夕礼拝

わたしの愛する子

「わたしの愛する子」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: マラキ書 第3章19―24節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第17章1―13節
・ 讃美歌 : 475、481

信仰の告白と受難予告の後に
 本日は共にマタイ福音書第17章1節から13節をお読みします。本日の箇所は「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」と始まります。わざわざ「六日の後」とありますのは、その前に起きた出来事がとても大切だからです。直前の第16章では、主イエスは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけました。そして、弟子の一人であるペトロが代表して答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表しました。ペトロは主イエスこそ神の子、救い主である、という信仰を与えられたのです。そして、主イエスはそのときから、御自分がエルサレムに行って多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活することになるという、受難の予告をされました。しかし、ペトロはそれを理解することができずに主イエスに「そんなことはとんでもない、あり得ないことです」と言って諌めました。主イエスは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しくお叱りになりました。そして「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言われたのです。ペトロは主イエスに従う弟子でありたいと願っておりました。主イエスが歩まれる道は十字架の苦しみと死への道であります。従って、主イエスは弟子たちも信仰者の歩みも、十字架を背負う苦しみの歩みになる、そのことを覚えつつ従うこと言われたのです。

光輝く主イエス
 本日の箇所はそのようなペトロの信仰の告白、主イエスの受難の予告の後の出来事であります。「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(1-2節)この主イエスのお姿が変わったということをどのように受け止めたら良いのでしょうか。主イエスの「栄光のお姿」と理解することが出来ます。主イエスの本当のお姿、本質ということも言えます。そして、この主イエスのお姿を見ることが出来たのは、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子のみでした。この三人とは、この後の26章で、主イエスの「ゲッセマネの祈り」に伴われて行く三人でもあります。主イエスの光り輝く栄光を見た三人が、同じ主イエスの苦しみのお姿をも見させられたのです。このことによって主イエスの神の子としての栄光と十字架の苦しみとは切り離すことができない関係にあることが表されているのです。弟子の信仰の告白、そして主イエスは受難の予告をされました。主イエスが十字架の苦しみと死へ向って歩み始めておられるのです。そして、そのことを通して主イエスの本質、栄光のお姿が明らかにされていくのです。主イエスは十字架の苦しみと死を通して、復活され、死の力に勝利をされました。16章27節には、「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来る」とあります。父なる神の栄光に輝く姿が示されているのです。主イエスが本当のお姿、本質は十字架の出来事において示されていくのです。

旧約聖書を引き継いで
 本日の箇所では主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネという三人の弟子のみを連れて高い山に登られ、その場所で主イエスのお姿が弟子たちの目の前で変わりました。主イエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったとあります。不思議な出来事です。しかし、それは主イエスの栄光のお姿です。この出来事はまた主イエスのお姿、主イエスの本質、主イエスが本当は誰なのかということがここで明らかになっているとも言えます。弟子たちの前で主イエスのお姿が変わり、そしてモーセとエリヤが現れました。モーセは出エジプトの指導者であります。イスラエルの民に神様の律法を伝えた人です。エリヤとは預言者の代表です。イスラエルの民に神様の律法を伝えたモーセと、預言者の代表であるエリヤとは旧約聖書を代表する人物であるということです。そして、その二人と主イエスが語り合っていたとあります。そして、ペトロの提案が4節に記されています。そしてペトロが話しているうちに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえたとあります。これは神様の御声です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という父なる神様の御自身の御声です。神様御自身によって、主イエスこそ私の子だ、と宣言されました。そして主イエスこそ、神様のみ心を行う者、御心に適った者であると語られたのです。
 しかしこの光り輝く主イエスの姿を見ることができたのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという三人の弟子たちだけでした。そして、この三人はこの後、十字架の出来事の直前の主イエスがゲッセマネで深い嘆き悲しみの内に祈られるお姿に出会うのです。主イエスの悲しみの祈りに伴われたのが、ペトロとゼベダイの子二人、つまりヤコブとヨハネなのです。この三人の弟子たちは、主イエスの最も深い苦しみのお姿の目撃者でもあります。三人は主イエスの光輝くお姿の目撃者とされているのは、このことのための準備でもあるのです。弟子たちは、栄光に光り輝く神の子としての主イエスのお姿を見たのです。そして、その主イエスはこれから十字架の死を前にして苦しみ悶えられるのです。そのお姿を弟子たちは見たのです。十字架の死を目前に苦しみ悶えている主イエスは、同時にあの栄光に光り輝くのを見た神の子なのであるということです。この主イエスのお姿は別々なものではなく、一人のお方の姿であるということです。

