「主の命令によって」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:民数記 第9章15-23節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第6章25-34節
・ 讃美歌:151、463
荒れ野の旅の様子
私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書を読み進めておりまして、今民数記を読んでいます。聖書を通読したことのある方は、民数記というのは、イスラエルの民の部族ごとの人数であるとか、民が行なうべき祭儀のことなどが細かく語られていて、ストーリー性もなく、退屈な書物だというイメージを持っておられるかもしれません。もっとも私がそんなことを言ってしまうと、まだ読んだ事のない方にそういうイメージを先入観として与えてしまうことにもなりかねませんから、言い方には気をつけなければなりません。皆さんには、人の言葉に惑わされずに、ぜひご自分で読んでみていただきたいと思います。民数記には確かに、部族の人数や儀式のことが細かく語られていて退屈に感じられるところがありますが、この書物は基本的には、イスラエルの民が奴隷とされていたエジプトから脱出して、神様の約束の地であるカナンに向けて荒れ野を旅していった、その旅路の様子を描いています。本日ご一緒に読む9章15節以下はまさにそういう所であって、イスラエルの民の荒れ野の旅とはどのようなものだったのかを知ることができる、とても興味深い所です。
イスラエルの民は「幕屋」、つまりテントに住んでいました。テントというのは、たたんで持ち運ぶことができる、ポータブルな住居です。ひと所に定住するのではなく、荒れ野を旅していく彼らに相応しい住まいなのです。その幕屋は家族ごとに建てられますから、民の宿営地には数え切れないほどの幕屋が建ち並ぶことになるわけですが、その中心には特別な幕屋がありました。その幕屋は、主なる神様のご命令によって建てられたもので、神様がイスラエルの民と共に歩んで下さることのしるしとなるものでした。それを建てるようにとの指示は、出エジプト記の第25章以下に語られていました。イスラエルの民はシナイ山で主なる神様と契約を結びました。主なる神様が彼らの神となって下さり、彼らは神様の民とされたのです。その契約の締結に伴って「十戒」が与えられ、さらにこの幕屋の建設が命じられたのです。本日の民数記9章15節の冒頭に「幕屋を建てた日」とあるのは、その幕屋のことです。その幕屋の完成をもって出エジプト記は閉じられています。民数記は出エジプト記の続きであると言うことができます。
この幕屋は、イスラエルの民が主なる神様を礼拝するための場所です。幕屋の一番奥の「至聖所」には、十戒が刻まれている石の板を収めた「契約の箱」が置かれています。そこには年に一度、大祭司だけが入って民全体の罪の贖いの儀式を行います。幕で隔てられたその手前の部屋が聖所で、そこには香を炊く祭壇と供え物のパンをささげる机とが置かれています。祭司たちが通常そこで祭儀を行います。そして幕屋の入口の前には、犠牲の動物を焼いてささげる祭壇が設けられています。民はこの幕屋に来て、捧げものをささげ、犠牲の動物を焼いてささげて、神様を礼拝するのです。主なる神様はその幕屋においてイスラエルの民にご自身を示し、語りかけて下さるのです。それゆえにこの幕屋を「臨在の幕屋」と言います。神様がそこに臨み、民と出会って下さる場所です。イスラエルの民は、この臨在の幕屋を中心にして、神様の民として荒れ野を旅していったのです。
幕屋を覆う雲
この幕屋が建てられた日のことが15節に語られているわけです。そこをもう一度読んでみます。「幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた」。「臨在の幕屋」が「掟の天幕である幕屋」と言われているのは、十戒を収めた箱が至聖所に安置されているからです。その幕屋が完成した日、雲がこの幕屋を覆ったのです。このことについては、出エジプト記第40章34、35節にはこのように語られていました。「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである」。ここに語られているように、雲が幕屋を覆ったというのは、主の栄光がそこに満ちたということです。そして主の栄光が満ちるということは、主ご自身がそこにおられるということです。つまりこの雲は、主なる神様がそこに来て下さり、臨在して下さっていることの印なのです。このように、神様がそこにおられることの印として雲が登場する箇所は旧約にも新約にもあります。雲は神様のお姿を隠す働きもします。人間は罪と汚れを負っていますから、神様の栄光のお姿を直接見ることはできません。それが雲に覆われ、隠されることによってこそ、神様の前に立つことができるのです。雲が神様の臨在のしるしとして用いられるのはそのためです。幕屋が雲に覆われたことも、神様ご自身がそこに来て下さり、民と共にいて下さることの印なのです。
