夕礼拝

求める者

「求める者」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第84章2-5節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章38-42節
・ 讃美歌 : 337、450

向かってはならない
 本日は共にマタイによる福音書第5章38節から42節に聞きたいと思います。小見出しには「復讐してはならない」とあります。これは律法の言葉であり、律法には『目には目を、歯には歯を』とあります。このように「目には目を、歯には歯を」と復讐を認めている教えに対して、主イエスは「しかし、わたしは言っておくと主イエスの教えを教えられました。主は「悪人に手向かってはならない」と言われました。これは復讐や仕返しを戒める教えです。更に「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と語られます。これはまさしく、復讐、仕返しを一切禁じる教えであり、さらに被害を受けよという教えです。「悪人に手向かってはならない。」とは多くの人々に波紋を与えました。この主の教えはどういう意味なのであろうか。復讐を禁じるということは悪人または悪をそのままにしておいて良いのか、ということになるからです。これを文字通りにとるべきなのか、これは単なる理想論であるのかということも問題になります。主イエスはここで無抵抗主義を貫けということを言っているのでしょうか。それは美しいことでありますが、果たして実際の生活の中でそのようなことをすべての人間が出来るのでしょうか。
主イエスはここで単なる理想論を語られたのでしょうか。主イエスは今山上で弟子たちに向かって教えています。それは信仰者に教えられたということです。

目には目を、歯には歯を
 主イエスの教えをしっかりと聞き、守ろうとしても私たちの実際の生活はそう簡単にはいかないものです。やられたら、やり返すというのが私たちの世界の常識です。いやな事をされたら、こちらだって黙ってなんかはいられません。断然仕返しをし、相手をぎゃふんと言わせるまでこちらも容赦しません。そうではなければやり切れないことが私たちにもあるでしょう。けれども仕返しをされたら、今度は自分の方が傷つけられ、被害を受けます。ですから、これまた黙ってなどはいられません。仕返しに対しては更なるお返しの攻撃をする。そして受けてまた再び、再三再四と仕返しの攻撃をするのですから、それが繰り返しになっていくのです。
 律法の『目には目を、歯には歯を』と言うのは有名な言葉であると思います。これは残酷に聞こえますが、実はこの律法は「同害報復法」と呼ばれるものです。程度の同じ害の報復ということです。同じ害の報復をするということです。つまり、自分に被害が与えられたのなら、その被害と同じ分量の害を相手にも与えて良いということです。しかし、それ以上はしてはならないということです。際限のない復讐に歯止めをかけるという意味を持つ律法であります。レビ記第24章19、20節にはこうあります。「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」そのようにして、自分が被害を受けた場合は、その被害と同じ分だけを相手に報いて良いと言う律法です。これは際限のない復讐を規制する法律であるのです。自分の右足が怪我させられた、骨折をさせられたからと頭にきて、相手の右足だけではなく、左足も、いや両手両足も体全部も、そして最後には命をもってとエスカレートしてはならないということです。そのようなことを規制する法律なのです。旧約の律法と言うのは、それなりに不当な犯罪を押し留める、抑制する、止めどない怒りというもの、いつまでも終わることのないない際限のない復讐に終止符を打たせたのです。

主の教え
 ところが、主イエスはここでも「しかし、わたしは言っておく」と更に驚くべきことを言われたのです。39節の教えです。「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」この主イエスの教えは先ほどの旧約の律法と比べますと、徹底した教え、より積極的な教えであります。『目には目を、歯には歯を』という律法であっても、それなりに報復行為を抑える効果を持っています。けれども主イエスは更に教えられるのです。報復行為そのものを止めるように、弟子たちに求められるのです。右の頬を打たれるという場合、そこで頭にきても、左の頬をも向けなさいと言うのです。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という教えは、単に、一発なぐられたらさらにもう一発なぐらせなさいという話ではないようです。少し考えてみますと分かりますが、相手の右の頬を打つというのは打つ相手からしますと、これは左の掌で打つということになります。右利きの人が相手の頬を打つ場合、普通にすれば相手の左の頬を打つことになります。敢えて右の頬を打つには、左手で打つか、それとも右手の掌ではなくて甲で払うように打つことになるのです。このことは相手を侮辱しているという意味合いが込められているということです。ここでの右の頬を打つということは侮辱をしているということなのです。ただ打っているのではなく、侮辱をしているということなのです。「だれかがあなたの右の頬を打つ」とは、人から侮辱を加えられること、それは馬鹿にされ、人間としての尊厳を否定されることです。それは単に殴られるということよりもよほど深い傷を受けることであり、場合によっては生きていく力を奪われてしまうようなことです。そのような苦しみ、侮辱、屈辱を人から受けた時に、主イエスは「もう片方の頬をも向けよ」と言われました。それは、その侮辱を黙って受けなさいということです。それに対抗して身を守ったり、抗議したり、相手を攻撃したりするなというのです。

