夕礼拝

天の国のたとえ

「天の国のたとえ」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 箴言 第8章1―36節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第13章44―52節
・ 讃美歌 : 443、570

宝、高価な「天の国」
 本日は御一緒にマタイによる福音書第13章44節から52節をお読みしたいと思います。本日の箇所では「天の国」について3つの譬えが語られています。最初の2つの譬えは少し似ております。まず、44節の譬えを見てみたいと思います。44節の譬えでは「天の国」は畑に隠されている「宝」に譬えられています。それを見つけた人は小作人か使用人でしょうか、その人はそのまま隠しておき、喜びながら帰りました。そして、自分の持ち物をすっかり売り払って、その畑を買いました。  45、46節の譬えでは「天の国」は「高価な真珠」に譬えらえております。高価な真珠を見つけた人は「商人」です。「天の国」は高価な真珠であり、値高く、素晴しいものであるということです。それを見つけた商人は大変喜んでおります。自分の持ち物を売り払って、すべての代価を払って手に入れます。主イエスはこの2つの譬えを通して、まず第一に「天の国」はそれを得るためにすべてのものを売り払っても決して惜しくはない、値高い、高価なものであるということです。

宝とは?
 もう少し譬えを見て行きたいと思います。44節の譬えに出てくる人が見つけたものは畑の中に隠されていた「宝」でした。当時のこの地方では「宝」即ち、高価なものは、素焼きの坪に入れて畑の中に隠しておいたようです。大事な宝が泥棒に盗られないようにするためです。この地域ではしばしば戦争が起こっておりました。戦争によって外国の軍隊から繰り返し被害を受けておりました。多くの品物が略奪されていたようです。この時代には株券を預かってくれる証券会社も、貴重品や重要種類を預かってくれる「貸金庫」を備えた銀行もありませんから、高価な「宝物」を守るために土の中に隠しておいたようです。土の中に隠しておくというのが簡単で比較的安全な方法だったようです。  この「宝物」が何であったかということについては、第一の譬えでは何も書いていません。金貨であったかの装飾品であったのか分かりません。しかし、この「宝」を見つけた人は大変喜びました。また次の第二の譬えに出てくる「商人」が見つけたものは「高価な真珠を一つ」でした。「真珠」は今も高価な品物ですが、古代の社会では「宝石」と同じように貴重なものでした。真珠は最高の価値を持ったもの代名詞でありました。このように真珠を見つけや人が大喜びをしたのは当然のことです。「天の国」はこの「宝」のように、高価な真珠のように大きな喜びを与えてくれる値高いものなのです。

見出す者
 この譬えで語られていることは「天の国」を見出す者がいるということです。「天の国」と繰り返して申して来ましたが、この「天の国」とはどこかにある場所を指しているのではありません。「天の国」というのは「神の国」または「神様の御支配」という意味があります。神様が支配しておられるところ、それが「天の国」なのです。更に神の御支配とは、主イエス・キリストの御支配と言えます。もう少し言い換えますと、私たちが主イエス・キリストと出会うことによって、主イエスの御支配に入れられるということです。私たちはただ今、神様を礼拝するために集っております。主イエスと出会っております。即ち「天の国」を見出した者であるということです。この譬えに出てくる、宝を見つけた人、高価な真珠の1つを見つけた人というのは私たちのことであります。私たちはここに礼拝者として集っております。既に洗礼を受け、長い信仰者の歩みをしておられる方もいます。最近、洗礼を受けた方、またまだ洗礼を受けていない、今日初めて教会に来たという方もおられるかもしれません。私たちが教会に来たきっかけ、洗礼を受けたきっかけというのはそれぞれ違います。それは主イエス・キリストとの出会い、またその経緯は人それぞれ様々であるということです。私たちがこの2つの譬えを通して示される第2のことは、「天の国」を私たちが見出すということです。

まるで偶然に
 それぞれの譬えに即して見てみますと、44節の第1の譬えに出てくる人は、畑の中に隠してあった「宝」を偶然に見つけました。「宝」を探そうと求めていたわけではありません。この人は、思いがけず、偶然に「宝」を見つけたのです。私たちの信仰の言葉で言いますと、それこそ神の導きの中で宝を見つけ出したのです。殆どの人はここに宝があるなどと思いもよらず、気づかなかったのです。「宝」を見つけたこの人は、思いもかけず宝を見つけたのです。それは自分の方では「宝」を見出すための何の用意も準備もなかったということです。このようにして「天の国」即ち主イエス・キリストと出会ったということです。聖書の中にもこのようにして主イエスとの出会いを経験した人が幾つも見ることができます。マタイによる福音書の第9章では何の予感もなしに「収税所に座っていた」マタイのことが記されています。主イエスはマタイのその様子を「見かけられた」のです。そして、主イエスからマタイに突然「わたしに従いなさい」と呼びかけられたのです。マタイは立ち上がってイエスに従いました。この主イエスとマタイとの出会いは一方的な出会いです。マタイの側には何の準備も用意も、心構えもありませんでした。ただ、主イエス・キリストの御心に中に見出されたということです。主イエスの側に、出会いの根拠があるということです。そのことを信じることが信仰です。この宝は隠されておりました。人々の目には見えかったのです。そのことを信じるのが信仰です。

