夕礼拝

人の子は安息日の主

「人の子は安息日の主」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: ホセア書 第6章4-6節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第12章1-8節
・ 讃美歌 : 2、205

主イエスとファリサイ派の関係
 本日はマタイによる福音書の第12章1節から8節の御言葉に耳を傾けたいと思います。「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。」と本日の箇所は始まります。「そのころ」とは、曖昧な表現ですがここで使われている「そのころ」とは、非常に明確な、「特別な時」を示す言葉が使われています。普通の時ではなく、特別な事件が起こった時、「その時」です。本日の箇所の前のところで、主イエスはこのように語られました。11章の28節です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」労苦して疲れ果て、なお重荷を取り去られることのない人々に、あなたがたを休ませるのは、わたし、主イエスです。それだから、「わたしのもとに来なさい。」と主イエスは安息をお告げになりました。主イエスの元にこそ、12章1節の「そのころ」とは、まさに「その時」ということなのです。ここで、主イエスははっきりと安息を与えられるお方として、ご自分の姿を示されました。「その時」に安息日をめぐる、主イエスとファリサイ派の激しい争いが起こったのです。真実の安息をめぐる激しい戦いです。第12章では、主イエスとファリサイ派の対立が激しいものとなっていきます。ファリサイ派とは、イエスラエルの信仰的な指導者であります。そのような信仰の指導者であるファリサイ派が主イエスに敵意を抱いたのです。少し先の12章14節では、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」とあります。どうにかして、主イエスを殺そうと相談を始めており、それぐらいファリサイ派の主イエスに対する敵意というのは厳しいものでした。

ファリサイ派の人々
 なぜ、ファリサイ派は主イエスを殺そうとまで考えたのでしょうか。主イエスは、神の支配の到来を告げる福音を語られておりました。そして、神の支配を告げる恵みの現われである癒しの業、奇跡の業を行いました。ファリサイ派はこのような主イエスに敵意を抱いたのです。ファリサイ派はまことの神の子である主イエスを、本当の神様を信じる人間がすることではないと、断罪しようとしたのです。本日の箇所の前の11章でもそのことが語られております。19節ですが、主イエスにガリラヤの人々は「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言いました。イスラエルの信仰の指導者であるファリサイ派に比べると、主イエスの方がはるかに神の子にはふさわしくない、信心深くない、世俗的な人間のように思われたのです。自分たちの持つ、イメージとはあまりにもかけ離れていると批判をしたのです。主イエスの方が神様にはふさわしくなく、ファリサイ派の人々は、自分たちこそ神にふさわしく生きていると思い込んでいたのです。ですから、主イエスを殺そうとしたのです。主イエスにおいて、始められている神の御業を見出すことができず、神様のお姿を見えなくなってしまっているのです。これは、主イエスのお姿が見えなくなっているということです。これがファリサイ派の現実の姿です。

