夕礼拝

主の名によって来られる方

「主の名によって来られる方」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第62章1―12節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第21章1―11節
・ 讃美歌 : 309、464

エルサレム
 本日はマタイによる福音書第21章1節から11節をお読みします。本日から第21章に入りますが、本日の箇所は主イエス・キリストが生涯の最後に、エルサレムに来られた場面です。主イエスが子ろばに乗って、エルサレムへ入城された場面です。いよいよ主イエスの地上のご生涯の最後の一週間が始まります。主イエスが「エルサレムへ入城されたのは日曜日で、その週の木曜の晩に捕えられ、金曜日には十字架につけられて殺されます。主イエスの十字架の死から三日目の次の日曜の朝に、復活をされました。マタイによる福音書は、その一週間の出来事を21章から27章までかけて語っております。そして、主イエスがエルサレムに入城された出来事を、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書すべてで述べています。それはこの主イエスのエルサレム入城がとても重要な意味をもったということを私たちに示しています。2000年前のイスラエルは戦いに敗れた後、首都エルサレムを始めとする、主な都会は皆外国の軍隊に占領されていました。役人は軍人と結託して汚職を行い、民衆は重税に苦しんでいました。政治と道徳の腐敗をきわめている時代でした。人々は心からの革命とメシアの来臨を待ち望んでいました。そしてそのメシアとは、権威に満ち、戦えば必ず勝利をする、ダビデ王国の繁栄を再現する強い実力者として期待されていました。主イエスはそのようなエルサレムに入城されたのです。

主イエスの予告
 主イエスは既に3度、ご自分の死と復活を予告されておりました。そこでもご自分が「エルサレム」に上がるということも語っておりました。主イエスの地上のご生涯の最後の一週間が「エルサレム」という舞台で始まります。エルサレムでは主イエスの前に苦難と死が待ち受けています。9節にありますように群衆は主イエスを歓喜の声を挙げて、エルサレムに迎えました。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(9節)と叫びとも言えるような歓喜の声を挙げて群衆は主イエスをエルサレムへ迎えました。この箇所を読む私たちは、やがて、この群衆が同じ声で「十字架につけよ。」と叫ぶようになります。

預言の成就
 与えられました本日の箇所を見ていきます。主イエスの一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、主イエスは二人の弟子を使いに出しました。弟子たちに「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」と言われました。ベトファゲとは、当時の人たちに良く知られていた地名で、オリーブ山沿いの町です。主イエスは弟子たちを使いに出し、ろば、それも子ろばを調達させます。弟子たちに「向こうの村へ行って、そこで繋がれている子ろばを「主がお入りようなのです。」と言って、ほどいて連れて来なさい。」ということです。主イエスはここで随分無理な、独断的な言い方をされているような印象を受けます。ある説明によりますと、ここで一切のものは本当の持ち主が主イエスなのであって、主イエスのものを弟子たちが調達なさったのだという説明もあり得るでしょうが、根拠はありません。けれども、そのような無理な説明をする必要は無いでしょう。この無理な出来事とは、もっと大きな不条理、即ち神さまの救いの出来事のために、独り子が十字架にかかるという、最も不条理なことが遂行されるための無理であったのです。そのことが、4節以下で説明をされていきます。4節「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(4-5節)主イエスが弟子たちにお 命じになり、向こうの村へ行って、そこでいきなり、子ろばを「主がお入りようなのです。」と言って調達するような無理は、この預言者の預言の言葉が成就、実現するためであったのです。この預言者の預言とは旧約聖書のゼカリヤ書9章9節には記されています。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」「娘シオン」とは都エルサレムのことを指します。そこに「あなたの王が来る。」とはエルサレムの王の到来、ダビデの子である救い主の到来を示しています。ろばとは、軽蔑されている動物であると言われています。馬もよりも小さく、おとなしく、見る影もないようなものです。そしてその王は、「柔和な方で、ろばに乗って」来られるのです。「柔和な」というところは、もともとの旧約聖書の言葉では「高ぶることなく」となっておりますので、柔和とは高ぶらない、謙遜ということです。ろばに乗ってエルサレムに来られる王とは柔和で謙遜な王なのです。神様が約束して下さっている救い主はこのような王として来られるのだと旧約聖書の預言書は語っています。その預言が今主イエスというお方において、成就、実現しているのです。主イエスはその預言の成就を示すために、ろばに乗ってエルサレムに入城なさったのです。主イエスは、まことに柔和で謙遜な王として来られたのです。マタイによる福音書は主イエスのエルサレム入城がこの預言の成就、実現であることをはっきりと述べています。主イエスが命じられた子ろばの調達は、この預言が実現するためであったということをはっきりと指摘しています。

