「嵐を静める」 伝道師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第124編1-8節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第8章23-27節
・ 讃美歌 : 57、510
主イエスとは誰か
本日は共にマタイによる福音書第8章23節から27節をお読みしたいと思います。
「主イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」(23節)と始まります。 本日の箇所の前の部分ですが、18節において主イエスは「自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸へ行くように命じられた。」とあります。主イエスは周りにいる群衆たちを見て、弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と命じられました。そして、また本日の箇所の先の箇所ですが、28節には「イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれる」とあります。主イエスが向こう岸へ行くようにと命じられた場所はガダラ人と言う異民族が住む土地でした。主イエスは自らが進んで舟に乗り込み、出発しょうとされたのです。弟子たちは主イエスに従い、湖を渡って向こう岸へ行くように命令されましたので舟に乗り込みました。「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。」(24節)とあります。
本日の箇所の小見出しには「嵐を静める」とあります。26節の後半において、主イエスは「起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」とあります。主イエスが荒れ狂う風と湖とをお叱りになって、嵐が静まり、すっかり凪になったのです。この光景を見た人々は驚きました。「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」。(27節)私たちも同じ驚きを覚えます。風や湖さえも叱りつけ、従わせることができる、このお方、主イエスとは一体誰なのだろうか、どんな方なのだろうか、と思います。
主に従うゆえに
弟子たちは自分たちの希望したのではありません。自分の思いではなく、主イエスの御命令に従い舟に乗りました。激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになったのは、主イエスの命令に従った結果でした。主イエスが先立って乗り込まれたこの舟に、弟子たちは主イエスに従って共に乗り込んだのです。もう一度18節をお読みします。「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。」主イエスは自分を取り囲む群衆をご覧になり、弟子たちには向こう岸に行くように命じられました。そこには、主イエスに従ってきていた群衆たちと、弟子たちとの違いがあります。弟子たちは、主イエスを見送る群衆たちとは違います。弟子たちは主イエスに従って、舟に一緒に乗り込んだのです。そこには、主イエスに従うという信仰の決断があります。信仰を持つということは、主イエスの弟子になるということです。信仰とは、主イエスに従って、自分も主イエスと一緒に舟に乗り込むことです。そこには決断がいるということになります。主イエスと共に船出をすることです。それが、洗礼を受けて信仰者になること、教会の一員になることです。舟というのは教会と深く結びついています。古来、教会を象徴するものとして理解されてきました。教会とは、主イエスと共に漕ぎ出す舟なのです。その舟が激しい嵐によって、波にのまれそうになったのです。その舟が激しい嵐に遭うのです。激しい風が起こり、舟は波にのまれ、沈みそうになるのです。そして「イエスは眠っておられた。」と24節にあります。主イエスと共に漕ぎ出した舟が、このような嵐に遭い、沈みそうになったのです。この嵐とは、私たち人間が人生において起ってくる様々な苦しみ、困難、悲しみを象徴しているのではありません。これは、信仰をもって歩んでいこうとする者に起こってくる、その信仰の旅路において起ってくる苦しみ、困難であり、悲しみなのです。主イエスに従って舟に乗ったのに、そのような激しい嵐が起こったのです。生きるか死ぬかというような局面になってしまったのです。主イエスが、「向こう岸へ渡ろう」とおっしゃり、その言葉に従って、舟に乗ったのです。そうしたら激しい嵐が起こったのです。主イエスを信じたら、何もかもうまくいくのではないのでしょうか。主イエスに従ったら、すべては順調にいくのではないでしょうか。
眠っているのは
