夕礼拝

手を差し伸べて

「手を差し伸べて」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: エゼキエル書 第37章1―14節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第8章1-4節
・ 讃美歌 : 11、527

御言葉から御業へ
 本日は共にマタイによる福音書第8章1節から4節までをお読みしたいと思います。 マタイによる福音書第5章から7章までは「山上の説教」と呼ばれる、主イエスの山の上での教えでありました。本日から第8章へと入ります。第8章1節には「イエスが山を下りられると」とありますので、主イエスが教えを語り終えられ山を下りて来られたと言うことです。その「山上の説教」を終えて、本日から新しい部分へと入って行きます。山を下りられたということは、5章1節の言葉と対応しています。5章1節には「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」とありました。5~7章の説教をはさんで、その前には「山に登られた」とあり、その後には「山を下りられた」とあります。このようにマタイ福音書は、5~7章の教えに、「山の上」という枠組みをつけていますので、ひとまとまりの説教なのです。また、これより読んでいきます第8章と9章はやはり一つのまとまった部分です。第8章と第9章では、主イエスのなさった様々なみ業、特に、病気を癒したり、悪霊を追い出したりする奇跡がまとまって語られています。それだけではありませんけれども、主イエスの奇跡を中心にして主イエスの御業を語っております。そして、第10章では主イエスに召し集められ、派遣される弟子たちの姿を改めて描くというように話が続いていきます。第5~7章では「主イエスの教え」が語られたことに対して、第8,9章では「主イエスの御業」を語っていきます。そしてこのことは、既に4章23節で予告されていたことでした。4章23節には「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」とありました。主イエスは「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」とありますので、これが主イエスの「教え」です。この教えが「山上の説教」にまとめられておりました。そして「民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」というのが主イエスの「御業」です。それが8、9章にまとめられているのです。4章23節に語られていたことの内容を詳しく述べているのが5~9章であります。

主イエスに従う
 山上の説教を語られた主イエスが山を降りられました。8章1節に「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った」とあります。「大勢の群衆」がそこにいるのです。山上の説教を聞いていた群衆が、その主イエスの後を、ぞろぞろとついてきたのです。この言葉も5章1節の「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」と対応しています。そして「この群衆」とは、その前の4章25節に「こうして、ガリラヤ、デカポリス、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」とある、その群衆です。イエスに従って来た大勢の群衆がいたのです。その群衆に対して、主イエスは「山上の説教」を語られたのです。「山上の説教」は、主イエスに従ってきた人々に対して語られているのです。主イエスに従ってきた人々とは、信仰者ということです。信仰者に対する言葉だということです。あるいは信仰者とまで言わなくても、少なくとも信仰を求めている人々に対する言葉だということです。信仰とは、主イエス・キリストに従うことです。その信仰を求めている人々に、主イエスに従うとはどういうことであるかを教えているのが「山上の説教」なのです。
 8章の1節に「大勢の群衆が従った」とあります。そして、「すると」と2節以下の奇跡の物語に入っていきます。つまり、これから読んでいく8、9章の主イエスのみ業、奇跡を語る部分においても、この群衆の存在が前提となっているのです。イエスに従ってきた群衆、信仰を求めている人々の前で、主イエスのみ業が行われていくのです。それは単に主イエスの大きな力、病を癒したり、悪霊を追い出したりする力を示すためだけのことではありません。これらのみ業において、主イエスに従うとは、信仰とはどういうことであるかが示されていくのです。つまり「山上の説教」において、教えとして語られたことが、今度は個々様々な場面において、実演されていくのです。

