「祈りの家」 副牧師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: イザヤ書 第56章1-8節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第21章12―17節
・ 讃美歌 : 11、464
それから
私たちはただ今主イエス・キリストを礼拝する場所へと招かれています。1週間のそれぞれの歩みを守られ、そして主イエスの元に再び招かれました。本日の箇所は「それから」と始まります。「それから」というのは、その直前の箇所に記されている出来事を受けています。この直前の箇所の小見出しには「エルサレムに迎えられる」とあります。主イエス・キリストがそのご生涯の最後にエルサレムに迎え入れられた出来事が記されています。主イエスの「エルサレム入城」の箇所を前回はお読みしました。主イエスの地上の最後の1週間、いわゆる「受難週」が始まりました。群衆は、主イエスに対して「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と叫びました。主イエスは人々の歓喜の声、賛美の歌声に迎えられました。主イエスがエルサレムへ入られた「それから」の出来事が本日の箇所に記されています。まず主イエスは神殿の境内に入られました。「神殿」とは当時のエルサレム神殿です。この神殿はヘロデ大王によって建設された壮麗な神殿です。ヘロデは今日までも残る多くの建造物を建てました。その神殿の特色の1つは神殿の中に柱廊(ちゅうろう)に囲まれた広い庭を造ったことです。その神殿の境内の広い庭は「異邦人の庭」と呼ばれており、その庭まではユダヤ人はない異邦人も入ることが許されている場所でした。異邦人たちはこの庭に入ることが許され、ここで主なる神様を礼拝していました。主イエスはその場所に入られ、私たちにとって驚くべき行動を取られました。
礼拝の場
12節ですが主イエスは「そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。」(12節)と記されています。驚くべき主イエスのお姿です。私たちが普段イメージしている穏やかな優しい全く異なる主イエスのお姿です。この神殿の境内で人々が「売り買い」していたとあります。また「両替人」「鳩を売る者が」が登場します。この神殿の境内は異邦人にとって礼拝の場でありますが、そこで商売がなされていたということです。「両替人」は一般にお金を神殿に献げるために特別なお金に両替するためのお店にいる人です。「鳩を売る」というのも犠牲として献げる鳩を売っているのです。これらの商売はすべて、礼拝のために必要なものなのです。礼拝が礼拝として行われるために必要な商売です。けれども、その礼拝は異邦人のための礼拝ではなく、ユダヤ人たちのための礼拝です。ユダヤ人たちがここで両替をして、鳩を買って、そして神殿の中で礼拝をします。その神殿の中にはユダヤ人しか入ることができません。異邦人は入れないのです。ユダヤ人たちのみが入れる場所で礼拝をするのです異邦人たちは、この異邦人の庭で神を礼拝します。異邦人たちが礼拝をする場所において、ユダヤ人の礼拝のための商売がなされているのです。主イエスはそのことに怒りを覚えられ、人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたのです。
強盗の巣
主イエスは「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」と言われました。主イエスにとって「わたしの家」とはここで言う、神殿、主の神殿です。主の神殿は「祈りの家」と呼ばれるべきであるということです。祈りとは、主なる神様に心を向け、神様との交わりです。そして、祈りを通して、神様の御心に耳を傾け、主イエスの御声に従っていくということがここで起こらなければならないということです。神殿とはそのような祈りの場、神の御心に聞き従う礼拝の場でなければならないのです。主イエスは「ところが」と付け加え「あなたたちは それを強盗の巣にしている。」と厳しく言われました。主なる神様への礼拝、祈りがなされる場を「あなたたち」は「強盗の巣」にしているというのです。強盗の巣にするとは即ち自分の欲望を満たすことだけを考えているということです。主イエスは「強盗の巣」と言う表現を使われて、自分の欲によって、人を傷つけ、人のものを奪い取り自分のものとする、と礼拝の場もそのような場となっていると言われるのです。
祈りの家