上着をも
 もう一つの例が言われます。40節です。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。この「訴えて」とありますので、これは裁判の場面が想定されています。そしてそこで、手持ちの物、所持品が無いとするならば、これは着ている物しかありませんので、この着ているものをとりあえず差し押さえるということになります。お金を借りている人は、それを返せないと、持っているものを差し押さえられるのです。貸した人が、返せないならこれをよこせと要求することです。旧約の律法には色々と細かな規定がありました。その1つに何を質にとって良いのか、何を差し押さえにしてよいのかと言う規定がありました。出エジプト記第22章25、26節にはこうあります。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」。パレスチナの気候は温度差が激しく、昼間は暑くても夜は冷え込みます。貧しい人にとっては、上着も寝具となるのですから、質に取られたままで夜を過ごすことになれば、これは大変なことです。命に関わることになってしまうかもしれません。つまり、どんなに貧しくて借金が返せない人であっても、夜を過ごすための上着まで取り上げてはならない、上着はその人が生きるための最低限の権利として保証されているということです。これは人道的な律法であります。ところが主イエスはここで、「下着を取ろうとする者には上着をも取らせなさい」と言われます。それは、貧しい人に対して、認められている最低限の権利さえも放棄せよ、と言っているのです。何かを奪われたら、自分が本当に大事にしている物であっても、それをあげてしまいなさい、と言われるのです。この主イエスの教えは、苦しみを積極的に引き受けなさいということです。自分を苦しめる相手に対しても「左の頬を向けなさい。」「上着をも与えなさい」と積極的に愛をもって臨みなさい、というのです。主イエスが求めておられることは、自分を苦しめる相手を愛するということなのです。

一緒に
 更に主イエスは言われます。41節「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」ミリオンとは距離を測る単位です。ミリオンは今日のマイルであり、1.4キロということです。強制するという、この「強いる」と言う言葉が使われておりますが、誰かが一ミリオン行くようにと強いるというのです。この「強いる」とは「命令を下す」という意味があります。どのような命令かと言いますと、軍隊や役人が次の町へと荷物を運搬させるために強制労働へ駆り出す際に下された命令です。強制的に物資を運ばせるということが想定されています。当時の道中は現在ほど整備もされてもおらずまた途中で盗人などもいましたから危険なものでありました。価値のある物資を輸送するというのは大抵強盗に襲われる可能性があったのです。道が危険地帯を通る場合には、一行に同伴して一緒にこの荷物を強盗から守る役目をする者たちが駆り出されたのです。強制されるわけなのです。主イエスはその場合に、一ミリオン行くように強いられたら、更に「一緒にニミリオン行きなさい。」と言われるのです。どうして主イエスはそのように言われるのでしょうか。このような主イエスの教えには私たちはついていくことが出来るでしょうか。
 主イエスの教えの内容はこのような驚くべきことです。この通りにこの世の中で実行していったらどうなるのでしょうか。誰も自分に抵抗する者はいなくなるのです。強い者は弱い者をいくら苦しめても何の抵抗も受けなくなります。国家権力は国民にどんなひどいことを強制しても、抵抗する者はいなくなるのです。それが私たちをとりまくこの世の現実です。主イエスは、そのようなこの世の現実を無視してこの教えを語られたのでしょうか。主イエスはこの世の、私たちの現実から目を逸らして単なる理想や教条的な教えられたのでありません。それでは主イエスはこの世の現実において「天の国は近づいた」と言われました。主イエスはこの福音を宣べ伝えたのです。天の国の支配、神様のご支配ということです。神様のご支配が、この世の現実の中に、今や打ち立てられようとしている、そのことを見つめつつ主イエスはこの教えを語っておられるのです。
 天の国、神様の支配は主イエス・キリストの御業と御言葉、ご生涯の最後の十字架の出来事において示されました。主イエスは悪人に手向かうことをせず、ご自分を侮辱し苦しめる者たちに抵抗することなく、その侮辱と苦しみを受け入れられました。神の独り子であられた主イエスが、神としての権利や力をすべて放棄して、人間となり、しかも最も貧しく弱い者として歩み、最後には罪人として死刑に処せられる道を歩まれました。それは、下着を取ろうとする者に上着をも取らせるような歩みです。また私たちは、神様の独り子である救い主が共にいて下さり、私たちを守り助けて下さることを期待しています。しかし主イエスはそれ以上のことを、私たちの罪を背負って身代わりになって十字架にかかって死んで下さるということまでもして下さいました。一ミリオン行くように強いられた者が進んで二ミリオン行くのと同じことを主イエスは私たちのためにして下さったのです。これらの主イエスのみ業、歩みによって、天の国、神様のご支配がこの世に打ち立てられたのです。つまり、主イエスがここで私たちに教えておられることは、主イエスご自身が、天の国、神様のご支配をこの世に打ち立てるために歩まれる、その道に他ならないのです。言い換えるならば、神様がこの世に、どのようなご支配を確立しようとしておられるのか、それがここに語られているのです。それは、悪に対して復讐、報復をもって対抗するのではなく、むしろ侮辱や苦しみを引き受け、自らの当然の権利をも放棄して、罪人の救いのために十字架の苦しみをも背負っていく、そのような愛の支配です。そして、その神様のご支配を信じ受け入れ、その神様の民として生きる者、即ち信仰者がどう生きるべきか、がここには教えられているのです。一切の復讐を禁じるこの主イエスの教えは、このように、主イエスによって確立する天の国、神様のご支配と分かち難く結びついています。復讐からの、つまり憎しみからの解放は、主イエスによってもたらされる天の国、神様のご支配の下において現実のものとなるのです。その天の国、神様のご支配は、主イエスの十字架の出来事によって既にこの世にもたらされました。私たちは主イエス・キリストによる神様の徹底的な愛のご支配の下にすでに生かされています。主イエスが私たちのために、神の子としての権利を捨てて人となり、苦しみ、侮辱を進んで引き受け、十字架の死に至る道を歩んで下さったことによって、神様の愛のご支配が私たちの上に確立しているのです。それゆえに私たちは、復讐や憎しみの思いから解放されて新しく生きるのです。

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