ここに留まることはできない
 三人の弟子たちは栄光に輝く神の子である主イエス、そして同時に苦しみ悶えられた主と出会いました。そして、栄光の主イエスを目撃したペトロは「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と言いました。主イエス・キリストの本当のお姿に出会えたのはなんとすばらしいことであります。一人でも多くの方々がこの主イエスと出会って頂きたいと願います。そして、喜び溢れたペトロは続けて「お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言いました。ペトロは山の上で、主イエスの栄光のお姿を見、モーセとエリヤがそこに現れたのを見ました。そして、小屋を建てて、主イエスとモーセとエリヤにそこに留まってもらおう、主イエスの栄光のお姿がいつまでも残るようにしよう、と思ったのです。しかし、主イエスの栄光とは、小屋を建ててそこに留めておけるようなものではないのです。ペトロはここで神様が示して下さった主イエスの栄光を、余りにも人間的に受け止め、人間の工夫によってそれを維持しようとしたのです。自分たちの間に留めておき、それを見たい時に見られるようにしたい、という思いがこのペトロの言葉には表れているのですそれは主イエスの栄光を、自分の所有物にしょうとする思いでもあります。しかし主イエスの栄光は人間の所有物になってしまうものではありません。神様の声が響きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われました。御子主イエスのみ言葉を「聞くこと」ということが求められます。

恐れるな
 そして、6節に、「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた」とあります。光り輝く雲の中から、神様のみ声が響いたのです。弟子たちは神様の前に立ち、直接御言葉を与えられたのです。それは恐れずにはおれないことです。もはや立ってはいられない、地にひれ伏さずにはおれないようなことでした。生けるまことの神様の前に出る経験をしました。三人はひれ伏し、非常に恐れたのです。しかし、主イエスは近づいて、彼らに手を触れて、「起きなさい。恐れることはない」と言われました。「恐れるな」と主イエスは言われるのです。これこそが、主イエスが栄光のお姿を弟子たちに見せて下さる目的です。彼らが、主イエスの栄光をかいま見ることによって、力づけられ、恐れずに、信仰者としてしっかりと立ち続けていくことができるように、神の子としての栄光に輝く方である主イエスが、常に共にいて下さり、彼らに手を触れて支えていて下さることを知って歩むことができるように、というのが主イエスの願いなのです。しかし主イエスの栄光が示される時に、人間はしばしば、その主イエスの願いとは違う思いを抱いてしまい、恐れてしまうのです。それは私たちに当てはめて言うならば、栄光の主イエスを、自分とは遠い存在と思ってしまうことであります。主イエスの栄光が、自分とは何の関係もない、何の慰めにも支えにもならないもののように思えてしまうのです。けれども栄光の主イエスは、私たちに近づいてきて下さいます。その手を触れて下さり「起き上がりなさい。恐れるな」と語りかけて励まして下さる方なのです。

限定の沈黙命令
 主イエスは更に続けて「今見たことをだれにも話すな」と言われているのです。しかしこの沈黙の命令は「人の子が死者の中から復活するまで」という限定つきの命令でありました。主イエスが復活なさった後は、このことを大いに語り、人々に伝えてよいのです。それは、主イエスの復活においてこそ、その栄光は正しく、誤解なく受け止められ得るからです。主イエスの栄光は復活の栄光です。十字架の苦しみと死とを経て実現する復活の栄光です。主イエスは私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さいました。そのお方が復活して生きておられ、私たちと共にいて下さる。これが主イエスの栄光なのです。私たちがその主イエスの栄光を自分のものにしてしまうということではありません。三人の弟子たちは、主イエスの復活において明らかにされる栄光を、前もって、見ることを許されたということです。