神様との関係において
 主イエスのお姿が見えないということは、それだけに終わらないことです。主イエスのお姿が見えないということは、自分の隣にいる人間の姿も見ることができなくなるのです。主イエスにおいて示された神様の御業を見出せないということは、神様によって与えられた私たちの隣人をも見出せないということです。このような罪は、イスラエルの宗教的、信仰的指導者であるファリサイ派だけが犯すものではありません。私たちもまた、神様なんか信じなくて、自分の力で全てできると神様に対して敵意を抱くことが多々あります。主イエスにおいて示された神の御業、神の憐れみを押し殺してしまうことになるのです。その結果、隣人との関係も破壊し、自分自身もまた本当の安息を失ってしまうのです。まことの安息を失うのです。主イエスとファリサイ派の対立の1つがその一つが本日の小見出しにもありますように「安息日」に関することです。ある安息日に主イエスは弟子たちと共に麦畑を通られました。弟子たちは空腹を覚えたのでしょう。「麦の穂を摘んで食べ始めた。」とあります。主イエスに敵対する「ファリサイ派の人々が」このような安息日における主イエスの弟子たちのしていることに対して、「安息日にしてはならないことをしている」と批判し、攻撃をしたのです。「安息日にしてはならないことをしている」とは、神様の掟、律法に違反していると言うことです。ファリサイ派の人々は主イエスと弟子たちに対して、他人の麦畑で勝手に穂を摘んで食べるのはいけない、ということを批判しているのでありません。律法では、空腹な人は、他人の畑になっているものを自由に食べてよいと許されていたのです。ただし、それはその場で自分の腹を満たすためだけに限られており、例えばそこに袋を持ってきてそれに詰め込んで持ち帰ったりしてはいけないと定められていたのです。律法では、畑を持っている者は、持たない貧しい人が生きていけるように支えていくのだ、という精神を土台としています。また、麦畑で収穫をした後、そこに残された落穂は貧しい人のために残しておかなければならない、という掟もありました。旧約聖書の律法は、そのように、弱者への配慮に満ちた教えだったのです。ここでファリサイ派が問題として批判していることは、麦の穂を摘んで、殻を取って実を食べることが、「収穫」あるいは「脱穀」という「仕事」にあたるからということです。ファリサイ派の主張は「収穫」「脱穀」という「仕事」は安息日にしてはいけないことだと言うことです。律法では、安息日には、一切の仕事を休まなければならないと律法に定められている、とファリサイ派の人々は主張します。

安息日
 このことは、イエスラエルの人々にとって重大な問題でした。律法の中心である十戒の第4の戒めの中には「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とあります。それに続いて、この日には一切仕事をしてはならないと語られています。神様から与えられた掟を守ることによって神の民であることができると考えたイスラエルの人々は、この掟を真剣に守ろうとしました。ユダヤ人の歴史を読むと、戦争の中に、敵が攻めてきたが安息日だったので戦わずに全滅したという話が出てきます。安息日を覚えるという信仰はキリスト教、キリスト教会にも受け継がれています。キリスト教においては、安息日はユダヤ人たちとは違って、週の初めの日である日曜日です。教会は主イエス・キリストの復活の記念日である日曜日を安息日としました。主イエスは金曜日に十字架につけられて死なれました。そして、週の初めの日である日曜日の朝に復活されました。キリスト教会はそこに神様による救いの実現を見て、日曜日を「主の日」と呼び、この日に主イエスの復活を覚えて集まり、礼拝を守りました。神様から与えられた律法を守るイスラエルの人々は安息日の掟を守るために様々なことを考えました。どこまでのことは安息日にもしてよいか、どこから先は仕事に当りしてはいけないか、という細々とした規則を作ったのです。特に主イエスの頃には、安息日はどんな仕事もしてはいけない日となっており、そのための細かい規定が定められ、煮炊きすることも、病人を癒すことも禁じられ、一定の距離を超えて移動することも禁じられていました。その規則においては、麦の穂を摘んで殻を取ることは仕事に当るとされていたのです。人々は一生懸命律法を守ろうとしたのです。

憐れみ
 ファリサイ派の「あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」という批判に対して、主イエスは、旧約聖書を引いて答えられました。まず3節にありますように「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか」ということです。これは、サムエル記上の第21章に語られている事柄です。ダビデは後にイスラエルの最も偉大な王とりましたがこの時はダビデはまだ、サウル王に命をねらわれて逃げていました。その逃亡の途中で、ノブという町の聖所の祭司アヒメレクのところに身を寄せ、そこで、祭壇に供えられていて、そこから下げられてきた供えのパンで空腹を満たしたのです。そのパンは本来、祭司たちだけが食べることを許されているものでした。また、その日は、丁度祭壇のパンを供え変える日だったとあります。それは安息日でした。つまりダビデと供の者は、安息日に、祭司たちしか食べてはいけないはずのパンを食べたのです。しかし聖書はそのことをダビデの罪としてはいません。また神様もそのことでダビデにお怒りになってはいません。むしろ、神様はダビデにそのように道を備えて救って下さり、王となる道を導いて下さいました。主イエスはこのダビデの話から、安息日に掟を破って腹を満たすということは偉大な王ダビデもしている、と言っておられるのです。ファリサイ派の人々も当然、このダビデの話しのことをよく知っています。そして彼らはこのことを、「ダビデと供の者たちは空腹で命の危機のもとにあった、そういう場合は特例として安息日の規定が適用されない」と説明していたのです。律法では安息日でも命の危機においては、例外を認められる、ということです。昔は安息日を守るということに徹底して、殺されてしまうこともありました。それではイスラエルの民全体が滅ぼされてしまうので、合理的な考え方をするようになりました。