イエスさまに従っていったのに、どうしてこんなことが起こるのか。この問いかけは弟子たちだけではなく、私たちもまた経験することです。主イエスを信じ、従ってきたのにどうしてこのようなことが起こるのか、なぜだろうか。信仰を持っている人も、持っていない人も同じように、人生には様々な波があり、嵐が襲って来ます。しかし、主イエスを信じ、従って者にとって、それはより大きな苦しみ、嘆きとなるのです。自分が信じて従ってきたはずの主イエスが、大事なとき、自分が生きるか死ぬかという時に眠り込んでしまっている。主イエスは自分の苦しみ、困難、悲しみを理解してくれない、そのために行動してくれない、いざという時に何も役に立ってくれない、という思いです。弟子たちが、眠っている主イエスに覚えたのはそのような思いだったのではないでしょうか。主イエスを信じ、従って来たのに、あなたの命令によって漕ぎ出したのに、今このような危機に陥ってしまったという思います。主イエスが、自分の一番大事な時に助けてくれない、という思いが「信仰の薄さ、小ささ」なのです。主が共にいて下さるのに、実は主イエスが見えなくなってしまったというのです。そのことが信仰の薄さ、小ささなのです。
救って下さい
弟子たちは主イエスに近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言いました。「主よ、助けてください。おぼれそうです」という弟子たちの叫びは、嵐の中で舟が沈みそうになっている、という状況に合わせてこのように訳されています。この部分を直訳しますと「主よ、お救いください。私たちは滅びようとしています」ということです。「助けてください」とは「救ってください」という言葉です。主イエスの救いを求めて弟子たちは叫んだのです。「おぼれそうです」は口語訳聖書では「わたしたちは死にそうです」となっていました。おぼれて死んでしまうという恐怖の中からの叫びです。その恐怖の根本にあるのは「自分が滅びてしまう」ということです。それはこの場合には、文字通り死んでしまうということです。しかしその滅びは肉体の死のみではない、様々なことを意味することができます。自分の地位が、名誉が、生活の土台が失われてしまう、家族が、愛する者たちが奪われてしまう、それらの様々なことにおいて、私たちは滅びへの恐れ、恐怖を抱くのです。「主よ、お救いください。私たちは滅びようとしています」という弟子たちの叫びは、私たちが様々な状況の中で発する叫びであると言うことができるでしょう。
弟子たちの舟を「激しい嵐」が襲いました。この「嵐」と訳されている言葉は、「地震」という意味の言葉です。「激しい嵐」は「大地震」とも訳せるのです。湖の上で起っていることだから「嵐」と訳されているわけです。地震の恐ろしさを私たちは今痛感しております。地震による津波の被害は甚大なものです。地震は私たちの生活にも大きな影響を及ぼしております。 聖書では「地震」を戦争や飢饉と並んで、この世の終わりに起る苦しみの出来事として語られています。私たちを滅びの恐怖に陥れる地震と同じような、人生を土台から揺さぶり、崩壊させていく力を、弟子たちは湖に浮かぶ舟の上で体験したのです。その力の前で人間は全く無力です。ただうろたえて叫ぶしかないのです。私たちの人生もしばしばこのような滅びの力にさらされます。ある日突然、思いがけない出来事によって、それまで平和に無事に過ごしてきたはずの日々ががらがらとくずれていくようなことを体験するのです。あるいはその滅びの力が、徐々に徐々に私たちの生活を蝕んでいくということもあります。そのような滅びを、崩壊を食い止めようと私たちは必死になります。弟子たちも必死に舟を操り、入ってくる水をかき出したことでしょう。しかしそのような人間の力は圧倒的な滅びの力の前に無力です。私たちは「主よ、救ってください。私たちは滅びようとしています」と叫ばずにはおれないのです。
主が乗っておられる舟
弟子たちは滅びの恐怖の中で「主よ、助けてください。おぼれそうです。」(25節)と救いを求めました。そして、眠っておられた主イエスは起き上がって、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言われたのです。それはどういう意味でしょうか。「なぜ怖がるのか、怖がる必要などない」ということなのです。何故怖がる必要がないのでしょうか。それは、この舟には、神の独り子主イエス・キリストが乗り込んでおられるからです。弟子たちの舟は、主イエス・キリストが共におられる舟なのです。弟子たちはそのことを見失っています。弟子たちには主イエスのことが見えなくなってしまっていたのです。共におられる主イエスがおられるのに、実は見えていなかったというのが「信仰の薄い者たちよ」ということです。信仰が薄いとは信仰が小さいという言葉ですが、それは、主イエスが共におられることを見失ってしまうこと、それによって安心、平安を失ってしまうことなのです。主イエスがこの嵐の中で眠っておられたということには、主イエスご自身が本当の信仰に生きておられたことが示されています。主イエスは安心しておられたのです。だから眠っておられたのです。それは、父なる神様の守りと導きに身を委ね、父なる神様が必ず共にいて支えて下さることを信じているお姿です。信頼しきっているまことの神の子のお姿です。天地を造られ、御支配なさる父なる神の子どもです。その神に全てを委ねるお姿です。主イエスはまことの信仰によってこの平安の内におられたのです。しかし、弟子たちは、その主イエスと共にいながら恐怖に捕えられ、慌てふためいてしまっておりました。その姿こそが信仰の薄さ、小ささであったのです。これは厳しい主イエスのお言葉であります。ここに人間の信仰の小ささ、弱さが示されております。主が隣にいるのに、同じ舟におられるにもかかわらず、主が見えていなかったのです。しかし、主イエスは起き上がり、風と湖をお叱りになったのです。