夕礼拝

御国が来ますように

「御国が来ますように」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第103編23節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章10節
・ 讃美歌 : 37、494

み国
 「主の祈り」とは主イエス・キリストが「だから、こう祈りなさい。」と教えて下さった祈りです。本日はまずその祈りの中の第二の「御国が来ますように。」という祈りを共にお聴きしたいと思います。この「御国が来ますように。」という祈りは、私たちが共に祈る「主の祈り」の言葉で言えば「み国を来たらせたまえ。」という言葉になっております。「み国」と言うのは直訳をすると「あなたの国」即ち「神様の国」です。そして「国」と言う言葉は「支配」と言い換えても良いのです。「あなたの国」即ち「神様の支配」が来ますように、と祈ることを主イエスは私たちに求められているのです。私たちが自分の幸せについて祈るのではなくて、神の支配の到来について祈るように教えられているのです。私たちがこの祈りを祈るとき、どのような思いで祈るでしょうか。このように考えて祈るのではないでしょうか。「み国を来たらせたまえ」即ち神様の支配が来て下さい。「み国が来る」「神様の支配」が来る、実現するとはどのようなことでしょうか。「み国」「神の国」を私たちはどう捉えているのでしょうか。私の今の様々な状況が改善され、事柄が良い方向へ進むことこそが神様の支配の実現だと考えるのではないでしょうか。今の苦しみや悲しみや不幸などはすべて取り去られ、そして幸せな、悩みのない世界になる。そのような世界を神様、来たらせて下さい、実現して下さいと祈るのではないでしょうか。もし今自分自身が悩みや悲しみの中に置かれているのであればなおさらではないでしょうか。「み国を来たらせたまえ」とは私たちが「私の悲しみや苦しみを取り除いて下さい。」という意味を込めて祈るのことなのでしょうか。私たち一人一人が個々人の生活において抱えている悩みや悲しみについて祈ることもあります。私たちを造られ、ご支配なさる主なる神に祈ることは大事なことです。自分の生活の場における事柄を祈ること、また同時にこの世界を見渡すとこの世界は多くの問題を抱えております。争いが絶えず、政治的な問題や経済的な問題が溢れております。そのような中で、私たちはこの世を造られ、支配なさる神様に「み国を来たらせたまえ」と祈るしかないと思わざるを得ません。今の現実を神様が変えて下さり、苦しみ悲しみを取り除いて下さい、そして喜びと幸せの世界にして下さることを願い求める祈りとして受けとめていることが多いのではないでしょうか。教会と言うのはこの世に対して、まさにこのような祈りを祈る群れであります。私たちの日々の歩み、私たちの住む今のこの現実の世界は、とても「み国」「神様の支配する国」ではないのです。また、この「来ますように」という言葉はギリシャ語では命令形になっております。ですから、「神様のご支配よ、来い」と祈っていることになります。そこでは、「み国」を来たらせて下さいと、神様の支配の到来を切に祈り求めているのです。命令形でもいくつかの用法があるのですが、ここに書かれているものはこの言葉の独特の命令の仕方です。ある人はこう言っております。「み国よ来たれとは、その言葉の本来の強さがあるが、この用法はさらに効果的であって、実際に、また完全に来させる、という意味がある。」と言っております。そのように、ここでの言い方は、ただ来たらせてほしい、というようなことではなくて、実際に、完全に、という意味が強く込められているのです。

