夕礼拝

天の父をあがめる

「天の父をあがめる」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第65章8-16節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章13-16節
・ 讃美歌 : 16、513

主イエスの断言
 主イエスが語られた9つの幸い、祝福の宣言についての説教が終りました。新しい説教へと入っていきます。その最初に、主イエス・キリストは「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である」とお語りになりました。この「あなたがた」とは、この「山上の説教」を聞いている弟子たちです。そしてその弟子たちの周りには、主イエスに従ってきた多くの群衆たちがおりました。主イエスは、弟子たちとご自分に従ってきた人々に向かってこの御言葉を語られました。主イエスの弟子たちとは、主イエスに従い、その御言葉を聞きつつ歩む者たちです。そのような意味でこの主イエスの御言葉は私たちキリスト者に語られている言葉です。私たちの中には、まだ洗礼を受けておられない方々もおられます。けれどもそのような方々も主イエスの教え、御言葉を聞こうとしてここに集まっておられます。その方々とは弟子たちの周りにいて共に主イエスの御言葉を聞いていた人々と重ね合わせることができると思います。そういう意味で、この御言葉は、今ここに集っている私たち全員に対して語りかけられています。
 主イエスの御言葉を聞いた弟子たちは驚いたのではないでしょうか。なぜなら、ここで主イエスは弟子たちに向かって「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である。」と宣言をされたからです。主イエスはここで御自分のことを「わたしは地の塩である、わたしは世の光である。」と言われたのではありません。今主イエスの目の前に座っている弟子たちに対して「あなたがたは」と、言われたのです。しかも「あなたがたはこれからやがて地の塩になるであろう、世の光になるであろう」または「地の塩になりなさい、世に光になりなさい」と言われたのではなく「現在形」で、「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である。」と断言されたのです。この主イエスの言葉を聞いていた人の大部分はガリラヤの貧しい村で生計を立てて暮らしていた人々です。特に取り立てて優れた知識や才能を持っているのでもなく、人々の上に立って指導できるような裁量もなく、人々の前で模範となるような人たちでもなかったのです。それでは、どうして、このような人たちに対して「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である。」と言えるのでしょうか。
地の塩
 「地の塩」とはどういうものでしょうか。「地の塩」という表現を用いて主イエスは何を言おうとされたのでしょうか。この「地」とは、人々の暮らすこの地上、この世界の、この世の中の、ということです。主イエスの弟子となるということは、この地上のことを忘れて、この世のことから身を引いてしまうということではないのです。主イエスに従い、信仰者となるということはこの世の事柄とは一線を引き、この世の事柄から離れてしまうということではありません。私たちの生活するこの地上において、この世界において、この地において「塩」である、ということです。「塩」というのは一体何を意味するのでしょうか。何故、ここは砂糖や他の品物ではいけないのでしょうか。塩というのは、現代の私たちの日常生活においても欠くことできないものであります。三つの意味を見ていきたいと思います。一つ目の役割は料理の味付けには欠かせないものです。人間の体にとって塩分とはなくてはならない栄養です。二つ目にまた、食べ物が腐らないように、長く食糧を保存するために、塩を加え、腐敗から守ります。また、三番目には塩をもって、ものを清めるという意味を指すことがあります。聖書の中にもそのような塩の用い方というのがあります。旧約聖書において祭壇に贖罪の献げ物をする時に、その祭壇を清めるために、祭司たちがその上に塩をまく場面があります。エゼキエル書第43章24節には「あなたは、それらを主の前にささげ、祭司たちはその上に塩をまき、焼き尽くす献げ物として主にささげる。」とあります。このように、塩とは人間の生活において様々な、大切な、必要不可欠な働きをしています。そこに共通する塩の特性というのは、それは「ごく少量でも全体に効き目を及ぼす」ということです。本当に少しの量でも、全体を味付けし、腐敗を防ぎ、清めるということです。主イエスが、主イエスの御言葉を聞く者に期待をしていることも、まさにそのようなことであります。たとえ、どんなに少数で、僅かであっても、全体に効き目を及ぼす。その効果を発揮するのであれば、無力ではなく、神様によって全体を味付けし、腐敗から守り、清めるために用いられるということです。主イエスの「あなたがたは地の塩である」とは、どんなに僅かな少数者であっても、この世において、味付けをし、腐敗を防ぎ、全体を清め、そのような働きをするということです。

世の光
 「世の光」というのは「地の塩」より直接的な意味を示します。私たちは暗いところでは物が良く見えません。光がなければ、足元も危ないし、何かが足元にあったとしても光がなければ、そのことが分からず転んでしまいます。光はこの足元を照らす光であり、世を明るく照らすものです。主イエスは「あなたがたは世の光である」とお語りになりました。私たちが、この世で光として輝き、この世を、この社会を明るく照らす光である、と主イエスは言われます。あなたがたはそのような存在である、と主イエスは言われます。主の弟子、主イエスに従うものたちは、暗い世を明るく照らす光であり、辺りを明るくして、人々が道を迷わないようにする、そのような存在であるということになります。そして、このように続きます。「山の上にある町は、隠れることができない。」山の上にある町は高いところにありますから、どこからでも見える、ということをあらわすために書いたものです。どこからでも見えて、決して隠れるということがないのです。ですから、あなたがたは「世の光」であるということを隠すことができない、と言うことです。「世の光である」という者が、世を照らすということであり、世の光にされたあなた方こそは、誰にでも見られる、というのです。主イエスの御言葉を聞き、信じるキリスト者の生活とはよく目立つということでしょう。主イエスの御言葉を聞いて生きる者たちは、自分が世の光であり、山の上にある町であるということを止めてはいけないのです。塩が塩としての役目を果たさないのであれば、光が光としての役目を果たさないのであれば意味がなくなってしまうのです。主イエスは御言葉を聞くために集められた者たちに対して、宣言をされたのです。弟子たちにあなたがたは世の光としての働きを与えられているのだから、隠すことをせず、光としてすべてのものを照らす働きをしなければならないのです。世に出て行って、輝かせなさい、と教えられたのです。