重い皮膚病を患った人
 本日の箇所はそのような箇所です。「重い皮膚病を患っている人」が登場します。重い皮膚病は当時の人にとっては医学的な知識も充分ではなく、薬もなかったために、一度かかると治らない、非常に恐れられていました。旧約聖書においても、またこのような病気にかかった人は「汚れた者」とされて、一般の人々と共に住むことはできなくなり、町の外で、同じ病気の人々どうしで暮らさなければならなかったのです。町の中に住むことが出来なかったのです。このような病を患う苦しみは、家で家族の看病を受けることができる者とは比べものにならない、人々から隔離され、社会から排除されるということを伴う激しい苦しみだったのです。
 その苦しみを負っている一人の人が、山から降りてこられた主イエスのもとにやって来ました。主イエスの背後には大勢の群衆が従っています。これはそれだけで大変なことです。重い皮膚病を患っている人は、汚れた者とされていたわけで、汚れた者は人前に出ることができない、人と接触してはならないとされていたのです。だから歩いていて人が近づいてきたら、「私は汚れています」と言って人を避けなければならないとも言われていました。そういう人が、大勢の群衆を従えた主イエスの前に進み出ることは、とんでもないことであり、その人にしてみれば、大変な勇気を必要とすることだったのです。ここに、主イエスをはさんで、非常に対照的な姿が描き出されています。一方には、主イエスに従ってきた群衆たちがいます。彼らは、主イエスの側近くでその教えを聞くことができる人々です。そして主イエスに従い、ついていくことができる人々です。その中心には弟子たちがいます。弟子たちはまさに一切を捨てて主イエスに従い、主イエスと共に歩んでいました。群衆たちも、しようと思えばそうすることができるのです。それに対して他方には、重い皮膚病を患った人がいます。彼は、主イエスの前に進み出ることすらもはばかられるのです。人々と共にその教えを聞くこともできないのです。主イエスに従って共に歩むことなど、とうてい適わない人なのです。2節「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」。彼は主イエスに近寄り、つまり御前に進み出て、ひれ伏したのです。「イエスに近寄り」と訳されている言葉の元のギリシア語の持っております意味は、もう少し強く言いますと「前へ進む」という意味があります。「前に一歩踏み出す」のです。「イエスに向かって一歩を踏み出す」という意味です。また。この「ひれ伏す」と言う言葉は主イエスをひれ伏して拝む、つまり礼拝するという意味です。重い皮膚病を患っているこの人は、主イエスの前に進み出て、主イエスを礼拝したのです。しかも彼は「主よ」と呼びかけています。イエスを主と呼び、礼拝しているのです。ここに信仰者の姿があります。主イエスを信じ、従う信仰者の姿です。主イエスのみ言葉を聞き、従ってきた、その群衆ではなく、御前に出ることすらはばかられるこの重い皮膚病の人こそが、主イエスを礼拝している、そういうことがここに描き出されています。

御心ならば
 そして、この人は「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。重い皮膚病という大きな苦しみを負った人が、主イエスの前にひれ伏して言ったのは、このような言葉でありました。大きな苦しみを負って主イエスに、神様に祈る時に、私たちならどんな語り方をするでしょうか。普通は「主よ お願いですからこの苦しみを取り除いてください、この問題の解決を与えてください」と言うのではないでしょうかこのライ病の人の場合も、「主よ、どうぞ私のこの重い皮膚病をなおして清くしてください」と願うのが普通です。けれどもこの人は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったのです。直訳すれば「もしあなたが望むなら、あなたは私を清くすることができます」となるのです。彼は主イエスの前にひれ伏し、礼拝して、このように言ったのです。

主イエスのご意志
 この重い病を患った人の言葉を私たちはどのように受け止めたらよいのでしょうか。「御心ならば」という言葉は「もしあなたが意志するなら」という意味があります。自分の願いではないのです。「私の意志」の問題ではないのです。「もしあなたが意志するなら、そのあなたの意志によって、私は清くされる。私の病は癒される。苦しみから解放される」、その確信を彼は語っているのです。「あなたが欲してくだされば、すべては解決する」とだけ言うのです。主イエスの意志こそが、全てを左右する、主イエスが意志されるならば、どんなに不可能と思えるようなことでも実現する、私の重い皮膚という病も癒され、苦しみから解放される、私に必要なのは、そのあなたの、主イエスのご意志です、そのご意志を与えて下さい、と彼は必死に願い求めているのです。病気が治っても治らなくてもどちらでもよい、ということではありません。彼は自分の癒しを切に願っています。それを求めて主イエスのもとに来たのです。しかし彼は、その癒しが、主であられるイエス・キリストのご意志によることを知っているのです。だから求めるべきことは、主イエスがそれを意志して下さることだと確信しているのです。主イエスの意志、主イエスの恵みの意志に対する深い、徹底的な信頼があるのです。私たちはここにも信仰者の姿を見ることが出来ます。主イエスのご意志を求め、そのご意志に従って歩むところにこそ、救いがあり、癒しがあり、慰めがあるのです。それが、主イエスのみ前にひれ伏し、礼拝をした人の思いです。私たちは様々な悩みや苦しみをかかえて神様を礼拝することがあります。そのような思いで教会の礼拝に集うことも多々あります。そこで私たちがしがちなことは、悩みや苦しみからの救いを求める自分の思いが主になって、それを神様に、主イエスに、何とか聞いてもらおう、届かせようとすることです。しかしそれでは、自分のご利益を与えてくれる神様を求めているのです。私たちの信仰は主イエスのご意志、御心にこそ救いがあり、苦しみ悲しみからの癒しがあり、慰めがある、という信仰です。そのご意志、御心を求め、それに従っていくことが、私たちの礼拝なのです。主イエスのご意志、御心こそが決定的に大事であり、それをこそ求めていく、という私たちの信仰の、そして礼拝の一番大事な精神を、この重い皮膚の人の姿は表しているのです。