神殿よりも偉大な方
 更に次のことが語られていきます。主イエスは「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか」(5節)と語られました。神殿にいる祭司たちはその職務を遂行するために先ほどの箇所で見たように安息日に供えもののパンを取り替えたり、安息日に羊や穀物の捧げ物を神に捧げることを求められています。そのためには、火を燃やす必要があります。また犠牲とする動物を引いていって、それを作法にのっとって屠殺し、血を抜き、解体してしかるべき部分を焼いて捧げるのです。ものすごい重労働です安息日の捧げものは毎日の捧げものよりも多くを要求されますので、それだけたくさんの準備、すなわち仕事をしなくてはなりません。祭司がそのような仕事をしても安息日の律法を破ったことにはなりません。神殿に仕える祭司たちでさえそうであるとすれば、神殿よりも偉大なお方である主イエス・キリストに仕える弟子たちが安息日に何かをしたからといって、それが律法違反になるはずはないではないか、というのです。  主イエスは「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」と言われます。この6節は、前の口語訳聖書ではこうなっていました。「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる」。「宮よりも大いなる者」の「者」は、人間を示す「者」という字が使われていました。つまり、宮、神殿よりも偉大な人物がここにいる、というのが口語訳の理解です。「神殿よりも偉大な人物」とは何なのでしょうか。そのことが、次の7節に語られているのです。「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」。主イエスはここで、旧約聖書のホセア書を引用して「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と言われます。ホセア書第6章6節の言葉です。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」。「いけにえ」「焼き尽くす献げ物」とは、神殿において捧げられる犠牲です。神様が本当に求めておられるのは、そのようなものではなく、愛、憐れみなのだということです。それこそが、「神殿よりも偉大なもの」です。「神殿よりも偉大なもの」とは、「憐れみ」なのです。主イエスは神殿の犠牲のために安息日の掟が破られてよいならば、それよりも偉大なものである憐れみのためにはなおさらではないか、憐れみの心こそ、犠牲をささげることに優って神様が求めておられることだと言われるのです。神殿で犠牲をささげることと、安息日の掟を守って一切の労働を休むこととは結びついています。弟子たちは、それをちゃんとしていない、掟を守っていないと批判されています。彼らがしていたのはそういうことではなくて、空腹だったので麦の穂を摘んで食べたということです。それは人のための憐れみの業なんかではない、むしろ自分のためのこと、自分の空腹を満たすことです。主イエスはなぜ「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という御言葉を語られるのでしょうか。ここでの「憐れみ」とは神様が私たちに対して憐れみのみ心をもって接して下さる、ということです。「神殿よりも偉大なもの」とは憐れみの心です。それは神様が私たちに対して抱いてくださる憐れみのみ心なのです。主イエスはその憐れみのみ心の方が、いけにえを求める心よりも大きいと語られます。弟子たちが、今日は安息日だから休まなければといって、空腹のままでいることは、神様の憐れみのみ心に反するのです。