礼拝より出て行き
 私たちの礼拝は主イエスの復活の記念日である、日曜日に守られます。復活の主イエスが、御言葉によって歩み寄り、み手を触れて、「起きなさい、恐れることはない」と語りかけて下さる。私たちは礼拝において、主イエス・キリストの、罪と死に対する勝利の栄光を、弟子たちと同様にかいま見ることが許されています。神様の恵みのご支配が主イエスにおいてこそ実現していることを示されます。9節に「一同が山を下りる」とあります。山を下りていく弟子たちの姿は、この礼拝から日々の生活へと歩み出していく私たちの姿でもあります。三人の弟子たちが、この山の上で、主イエスの栄光のお姿を一時かいま見て、そして山を下ってきたように、私たちも、主の日の礼拝において、主イエスの復活の栄光を示され、そしてその礼拝から日々の生活へと歩み出していくのです。高い山の上でのこの体験は、弟子たちにとって、特別な体験です。その場から下るとは、この地上における日常の世界に戻ることです。私たちにとって、主の日の礼拝は、それと同じように非日常の時、一週間の中の特別な時です。

私たちを惑わす声
 そして、この山を下りる道において、弟子たちは主イエスに「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」(10節)と問いました。この問いは、山の上でエリヤの姿を見たことに触発されていますが、その背景にあるのは、律法学者たちが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるマラキ書の言葉を根拠にしております。マラキ書には救い主メシアが現れる前には、預言者エリヤが再来する、とあります。そのエリヤはまだ来ていないのだから、今現れてきたイエスが救い主メシアであるはずはない、あれは偽物だ、と言っているのです。この律法学者たちの主張をどう考えたらよいのか、と弟子たちは尋ねているのです。このことは、主イエスが本当に救い主メシアであるかどうか、という問いです。弟子たちはそう信じて主イエスに従っていいます。ペトロは16章16節において、その信仰をはっきりと告白しましたが律法学者たちはそのことに反対をします。この山を下りて弟子たちが向う日常の世界の現実とは、このように主イエスを救い主と認めない世界なのです。山の上で示された、主イエスの神の子としての栄光、救い主であられることは、この日常の世界においては、隠されているのです。弟子たちはそのような、神の栄光が隠されている世界へと下りていくのです。私たちも、この礼拝という山の上から、そういう日常の世界へと歩み出して行きます。

主イエスの答え
 この弟子たちの問いに対して主イエスはこうお答えになりました。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」。救い主が現れる前に、エリヤが再来すると聖書に語られていることは本当だ。確かにエリヤがまず来て、すべてを元どおりにする。マラキ書3章24節の「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」ということを指しています。父なる神様と、その子らである民との関係を整え、父が遣わして下さる救い主を迎える備えをさせるために、エリヤが来るのです。そして、実はそのエリヤはもう来たのです。しかし人々は彼を認めず、好きなようにあしらった。ヨハネは結局権力者によって捕らえられ、獄中で首を切られて死んでしまいました。それは、13節で弟子たちが悟ったように、洗礼者ヨハネのことです。洗礼者ヨハネこそ、救い主イエスの道備えをするエリヤの再来だったのです。

神の恵みのしるし
 律法学者たちも、エリヤがまず来るはずだと言い、主イエスを救い主と認めません。主イエスのこのお答えの意味も、エリヤはもう来た、エリヤの再来である洗礼者ヨハネが既に現れたであり、主イエスが来るべきメシアであることのしるしがある、そのしるしをしっかりと見極めなさいと主イエスは言っておられるのです。山を下りて弟子たちが歩む日々の世界、即ち礼拝から私たちが遣わされていく日常の生活においては、主イエスが神の子、救い主であられることが隠されているのです。主イエスこそ栄光に輝く神の子であられることは、あの山の上で、礼拝においてしっかりと示されました。しかし、洗礼者ヨハネがエリヤの再来であることは、誰でもがすぐにわかることではありませんでした。洗礼者ヨハネは、人々に認められず、好きなようにあしらわれたのです。私たちの日常の生活の中に与えられているしるしもそのようなものです。私たちは、自分の日々の信仰の生活の中で、自分に与えられているしるしを、注意深く捜し求めていかなければならないのです。そしてそれこそ、信仰を持って生きるということです。私たちが信仰者として生きるというのは、一つには勿論、主の日の礼拝を守って生きることです。礼拝という、日常の場を離れた山の上で、私たちは主イエス・キリストの復活の栄光に触れ、その主イエスがみ手を差し伸べて私たちに触れ、「起き上がりなさい、恐れるな」と語りかけて下さるのを聞くことです。しかしその礼拝を守ることだけが、信仰を持って生きることではありません。私たちはこの山の上から、礼拝から、日々の、日常の生活へと下っていくのです。そこで私たちは信仰者として生きるのです。神様が、ひとり一人の生活の中に既に神様の恵みのしるし与えていて下さるのです。

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