夕礼拝

天にかけて誓う者

「天にかけて誓う者」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: エゼキエル書 第20章33-38節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第23章13-24節  
・ 讃美歌:98、156、72

幸いと不幸
 本日は、ご一緒にマタイによる福音書第23章13節から24節の御言葉に耳を傾けたいと思います。この第23章から第25章までの3つの章に渡り、主イエスが地上の生涯で語られました、最後の主イエスの説教が語られております。それは、ちょうど主イエスが、地上の伝道の生活をお始めになったところで、同じマタイによる福音書の第5章から第7章に「山上の説教」が記されているのと対応しています。マタイによる福音書はそのことをはっきりと意識して書き記されています。山上の説教の冒頭には、主イエスが語られた、8つの幸いについての教えがあります。マタイによる福音書第5章3節以下をお読みします。お聞き下さい。「心の貧しい人々は幸いである。~天には大きな報いがある。」(3節~12節)これらの整然とした「幸いである。」という主イエスの8つの教えとそのまま対応しているのが、本日の箇所である23章の13節以下の主イエスの厳しいお言葉です。13節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」15節も同じように「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」とあります。16節は「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。」とあります。23節も同様に「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」とあります。主イエスはこのように、律法学者、ファリサイ派の人々のことを「偽善者」と呼び、厳しく批判をしています。そして、これらの言葉、本日の箇所の一連のこれらの「不幸だ。」というのは、山上の説教の一連の「幸いである。」に対応しています。

幸い、祝福、命の道
 これらのマタイによる福音書の「幸いである」と「不幸だ。」という対比は一体、どのような意味を持つのでしょうか。旧約聖書の申命記30章15節以下のところに次のように記されています。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法とを守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主はあなたが入って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。……わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたたちの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。……」この箇所は聞き取れることは、「幸いである」というのは祝福であり、祝福とは命ということです。それに対して、「不幸だ」というのは、祝福とは正反対の災いであり、呪いであり、死に他なりません。このように祝福と災い、幸いと不幸、命と死とが、神の民イスラエルの前に置かれており、それらを前にして命を選ぶように、祝福の道を選ぶように勧められています。マタイによる福音書もまた主イエスを中心として、これらの2つのはっきりとした道、幸いな道と不幸な道、祝福の道と呪いの道、生と死とを提示して、私たちに命の道を歩めと、勧めているのです。主イエスの勧められる道を選ばなかった者が、律法学者、ファリサイ派の人々です。災いであり、不幸なのです。主イエスはそのような、律法学者、ファリサイ派を批判しています。

偽善者の不幸
 13節をお読みします。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」とあります。ここで、律法学者、ファリサイ派の人々に対して不幸だと言われている一連の言葉は、16節のところだけを別としてその他の所はすべて「あなたたち偽善者は不幸だ」となっています。つまり、律法学者、ファリサイ派の不幸はすべて、「偽善者の不幸」なのです。偽善者というのはどのような人々のことでしょうか。偽善者という言葉には元来、俳優という意味があります。俳優は演技をする人々です。人に見せるために演技をするということです。信仰の世界で演技をしている人々というのは、本気で信仰的には生きてはいないということです。神様のことを考えて、神様への信仰を大事にして、行動しているように見せかけてはいるが、実は、自分が人からどのように思われているのかを考えて、計算して生きているということが、その演技の内容です。神様のことを考えているような演技をして、実は自分のことを考えていることが、偽善者、信仰の演技者、俳優という意味なのです。そのような姿が不幸なのであり、命の道ではなく、死を選んだ者の姿です。ここでは、そのような信仰の俳優が「人々の前で天の国を閉ざす。自分で入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」と非難されています。天の国とは、神様のご支配を現します。神様のご支配の下に生きること、救いということです。「人々の前で天の国を閉ざす」とは人の救いを妨害するというわけです。律法学者もファリサイ派も当時のユダヤ教の指導者でした。その指導者たちの教えることは人々から信頼されるのは当然のことです。ところが、彼らが教えるその教えによって、人々が天の国に入るのをかえって妨げてしまうということです。自分たちが誤った教えを信奉することによって天の国に入れないのは、仕方がないにせよ、指導者である律法学者、ファリサイ派である彼らの教えを信頼したばかりに、天の国に入ることまで妨げられるとすれば、それは何と災いなことでしょうか。主イエスはそのような不幸をもたらす彼らこそ、不幸の根源だというのです。

