「主は近い」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:詩編 第139編7-10節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第4章2-9節
・ 讃美歌:61、457、479、458
<同じ思いを抱きなさい>
本日は、4章2~7節を中心に聞いていきたいと思います。
フィリピの信徒への手紙は、パウロが牢屋の中から、離れたフィリピの地にある教会の人々に宛てて書いた手紙です。しかし、この教会宛の手紙の中に、本日の箇所では、エボディアとシンティケという、二人のご婦人の名が登場します。この二人は、どうやら仲違いをしていたようで、パウロは「主において同じ思いを抱きなさい」とそれぞれに勧めています。
フィリピの教会にパウロからの手紙が届いた時、みんなが集まってきて、誰かが代表して、大きな声で朗読して読み聞かせたりしたのだろうと思います。
その手紙に、自分たちの仲違いがパウロに知られていて、しかも二人名指しで勧めが書かれているのですから、エボディアとシンティケは恥ずかしい思いをしたかも知れません。この二人の婦人の仲違いの原因が、どのようなものだったのかは分かりません。しかし、彼女たちの争いは教会全体に関係することであり、パウロは、知ったからには見過ごしにすることが出来なかったのです。
彼女たちは、おそらく教会で中心的に働いていた人物であろうと思われます。
パウロはエボディアとシンティケのことを、3節の後半で「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他(た)の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」と書いています。二人は、福音のために、キリストのために、パウロと共に戦った女性たちなのです。キリストに救われ、キリストのものとされ、キリストに自分を献げて生きているエボディアとシンティケです。パウロにとって、神にある兄弟姉妹であり、協力者であり、戦友です。
だからこそ争わず、「主において」、あなたたちを救って下さった「キリストにおいて」同じ思いを抱きなさい、一致しなさい、とパウロは勧めているのです。
人間同士のいざこざや、仲違い、争いは、わたしたちの日常生活で必ず起こってくるものです。そのような時、わたしたちの心には、怒りや、苛立ち、憎しみ、嫉妬、自分を正当化すること、優位に立とうとする傲慢な思い、相手を見下す思い…良くない感情や思いが次々と湧いてきます。それらはあっという間に、わたしたちの心を支配してしまいます。
しかしパウロは、そうではなくて、主において同じ思いとなりなさい、思いを一つにしなさい、と言います。わたしたちが自分の思いを捨て去り、一つの思いになれるのは、主においてのみなのです。
パウロは、この手紙の前の方、2:1以下でもこのことを語っていました。
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
そして、「それは」と言って、キリストのへりくだりが語られ、「互いにこのことを心がけなさい」、つまり、キリストにあることを、あなたたちの心としなさい、と言うのです。
2:6以下には、神の御子でありながら、罪人のために、わたしたちのためにご自分を無にして、人間と同じ者になって下さり、へりくだって、十字架の死に至るまで、神に従順であられたキリストのお姿が語られています。そこまでご自分を低くして、無にして、神の救いの御心に従い、救いの御業を成し遂げて下さったキリストです。
主において同じ思いを抱くとは、共に、このへりくだって下さり、神への従順を尽くして救いの御業を成し遂げて下さった、主イエス・キリストの十字架の御前に立つことです。
そして、共に御前にへりくだり、傲慢な思いや、争いの心を打ち砕かれて、共に神に従順に従う者として立つのです。
そして、もう一つ大切なことは、4:3に「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。」と書かれていることです。
このことをお願いされた「真実の協力者」というのが特定の誰かなのかどうか、よく分かりません。しかし、この「協力者」という言葉は、ギリシャ語では「軛を共にする、結び合わせる」という意味であり、「自分も一緒に取る」ということを意味します。協力者とは、軛を共にして、相手のために労を取り、一緒に重荷を負う者、ということなのです。
つまり、二人の婦人に忠告するだけでなく、どうかこのことを傍観せずに、彼女たちと一緒に軛を負ってあげて欲しい、彼女たちと同じ軛に繋がれて、重荷を一緒に担ってあげて欲しい、とパウロは語っているのです。
教会に連なる一人一人が、共にお一人の柔和で謙遜なキリストの軛につながれ、十字架の死にあずかり、罪の赦しの中を、共に生きています。教会は神に招かれ、救われた者たちの群れです。
しかし、わたしたちは自分のことでいつも精一杯になりがちです。それでもし、群れの中で、重荷に苦しんでいる者を見過ごそうとするなら、自分さえ平安でいればよい、というのなら、そこには、わたしたちの自己中心的な思いが現れてきます。
そうなってしまうと、教会は決して一つの思いになることは出来ません。ですから、この二人の婦人の問題は、教会全体にも関わってくることなのです。
わたしたちは、キリストがわたしの罪の赦しのために架かって下さった十字架の前に立たなければ、互いに低くなって、赦し合うことなどということは出来ません。また、キリストがわたしの重荷を負って下さっているのでなければ、わたしたちは自分の重荷を負い切ることも、ましてや人のために労を取り、他人の重荷を担うことなんて出来ません。
