夕礼拝

子どものように

「子どものように」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第131編1-3節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第18章1-5節
・ 讃美歌 : 204、509

誰が一番偉いか
 本日はマタイによる福音書第18章1節から5節の御言葉に聞きたいと思います。本日の箇所は弟子たちから主イエスへの問いかけになります。その内容は「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」という問いです。本日の箇所と同じ内容の物語が、マルコによる福音書、ルカによる福音書において、記されています。これを並行記事と言いますが、マタイによる福音書が下敷きにしている、マルコによる福音書においても本日の箇所と同じ内容の物語がある。マルコによる福音書第9章33節以下では、どのような状況の中で、このような問いかけが生じたかのか、ということが詳しく描かれています。そこには、このようにあります。「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに『途中で何を議論していたか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。」またもう1つのルカによる福音書9章46節以下において、「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、ご自分のそばに立たせて、言われた。」と述べられています。これらの並行の箇所と読み比べますと、マタイによる福音書の特色が明らかになります。

論じ合う人間
 本日の出来事をマルコによる福音書では、カファルナウムに到着して、家に入った時であった述べておりますが、マタイによる福音書では単純に「そのとき」と述べています。既にその前の17章の24節以下の箇所で、そのことが述べられているからです。どこの家かについてははっきりと示されてはいませんが、25節でペトロが神殿税についての問いに対して「納めます」と返答し、それに続いて「そして家に入ると、イエスの方から言い出された。『シモン、あなたはどう思うか』」となっているのを見ますと、この家と言うのがペトロの家であったということが分かります。また、マルコによる福音書やルカによる福音書の記述に対して、マタイによる福音書の記述にはもっと大きな特色があります。マルコによる福音書は「イエスは弟子たちに『途中で何を議論していたか』とお尋ねになった。」とありますように、主イエスの方から弟子たちに対して、途中で一体何を論じあっていたのかと尋ねています。弟子たちは黙っていたとありますが、そのことを口に出すのをためらっていたのを、主イエスの方から話題にしています。ルカによる福音書も「イエスは彼らの心の内を見抜き」とあるように、主イエスは心の中を見抜いて、話題を提供します。つまり、主イエスの方から弟子たちに対して、問いかけているのです。弟子たちの方からはイエスに対して問題を提起してはいないのです。ところが、マタイによる福音書はどうでしょうか。弟子たちの方から、主イエスにところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言ったのです。ありのままに問題を持ち出しているのです。「天の国」とは、この地上とは別のどこかにある国ということではありません。この言葉の意味は、「神様のご支配」ということです。主イエスは、その天の国が近づいた、神様のご支配がいよいよ実現しようとしている、と宣べ伝えられたのです。それは主イエスのメシア、救い主としてのお働きにおいてです。主イエス・キリストのもとで、神様のご支配、天の国がもう始まっているのです。ですから、この弟子たちの問いは、遠い将来天の国が実現したら、ということではないし、ましてや、人間が死んだ後行く天国では、ということではありません。今もう既に主イエスのもとで実現しつつある天の国、会みの御支配では、誰が一番偉いのか、ということです。つまりそれは、自分たちの現在の問題なのです。マルコ福音書とルカ福音書におけるこの箇所は、弟子たちの間で、自分たちの中で誰が一番偉いかという議論、というよりも言い争いが起こり、それに対して主イエスが教えていかれた、という話になっています。このような言い争い、それも主イエスの弟子たちの間において「いったいだれが、天の国でいちばん偉いの」かという議論が起きていたのです。主イエスに従う者たちの中にもこのような問いかけが起こるというのは、まことに人間の姿、人間の罪を表していると思います。

