「主に対して」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: コヘレトの言葉 第5章1-7節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章33-37節
・ 讃美歌 : 536、440
主イエスの教え
本日、与えられました聖書の箇所はマタイによる福音書第5章33から37節です。第5章から7章にかけて「山上の説教」と呼ばれる主イエスの教えをまとめた部分を読んでおります。5章21節から48節までに、主イエスは当時のユダヤの人たちの神様の掟である律法の教えを取り上げて、それに対して、「しかし、わたしは言っておく」と主イエスの御自分の教えを語られた部分です。けれども主イエスは律法の教えを廃棄して、捨てて、新しい教えを語られたのではありません。主イエスは律法の教えをより深め、その本来の意味を明らかにする、そういう意味で主イエスの教えは語られています。5章17節で主イエスはこう言われます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とあります。主イエスは律法を完成する教えを語られたのです。
誓いを立てるな
33節で主イエスは言われた「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている」とあります。この部分が律法の教えです。「偽りの誓いを立てるな」、それはつまり、本当でないことを「本当です」と誓うな、偽証を立てるな、ということです。更に「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」、つまり一旦主なる神様に対して誓いを立てたなら、それを必ず実行せよ、ということです。この律法の教えに対して主イエスは、「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」と言われました。誓った時だけではなく、常に、私たちの言葉が責任ある、真実なものとなる、それを主イエスは求めおられます。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という律法の教えを、主イエスはそのように深め、完成させておられるのです。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という律法の教えは、そのままの形で旧約聖書にはありません。ここで主イエスはこの律法を昔の人の言い伝えと言います。これはモーセの律法の書のレビ記19章12節にもあるものです。「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」とあります。人間は、自分の語る言葉や約束というものに嘘や偽りがないということを示すために「権威づけ」を行ないます。それは「神の名」を用いて行なうということです。しかし、もしそこに密かに偽りがあり入り込んでいるとすれば、神の名を汚し、冒涜することになります。
主の名を
十戒の第3の戒めにはこうあります。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」神様のみ名をみだりに唱えることは、神様を自分のために利用することです。主のみ名によって偽りの誓いを立てるのは、嘘をまことと言いくるめるために神様を利用することです。神様の名をもって自分の言葉の信用性を保証としょうとする考えは、自分の都合のために神様を利用してしまうことです。また、主に対して誓ったことを結局果たさなければ、偽りの誓いを立てたのと同じことになってしまいます。主のみ名によって誓うことは、常に本当でなければならないし、それが将来の約束であるならば必ずそれを果して本当のことにしなければならないということです。この律法は、「嘘をついてはならない」とか「約束は必ず守れ」という道徳に関することの教えではなく、主なる神様を敬い、そのみ名を汚すなという信仰の教えなのです。主の名をもってみだりに偽りを誓ってはならない。または主の名をもって時には人を呪ったりする、そのようなことが起こってはならない。そこで主の名をみだりに唱えてはならないのであります。けれども、神の名を利用して、自分の語る言葉を権威付けようとしてしまいます。神の名によって自分の行為を正当化しょうとします。神の名によって誓うことによって自分の行為を正当化しょうとすることはしてはならないことであると、既に律法において語られてきたのです。それでは直接神の名を持ち出すことを避け、神の名に代わるものを持ち出せば良いのでしょうか。神様の代わりに、天を指して誓う。あるいは地にかけて誓うということです。神の都エルサレムをさして誓うのです。そして、自分の頭をさして誓うということをしたのです。34節の主イエスのお言葉とはそのようなことです。「しかし、わたしは言っておく。一切誓ってはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」主イエスはたとえてそのように言い換えをしても、言っていること、行なっていることは同じであると。結局は自分の嘘、偽りを隠すために神の名を用いているとこと、神の名を利用していることにかわりないのだと言われたのです。「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」神の名を権威づけの引き合いに出し、神を利用するということを一切しないように教えられたのです。それでは、どうしたら良いのでしょうか。