神の御心
 ダビデが安息日に、祭司しか食べてはいけないはずのパンを食べました。神様ご自身が、供えのパンを与えてダビデと供の者たちを支えて下さった、その空腹を満たして下さった、そういう神様の憐れみのみ心によることだったのです。神様にとっては、安息日が掟に従って守られ、神殿での犠牲が正しくささげられることよりも、この神様の憐れみのみ心によって人々が守られ、力を与えられ、励まされ、本当の平安の内に生かされていくことこそが大切なのです。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というみ言葉の意味はそこにこそあったのです。ファリサイ派の人々には神様の憐れみの御心は見えておらず、安息日の掟を正しく守ることだけを見ていたのです。神様に正しく従うこととは、安息日にはああいうことをしてはいけない、こういうことをしてはいけない、ということばかりを考えていて、行動することだと考えていたのです。神様に正しく従うとは、神様の憐れみを信じる、受け止めることです。安息日をお定めになった神様の本当のみ心は、人々が神様の憐れみのみ心、恵みのみ心の中で憩い、喜びとまことの安らぎを与えられ、新しく生きる力を与えられることなのです。その御心を見つめるのではなく、掟を正しく守ることしか考えない彼らが陥ったのは、7節の主イエスのお言葉にあるように、「罪もない人たちをとがめる」ことでした。掟を守ることによって正しい者になる、と考えている人は、掟をきちんと守っていないと思われる人を批判し、とがめるようになるのです。しかしその人たちは、「罪もない人たち」です。それは、掟に基づいて罪がないということではなくて、神様の目から見てということです。神様がその憐れみのみ心の中に受け入れ、はぐくみ、守っておられる、その人々を、彼らはとがめ、神様がそうしてはおられないのに、罪に定めてしまっているのです。ファリサイ派の人々の姿は、決して他人事ではありません。そして罪もない人たちをとがめるようなことをしてしまうのです。それは、神様のみ心を本当にわきまえるのでなく、自分が思っている、自分の考えによる神様のみ心を絶対化してしまうから起こります。私は神様のみ心がわかっている、と思うことほど危険なことはありません。そのような時にこそ、私たちは過ちを犯します。自分こそは神に従っている、反対する者は全て神の敵であり、時にそれらの者を殺すことで自分は神に仕える正しいことをしている、そう思ってしまうとのであれば恐ろしい行為であります。
 「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」。神様の本当のみ心は、そして神様が本当に願い求めておられることは、憐れみなのです。そのことは、神様がその独り子であられる主イエスをこの世に、人間としてお遣わしになり、その主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことにおいて明らかに示されています。「掟をちゃんと守って正しく生きよ」ということが神様のみ心ならば、主イエスが人間としてお生まれになることも、十字架にかかることも必要なかったのです。自分の力で正しく生きることができない、本当に神と人とを愛して生きることのできない私たち人間のために、神様はその独り子を遣わして下さり、その独り子の命を与えることによって、私たちの罪を赦して下さったのです。その憐れみのみ心こそ、神様の本当のみ心、御心の中心です。主イエス・キリストによって、その神様の憐れみのみ心を知り、その御心によって守られ、生かされ、養われていくことが、私たちに求められている信仰なのです。

安息日の主
 最後の8節に「人の子は安息日の主なのである」とあります。「人の子」とは主イエスがご自身を言う言葉です。主イエスは安息日の主であられる。安息日に違反することは、その主である主イエス・キリストに違反することになります。安息日は神を礼拝する日です。それはまた、安息日の主である主イエス・キリストを礼拝する日です。主イエスに示されている神様の憐れみのみ心によって守られ、生かされ、養われていくところにこそ、私たちのまこと安息があります。主イエスは本当の安息を与えて下さる方、私たちを本当に休ませて下さる方なのです。主イエスは11章25節以下とつながります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と主イエスは言われました。主イエス・キリストが、私たちにまことの安らぎを与えて下さる方であられることを私たちは聞いてきたのです。それは言い換えれば、主イエスによってこそ、私たちの安息日が本当に安息日となる、ということです。

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