子供を呼び寄せて
 この弟子たちの問いに答えるために、主イエスは、一人の子供を呼び寄せられました。その子供を中に立たせてこう言われたのです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。「心を入れ替えて子供のようになれ。この子供のようになる人こそ、天の国で一番偉いのだ」と主イエスは言われたのです。ところが、マルコによる福音書、ルカによる福音書、どちらも9章にある並行箇所を読んでみますと、この主イエスのお言葉は記されていません。例えばマルコでは、主イエスが子供を真ん中に立たせて言われたのは、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」ということです。それは、マタイでは次の5節に語られていることです。つまり、3、4節の言葉は、マタイのみに出て来るのであって、マルコとルカにはないのです。「子供」についての教えは、こことは別にマタイでは19章13節以下にあります。人々が子供を主イエスのもとに連れて来たのを弟子たちが叱った、それに対して主イエスが、「子供たちを来させなさい。天の国はこのような者たちのものである」と言われたのです。この箇所のマルコにおける並行箇所には、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という言葉があります。ルカにおいても同じです。つまり本日の3、4節の、「子供のようにならなければ」という教えは、もともとはこちらの、子供たちを主イエスのもとに連れて来るのを妨げてはならない、という話の中にあったのだと思われるのです。マタイによる福音書はそれを、本日の、「誰が一番偉いのか」という問いへの答えの方に移動させたのです。マタイによる福音書では、二つの教えが並べられています。一つは「子供のようになりなさい」ということ、もう一つは「一人の子供を受け入れなさい」ということです。この二つの教えを結び合わせて弟子たちの問いへの答えとしているところに、マタイによる福音書の特徴があります。

子供を受け入れるとは
 「心を入れ替えて子供のようになる」とはどういうことでしょうか。
主イエスは「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(5節)と言われます。主イエスは「一人の子供を受け入れる」ことを求めておられます。子供とは何だろうか、定義することは色々な意見がありますので難しいことですが、心身ともにまだ未熟で、自分のことしか考えられない、ということが言えると思います。主イエスはそのような子供を「受け入れる」ことを求めておられるのです。本日の主日礼拝は花の日、子供の日総員礼拝として、普段は教会学校の礼拝に出席している子供たちが大人と一緒に礼拝を守りました。教会は子供を受け入れるのです。それは、子供は単純に純粋で素直だからということではありません。ここで主イエスは「受け入れる」という言葉は使われております。ここでの意味は、受け入れにくい、ともすれば排除されてしまう、そういう者を受け入れるということです。主イエスは子供を、「わたしの名のゆえに受け入れる」ことを求めておられるのです。それが即ち、主イエスを受け入れることなのだと言っておられるのです。マタイによる福音書はこの言葉を本日の箇所の締めくくりとして記しています。そのことによって天の国のご支配、即ち神様のご支配についての基礎、根本を示します。主イエスは子供のいるところにおられるのです。最も弱く、未熟な者の傍らにおられるのです。主イエスは1番小さい、低い、無力な者なところにおられるのです。むしろ、そこに立って下さったのです。それは私たちの罪のゆえにあります。ですので、主イエスに従う者は主イエスと共に立つことが求められます。

再び、子供のようになるとは
 主イエスがそのように求められる根拠は、主イエスご自身が、子供のような弱い、未熟な私たちを受け入れて下さったという根拠があるのです。父なる神様が、弱い、私たち一人一人を受け入れて下さったのです。それゆえに私たちも、一人の小さな者を受け入れていくことが求められているのです。ここで教えられている信仰生活のあり方です。父なる神様が私を受け入れて下さった。そのことは、主イエスの最初のお言葉にもあります。「心を入れ替えて子供のようになる」ということと関係があるのです。子供のようになるとはどういうことでしょうか。子供のようになるとは、子供のように純真な者になることでも、子供のように謙遜になることでもありません。ここで「子供」という言葉が用いられているのは、親に受け入れられている存在であるということです。一方的に愛されている者です。それは子供の側に何らかの価値があるからでしょうか。子供は子供だから、親に愛され、受け入れられているのです。しかし、現実の問題として罪人である人間の親子関係は必ずしもそのようにならない場合も多いと思います。天の父なる神様は、その独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架と死とによって私たちの罪を赦し、私たちを子として愛し、受け入れて下さったのです。「子供のようになる」とは、この神様の父としての愛のもとに自分があることを信じて、子供が親の愛を疑わずに甘えていくように、父なる神様によりすがっていくことです。そのようにして神様の子供となること、正確に言えば、神様が子供として下さったことを信じることが私たちの信仰です。その信仰によって私たちは、天の国、神様のご支配の下に生きる者となるのです。「心を入れ替えて」ということは、人生の方向転換をしてという事です。この世の価値基準とは、正反対の天のご支配が主イエスにもたらされたのです。主イエスの十字架の出来事とはそのような出来事です。父なる神様が既に罪びとである私たち一人一人を受け入れて下さったのです。私たちはそのような者として、今度は私たちが、一人の子供を、子供のような者を小さな者の一人を受け入れていくのです。「子供のようになる」ことと「子供を受け入れる」ことは、結び合っており、それが私たちの信仰の在り方です。それはすなわち、信仰の共同体である教会の在り方をも示すのです。

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