神の御前に
主イエスは37節で、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。」と言うのです。私たちの口から出る言葉というのは、すべて神の前に置かれているのです。真実にそう見せかけたり、中身のないのに、神の名によって権威づけたりするのではなく、ただ「然り、然り」「否、否」とすることが大切だというのであります。「偽り誓う」とは言っておいて、実行しないということです。主イエスがここで言っておられるのは、誓わなくても、あなたがたの言葉は常に真実でなければならない、偽りのないものでなければならない、そして、誓ってはいなくても、言ったことはちゃんと責任をもって守らなければならない、というです。常に、私たちの言葉が責任ある、真実なものとなる、それを主イエスは求めおられます。私たちが自分に責任を負わない言葉にしてしまおうとする人間の思いに対して主イエスは、そうではないのだ、あなたがたの語る言葉はすべて、神様のみ前での言葉、真実な言葉なのだ、と言われるのです。このように、主イエスがここで教えておられることは、私たちが語る全ての言葉が、神様のみ前での、責任ある言葉になっていかなければならない、ということです。これは大変厳しいことです。私たちはもう一言も語れなくなるのではないでしょうか。全ての言葉に神様の前での責任が問われてくるのならば、不用意なことは一切語れなくなるのではないでしょうか。よく考えて語った言葉ですら、真実から遠いものだったり、その通りにできなかったりすることが多々あるのだから、もう言葉なんか一切語れないということになるのではないでしょうか。主イエスはこの教えによって、私たちから言葉を奪おうとしておられるのでしょうか。
髪の毛一本すら
主イエスは、「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」と言われました。髪の毛一本に象徴されるのは私たちの生活、人生、体の全てが神様の御手の中にあるということです。私たちのすべてが神の御手の中にあるのだから私たちの語る言葉の一言一言も全て、神様の御前での言葉なのです。私たちは自分の髪の毛一本すら、白くも黒くもできない、思い通りにはできない小さな弱い存在であります。父なる神こそが、私たちの髪の毛一本までも数えていて下さる、知っていて下さる、愛して下さるということです。天の父なる神様が、私たちのことを愛していて下さり、愛するゆえに私たちの髪の毛一本までも数えていて下さるのです。神様は私たちの体を、人生を、日々の生活を、愛によって見守り、導いていて下さる方です。私たちの語る言葉の一言一言も、この天の父なる神様のみ前で語られるのです。神様は、私たちがみ前で言葉を失ってしまうことを望んでおられるのではなくて、私たちが、神様の愛のもとで、恐れずに、大胆に、語っていくことを望んでおられるのです。私たちが洗礼を受けて信仰者、教会の一員となる時に、父、子、聖霊なる神を信じ、教会員としての務めを果たしていくことを誓約をします。教会において、長老や執事に選出され、その任につく時にも、誓約が求められるのです。牧師が就任する時にも誓約があります。教会で行われる結婚式は、その中心に結婚の誓約があります。教会の営み、私たちの信仰の生活の節々に、誓約、誓いがあります。教会生活の中で行われるこれら誓約は、私たちが神様の恵みに応えて、神様を信じ、神様に従い、神様に仕える者として生きていきます、という約束をすることです。主イエスは、私たちが、神様の恵みに応えてそのような約束をすることを喜んでおられます。そして私たちも、主イエス・キリストが責任を負って下さるのです。全責任を背負って下さったのです。という恵みに信頼して、より頼んで、自分の力ではとうてい負い切ることができないこの約束をするのです。洗礼を受けて教会の枝として、信仰者として生きていくことも、牧師や長老、執事として教会に仕える働きを担っていくことも、あるいは神様が結びつけて下さった夫婦として生涯を共に歩んでいくことも、私たちの力や責任感によってできることではないでしょう。私たちと共に歩んで下さり、私たちのために責任を負って下さる主イエス・キリストがおられるから、その恵みの中でこそ、この約束を果たしていくことができるのです。私たちそれぞれが、もう一度、主の恵みの中でなしたそれぞれの誓約を思い起したいと思います。主イエスは私たちのその誓約が本当に誠実なものとなるために、十字架にかかって死んで下さったのです。ローマの信徒への手紙の3章4節にこうあります。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」主なる神の真実なお方です。不真実な人間に主イエスをお与えくださったのです。