雲と火
そしてこの雲は、幕屋が建てられたこの日からずっと、常に「臨在の幕屋」を覆ったのです。16節には、「いつもこのようであって、雲は幕屋を覆い、夜は燃える火のように見えた」と語られています。この雲は時々かかるのではなくて、臨在の幕屋が建てられている間はいつもそれを覆っていたのです。そしてその雲は夜は燃える火のように見えたとあります。普通の雲なら夜になれば見えなくなりますが、この雲は夜は燃える火のように輝いたのです。つまりイスラエルの民は昼も夜も、この雲をいつでも見ることができたのです。そのことを出エジプト記40章38節はこのように語っています。「旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである」。この、イスラエルの家のすべての人に見えた、というところが大事です。宿営の中心にある臨在の幕屋が、常に雲によって覆われており、それが昼も夜も見える、そのことによってイスラエルの民は、主なる神様がいつも自分たちと共に歩んで下さっていることを目に見える仕方で知ることができたのです。
主の命令のしるし
そしてこの雲は、イスラエルの民の荒れ野における旅を導くものでもありました。17節に、「この雲が天幕を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営した」とあります。臨在の幕屋を覆っている雲がそこを離れて昇ることが、出発の合図でした。雲が幕屋を離れて昇ると、人々は自分たちの幕屋をたたみ、そして先月読んだ所に語られていたレビ人が臨在の幕屋を解体して荷造りし、その所を出発するのです。向かう方向は、幕屋を離れて昇った雲が向かう方向です。その雲についてイスラエルの全部族は移動していきます。そしてその雲が動きを止める時、そこに宿営する、つまりそこでそれぞれの天幕を張り、臨在の幕屋を組み立てるのです。次に雲が臨在の幕屋を離れて昇るまで、そこが彼らの宿営地となるのです。このようにイスラエルの民の荒れ野の旅は、臨在の幕屋を覆うこの雲によって導かれていたのです。18節にはそのことがこう語られています。「イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した」。雲の動きに従って旅立ち、宿営したのは、いわゆる雲行きをながめながら、自然現象に応じて人間が歩みを決めていたのではありません。彼らは、「主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した」のです。神様の臨在のしるしである雲は、神様の「出発せよ」「留まれ」というご命令を表すものでもあったのです。昼も夜も見えたあの雲は、主なる神様がいつも共にいて下さるという恵みのしるしであると同時に、その主なる神様の命令を知るためのしるしでもあったのです。それがイスラエルの民全体にいつでも見えていました。主の命令にすぐに従って行動を起こせるためです。
信仰をもって生きるとは
「主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営」するイスラエルの民の旅は、信仰をもって生きる私たちの生活を象徴的に表していると言うことができます。神様を信じるとは神様に従って生きることであり、私たちはその信仰において、「主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営」するのです。神様が約束して下さった地を目指して荒れ野を旅していくイスラエルの民の歩みは、神様が約束して下さっている終りの日の救いの完成、復活と永遠の命を目指してこの世を生きていく私たちの信仰の歩みと重なります。ですからイスラエルの荒れ野の旅の様子を語っているこの箇所は、信仰をもってこの世を生きるとはどういうことかを私たちに示してくれている、と言うことができるのです。この箇所は私たちに、信仰をもって生きることについてどのようなことを教えてくれるのでしょうか。
主の命令によって出発し、宿営する
18節の後半にはこのようにあります。「雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた」。雲が幕屋の上にある限り、イスラエルの民はその場に留まり、出発しなかったのです。このことをさらに詳しく語っているのが19節以下です。19~22節を読んでみます。「雲が長い日数、幕屋の上にとどまり続けることがあっても、イスラエルの人々は主の言いつけを守り、旅立つことをしなかった。雲が幕屋の上にわずかな日数しかとどまらないこともあったが、そのときも彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。雲が夕方から朝までしかとどまらず、朝になって、雲が昇ると、彼らは旅立った。昼であれ、夜であれ、雲が昇れば、彼らは旅立った。二日でも、一か月でも、何日でも、雲が幕屋の上にとどまり続ける間、イスラエルの人々はそこにとどまり、旅立つことをしなかった。そして雲が昇れば、彼らは旅立った」。