求めなさい
 44、45節の第2の譬えでは少し様子が違っています。ここに出てくる「商人」は良い真珠を探して求めていました。ここで、どのくらい熱心に、またどのくらいの間、探して求めていたかは記されてはいません。しかし、商人には高価な1つの真珠を見つけ大変喜びました。46節にはこの商人が「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(46節)とあります。この喜び方から推測しますと長い間、熱心に探し求めていたのではないでしょうか。しかし、ここで注意したいのはこの「商人」が長い間熱心に求めたから「真珠」が手に入ったのではありません。長い間熱心に求めれば、何でも手に入るということは決してありません。私たちの人生でもそうであります。けれども主イエスはマタイによる福音書第7章7節においてこのように言われております。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイによる福音書第7章7節)一生懸命、探し求めることはとても大切なことです。一生懸命、求めるということは信仰者の生活で言いますと、祈るということになると思います。信仰者は、神様に祈り求め、祈るということを神様は喜んで下さいます。しかし、いくら祈ったからと言って、自分の願いや求めが必ず叶えられるということはありません。自分の思い、願いとは違う結果が伴うこともあります。その方は多いかもしれません。ここで、私たちが信じることとは、神様は御心を示して下さるということです。私たちの願い、思い以上のことを神様は成し遂げて下さいます。ここで、商人は良い真珠を探しておりました。私たちが熱心に祈り求め、探し求めてきたものが見つかったときの喜びはひとしおです。主イエス・キリストは「探しなさい。そうすれば、見つかる。」と言われております。主イエスのお言葉ですので、私たちは素直に、熱心に求める者でありたいと思います。

主イエスとの出会い
 しかし、ここでも気をつけたいのは先ほども申しましたが私たちの「探し求める熱心さ」が宝、真珠を見つけるのではありません。私たちの側の熱心さが天の国、即ち主イエス・キリストとの出会いを見出すのではありません。天の国、神の国の御支配は私たちの努力で手に入れるものではないのです。もし私たちの熱心さ、私たちの力で手に入れる神の国であれば、それは私たちの思い描く神の国であります。私たちの自分勝手な願いの投影であり、願望であります。まことの神の国ではありません。ヨハネによる福音書第6章44節にはこのようにあります。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」主イエスのお言葉です。主イエスを遣わされた父、父なる神様が私たちを引き寄せて下さるのです。神様の力によって、私たちは主イエス・キリストと出会うのです。父なる神様によって、神の国、神の御支配は向こう側から私たちを求めて近づいて来るのです。私たちは、自分の力、熱心さでは主イエス・キリストと出会うことは出来ません。主イエス・キリストの方が近づいて来て下さり、私たちの名を呼び、招いて下さいます。そうでありますので、私たちは自分の力がない、足りないなどと嘆く必要はないのです。主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイによる福音書第7章7節」とおっしゃいます。しかし、人間の力、人間の求めというのは本当に僅かな力で、限界があります。それが私たち人間の姿です。そのような人間のところに主イエス・キリストの方が来て下さるのです。主イエス御自身が私たちの方へ近づいて来て下さり、私たちの名を呼び、招いて下さる時、私たちは確かに主イエス・キリストと出会っているのです。私たちがどのような経緯で、主イエスと出会うのかと言うことではありません。その経緯は、私たちの目から見れば様々です。問題は、私たちが本当に主イエス・キリストと出会っているかどうかということです。私たちが本当に主イエス・キリストと出会うこと。神様はそのことを私たちに願っております。

持ち物を売り払って
 この2つの譬えで私たちに示されていることは、主イエス・キリストによって私たちが天の国、神のご支配を見出し、神の御支配に入れられ、主イエスと出会うことです。その出会いは何にも代え難い大きな喜びであるということです。第1の譬えでは畑の隠された宝を見つけた人は喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買いました。この驚くべき行動は神の国を見出した喜びの大きさを語っています。この人は自分の持ち物をすっかり売り払いました。自分がこれまで努力して、汗水流して得たものを何一つ残さず売り払ったのです。普通に出来ることではありません。この人はどのような人であったのかということは記されていません。おそらく、小作人か使用人であったでしょう。そんなに財産はなかったと思います。自分の持ち物をすべて売ったとしても大した額ではなかったかもしれません。それでも、持ち物すべてを売り払った金額で畑を買いました。後には何も残りません。この人は、すべてを失っても、あの「宝」が隠されている畑だけで、この人にとってはそれで充分だったのです。  高価な真珠を1つを見つけたこの商人も、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買いました。この商人にとっても、この真珠1つさえあれば、それで充分なのです。後は何もなくても良いのです。このことは天の国、神の国を見出すこと、主イエス・キリストと出会ったことがどのような大きな喜びであったことかを示しています。主イエスとの出会いの喜びをこの2人に与えたのか、充分によく示しています。ここに、まさに主イエス・キリストとの出会いを経験した人の姿が描かれています。このような行動に人を駆り立てずには描かないという真理を示しています。ここには、信仰者の喜びの真髄が描かれております。