信仰の目
 15節をお読みします。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。」その当時の律法学者やファリサイ派はそれは熱心な人々でした。彼らは一人の改宗者を得ようとして、海でも陸でもあらゆる所を巡り歩いて、決して惜しむことはないほど熱心でした。ここで、熱心さがいけないということではありません。熱心さはとても大事なことです。その熱心さによって、どのような方向に導くのかということが問題なのです。改宗者がでると、自分より倍も悪い地獄の子にするような熱心さが不幸なのです。続けて主イエスは言われます。16節「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。」このものの見えない案内人というのは、身体的な障害があるということではなく、肉体の目は見えているが、しかし、その閉じられていて、決して見てはいないのであり、肉体の耳は確かに音を聞いているが、その耳は遠くなっていて聞くべきものを聞いていないことが指摘されています。身体的な問題ではなく、信仰的な次元で、霊的な次元な事柄です。信仰的には、霊的には見えないのに、あたかも見えるかのように振る舞って、人々を救いではない、誤って導いている不幸がここでは問題になっている不幸の実態なのです。それは一体、具体的にはどのようなことなのでしょうか。16節です。「あなたたちは『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う」とあります。主イエスは具体的な実例をあげて、彼ら律法学者やファリサイ派の人々の霊的洞察力が欠けていることが指摘されます。ここで、問題とされているのは「誓う」「誓約する」ということです。旧約聖書の民数記第30章には、この誓約、誓願の規約が出ています。そこにはたとえば、「人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない」とあります。イスラエルの社会において、誓約は破ってはならないと考えられていました。そこで、長い生活の知恵の中から彼らは出来そうもないような誓いは始めからしないでおくようにして、必要最低限度の誓いだけをするようにしたのです。消極的に誓いを立てると大変なことになるから、誓いを立てること自体をしないようにするというのでもなければ、また積極的に頑張って立てた誓いの内容を破らないように実行するということをすすめるのでもなく、その中間の道を考えだしのです。主イエスの御言葉にはそのようなことが反映されています。それは、何に対して誓約をするのかということによって、誓約の拘束力が変わってくるという考えなのです。主の御名によって誓うことは明らかに破ってはならない誓約でしたが、言葉を換えるとそれ以外の誓約は破ってもいいものだというのです。誓約の際に何に対して誓うのかという誓いの重さは、この神の御名からの距離によって違ってくるのであって、主の御名よりも供え物が軽く、供え物よりも祭壇が更に軽く、神から隔たるに従って誓いの拘束力は弱くなると理解されているのです。当時の律法学者やファリサイ派の人々は、たとえば神殿にかけて誓うことと、神殿の黄金にかけて誓うのとの間に差を認めて、神殿にかけてなされる誓約は無効であるが、神殿の黄金にかけてなされる誓約はそれを果たさなくてはならないと教えたのです。つまり、何とかして責任を軽減するためには神殿の黄金ではなくて神殿にかけて誓えば良いというわけなのです。主イエスはこのことを厳しく批判されました。「愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。」主イエスは霊的な洞察力の欠如を厳しく批判されます。黄金の方がその黄金を清める神殿よりも重んじられるというのは、まったく本末転倒であって、何が大切かということに対する霊的な、信仰的な洞察力が欠けていることを示しているのです。律法学者、ファリサイ派は人々の指導者として、そのような本末転倒の教えを人々に教え、誤らせることの不幸がここで指摘されているのです。

誓い
 そして、主イエスはもう1つ具体例を挙げておられます。この実例も先のと似ているものですが、「また『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。」彼らは誓いを立てる場合に祭壇にかけて誓えばそれは無効であり、祭壇の上の供え物にかけて誓ったものはこれを果たさなくてはならないと教えていました。従って、守れそうもない誓約は祭壇にかけて誓えば、万が一それを守れなくてもそれを破棄できると考えたのです。「ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。」このようないわば、姑息な手段で誓いを無効にしょうと願うことは、霊的な洞察力が欠けていることを暴露することになるというのです。主イエスは問われます。一体、供え物と、その供え物を清くする祭壇とどちらが尊いのか。言うまでもなく、清くする祭壇の方が尊いと言わなくてなりません。その祭壇にかけて誓う誓いが無効であって、たとえ、それが破られても、問題ではないと考えることは大きな間違いであるのです。供え物にかけて誓うことが守れなくてならないのであれば、まして、それよりも尊い祭壇にかけて誓う誓約は守られなくてならないのに、そのことを洞察することができない律法学者、ファリサイ派は「ものの見えない者たち」なのです。祭壇にかけて誓う者は、その上にある一切にかけて誓うことになるのであり、神殿にかけて誓う者は、そこに住んでおられる神様にかけて誓うことになるのであり、天にかけて誓う者は、神の玉座とそこに座っておられる方、神様にかけて誓うことになるのであって、いずれの場合にも、神にかけて誓うその誓いが、重要な意味をもつことがここで示されています。祭壇だからとか、神殿だからとか、神殿だからとか、天であるからと言って、それを破ってもゆるされると考えたり、教えたりすることは、まったく誤りであるということがここで明らかにされています。何が本質的に重要なことなのでしょうか。本質的なことを見抜くことができない、霊的な洞察力を欠く者は、特に指導者として多くの人を惑わすことを考えるときに災いだと言わなくてはなりません。人々の救いを妨げる、人々に正しい選択を決断することを妨げるからです。誓約と言う事柄についての主イエスの姿勢は、既にマタイによる福音書5章33節以下のところで明らかにされています。それは「一切の誓いを立ててはならない。」ということでした。律法学者やファリサイ派の人々が言うように、守らなくてもよい誓いなどというものは有り得ません。どのようなものにかけて誓う誓いも、神様にかけて誓うことになるのです。ですから、人間が神様にかけて誓うことなど出来ないので、一切を誓うことをしてはならないというのです。人間は神様の御前で、造られたものであり、限りある存在です。そして、神様は限りない力をお持ちのお方です。そうして、「あなたがたは『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」と主イエスが言われているように、その時、その時において最善を尽くすことが大切なのです。ところが、律法学者、ファリサイ派は、謙虚に、人間の有限性を認めるのではなく、誓いの内容を適当に割引して考えるということを教えています。そのごまかし、不誠実さが主イエスによって厳しく批判されています。何とか、誓いを果たさないですませたいと願う策略ですから不誠実ということになります。このことが信仰的な、霊的な洞察力の欠如、目が見えていないということです。そのような人が指導者として人々を誤って導く事が災いだと言われているのです。