雲が臨在の幕屋を覆っている期間は、短いこともあれば長いこともありました。「二日でも、一か月でも、何日でも」とあります。短い時には、「雲が夕方から朝までしかとどまらず、朝になって、雲が昇る」ということも、つまり一晩しか同じ所に留まらないこともありました。長ければ一か月同じ所に留まり続けることもありました。しかし同じ場所での滞在がどんなに長くなっても、雲が昇らない限り彼らはそこに留まったのです。「もうこの場所も随分長くなったし、そろそろ新たな地に向かって出発する潮時ではないか」という人間の思いによって旅立つことはしなかったのです。そしてまた、雲がたった一晩しかそこに留まらない時にも、「もう少しここに腰を落ち着けて滞在した方がよいのではないか」という人間の思いによって滞在を伸ばすことはしなかったのです。それが23節にも繰り返されている「主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った」ということの内容なのです。
留まる信仰
ここに、私たちが信仰をもって生きるための大事な教えがあると言えるでしょう。信仰をもって生きるとは、主の命令によって宿営する、つまり主が留まれとお命じになる所にしっかり留まって生きることです。それは住んでいる場所だけの話ではありません。与えられている立場、職業やそれ以外の様々な働きにおいても、あるいは人間関係においても、さらには所属する教会においても言えることです。今自分に与えられている立場や仕事、奉仕、人との関わり、そして教会、それらを、神様が与えて下さっているものとして、神様が自分を今召して与えて下さっている使命として、神様がそこへと自分を遣わして下さっている場として捉え、そこにしっかり留まるのです。留まる、というのは、ただそこにい続ける、動かない、ということではありません。そこでなすべきことをしっかりと責任をもって背負うということです。あるいはそこでの人間関係、人との交わりを大切にする、ということです。イスラエルの民は荒れ野を旅していきました。旅していくということは、遅かれ早かれその地を去っていくということです。今留まっている場所は、旅の途上の経由地であって、故郷でもなければ目的地でもないのです。私たちの信仰生活も同じです。私たちは、神様が約束して下さっている神の国、救いの完成を目指してこの世を旅しています。この世は私たちにとって故郷でもなければ目的地でもありません。「私たちの本国は天にあります」という、フィリピの信徒への手紙第3章20節の言葉はそういうことを語っています。私たちの地上の人生は、その本国である天に向かう旅であって、人生における全てのことは、やがてそこを去っていく途上の歩みなのです。しかしそれは、この世における人生に対して、地上において与えられている働きや人間関係に対して、私たちがいいかげんでよい、無責任であってよい、ということではありません。荒れ野の旅において、神様がイスラエルの人々を、時としてかなり長い間一カ所に留まるようになさったのは、たとえそこが荒れ野であり、決して住みやすい所ではない、長く滞在したいと思うような所ではなかったとしても、そこでの生活をおざなりなものとし、自分でさっさと見切りをつけて新しい所に移ろうとするのではなく、その場所での生活をしっかりと築いていくことを彼らに教えるためだったと言えるでしょう。私たちが生きているこの世も、基本的に荒れ野です。楽園のように住みやすい、暮らしやすい所ではありません。本当に安心して生きることができる場ではないし、いつどんな苦しみや悲しみが襲ってくるか分からない、心配の種は尽きないのです。しかし神様は、そのような荒れ野を生きている私たちが、それぞれに与えられている人生を精一杯誠実に歩み、与えられている使命を果たし、隣人との関係を築いていくことを求めておられるのです。しばらくすれば去って行く旅人ではあるけれども、今のこの時の働きと人との関わりをおろそかにせず、大切にして生きることが、主の命令によって宿営する信仰者のあるべき姿なのです。
旅立つ信仰
しかしまた同時に、信仰をもって生きるとは、主の命令によって旅立つことでもあります。イスラエルの民の荒れ野の旅においても、例えば泉があったりして、暮らしていくのによい場所もあったでしょう。いっそのことここにずっと定住した方がよいのではないか、と思うことだってあったかもしれません。少なくとも、もうしばらくここにいたい、と思うことはあったでしょう。先程述べたように、主の示しによってある場所に比較的長く留まることになった場合、そこでの暮らしに慣れてきて、住めば都となり、天幕をたたみ、家財道具の全てを背負って歩いていく旅にはもう出たくない、と思ったこともあるでしょう。しかし彼らは、雲が上るという主の示しがあったら、その場所への、そこでの生活への一切の思いを断ち切って直ちに旅立ったのです。つまり彼らは、どんなに長く一カ所に留まっていたとしても、自分たちが約束の地へ向けて旅している者であることを常に意識していたのです。これもまた、信仰者として、神様に従う者として生きる上で大事なことです。