主日礼拝

香ばしい贈り物

「香ばしい贈り物」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:エゼキエル書 第20章40-41節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第4章10-20節
・ 讃美歌:51、513、393

<贈り物>
フィリピの信徒への手紙は、パウロが牢獄の中から、フィリピの教会の人々宛に書いた手紙です。この手紙の最後の部分には、本日読んでいただいた聖書箇所の小見出しにあるように、「贈り物への感謝」が述べられています。
 フィリピの教会は、パウロの伝道を助けるために、贈り物を届けていました。15~16節には、「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」と、その様子が書かれています。また、2章25節以下のところでは、牢獄にいるパウロに贈り物を届ける役目を担ったエパフロディトが病を負ったので、急いでフィリピに送り返します、というような内容も書かれていました。

 「贈り物」をもらうこと、「贈り物」を誰かにしたことは、みなさんそれぞれ経験があると思います。贈り物をもらうことは、自分を思って、時間をかけて用意をしてくれたこと、その心遣いや優しさがとても嬉しいものです。また、送ることは、喜ぶ顔が見たいとか、日ごろの感謝の思いを伝えたいとか、相手のことを思ってなされるもので、これもまた嬉しいものでしょう。「贈り物」という言葉が使われるとき、そのやり取りする者同士は、良い関係を築いているに違いありません。
しかし、好意で送ったものなのに、次にまたそれを当てにされたり、期待されてしまったら迷惑です。またこれに、最初から悪巧みがあったり、見返りを求める思いがあると「贈り物」ではなく「賄賂」と呼びます。
また、始めは良い関係の中で行われていても、後から人間関係が悪くなったり、行き違いが起こったりすると、「あの時、あれだけのことをしてあげたのに」とか、「恩知らず」ということになったり、もらった方も気が引けたりして、対等に話し合いが出来なくなったり、もののやり取りがあったおかげで、後からややこしくなる、ということもあるでしょう。
「贈り物」は、本来は損得ではないはずなのに、移ろいやすい人間関係の中では、どこかでそのような計算が起こってくることがあるのです。この「損得」というのは、人の感情に入り込みやすく、中々やっかいなものです。

しかし、このパウロに届けられた「贈り物」は、特別なものです。送る側と、受ける側の関係が、ただの人間関係ではなく、キリストによって結ばれている関係にあるからです。そうすると、これらの「贈り物」の捉え方はまったく変わってきます。

パウロは、そのことをとても慎重に、言葉を尽くしてフィリピの教会の人々に伝えようとしています。そうしなければ、やはり人間の思いで勘違いをして受け取られやすい事柄だからです。そのために、この「贈り物への感謝」の手紙の部分を読んで、何だか回りくどいなと思った方があるかも知れません。ある人はこの部分を「感謝なき感謝」などと言いました。
10節には「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今まで思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。」と言いつつ、すぐに、しかしこれは物欲しさにこう言っているのではなく、わたしはいつでも十分に満足しているのだ、と言ったり、16節には、「あなたがたは何度も物を送ってくれました」と言いつつ、「しかし、贈り物を当てにしているのではない」と言います。
パウロはもちろん、「贈り物」を送られて助かったのです。感謝をしているのです。しかし、その「贈り物」において見つめるべき、大きな恵みに、パウロはフィリピの教会の人々の目を向けさせようとしています。17節に「むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」と言っているように、パウロに贈り物をしたフィリピの人々の方が、むしろ神から豊かに受けるものがあるのだ、ということを伝えたいのです。
またこのことは、わたしたちキリスト者の間のやり取りにおいても、また教会の間のやり取りにおいても、しっかり見つめておくべきことなのです。

<パウロの働きに参加>
 さて、まず「贈り物」が送られた背景ですが、フィリピという場所はマケドニア州にあって、パウロがヨーロッパへ渡って伝道を始めた、一番最初の教会です。パウロはキリストの福音のために、神に選ばれ、遣わされ、フィリピの人々のところへやってきました。そして、パウロはそこから更に次の場所へと、伝道の旅を続けていきました。フィリピの教会の人々は、自分たちに福音を告げ、次のところへ旅立って行ったパウロに、贈り物を何度か送っていたのです。