そして「すっかり、凪になった。」(26節)になったとあります。天地を造られ、御支配なさる神のお姿がそこに見えます。主イエスはここで、慌てふためく弟子たちをお叱りになったのではありません。また、弟子たちの力に期待をして、「もっと頑張れ」と言ったのでもありません。「主イエスは「風と湖をお叱りになったのです」それでは主イエスが弟子たちに言われた「信仰の薄い者たちよ」とはどういう意味でしょうか。24節に「イエスは眠っておられた。」とあります。そして、この主イエスのお姿は「父なる神様への完全な信頼の内にあられる」ということを示しているのです。主イエスはどのような時も、誰よりも父なる神を信頼しておられたのです。しかし、その主イエスのお姿を弟子たちは、自分たちの大事な時に眠ってしまい、自分のために何もしてくれない、と絶望してしまったのです。
主は知っておられる
弟子たちからすればそれは、この大事な時にイエス様はなぜ眠り込んでおられるのか、私たちのために何もして下さらない、という気持ちだったのではないでしょうか弟子たちが主イエスを起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言ったのには、「イエス様、なんとかしてください、私たちをお見捨てになるのですか」という気持ちが込められているのです。主イエスはそのような弟子たちをすべて御存知でありました。主イエスに対して苛立ちを覚え、自分たちを本当に守り導いては下さらないのではないかという疑いに陥っている弟子たちの気持ちを知っておられます。そして、主イエスは「何故怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と語りかけられました。そして主イエスは風と湖とを叱って、嵐を鎮められました。その主イエスのお姿は弟子たちとどのような時も共にいて下さり、弟子たちのことを忘れて眠り込んでいるのではないのです。必要な時に必要な助けを必ず与えて下さる主イエスのお姿です。主イエスが舟に乗り込み、弟子たちがその後に従っていく、そのように出発した舟、即ち信仰の舟は、主イエスが最後まで共にいて下さるのです。人間の集う舟は途中で嵐が、地震が襲い、信仰の根底を揺さぶられつき崩されてしまうようなことがあります。けれども共におられる主イエスが、必ずその嵐を、地震を鎮めて下さるのです。主イエスは「何故怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言われました。「信仰の薄い者たちよ」とは「小さな信仰の者たち」という言葉です。信仰が小さいということです。けれども、信仰が「ない」のではありません。信仰は小さいけどあるのです。何故なら弟子たちは主イエスと共に舟に乗り込み、主イエスに従って漕ぎ出し、出発をしました。そこに、陸に留まっている群衆とは違うのです。同じ舟に乗っているのです。
主の近くで
主イエスはそのような弟子たちの姿、また私たちの信仰の姿を御覧になるのです。しかし私たちの信仰は薄い、小さなものです。嵐が起ってくると、特に信仰のゆえに様々な苦しみがかえってより深い、人生の土台を揺さぶるような苦しみとなることを体験すると、心が萎えてしまい、あなたに嘆いてしまうものです。主イエスの恵みを見失ってしまい、疑ってしまい、何の役にも立たないのではないかと思ってしまうのです。その小さな信仰を主イエスは救い上げて、ご自分が嵐に打ち勝ち、救いのみ業を行って下さるのです。私たちの信仰は薄く、小さなものです。嵐に翻弄され、あわてふためくことの連続なのです。しかしその小さな信仰によって、私たちが主イエスに従い、主イエスの舟に乗り込み、共に漕ぎ始めるのです。この舟には主イエスが先に乗り込んでおられ、私たちを招いておられるのです。招いて下さった主イエスは、その招きに答えて乗り込んだ私たちを、最後まで守り支えて下さるのです。私たちが嵐におびえてその守りを見失い、「主よ、お救いください。わたしたちは滅びようとしています」と救いを求めていく時に、主イエスはそれに答えて、「何故怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」と言って下さり、その力を発揮して救いのみ業を行って下さるのです。私たちに、主イエスの力を体験させて下さるのです。どんなに小さな、ちっぽけな信仰であっても、主イエスに従って信仰の舟に乗り込み、漕ぎ出した者が一番近くでその主イエスの力を体験するのです。
罪人のために
私たちは主イエス・キリストの十字架の出来事を覚える受難節を歩んでおります。主イエス・キリストが私たちのために十字架の苦しみと死を受けて下さり、そして復活して下さったことを特に覚える時を今歩んでいます。主イエスが、神様を無視し、従おうとしない罪人である私たちのために、私たちの罪を全て背負って、身代わりになって十字架にかかって死んで下さいました。全ての人間の罪のために死んで下さったのです。主イエスの恵みと関わりのない人は一人もいないのです。主イエスは常に私たちに語りかけ、「私に従ってきなさい」と招いて下さいます。主イエスの受難を覚えていく時、私たちは主イエスが私たちの人生の船旅に共に乗り込んで来て下さり、そして共に歩もうとしておられることを覚えます。主イエスの招きに応えて、主イエスを信じ、従い、新たな週の歩みを主と共に漕ぎ始めたいと思います。