本来の意味
 本日の主イエスの厳しい御言葉は一体、私たちにどのようなことを語りかけているのでしょうか。霊的な洞察力、信仰の目をもって、また神様の御名によって誓いを立てるとはどういうことでしょうか。表面的な見せ掛けに惑わされず、物事の真相、本質を洞察する、見抜く力、霊的な洞察力、信仰の目をもって、日々の生活を送っているかどうか、大切な問題であると思います。
 霊的な洞察力、信仰の目は神様が与えて下さる洞察力です。神様は聖霊なる力によって、私たちにそのような洞察力、信仰の目を与えてくださいます。
 23節には「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。」とあります。 ここではまず、十分の一を献げると言う問題です。旧約聖書のレビ記27章30節節以下には土地から取れる収穫とか、牛や羊などの家畜の十分の一は主のものであるから、それを聖別して主に献げなければならないと規定されています。その十分の一によって、神殿で奉仕する祭司やレビ人が生活を支えられ、貧しい人々に施しをするためでした。言い換えますと、この十分の一の捧げものは、イスラエルが共同体として生活をするための規定であったのです。ところが、この規定を共同体としての生活と言った基本から外れてしまい、形式的な規定になってしまったことがここで問題になっているのです。

主イエスの眼差し
 薄荷とは、ミドリハッカ、ガーデンミントだといわれています。いのんどと、ういきょうはその香り高い実を調味料や薬としたものです。このようなものは、日常生活に於いて、どうしもてもなくてはならないような必需品ではありません。基本的なものではなく、周辺的なものです。私たちの業は、「人に見せるため」という偽善に陥ってしまうのです。主イエスはそのような人間の姿に厳しく言われます。そして、そこには主イエス・キリストの深い悲しみと嘆きがあります。深い悲しみと嘆きと同時に、それは主イエスの私たちに対する深い憐れみと同情です。その憐れみと同情によって主イエスは、私たちのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。繰り返し、偽善に陥っていく私たちを見つめる主イエスのまなざしは、決して、「おまえたち偽善者は呪われて滅び去れ」という断罪のまなざしではありません。主イエスは深い嘆きと悲しみをもって、そして憐れみと同情をもって、私たちのことをいつも見つめていて下さるのです。
 私たちはこのような主イエスの眼差しのもとを生きております。そのように、信じるのが私たちの信仰です。そして、主イエスのまなざしの中で生きる時に、人の目、人の評価を気にして生きる偽善からも解放されます。人の目を気にする偽善からの解放は、ただ、人の目を気にするのはやめて、神様の評価のみを求め、神様が見ていて下さることを覚えて歩もうと決意することによっては得られません。神様がどういう目で私たちを見ておられるのか。私たちは不安に覚えます。どうしても人の評価が欲しくなるのです。神様は私たちのことをどのような目で見ておられるのか。それが、主イエス・キリストにおいて示されています。主イエスの、深い嘆きと悲しみと憐れみのまなざし、私たちのために十字架の死を引き受けて下さったそのまなざしこそ、神様が私たちを見つめておられる目なのです。神様は、その独り子を、罪と偽善にまみれた私たちのためにこの世に遣わし、その十字架の死によって私たちを赦し、新しく生かして下さいます。主イエスの十字架の贖いを通して私たちを受け入れて下さっているのです。この神様の恵みのご支配、天の国です。私たちは、主イエスによる神様の恵みのまなざしの中で、天の国を生き始めるのです。

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