さっていると言うのです。つまり、キリストを十字架にかけて罪を赦すと言う形で私たちを救い出して下さり、その救いにパウロがあずかっていると言うことのみが、パウロが教会を愛していることを証ししているのです。キリストの救いにあずかった者同士の間では、神の愛に生かされているが故に、自ら愛を証しする必要はないのです。
パウロの祈り
私たちが、自分自身の内側から生まれる愛ではなく神様から来る愛に生きる時、私たちは為すべき不可欠なことは祈りです。私たちが、キリストの愛を深く知らされ、それに生きることが出来るように祈り求めることが大切なのです。だからこそ、パウロは教会への愛を語ったすぐ後に、9~10節で、次のように語るのです。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に自由なこと見分けられるように」。ここで、パウロは、教会の人々の愛が増し加わることを祈っています。そして、そのことが実現されるために「知る力と見抜く力を身につけて」と祈っているのです。ここで私たちの間でキリスト・イエスの愛が豊になるために、ある認識力が求められているのです。それは、単純に知識を得ると言うようなことではなく、主が、私たちに臨んで下さり、私たちの信仰の目が開かれ、主イエスの救いが自分自身のものとなると言うことです。このような祈りは、人間の愛のみを問題にするならば、不可解な祈りとなるでしょう。人間の愛は、認識力とは異なった心の中からわき出てくる感情の営みであると考えるからです。しかし、外から来る救いに基づくキリスト・イエスの愛が豊になるためには、その救いの恵みを知らされていくことがなくてはならないのです。だから、信仰者は、知る力が与えられるように祈りつつ歩むのです。その時に、キリストの救いを深く知らされつつ、愛が生まれていくからです。更に、パウロは、愛が豊になって、その結果、「本当に重要なことを見分けられるように」と語ります。愛が豊になることによって、更に、重要なことが見分けられるようになると言うのです。これも、パウロが、自分自身の愛を問題にしていたならば全く異なったものとなっていたでしょう。おそらく、教会の人々の愛が豊になり、そのことによって、パウロが、教会の人々を愛したように、教会の人々も豊な愛でパウロ自身のことを愛するようにと祈ったのではないでしょうか。しかし、パウロは自分が愛されることを願っているのではないのです。むしろ本当に重要なことを見極めるようにと言うのです。私たちの愛は、しばしば、わたしたちを盲目にさせ、重要なことが見分けられないという事態を生み出します。しかし、キリスト・イエスの救いの恵みから始まって豊にされた愛は、私たちに何が重要なことなのかを弁える者とさせるのです。
重要なこと
ここで語られている「重要なこと」とは、今、教会を救いの恵みが捉えており、神様の救いが完成する世の終わりに至るまで、その恵みが更に増し加わって行くと言うことです。神様が恵みの御支配をこの世で始めて下さり、それを終わりまで導いて下さると言うことです。1章の5節には、パウロが喜んで祈っているのは「最初の日から今日まで、福音にあずかっているから」だとありました。パウロは、最初の日、即ち、教会の人々がキリストの救いにあずかった日から今まで、教会の人々と共に、福音にあずかり、救いの恵みの中で祈りを捧げていることを喜んでいます。そして、これからも、その恵みの中を歩めるようにと願っているのです。そのために祈りつつ、愛に生きる者でありたいと願っているのです。この重要なことが忘れられる時、教会を、キリスト・イエスの愛ではなく、人間の愛によって結ばれた共同体にしてしまうことが起こります。そこでは、互いの罪を担い合うと言うことがなされなくなって行きます。人間の罪の現実を裁き合うことすら起こるのです。パウロは、教会の中で事実、神の愛が豊に生きられ、そのことによる交わりが深まっていくことを通して、一層、教会がキリストの救いの御支配に目を向け、希望を抱いて将来に向かって行くことを求めているのです。10節で、続けてパウロは、次のように語っています。「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の身をあふれるほど受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」。ここでは終わりの日のことが語られています。キリストの日、主が再び来て下さり、救いを完成させて下さる時に、私たちを本当に義とするのは、私たちがどれだけ人間の愛で人々を愛したかと言うことではなく、「キリストの救い」です。教会は、この世にあって、この救いの恵みにあずかりながら歩むことを通して、終わりの日の救いを待ち望むのです。
祈りと讃美に満ちて
そして、その救いに生きられる時、真に神の栄光と誉れとをたたえるということが生まれます。
愛に生き得ない、自分たちの内側にある愛に破れを覚える私たちが、神の愛によって救われていくのだと言うことが受けとめられる時に、自分自身を讃えようとするのではなく、神さまへの心からの讃美が捧げられます。私たちは絶えず、キリスト・イエスの愛を示されていかなくてはなりません。わたしはキリストの救いの恵みにあずかっている。そのことのみが、自分の内にある愛の破れを経験する者を、真の愛に生かす唯一の可能性です。そのために、主イエス・キリストによって成し遂げられた救いの出来事を深く知ることが出来るように日々御言葉を示され、その救いを深く知ることが出来るように祈る者でありたいと思います。そのようにして、キリスト・イエスの愛に生かされる時、私たちの教会は、互いの罪を赦し合い、弱さを担い合うことを通して、神を誉め称える歩みを進めていくのです。