救いの宣言
 そして、主イエスが手を差し伸べて重い皮膚病の人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われました。「たちまち、重い皮膚病は清くなった。」とあります。主イエスは、この人の礼拝と言葉とをしっかりと受け止められたのです。主イエスは「私の意志はあなたの癒しである。癒しを意志する。きよくなり、癒されなさい。」と答えられたのです。当時の人々にとってはこの重い皮膚の人に触れるなどということは考えられないことでした。そんなことをすれば、汚れが自分にも移ってしまうと思われていたのです。だから重い皮膚病の人は人々の中で住むことが許されなかったのです。しかし主イエスは手を差し伸べて彼に触れて下さいました。誰も触れようとしない彼に触れて下さったのです。主イエスは「よろしい、清くなれ」と言われました。この「よろしい」と訳されている言葉は、直訳すれば「私は意志する」と言うことです。主イエスが意志して下さるなら、自分の重い皮膚病も癒され、清められる、その主イエスのご意志をこそ願い求めて礼拝をしている彼の思いを、主イエスはしっかりと受け止めて下さって、「私はあなたが清くなることを意志する」と言って下さったのです。その主イエスの意志によって、重い皮膚病はたちまち癒され、彼は清くされたのです。この病の人は病の故に誰にも触れられない歩みをしておりました。主イエスは手を差し伸べ、彼の癒しを、彼が清められることを意志して下さったのです。そのことによって、そのことのみによって、彼は癒されたのです。主イエスのご意志なのです。主イエスのご意志は、彼を捕えている病の力よりも強いのです。重い皮膚病の力を打ち破り、彼の損なわれた皮膚を再生し、新しく生かす、そのご意志をもって主イエスは彼に触れて下さったのです。「私は意志する、清くなれ」という主イエスのお言葉にこそ、彼の救いの宣言があったのです。その救いの宣言を、彼は、主イエスの前にひれ伏して礼拝をし、主イエスのご意志、御心をこそ求めていく中で受けたのです。

絶対的な信頼
 宗教改革者のマルチン・ルターはこのような説教を残しております。「この重い皮膚病の人が『主よ、御こころでしたら』と言った時、そのみこころについて、何ら疑うことはなかった。自分が癒されるということについても、何ら疑うことがなかったのである。」。徹底的な信頼をもって、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。けれども、もし癒されなかったら、どうしたら良いだろう。これは私たちの問いかけでもあります。私たちは信仰生活をする中で何度、「主よ、御心ならば」こうして下さい、と何度祈ったか分かりません。そのように祈りながら、祈りが聞き届けられなかった経験はたくさんあります。御心は自分の心とは違ってしまうということです。「この痛みを早く取り去ってください、なぜいつまでこのようなひどい目に遭わせるのですか。」と何度祈ったことでしょう。愛する者を救って下さい、と祈ったことでしょう。その時に、御心だったら治る、御心だったら解決されると信じて祈っても、主イエスの御心、ご意志と自分の願いとは違うところを向いていることがあります。どうするのでしょうか。そのような自分の願いもひっくるめて、「主よ、御心ならば」自分の疑いも迷いも主に委ねて、その御心の元に、主イエスのご意志の元に立つということです。このことが信じるということです。私たちは神様の御心の実現をこそ第一に求め、そこにこそ自分の救いがあることを信じる者になることを求められているのです。主イエスのご意志にこそ私たちの救いがあるのです。それは、主イエスがそのご意志によって、私たちのために、十字架の死への道を歩み、その苦しみを引き受けて下さったからです。主イエスのご意志とは、ご自分が私たちの罪を背負って、身代わりになって死んで下さることでした。そのことによって私たちが、天の父なる神様の子として、私たちに必要なものを全てご存じであり、それを与えて下さる父の恵みの中で生きる者となることでした。そして私たちが、病や、肉体の死をも超えて、神様の力によって生かされていくことでした。私たちはその主イエスのご意志、御心を求めて礼拝を守ります。そしてみ言葉によって、その主イエスの、また主イエスを遣わして下さった父なる神様の恵みのご意志、御心を告げ知らされつつ歩むのです。このらい病の人はそのようなまことの礼拝の恵みに生かされ、新しくされました。そのことが、主イエスに従ってきた大勢の群衆の前で起りました。多くの人々が主イエスに従っていたけれども、このようなまことの礼拝とその恵みに与ったのは彼らではなく、主イエスのみ前に出ることすらもはばかられたこのらい病の人だったのです。このことは私たちへの問いでもあります。あなたがたは主イエスのみ言葉を聞くことができ、主イエスに従っていくこともできる、実際に主イエスの後について行っているかもしれない、しかしそのあなたがたは本当の礼拝に生きているか、本当に主イエスの前にひれ伏しているか、主イエスのみ心にこそ救いがあり、癒しがあり、慰めがあることを信じて、それを求めているか、そう私たちは問われているのです。この重い皮膚病の人と共に、主イエスのみ前にひれ伏し、まことの礼拝に生きる者でありたいと願います。そして主イエスがその私たちに手を差し伸べ、触れて下さり「私は意志する、清くなれ」と語りかけて下さいました。主イエスが御手を差し伸べて、触れて下さり、語りかけてくださるところに私たちのまことの救いがあるのです。

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