主イエスの到来
 このような主イエスの「だから、こう祈りなさい。」という教えに続く、本日の箇所の「御国が来ますように。」との祈りを聞きますと、私たちはこう思うのではないでしょうか。「み国」すなわち「神の支配される国」が来るように願うということは、今はまだ神の国は来ていないということになります。そのように神の国、神の支配がまだ来ていないとしたら、神の支配が今はおこなわれていない、ということになってしまいます。今の私たちの世界は神様の支配の元に置かれていないことになってしまいます。主イエスが語られた御言葉をもう一度振り返りたいと思います。同じマタイによる福音書第4章17節の、主イエスはみ言葉を聞きましょう。主イエスが御言葉を宣べ伝え始められたときのお言葉です。「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」とあります。主イエスは「天の国は近づいた」とお語りになったのです。天の国は神様の国です。天の国、神の国がそうあなたのすぐそばに来ている、あなたが手を伸ばせば触ることができる所まで来ている、ということです。神の国はそのように私たちのところに近づいているのです。神の国、天の国が近づいているとはどういうころでしょうか。それはどのようなことによって言えるのでしょうか。それは主イエスの到来です。主イエスがこの世に来られたということです。同じマタイによる福音書第12章28節で主イエスは言われます。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」主イエスは神の国、神の支配、み国をこの世にもたらすために来られたのです。神の独り子なる主イエスが来られたことによって、神の支配は既に私たちのすぐそばまで、私たちが手を伸ばせば触れることができるところまで来ているのです。主イエスが教えて下さったこの祈りは、主イエスによって神の国がもたらされているということを前提としており、その神の国の現実の中に私たちが生きることができるように、という祈りなのです。

神の国
 けれども、このような疑問が湧くのではないでしょうか。神の支配の中に置かれている私たちになぜ、悩みや悲しみがあるのでしょうか。主イエスによって神の国がもたらされており、私たちが既にそのご支配の中に入れられているとするならば、何故このような悩みや悲しみ、苦しみが、世界における悲惨な出来事が起こるのかと思ってしまいます。神の国に入れられているこの自分が、どうしてこんな悲しみ、苦しみ、悩みに出会うのかと考えてしまいます。主イエスによって、神の国が近づいたというのは本当なのであろうか、と問わざるを得ない現実を歩んでいるのではないでしょうか。私たちが歩むこの現実は、本当に神様の支配の中に置かれているのであろうかと問わざるを得ない現実です。この生活の中に、神の支配を見ることができない、そこに神の国があるとは感じられないのです。だから私たちは「み国を来たらせたまえ」という祈りを、現実にはない世界を願い求めるような思いでしか祈ることができないのです。けれども主イエスは言われました。「天の国は近づいた」即ち「神の国は近づいた」と言われました。そのことを前提として、そのことを踏まえて「御国が来ますように」と祈ることを教えられたのです。主イエスが言われたことは「神の国は近づいた」ということです。けれども私たちは、自分の現実の中に神の国を見ることができないのです。このギャップはどういうことでしょうか。それは私たちが「神の国」というものをどのように考えているかによることであります。私たちが「神の国」と聞いて何をイメージし思い浮かべるでしょうか。悩みも悲しみも、苦しみもない世界、そのような状態こそ「神の国」であると思われるでしょうか。神の国が来れば、悩みも悲しみも、苦しみも解消されて平和が与えられると思うのです。しかし、神の国とは一体何でしょう。それは、神のご支配であります。神が支配しておられる、それが神の国です。私たちは神様が支配なさるのであれば悩みも悲しみ苦しみもないと平和な状態であろうと思います。それは私たちのイメージする、私たちの考える神の支配ではないでしょうか。私たちがそのように考える根底には、神様は人間を幸福にし、平安を与える存在であるということがあります。そのような神様と言うのは私たちの造りだした神様であり、自分のための神様であります。人間の考え出す神様とは、人間のための神、自分のための神、人間に仕える神様です。私たちはそのような神様を求めているのではないでしょうか。そうであるならば、神の国は私たちが悩みや悲しみ、苦しみから解放されて平安でいる状態ということになります。けれども、私たちは私たちの思いを神に押し付けることはできません。大切なことは神様御自身がどのように私たちを支配なさるのか、ということでしょう。そこにこそ、神の支配、神の国あるのです。神様御自身がどのようにして私たちをご支配なさるのでしょうか。それは神の独り子イエス・キリストによってです。主イエスが来られたことによって「神の国は近づいた」また「神の国はあなたたちのところに来ている」と言われているのは、主イエスが来られたことによって神様が私たちに対するご支配を確立しょうとしておられるということです。更に詳しく言うならば神はその独り子イエス・キリストの十字架における苦しみと死の出来事と復活によってご支配をされるのです。主イエスが私たちのために、私たちの罪をすべて引き受けて十字架にかかられました。私たちはこの十字架の出来事による支配の中に置かれているのです。神の支配がこの主イエス・キリストの十字架の出来事によって私たちに与えられているのです。私たちの歩む現実とは、悩み、苦しみ、悲しみの中であるかもしれません。けれどもなお、十字架において死に、復活された神の独り子のご支配を信じるときに「み国を来たらせたまえ」と祈ることができます。十字架において人間の罪を背負って死んで下さった主イエスは、父なる神によって復活させられたのです。神の支配は死に打ち勝つ支配であります。私たちの現実の厳しさ、悩み、苦しみ、悲しみがあります。その中で私たちを脅かし、恐れを与える究極的なものは死の支配です。その死を打ち破って下さった主のご支配を信じ、私たちは祈るのです。「御国が来ますように。」そして「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」