ダビデの子に
 そして「弟子たちは主イエスの命じられた通りにろばと子ろばを引いて来ました。その上に弟子たちは服をかけると、主イエスはそれにお乗りになりました。そして大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷きました。鞍代わりにし、主イエスをお乗せしたのです。ろばの背に乗って入られる主イエスを迎える道を備えたのです。そして、いよいよ主イエスのエルサレム入城が始まります。マタイによる福音書によりますと、弟子たちが連れて来たのは、ろばと子ろばの二頭でしたが、主イエスがお乗りになったのは、マルコによる福音書によりますと子ろばの方です。マタイがここでろばと子ろばを登場させたのは、恐らく、子ろばはマルコに従い、ろばの方は「ろばに乗って」というゼカリヤ書の記述を生かすためです。過越しの祭りを前にしてエルサレムに集まって来ていた群衆が道に服や木の枝を敷いて歓喜の声をあげて、主イエスを迎えます。華やかな場面が繰り広げられたのです。ヨハネによる福音書だけが棕櫚の枝、新共同訳聖書では「なつめやしの枝」をもって、迎えに出たとあります。群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」その歓呼の声、主イエスをダビデの子としてほめたたえる声をお受けになったのです。主イエスは確かに、王として、王の都エルサレムに入城なさいました。ご自分が、神の民イスラエルの王であることを公にお示しになったということです。この群衆が主イエスを迎えて叫んだ言葉、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」はそのまま、私たちの信仰の言葉、信仰者の、主イエスへの讃美の言葉でもあります。信仰の歩みとは、このように主イエスを讃美しつつ、主イエスを自分の王としてお迎えすることです。

期待する王ではなく
 主イエスが柔和で謙遜な方であるとはどういうことでしょうか。主イエスが、私たちのために、苦しみを受け、十字架にかけられて死んで下さいました。柔和で謙遜な王は、私たちのために苦しみを受け、死んで下さる王です。私たち人間の考え出す「理想的な王」とは違います。2000年前のイスラエルは戦いに敗れた後、多くの都市に外国の軍隊に占領、汚職が行われ、民衆は重税に苦しんでいました。人々は心からの革命とメシアの来臨を待ち望んでいました。そしてそのメシアとは、権威に満ち、戦えば必ず勝利をする、ダビデ王国の繁栄を再現する強い実力者として期待されていました。しかし、エルサレムに入城された主イエスは全く違います。柔和で謙遜なお方、平和の使命を負う者として描かれています。人間の期待、理想とは全く違う王のお姿です。人々の理想、期待をはるかに超えておられる方です。主イエスを喜び迎えた群衆は一週間の内に「十字架につけろ」と叫ぶようになっていきます。自分たちの期待する、理想を叶えてくれる王を色々と期待していたのです。その分だけ、主イエスのお姿に失望、幻滅をしたのです。このお方こそ、自分たちの救い主だ、王様だ、理想的な王だ、と考えておりました。主イエスの弟子たちもそうだったのです。そして、それはまた私たちの姿でもあります。自分の理想とする、自分にとって都合の良い神様を私たちは願います。神のお働きを自分の意のままに、小さくする、都合の良いように解釈をする。このことを、人間の罪です。主イエスはそのような人間の罪を御存知でありました。よくご存知の上で、敢えてこのような姿で、ろばに乗る王としてエルサレムにお入りになったのです。
 そして、主イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒ぎました。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言ったのです。主イエスのエルサレムへの入城は十字架につけられるためです。主イエスご自身がそのことを3度に渡り、予告されていました。十字架の死とそして、復活されることについても主イエスは予告されていました。主イエスは十字架にかかられ、そして復活されます。復活の栄光への道を歩まれるのです。エルサレムへの入城から、復活の栄光を予め示しています。罪と死に打ち勝つ栄光の王のお姿を描きます。マタイによる福音書だけが、このろばが荷物を運ぶろばの子であることをはっきりと示しているのです。子ろばはその意味で、罪の重荷を一身に背負って十字架への道を歩まれる主のご受難を象徴的に語っているのです。復活の栄光は十字架の苦難を経て示されるのです。