わたしたちの思いには、いつもキリストが中心にいて下さらなければならないのです。
ですからパウロは、教会の人々に、共にキリストの御前に立ち、キリストにあって、思いを一つにしなさい。主において同じ思いを抱きなさい、と勧めるのです。
そして、この4:2で「エボディアに勧め、またとシンティケに勧めます」とある、「勧める」という言葉は、「慰める」という意味もある言葉です。このように共にキリストの御前に立ち、キリストと、兄弟姉妹と共に、喜びも、重荷も分かち合って生きる生き方は、わたしたちに慰めを与えるものなのです。
その交わりは、いつもキリストの赦しと、励ましと、慰めに基づいているからです。
キリストに愛し抜かれたわたしたちが、それぞれ受けたキリストの愛をもって、隣人を愛する者とされていく。互いに真実の協力者となっていく。そうして、教会は、愛に満ち、慰めに満ちた、キリストを頭とする、キリストの体なる教会として、成長していくのです。
<主は近い>
そしてパウロは、4節で「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と続けます。主イエス・キリストにあるならば、そこにはいつも喜びがあります。また、主イエスのもとにしか、わたしたちの本当の喜びはない、とも言えます。パウロはこの手紙が「喜びの手紙」と呼ばれるくらい、何度も何度も、喜びを語ります。
それは5節のところで「主はすぐ近くにおられます」と言われていることが重要なことです。説教題にした「主は近い」というのは、口語訳聖書の書き方です。
さて、この「主は近い」ということには、二つの意味が含まれていると考えられます。
一つは、天におられるキリストが、再び来られる日は近い、ということです。
先ほど、2章のキリストのへりくだりのところを見ましたが、その後半2:9以下は、キリストが高く上げられたことが語られています。へりくだり、陰府にまで下り、救いを成し遂げてくださったキリストを、父なる神は復活させて下さり、天にあげ、あらゆる名にまさる名をお与えになった、とあります。キリストは十字架の御業によってすべての人の罪を赦し、復活して死に打ち勝ち、天に昇り、すべてを支配する権能をお持ちになりました。
この方が再び来られる約束を、わたしたちは与えられています。
3:20には「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」とありました。
キリストが来られるのは、神の国の完成の時、救いの完成の時です。その約束は、決して適うかどうか分からない約束ではありません。すでに御子によってもたらされた神の国のご支配が、その時、完全に打ち建てられます。そして、キリストの復活の出来事を、わたしたちの復活の初穂、復活の保証として、わたしたちの復活をも約束して下さっている。それは確信を持って、希望を持って、待ち望むことができるものです。
今この時も、神のご計画が、その救いの完成に向かって前進しています。主は必ず来られるのだから、神の恵みのご計画の中にわたしたちはいるのだから、その日を待ち望んで、確実に約束された救いの恵みに向かって、ひたすら走っていけるのです。その、主の近さです。
そしてもう一つは、今この時も、まさに、天におられる主イエス・キリストは、聖霊のお働きによって、わたしの最も近くにおられる、ということです。
わたしたちは、苦しみ悩みの時、悲しみの時、そして自分の罪を覚える時、祈ることさえ出来ない時、神が遠く離れておられるのではないかと、感じることがあります。暗闇の中で出口が見えず、深みにはまり、もう自分では身動きが出来ないという時、わたしたちの目は覆われてしまって、自分の殻に閉じこもってしまって、神の御心、神の恵みが見えなくなってしまいます。
わたしたちの心は、まるで自分の状態によって、神に近付いたり、神から離れたりしているように感じます。時には、神が去ってしまわれたのではないか。わたしを捨て置かれて、ご自身を隠されたのではないか、と考えることさえあります。
しかし、そんなことはありません。「主はすぐ近くにおられます」。
誰よりも一番近く、見える助けや、近くにいる人よりも、もっと近くにおられます。たとえ、孤独でいて、見える助け手がいなくても、見えない主は、天におられる復活の主は、聖霊を送って下さり、わたしの最も近くにおられます。
そしてわたしたちは、罪も、苦しみも、すべてを、この方にお委ねして良いのです。
わたしたちが負いきれないこと、耐えきれないこと、悩み、苦しみ、そしてわたしの罪、そのすべてを担うために、この方は御自分を無にして、罪の中にあるわたしたちのところに来て下さり、へりくだり、ご自分をわたしたちに与えて下さいました。神に見捨てられたと叫ぶ、最も神から遠く離れたところへも、主は来られました。神の御子である方が、わたしたちの罪のゆえに「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と十字架上で叫ばれたのです。わたしたちが神から見捨てられたと思ってしまうようなところでも、キリストはすぐ近くにおられ、わたしのために呻き、苦しみ、そして救い出して下さいます。
本日、共にお読みした旧約聖書の詩編には、このように書かれていました。
「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」
神が、わたしたちを見失われることなどありません。神のまなざしは、神の御手は、いつもわたしたちの上にあり、わたしたちを捕えています。神の霊から離れることは出来ません。わたしたちのために遣わされた主イエス・キリストが、わたしたちの最も近くに、共におられます。御業を成し遂げて下さり、天に上げられた今も、聖霊によって、わたしたちの最も近くにいて下さり、救い、導き、慰め、共に歩んで下さっているのです。