 パウロは、キリストの福音を宣べ伝えることは、報酬を得るためにしていることではないと考えていました。もともとユダヤ教の律法学者であったパウロですが、律法学者は、神の言葉を教えることを食い扶持にしてはいけない、という考えがあり、パウロも手に職を持っていました。パウロが持っていた職業技術はテント造りです。それで、使徒言行録の18章1節以下には、パウロがコリントへ行った時は、週日はテント造りをして生活費を稼ぎ、安息日ごとに会堂でキリストの福音を宣べ伝えていた、とあります。
しかし、その後の18章5節以下には「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした」とあります。これは、シラスとテモテというパウロの同労者が、マケドニア州、つまりフィリピの教会の人々から献金を託されてパウロのもとにやってきたので、パウロは生活費を自分で稼ぐ必要がなくなり、すべての時間を御言葉に語ることに専念することが出来た、ということです。
パウロは、キリストの福音に専念することが出来るのであれば、それらの贈り物を喜んで受け取りました。自分の生活のためではありません。福音のためです。一人でも多くの者に、キリストの福音を宣べ伝えるためです。

フィリピの教会の人々の贈り物は、まさにそのように用いられました。その贈り物は、単にパウロさんが困っているだろうから、とか、良くしてくれたお礼に、といって送られたものではありません。パウロがよりキリストに仕えるために、ますます神のご計画のために働けるように、伝道のために献げられ、また用いられた贈り物なのです。

これは、フィリピの教会の人々の信仰の、具体的な一つの表れであると、パウロは受け取っています。
 ですからパウロは、この贈り物をただ喜ぶのではなく、「主において非常に喜びました」と言いました。それは、この贈り物のやり取りが、個人的なやり取りではなく、キリストを信じる信仰に生きる者が、共に主のご計画を見つめ、主にあって思いを一つにしているゆえに、贈られたものだからです。

ですからパウロもこの贈り物を、主にあって受け取ります。福音を宣べ伝えるという神の御心のために、パウロはこの贈り物を、自分の使命を果たすために与えられたものとして、神から受け取ったのです。
このように、パウロとフィリピの教会の人々のやり取りの間には、神がおられます。それが、この贈り物における特別なことです。

 そして、パウロはこのことを4章15節にあるように、「もののやり取りでわたしの働きに参加した」と言いました。フィリピ教会の人々は、パウロに贈り物を送ることによって、パウロと共に伝道の働きに参加したのです。

<苦しみにおける交わり>
 それで、パウロはフィリピ教会の人々に、14節で「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と述べています。彼らが贈り物を送り、パウロの働きに参加することが、パウロと苦しみを共にすることであった、というのです。
そのパウロの苦しみは、何の苦しみかというと、キリストの苦しみにあずかっているものです。

フィリピの信徒への手紙の1章29~30節には、「つまり、あなたがたは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」と書かれています。

パウロの苦しみ、パウロの戦いというのは、まさにキリストを伝道するために迫害に遭っていることです。この手紙も、牢獄の中から書かれていると申しました。キリストを信じ、キリストに従い、キリストを宣べ伝えるために、パウロは激しい戦いを余儀なくされています。そして、パウロの働きに参加したフィリピの教会の人々も、共にキリストのために苦しみ、共に戦っているのです。

キリストを信じることは、救いの恵みに与り、大きな喜びを与えられると共に、キリストのために苦しむことも、与えられます。
わたしたちの救いは、まずキリストが、わたしたちのために苦しんで下さったこと、御自分にしか引き受けることの出来ない苦しみを負って下さり、すべての者の罪を背負い、代わりに十字架で死んで下さることで成し遂げられました。この、わたしたちが負うべき十字架を代わりに負って下さったことによって、わたしたちは罪を赦され、滅びの道を歩んでいた中から、イエス・キリストが切り拓いて下さった命の道へと招かれ、その十字架のキリストの御跡に従って歩むことを許されたのです。