この主イエスのお言葉について少し考えて見たいと思います。この主イエスのお言葉は旧約聖書の預言書の言葉から取られています。1つはイザヤ書の第56章7節の「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という言葉です。もう1つはエレミヤ書の第7章11節の「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目には強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」という言葉です。本日は共に読む旧約聖書の箇所として先ほどのイザヤ書第56章1節から11節をお読みしました。その箇所の小見出しには「異邦人の救い」と付けられています。3節にはこのようにあります。「主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」とあります。異邦人や宦官が神の安息日を常に守り、神様の望んでおられることを行ない、神の契約を固く守るならば、神は彼らにとこしえの名を与え、記念の名を「わたしの家、わたしの城壁に刻む」からなのです。その上で「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と述べられているのです。イスラエルの民は自分たちだけが神の民であるという特権意識を持っており、自分たちこそ神を礼拝していると考えておりました。けれども主なる神は預言者を通して神はユダヤ人、異邦人、宦官でも神の御心を祈り求めつつ生きるのであれば、神の家において永久に記念され、「わが民は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と言われたのです。イスラエルの民だけではなく、すべての民の祈りの家が神殿です。またその神殿は私たちにとっては教会なのです。
主の神殿
更に先ほどはエレミヤ書第7章にも触れましたが、エレミヤ書の言葉は神殿の門で語られている言葉です。11節ですが、「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目には強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」とあります。預言者エレミヤは大勢の人々が礼拝に集まる様子を見ながら語ります。神の名によって呼ばれる神殿が、お前たちの目には敬虔な祈りの場所ではなく、強盗の巣窟のように見えるのか、その通り、わたしにもそう見えるのだ、と言っています。そこでは、人々は少しも主なる神様の御心を祈り求めず、従って生きようとはしないのです。ただ形だけは信仰深い装いをしているように過ぎないのです。預言者エレミヤは叫びます。エレミヤ書第7章4節から6節ですが「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」そして11節で、「この神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。 」とあります。エレミヤは宗教的な行事は盛大に行なわれているが、主なる神様の御心は行なわれておらず、この神殿が強盗の巣窟になってしまっていると語るのです。神殿に来て、礼拝をし、救われたと言っている人々が、一方で「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、」普段の生活をしているということです。一方で盗み、殺し、姦淫し、偽りの誓いを立て、主なる神ではないバアルの神々に香を炊き、そして主なる神様への礼拝しに神殿に来るのです。それは祈りの家の姿ではありません。「強盗の巣」であると言われます。自分たちの欲望、願いをかなえるための手段としての礼拝をしているということです。自分たちはいかにも神に対して信心深いのだと自認しているユダヤの人々の偽善に主イエスは怒りを覚えられたのです。預言者エレミヤは当時の人々の礼拝に厳しい警告を与えました。本当に礼拝が礼拝となっているか、神様に御心を問う祈りとなっているか、人々に問うているのです。主イエスもまた、この時代の人々に、そして主イエスの御言葉を聞く私たち一人人に問われます。私たちの礼拝は礼拝となっているか、本物なのか、自分の願いのための礼拝、祈りの場となっていないだろうか、と問われます。主イエスは怒りを覚えておられます。私たちの考える主イエスのお姿とは全く違う、厳しい眼差しを向けておられます。そして、それもまた主イエスのお姿です。私たちを愛するがゆえに、厳しく問われるのです。主なる神様を礼拝するのが、信仰者の歩みです。その礼拝が真実になされているか、礼拝者として、礼拝の場から遣わされた場所に、どのように生きているか、主イエスは厳しく問われます。
腹を立てる
そして、続けて境内で主イエスのそばに「目の見えない人や足の不自由な人たち」が寄って来ました。主イエスはこれらの人々をいやされました。14節から16節にかけての出来事はマタイによる福音書のみに出て来るものです。これまで、何度か主イエスが人々を癒されるという奇跡を見てきました。ここでもまた体に障害を持った人の癒しの奇跡が行われています。旧約聖書には体に障害がある人は主なる神様の前に出て礼拝できないということが書かれています。ここに出て来る目の見えない人、足の不自由な人は完全な形で礼拝を守ることは出来なかったのです。このような人々もまた、異邦人の庭までしか入ることができませんでした。それ以上は入ることが出来なかったのです。主イエスはそのような人々を癒されました。主イエスがそのような人々を癒されたというのは、彼らが礼拝を守ることができるようにして下さったということです。