だから、わたしたちは主において常に喜びます。主に救われ、主と共に生きることを、喜ぶのです。主がわたしの最も近くにいて下さるという確信の中で、すべてを委ねて、主にあって生かされる、信仰の喜びです。そして、その主が再び来られる、決して失われない希望が与えられている喜びです。主は近いのです。
ですから、パウロは「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と繰り返し言うのです。
<広い心>
そして、この5節の「主はすぐ近くにおられます」の前には、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」と書かれていました。口語訳聖書では「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。」とありました。
そのまま読んでしまえば、広い心をもって人に接しなければ、主が近くであなたの行動を見ておられますよ、という意味にとってしまいそうですが、これまで聞いてきたところで、そのような意味ではないことが分かります。ちなみに、ここの広い心、寛容という言葉は、他人と争わないこと、平和に過ごすこと、温和さ、忍耐深さを表す言葉です。
あなたをすべて赦し、守り、導かれる主が、近くに、共におられるのだから、主に支えられて生きているあなたは、他の人と争うのではなく、むしろ忍耐し、主にあって寛容さを持つことができる。主に罪を赦されたあなたは、主にあって人の罪を赦すことができる者へと変えられていく。罪赦された者として、キリストの赦しの中に生きる者として、広い心を持つことができるのだ、ということです。
そのような広い心が与えられて、世に生かされていくなら、それは、わたしを支えて下さっている主によるものであり、主の恵みを世の人々に知らせることになるのです。
<思い煩うな>
そして、6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と言われています。
「感謝を込めて」祈りと願いをささげるのです。祈り願い、神に求める先から、打ち明ける前から、まず「感謝を込める」のです。
それは、もうすでに神の恵みの中にあるという、確信、信頼があるからです。
わたしたちが求めているものを、一所懸命打ち明けなければ、神はわたしの求めや悩みを聞いて下さらないのではありません。神は、すでにわたしのすべてをご存知です。わたしの苦しみも、悩みも、悲しみも、罪も、すべて知っておられます。そして、必要なものもすべてご存知で、備えていて下さいます。
だからこそ、あなたの神に、あなたの心の中を注ぎ出しなさい、神に祈り願い、すべて打ち明け、知らせなさい、と言われているのです。
神が御言葉によって語りかけて下さり、恵みを注ぎ、そしてすべてを受け止めて下さるのです。わたしたちが祈り願い、求めているものをすべて打ち明けるとは、この神を信頼して、心を開き、その恵みの中に飛び込んでいくということでしょう。
わたしたちは祈ることを通して、神との交わりをますます深めていくことが出来ます。
神の御声を聞き、心を神に向け、神にすべてを打ち明け、神にすべてを求めていく時、わたしたちは神との親しく深い交わりによって、信仰が励まされ、強められ、そして平安が与えられます。それは人知を超える、神の平和です。
「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と7節に書かれています。
神の平和とは、救いによって与えられる平和、平安のことです。
キリストの救いによって、神との関係を回復され、神との交わりに生きることを許されたわたしたちは、人知を超えた、人の思いも知恵も大きく超えた、神の平和の中にいるのです。この世の平和ではない、神のご支配の中にある平和です。
その平和が、わたしたちの心と考えとを、キリスト・イエスによって守って下さる、と言います。この守るというのは、町を見張り、都市の門を守備隊が警護するという意味です。わたしたちの近くにいて下さるキリストによって、神のご支配の中にある平和、平安が、わたしたちの心と考えとを守備し、警護し、守って下さる。
神と共に生きる恵み、喜びを、神ご自身が、キリストが、どんな時も、何があっても、支え、守り続けて下さるのです。キリストにあって、神の平和の中を、歩み続けることが出来るのです。
わたしたちが祈る時、神に心を向けて、すべてを委ね、すべてを求める時、わたしたちはキリストによって、自分がこの神の平和に囲まれており、恵みの中に養われ、守られていることを発見するのです。思い煩わなくて良い、わたしの平和の中で、安心して良いと、神が言って下さるのです。
<主において喜びなさい>
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。
生活の中で、悲しむこと、苦しむこと、悩むこと、争うことがあります。しかし、この世の何者も奪うことの出来ない、神の平和と、主が再び来られる日の希望が、キリストのものとされた者たちの人生の根底には、常にあるのです。日々、キリストに守られ、支えらえれ、この神の平和の中に生かされているのです。何があっても、いつも根本(こんぽん)に、この主における喜びがあります。
そして、その喜びの中で、主の赦しと慰めと励ましの中で、わたしたちも互いに赦し合い、また共に重荷を担う者とされていくのです。キリストの体を共に築いていく者とされていくのです。
ですから今、わたしたちはキリストの御前に立ち、主において同じ思いを抱き、主において共に喜びましょう。主は近い。主はすぐ近くにおられます。