キリストの救いを信じて従う者は、この命の道を歩んでいるのですが、この世はまだ、すべての者に神のご支配が明らかになっているのではありません。まだ福音は前進しており、わたしたちは神の国の完成、救いの完成へ向かい、それを待ち望んでいる段階です。そのために、キリスト者は、神に逆らおうとする力や、誘惑と、世の終わりまで戦わなければなりません。キリストを信じる者は、厳しく悲惨な現実の中で、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」というキリストのお言葉を信じ、神のご支配を信仰の目によってしっかりと見つめ、神に祈り、依り頼むことによって戦っていくのです。キリストに従うゆえの苦しみを受け止めていくのです。

わたしたちは、「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と言われても、中々苦しみを恵みと受け取ることは難しいと感じます。
しかし視点を変えれば、世において、キリスト者ゆえに戦いがある、そのために苦しむということは、キリストとの交わりに生きているゆえに味わう苦しみなのです。キリストの苦しみにあずかることは、キリストのものとされている者しか味わわないものなのです。だから、この苦しみは、救いのゆえに味わう、恵みのしるしとも言えるでしょう。

わたしたちもまた、キリスト者であるために、神のご計画に従うために、現代において戦わなければならない戦い、また苦しみがあるでしょう。しかし、それは孤独な戦いではありません。キリストと共に生きるゆえの戦いであるならば、そこには必ずキリストが共におられるからです。また、お一人のキリストに共に結ばれた兄弟姉妹たちが、共にあるのです。そこで、わたしたちは励ましや慰めを受けることが出来ます。

しかしわたしたちは、ついつい自分のことばかり、苦しみを担ってもらうこと、助けてもらうことばかりを考えているかも知れません。本当はそれだけではなくて、兄弟姉妹の苦しみを、痛みを、弱さを、積極的に担っていく、共にしていく、共有する、ということがなければなりません。
「よくわたしと苦しみを共にしてくれました」の「共にする」という言葉は、「交わる」という言葉です。重荷を担い合うところにこそ、神に愛され、キリストに担われた者としての愛の業が現れ、まことの主にある交わりが生まれます。
思いを一つにして、キリストにある苦しみを共にする。同じ戦いを戦う。キリストのための働きに共に参加していく。そこに、キリストを中心とした、兄弟姉妹のとの交わりが、ますます豊かにされ、深められ、一つのキリストの体として成長していくことが出来るのです。

<香ばしい贈り物>
 パウロはそのように、フィリピ教会の人々からの「贈り物」を、共に神に仕えるためのもの、交わりの中で、パウロの苦しみを引き受け、苦しみを共にしてくれるものとして受け止めました。これはもはや、単なるプレゼントではなく、キリストの体を築いていく信仰の交わりであり、愛の業なのです。フィリピの教会の人々が、そのように、確かに福音にあずかって歩み、神に仕えていること、キリストの救いの恵みに押し出されて、具体的に、その信仰を贈り物と言う形で表してくれたことを、パウロは「主において非常に喜んでいる」のです。

そしてパウロは、4章17節の後半で「あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」と語ります。パウロ自身は、あらゆるものを受けており、豊かになっている、フィリピの人々からの贈り物をエパフロディトから受け取って、満ち足りている、と語ります。そして、その贈り物は、「香ばしい香りであり、神が喜んで受け入れてくださるいけにえです」と言っています。

ここで面白いのは、15節以降に商業の用語がたくさん使われているということです。15節の「もののやり取り」という言葉は、「与えることと受けることの勘定に」という言葉で、「相互決済」のような意味で使われたようですし、17節の「あなたがたの益となる豊かな実を望んでいる」は、口語訳では「わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである」と訳されていました。また18節の「あらゆるものを受けており」の「受けているは」、当時領収書を書くときに「受領しました」と書く時の言葉です。