隠さない
 次の箇所でよりはっきりといわれます。15節「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」ともし火は高く挙げて、辺りを一面に明るく照らし出すために用いられるのです。ともし火を隠すというのはその役目を果たさないことになります。主イエスはこのような譬えを用いて弟子たちに、あなたがたは地の塩である、世の光であると言われ、暗闇に輝くともし火となっているのだから、あなたがたの心には、このともし火が灯っているのだから、それを隠さないようにしなさい、と言うのです。「隠す」ことは、これは与えられた恵みを用いていないということになってしまいます。けれども主イエスは次にこう言われます。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」ここでの「あなたがたの光」とは、その輝かせる光とは「あなたがたの立派な行い」だということです。光を輝かすのは、良い立派な行いを見せる、ということになるのです。光の役目はすべてのものを照らすこと、良い行いを見せるということになります。ここでの「立派な行い」とは、自分のために行う、自分自身を満足させるために、行う行いではありません。本心はそうではないのに、見せ掛けだけは人の前で良い、立派な行いをする、いかにも自分は善人であるということを示すことが立派な行いではないでしょう。自分の小さな満足感、虚栄心とも言えるものを満足させているだけのことになってしまいます。よいことをして、人から褒めてもらいたい、人からの評価を得て、自分の実績にしたい、そのために立派な行いをするというのは主が喜ばれることではないでしょう。主イエスはそのような存在になれというのはありません。「人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるため」であります。天の父を神様を指し示すようにして、地の塩、世の光として光を輝かせなさい、というのです。信仰者が、光を照らすことによって、立派な行いを見せるということです。ここでの「立派な行い」とは、「良い行い」と訳せる言葉であり、そのような意味にもなります。またこの「立派な行い」とは「美しい」という言葉の意味があります。また「貴い、価値のある」というように訳すこともできます。キリスト者の生活が、人をひきつけるような美しさをもったものになる、ということです。キリスト者は主イエスの御言葉を聞き、信仰を与えられ、救いに招かれた者であります。その生活は神に喜ばれる生活でなければなりません。それが人をひきつけるような力を持つのは、どういうことでしょうか。一つは救われた恵みをあらわし、人々に伝えることです。様々な場面で主イエスの言葉を語り、あらわすことです。もう一つはキリスト者がキリスト者としての歩みをすることです。光を受けた者が、その光を照り返す生活です。言葉ほど簡単なものではないということを私たちは知っております。まことにそれは難しいものです。それゆえに、間違った方向に進んでしまうことがあります。ここで主イエスの元に集まった弟子たちはどのようにこの御言葉を聞いたでしょうか。「立派な行い」とは、律法を正しく守る生活というのを思い浮かべたのではないでしょうか。律法を正しく守れば良い、立派な行いとなると弟子たちは聞いたでしょう。律法を守ることが、すなわち良い「立派な行い」とされていたからです。それこそが、神様に喜ばれる生活だと思っていたのでしょう。

主によって
 けれども私たちはそう願っていても、自らの歩みを振り返りますと、自分にはとても立派な行いなど出来ないと思います。この御言葉を聞いている主イエスの弟子たちもそうです。何度も何度も躓く人たちです。また、それは人を躓かせる者でもあります。しかし、主イエスはその私たちをよくご存知でした。それでもなお、主はこの弟子たちを前にして「光を輝かしなさい」と言うのです。それはこの光が、塩の意味、光の意味とは人間から出るものではないからです。
 地の塩、世の光とはそれではなんでしょうか。主イエス・キリスト御自身こそが世の光であり、地の塩なのであります。主イエスは御自分をこういわれます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
 この真の世の光である主イエスに従うときにこそ、私たちはこの世において地の塩となり、世の光とされるのです。主が言われる立派な行いとは、この主イエスに従う歩みそのものです。主イエスに従う歩みの中でこそ、私達のこの世での働きが主によって用いられ本当の役目を果たしていくのです。神様の前では、何の役にも立たない者である私たちが、地の塩、世の光とされるのです。それは人間の立派な行いによってではありません。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったまことの地の塩、まことの世の光であられる主イエス・キリストの従い行く中で、その恵みによって生かされる者となることによって、私たちは地の塩、世の光とされるのです。
 私たちは、光によって全てのものを照らす働きを与えられているのですが、その光は自分から、すなわち人間からは出ていないのです。主イエス・キリストこそがその光の源です。そのお方が私たちに求められることは、律法を一生懸命、人間の業で守り貫くことではありません。しかし、この律法は主イエスご自身の御言葉によって二つの愛の戒めにまとめられました。心から神を愛すること、もう一つは隣人を自分のように愛することです。よい行い、立派な行いとは、愛の業であるということです。愛の業を行うには、この愛の与えてであり、源である主イエス・キリストにつながっていなければ、不可能であるということです。また、意味がないのです。愛のない、罪人である人間が主イエス・キリストによって、この方の語る御言葉によって、従う者とされ、主イエスに繋がるのです。この方に、繋がり、委ねるとき、私たちの業が単なる偽善の業ではなく、天の父をあがめる業へと用いられていくのであります。

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