神が網を投げられる
 47節から50節の最後の譬えは少し赴きが違います。この譬えは、少し前の24節から30節に書かれている「毒麦の譬え」と良く似ています。主イエスは、人々が日頃目にしている身近なものを題材にして譬えを語られました。47節では「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。」とあります。ガリラヤ湖では漁がよく行われておりました。誰もが知っている光景です。ガリラヤ湖は大きな湖ではありませんが、豊富な種類の魚が沢山いました。こうして、豊富な魚が人々の生活を支えていました。魚を捕るためにいろいろな網が使われておりました。47節には「網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。」とあります。この文章の主語は「網」となっております。そして、誰が網を投げたのかということは書いておりません。網を投げるのは、話の内容から「漁師」であると考えることが出来ます。この譬えは、「天の国」のために魚を集めようとして網が投げられるのですから、この網を投げる主体は神様であると理解することが出来ます。神様は何かをなさるとき、常に人を用いられます。即ち、漁師が網を投げることを通して、神様が網を投げているのです。47節の最後には「いろいろな魚を集める。」とあります。この文章の主語が「網」であるということは考えられません。魚を集めるのは、48節にもあるように集めた魚を良いものと、悪いものに分けるためです。そして、魚を良いものと悪いものとに分けるのは人々、漁師ですので、魚を集めるのも漁師と考えるのが自然です。網が投げられるのは「魚を集めるため」るためです。漁師が網を投げ、魚を集めるのですが、そのことを通して神様は網を投げ、魚を集められているのです。神様が人々を天の国、神の御支配へと人々を招いているということです。

混在している
 この集められた魚の群れには良い魚、悪い魚もいます。売り物になる魚、売り物にならない魚ということでしょう。そのような良い魚、悪い魚の両方すべてが混在しているということです。49節の言葉で言えば「正しい人」も「悪いものども」ということです。その両者が混在しているということです。この世界の現実を現しています。そして49節では「世の終わりにもそうなる。」とあります。世の終わりの時には「天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」とあります。世の終わり、それは主イエスが再び来られる時、救いの完成のときです。神の国が来るとき、それは主イエス・キリストが再び来られる裁きのときです。神の国が来る時には、このような正しい人と悪い者たちが分けられるのです。それは、神様がなさる御業です。それですから、私たちは神様の御業に信頼をすれば良いのです。神様の御業に信頼をして、私たちが先駆けて「これが正しい人」であり、「これが悪い人」と決めつけるのではありません。このことは神様がなさる御業なのです。神様への信頼、神様への信仰と忍耐が必要なことです。私たちは、色々な思いから、この混在を解消しょうとします。神様の御支配を現すために、私たちは悪い者は排除しなければならないと思います。しかし、このことは神様がなさる御業です。

主イエスに従う者として
 だからと言って、私たちが努力を怠ってよいということではありません。私たちが神様の御業をこの地上において現していくことを神様は臨んでおられます。喜んでくださいます。しかし、神様に先立って裁判官のように、判断してはならないということです。主イエス・キリストはガリラヤ湖で漁師をしていたペトロたちに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしょう」(マタイによる福音書第4章19節)と言って、弟子として召し出されました。主イエスの弟子とは、人間をとる漁師のことです。人々を神の国のために呼び集める務めを担う者です。漁師は網がいっぱいになるまで「あらゆる種類の魚」をひたすら集めたように、福音を宣べ伝え、神の国へ人々を招くのです。最後に主イエスは話を締めくくるように弟子たちに次のように問いかけられました。51、52節です。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。」そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」天の国のことを学んだ学者とは、天の国の秘密を悟った者です。天の国、神の国の隠された後は支配、宝を手に入れようと立ち上がった者です。神様に従う、主イエスに弟子たちのことです。そして、主イエスを信じ、従うものとして、弟子として、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す」のです。「自分の倉から新しいもの」とは、主イエスを信じるということです。この主イエスは人間の罪のために十字架にかかられました。そのために地上に来られたのです。この事実こそ、まったく新しいもの、天の国が隠れた形ですでに地上に来ていることです。天の国とは、神様のご支配であり、主イエス・キリストが来られたことを信じることです。天の国のことを学んだ学者であります。主イエスの弟子として、神様のご支配への信頼の内に自由に生きることができるのです。

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