神の恵み
 「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」とは主の祈りの第3の祈りです。私たちの祈る言葉で言えば「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。この祈りは「神様の御心がなるように、行なわれますように」と祈ることです。神の御心というのはどういうものなのでしょうか。宗教改革者のマルチン・ルターは「御心とは、良い恵みに満ちたものである」と言いました。恵みに満ちているということです。イエス・キリストによって示された恵みなのであります。 どういうことでしょうか。主イエス・キリストご自身の祈りに示されております。26章36節以下では「ゲツセマネの祈り」という主イエスご自身の祈りがあります。捕えられ、十字架につけられていく直前に、主イエスはゲツセマネでこのように祈られたのです。「そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに』」。神様のみ心が父としての恵みのみ心であることを誰よりもよく知っているのは主イエスです。しかしその主イエスが今、死ぬばかりに悲しんでおられます。その様子が「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と言う祈りからわかります。耐え難い苦しみを目の前にし、神に祈るのです。目の前にあるこの現実のどこに、恵みのみ心があるのか、と思わざるを得ないのです。しかしそのような苦しみの中で主イエスは、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。恵みのみ心がわからない、見えない、そのただ中で「み心が行われますように」と祈られたのです。私たちの罪を赦して下さるために十字架に赴かれた主の祈りです。主イエスが神の御心を求めながら、祈りました。そして最後に行き着いたところは御自分の意志ではなく、神のご意志、ご支配を受け入れることでした。

地の上にも
 そしてこの主イエスのゲツセマネの祈りにおいて、主の祈りの言葉における「天におけるように地の上にも」ということが実現しているのです。私たちは「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈っています。み心が天においては実現している、そのように地の上にも、というわけです。しかし、み心が天において行われているとはどういうことでしょうか。天という、この地上とは全く違う別の世界、神様の世界があって、そこではみ心、ご支配が完全に実現しているのです。神様の天におけるご支配は、独り子イエス・キリストを人間としてこの世に生まれさせ、その十字架の苦しみと死と、そして復活によって、私たちの罪を赦し、私たちを神の子として下さる、その救いのみ心です。その天における神のみ心によって、主イエスはこの世にお生まれになったのです。主イエスが、天における神様のみ心、ご決意を受け入れ、わたしの願い通りではなく、そのみ心が行われますようにと祈られた、そのことによって、天におけるみ心は地上においても行われていったのです。本日共に読まれた旧約聖書の個所、詩編第103編の22節をお読みします。「主に造られたものはすべて、主をたたえよ 主の統治されるところの、どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ。」です。神様が神の御心を行なうこととは、このように恵みのみ心を行なうことです。私たちが主の日の礼拝の場に集い、私たちが主イエスによって示され実現された神様の恵みのみ心に支えられて、それぞれに与えられている持ち場において、与えられた御業に喜んで忠実に果たしていくこと、み心を行っていくことなのです。私たちが自分の思いではなく、神様のみ心に言い逆らうことなく聞き従い、そして与えられている務めや働きを、喜んで忠実に果たすことによってみ心を行っていくことができるように、祈りを合わせましょう。

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