信仰者は、この世に、この地上に、故郷、安住の地、目的地を持ってはいないのです。この世を生きる限り、常に旅の途上にあるのです。住む場所も、働き、使命も、人間関係も、連なる教会も、私たちがここを「終の住処」と定めることができるものではありません。主のご命令があれば、私たちは今置かれている場から旅立って、新たな地へと、新たな働き、新たな人間関係へと、新たな教会へと、出発していくのです。それこそが、自分を主人として生きるのでなく、神様に従って生きるということです。「信仰の父」と呼ばれるアブラハムも、七十五歳にして、神様からの召しを受けて、行き先を知らずに旅立ちました。主の命令によって旅立ったことによって、彼は神の民イスラエルの先祖となったのです。主のみ心が示されれば、いつでも今の所を去って新たな地へと旅立っていく、信仰者とは、そういう身軽さをもって生きる者です。どうしてそのように身軽に生きることができるのかといえば、それは、自分の人生の目的地はこの地上にあるのではなくて、主なる神様が恵みによって約束して下さっている救いの完成こそが目的地だと知っているからです。この地上のどんなに素晴しい生活よりもはるかに素晴しい、神様のみもとでの永遠の命を、神様が約束して下さっているがゆえに、私たちは、この地上において住んでいる場所が、そこでの生活が、人間関係が、連なっている教会が、どんなに素晴らしい所であったとしても、そこから新たに旅立つことができるのです。
主イエスの旅立ちと宿営によって
私たちが救いの約束を信じて、この世の事柄を大事にしつつも、それに捕われずに身軽に生きることができるのは、主イエス・キリストが旅立って下さったことによってです。主イエス・キリストは神様の独り子であられましたが、父なる神様のご命令に従って、父のもとから旅立ち、この地上へと、人間の歴史の中へと降って来られました。父のもとでの栄光を放棄して人間となり、私たち罪人の救いのために、荒れ野のようなこの地上に宿営し、そこで生きて下さったのです。その地上の生活において主イエスは私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死を味わって下さいました。この主イエスの苦しみと死とによって、神様は私たちの罪を赦して下さり、私たちをも神の子として下さったのです。そして父なる神様は、十字架にかかって死なれた主イエスを復活させることによって、死の力に勝利して下さり、私たちに、復活と永遠の命という約束の地を示して下さったのです。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって私たちは、神様が約束して下さったこの救いの完成に向かって、この世を旅していく者とされたのです。この救いを信じる私たちは、主イエスが父なる神様の命令に従ってこの世を生きて下さったように、この地上における人生を、そこにおいて自分に与えられている使命や人との関わりを大事にして、そこにしっかりと留まって生きることができます。そして同時に、主イエスが父のもとを旅立って十字架の死に至るこの世の人生を歩んで下さったように、主の命令とあらばいつでも、どこからでも新しく旅立つことができるのです。私たちは主イエスによる救いの恵みによってこの地上の一切の事柄から自由にされて、旅立つことができます。人生の終わりには、この世そのものからも身軽に旅立つことができるのです。
思い悩むな
先程共に朗読した新約聖書の箇所は、マタイによる福音書第6章25節以下です。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と語られています。この世の事柄、人生の様々な心配ごとによってくよくよせずに、神様を信頼して歩めという主イエスの教えです。なぜそのようにくよくよ思い悩まずに生きることができるのか、それは、暢気な性格だからとか、思い悩んでもどうしようもないことはどうしようもないのだ、と一種のあきらめの境地に達するからではありません。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあながたがたに必要なことをご存じである」とあります。独り子の主イエスを私たちのために遣わして下さった神様が、私たちのことをも子として愛して下さっており、私たちに本当に必要な救いを与えると約束して下さっているのです。その神様の恵みのみ心を信じて、何よりもまず、神の国と神の義とを求めていく、そのように神様を信頼して生きるところに、「主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営する」という歩みが実現するのです。そこにこそ、様々なこの世の事柄による思い悩みから解放された、身軽な歩みがあります。「主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営する」信仰者の歩みとは、主イエス・キリストによる救いの恵みに信頼して、明日のことを思い悩まず、主のみ心に委ねて、与えられた一日を喜んで、積極的に、忠実に生きることなのです。