柔和と謙虚
 更に王が当時の大国ではどこでもそうであったように、軍馬にまたがって威風堂々と入城するのではなく、ろばに乗ってなされるということは、「高ぶることなく、ろばに乗って来る」とありますように、柔和と謙虚さを持っておられる主イエスのお姿を示しています。エルサレム入城とは、十字架と復活を通して平和を達成される平和の王の到来を告げるものなのです。主イエスは復活、死の力に対する勝利を得られました。
 主イエスがお生まれになった夜、3人の博士が星を頼りに、東の方からやって来ました。博士たちは、星の止まったユダヤで、ユダヤ人の王として生まれた方は、どこにおいでになるか、と聞きました。この質問は、当時の王ヘロデの耳にまで届きました。多くの人は、既に王がいるこの国に、また王が生まれた、とは信じられなかったからです。そして、この話を、誰よりもヘロデ王が気にしました。それは、自分が今王なので、新しい王が生まれることは許すことができなかったからです。その結果、ヘロデはその赤ん坊がどこにいるのか分からないので、国中の二歳以下の男の子をみな、殺してしまいました。そうすれば、どこかでその子も死ぬだろうと考えたのです。この様子はマタイによる福音書第2章に記されています。そして、不安を抱いたのは王だけではなく、エルサレムの人々も皆、不安になったとあります。そして、それから三十年、主イエスは三十歳になられて、伝道の活動を始められました。主イエスは始めから「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4章17節)と神の国の到来を告げました。主イエスの語られる御言葉に対して人々は色々な思い、感想を持ちました。不思議な権威をもった、新しい教えをする教師だ、または神の権威を犯す怪しい人間だ、と言ったり、主イエスに対して色々な評判を立てました。しかし、そのような中で誰も、王だ、と言った人はいませんでした。クリスマスの夜、王として期待されたお方はどこに行ったのでしょうか。ナザレでの三十年間、その後ほとんど誰も主イエスを王とはしませんでした。主イエスもまた、御自分が王であるとも言われませんでした。

真の王の権威
 しかし、本日の箇所は違います。主イエスが最後にエルサレムに入城されるにあたって、主イエスは自ら王としての権威をもって入って行かれました。またエルサレムの人々も主イエスを迎えました。エルサレムはこの時、過越しの祭りの直前で、多くの巡礼者を始めとする人々がいました。主イエスもそのような人が大勢いるエルサレムにおられました。エルサレムに来た巡礼者たちも、エルサレムの人々と一緒に大きな信仰の期待をもって、主イエスを王として迎えました。群衆は自分の上着を、道に敷きました。これは王を迎える礼儀です。人々は叫びます「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」十字架につけられる主イエスのお姿のどこにも、王としての威厳があるでしょうか。主イエスがお生まれになったベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中にも、王としての権威は、ありませんでした。主イエスは宝石のちりばめられた金の王冠ではなく、茨の冠をかぶせられます。この王は権力をもって、人々を支配する王ではありません。主イエスという王は人間の罪のために、十字架にかかられ、血を流し、人に仕える王として歩まれました。そのようにして、救いの道を切り開いて下さり、人々の王となれたのです。

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