そうなると、この「もののやり取り」や「贈り物」というのは、漠然としたことではなくて、非常に世俗的で、生々しいものに感じられます。渡した分と、受け取った分の数字をしっかりと書いて確かめるような、使った金額や、生まれた利益をしっかりと計算するような、そんなことを連想させるのです。もののやり取りとは、それほど現実的であり、だからこそパウロもここまで注意を払って語ってきたのです。

パウロが、「よくわたしと苦しみを共にしてくれた」と言ったように、フィリピの人々が献げた贈り物は、決して簡単に行われたものではなかったはずです。生活の一部分を削り、時間を使い、苦しみや、痛みを伴って、必死に用意されたものでしょう。そうしてパウロの苦しみを共に担おうとしたのです。決して心持ちや、抽象的なことを言ったのではないのです。
それは、生活がたとえ苦しくなっても、困ることになってしまっても、キリストが必要をすべて満たして下さるということに心から信頼し、神の救いのご計画に用いられるようにと祈り願いながら神に献げられた贈り物であり、生活のすべてを献げて伝道のために働くパウロと共に歩もうとする、フィリピの人々の献身の業であったのです。

このような贈り物は、商売の損得勘定で言えば、損をすることであり、赤字ということになるでしょう。この世の勘定からすれば、実際に何の得にもならないのにお金を出すこと、時間や労力を使うこと、それは愚かで、損をするばかりのことのように思えるのです。

しかしパウロがここで「あなたがたの益となる豊かな実を望んでいる」、「あなたがたの勘定をふやしていく果実を求める」と言っているのは、まさに、神がフィリピの人々の贈り物を、しっかりと勘定して、数え上げて下さって、益を与えて、恵みを増し加えて、報いて下さる、ということでしょう。
フィリピの人々の贈り物は、「香ばしい香りであり、神が喜んで受け入れてくださるいけにえです」と言われています。この「香ばしい香り」というのは、旧約聖書において、動物を祭壇で焼き尽くして捧げる、燔祭のいけにえで使われる表現で、今日のエゼキエル書にも出て来た「宥めの香り」のことです。このフィリピの教会の贈り物を、神こそが、香ばしい香りのいけにえとして、喜んで受け入れて下さる、というのです。

これは、神のご計画のために用いられます。確かに神が受け取って下さり、用いて下さり、益となる豊かな実を与えて下さるのです。確かに、利益の勘定が増やされていく。神の恵みが増し加えられていくのです。

キリスト者は、世の損得勘定ではなく、神の恵みを勘定していきます。その神の恵みは、減ったり、奪われたり、無くなったりせず、いつも満ち足りているのです。
生活の貧しさや豊かさに左右されず、必要が必ず満たされ、キリストの恵みによって、わたしたちの人生は、まことに活き活きと生かされているのです。
そのようにして神が、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、フィリピの教会の人々に必要なものを、またわたしたちに必要なものを、すべて満たして下さるのです。
その歩みは、2章15節にあったように、よこしまな曲がった時代の中で、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ歩みでしょう。暗く絶望に満ちた闇のような世にあって、神に信頼し、神の恵みに生かされ、キリストのまことの希望の光を映し出す者とされて、歩むことではないでしょうか。

キリストの十字架と復活の命に生かされる者は、キリストとの交わりに生き、またキリストを通して隣人とも交わります。もはやキリスト抜きに、自分の生活や人間関係を考えることは出来ません。日常の、損得でしか見つめられないような世の歩みも、そこにわたしたちが神の御心を覚えて歩むのなら、キリストの苦しみにあずかって、恵みも苦しみも共にして歩んでいくのなら、そこには、まことの信仰の交わりが生まれます。そして、神の国を求めて歩んでいく、神の栄光をほめたたえ、神を礼拝する神の民の共同体が、成長していくのです。そのような歩みこそ、神が喜んで下さる、香ばしい香りとなるでしょう。

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