礼拝できなかった者を主イエスが礼拝者として下さったのです。 そして、この主イエスの御業を見た祭司長、律法学者の行動が描かれています。祭 司長とは神殿の礼拝の最高責任者です。また律法学者はイスラエルの民の信仰の指導 者です。15、16節にありますように、この神殿の境内で、子供たちが、「ダビデ の子にホサ叫んで主イエスをほめたたえていました。子供というのも、当時の社会で は数に入れられていない、人間扱いされていなかった者たちということです。そのよ うな子供たちが、主イエスを、ダビデの子、救い主としてほめたたえている、讃美し ています。その讃の声を聞いた、祭司長、律法学者たちが腹を立てました。神殿の最 高責任者である祭司長と、イスラエルの民の信仰の指導者である律法学者が子どたち の讃美の声に腹を立てました。祭司長、律法学者はどちらも、民が正しい信仰を持っ て神様を正しく、実に礼拝をするために立てられており、そのことに責任を持つ人々 です。その人々が子供たちの真実な讃美の声、つまり礼拝に腹を立てているのです。 そして主イエスに、「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」と言いました。 律法学者、祭司長にとって主イエスのことを「ダビデの子」などと言ってほめたたえることは、神様への冒涜なのです。そのようにして彼らは、まことの礼拝を妨げる者となっています。礼拝を司り、責任を持ち、民を指導する立場の祭司長や律法学者が礼拝を妨げる者となるのです。体に障害を持つ人、不自由な人や子供たちという弱い立場の人々、礼拝から疎外されていた人々や数に入れられていない人たちが、真実な礼拝をしている、ということが起っているのです。
神様が
主イエスは祭司長や律法学者たちの言葉に対して「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」。と言われます。このお言葉によって示されているのは、子供たちが主イエスをほめたたえている、その讃美の声、真実な礼拝を彼らに与えているのは神様なのだ、ということです。ここで子供たちが、大人たちよりも、祭司長や律法学者たちよりも純真だから、素直だから主イエスをほめたたえ、礼拝することができたということではありません。礼拝は、主なる神様がみ心によって彼らに与えて下さったものです。取るに足りない、数に入らない彼らが、ただ神様の恵みによって、礼拝へと導かれ、まことの礼拝をささげる者とされているのです。目の見えない人や足の不自由な人も同じです。本来礼拝に加わることのできなかった彼らが、主イエスによって癒され、恵みを与えられて、礼拝の群れに加えられたのです。主イエス・キリストが来られたことによって、そのように、礼拝のできなかった者ができるようになった、強盗の巣窟のようであったところに真実の礼拝が始まった、ということをこの14~16節は語っているのです。
礼拝の恵み
私たちは神様の御前において胸を張って正しい礼拝をしていると言えるでしょうか。私たちはここに登場してくる子どものように、神様を讃美しているでしょうか。むしろ私たちは神様に対しても隣人に対しても、強盗のような罪を犯している者です。神様のみ前に出ることなど出来ない者なのです。そのような私たちを主イエスは癒して下さり、礼拝者として下さいました。主イエス・キリストは目の見えない人や足の不自由な人たちを癒されました。主イエスは私たちに対しても癒しを与えて下さるのです。その癒しとは何でしょうか。私たちの罪を赦して下さるということです。私たちを神様のみ前に出て礼拝をすることができる者として下さるということです。子供たちとのように私たちの口に、神様を、主イエスをほめたたえる讃美の言葉を与えて下さったのです。神様にそうして下さることによって私たちは「ダビデの子にホサナ」と讃美を歌うことができます。まことの礼拝をささげることができるのです。自分で礼拝をしているかのように思い、「せっかく礼拝をしてやっているんだから、神様の方ももっと願いを聞いてくれるべきだ」というような思いに陥っていく時に、私たちの礼拝は、教会は、強盗の巣窟になっていくのです。
礼拝者とされて
私たちはその罪のゆえに神様のみ前に出て、顔を上げることが出来ません。そのような私たちの罪を贖い、赦しを与えて下さいました。神様の前に進み出て礼拝者として下さいました。そのためにこの世に来て下さったのです。そのために、私たちの全ての罪を背負って下さいました。主イエスが十字架の苦しみと死を引き受けて下さったとはそういうことです。主イエスの父なる神様はその主イエスを復活させ、死に勝利する新しい命を与えて下さいました。私たちは主イエスの十字架の死によって罪を赦され、主イエスの復活によって新しく生きる者とされて、神様を礼拝しつつ生きるのです。洗礼によって私たちは、主イエスの私たちのための十字架の死と、復活の命にあずかり、主イエスと結びつけられて生きる者と造り変えて下さいます。神殿とは礼拝の場です。主イエス・キリストを礼拝し、主イエスと共に生きるといことです。そのような私たちが礼拝するとき、足りない、欠けの多い私たちを礼拝者として下さるのです。