「柔和な人々」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第37編7-22節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章5節
・ 讃美歌 : 11、288
地
本日は、マタイによる福音書第5章5節の主イエスの語られた御言葉に共に聞きたいと思います。 イエスは山に登られ、腰を下ろされご自分の弟子を始めとする群衆に語られます。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」主イエスはガリラヤ湖の近くの小高い丘の上に座り、人々は主イエスの語られる言葉に一つ一つ耳を傾けていました。そこはいつもの見慣れた光景であります。周りを見渡せば、緑があり、爽やかな大地が続いています。美しい草花が咲いています。鳥が自由に空を飛んでいます。羊や山羊の群れを飼う牧童たちがおります。このガリラヤを離れると、岩地や砂漠があります。人々が座っている場所からは彼方に自分たちの暮らす村が見えます。私たちは、主イエスがこの山上の説教が語っておられます。場面を想像してみることができると思います。主イエスは3番目の幸いについて語ります。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」と言います。
柔和な人々
それでは「柔和」な人々とはどのような人たちでしょうか。柔和という言葉には穏やかな、やさしいという意味があります。本日共にお読みした旧約聖書の詩編第37編にはこの「柔和な人」について語られております。最初の1節には「悪事を謀る者」が出て参ります。「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。」とあります。このようなに悪事を謀る者とは柔和な人、穏やかな、やさしい人ではありません。この柔和とは反対の人であります。けれども、このような悪事を謀る者を目の当たりにし、そして苛立ったり、羨んだりするのであれば、これでは自分も同じような人間であります。苛立ったり羨んだりする。そうであれば自分もいつか同じような者となってしまいます。報復をし、復讐をしたりするでありましょう。それでは同じであります。それでは悪循環を抜け出せません。しかし、9節「悪事を謀る者は断たれ 主に望みをおく人は、地を継ぐ。」とあります。主に望みをおく人とは信仰者です。主に望みをおく信仰者は悪事を謀る者とは「違う道」を行きます。苛立つ事も、羨む事も、もうそれは自分とは関係ない場所に置いてきます。そして3節にあるように、「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。」とあります。主に信頼をし、悪に対しても善をもってその人に相対します。そして神がいて下さる所に、自分の住まいを定めるのです。その地に住み着く。そして信仰を糧として生きます。4節以下を読んで見ましょう。そこに、柔和なる人という事で、聖書がどういう人物を考えているかが分かってきます。「主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主に任せよ。信頼せよ、主は計らい あなたの正しさを光のように あなたのための捌きを真昼の光のように輝かせてくださる。沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や 悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。悪事を謀る者は断たれ 主に望みをおく人は、地を継ぐ。」(詩篇37:4-9)どんなに悪事を謀る者、不正を行う者に囲まれていても、苛立つ事無く、羨む事無く、全てを主に委ねる人。主に逆らう者はしばらくすれば消え去る。そのような者、主に望みをおく人が地を継ぐのだと言われるのであります。ですから柔和な人というのは、ただやさしい、穏やかな人というのではありません。むしろ心を神様に向け、沈黙して主に向かい、神様の良き支配を祈り求める人です。柔和な人々とはそのような人であります。そして、「柔和な人」が「地を継ぐのであります。
主イエスは山に登られ腰を下ろされご自分の弟子を始めとする群衆に語られます。主が語られた場所はガリラヤ湖の近くの小高い丘の上、周囲には緑があり、爽やかな大地が続き、美しい草花が咲き、鳥が自由に空を飛んでおります。羊や山羊の群れを飼う牧童たちがおります。この光景が彼らの住む土地であり、大地であります。彼らの住む土地であり、生活をしている場所であります。けれども、その土地は完全な意味で自分たちのもの、自分たちの土地ではありません。その土地を支配しているのはヘロデ王であります。更にその上にはローマ皇帝が絶大な権力を持って、君臨していました。支配していたのです。近くのカイザリアにはローマ帝国の軍隊が常に駐屯しており、ローマ兵が街道を行き交っております。それが彼らの生活する空間、土地であります。「地」を支配しているのは、そのような力ある人々であります。力ある者たち、権力ある者たちが、「地の支配者」であります。主イエスはそのような中で「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」と言います。けれども、地は柔和な人々、つまり暴力を用いない人々のものではないのです。地は暴力を振るう人々のものです。地は暴力を振るう人々によって支配されています。これが現実の姿であります。柔和な人々が損をし、押しのけられる、これが現実であります。主イエスはそのような中において「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」と語られました。主が教えられる柔和な人というのは、力を攻撃的な仕方で行使せず、神の支配に身を委ね、その神のよき力によって、自分の苛立ちや、憤り、怒りの心を喜んで放棄する事の出来る人間です。神の支配に生きる人、神の力によって内側から強められている人間のことであります。詩編37編22節にありますように「神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる」のです。
地上において柔和な人々が無力であり、他人を顧みない人々が絶大な力を持っているということを主イエスは良く知っておられました。この否定しょうのない事実があるこの世の現実において、主イエスは「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」と語られます。驚くべきことを語るのです。主イエスは語られるこの御言葉によって、神の国の現実を語ります。神の国とは、この世のものではありません。神の国、天の国とは私たちが生き、働き、あるいは嫁ぎ、めとり、飲み食いをする、この世の秩序とは異なったものであります。しかし、主イエスは今、柔和なる者が受け継ぐべきものは、「この地」であるといいます。一見すべてのことが反対のように見えるにもかかわらず、主イエスはここで暴力を用いない人々が地を受け継ぎ、地を所有するようになるのだと言うのです。目に見える現実がどのようなものであれ、暴力を用いる人々は地を受け継がないことを主イエスはご存知であります。
柔和な人々とは、暴力を用いない人々であります。そこから謙って、謙遜な者、温和な者、穏やかな、やさしいと言う意味があります。けれども元々は力のない、無力な者を指します。柔和な人とは、力を攻撃的な仕方で用いない、暴力の行使を断念し、放棄した人です。
柔和な人とは、主に望みをおき、神の祝福を受ける人です。そのような者が地を受け継ぐ、神の豊かな祝福の中に生かされるのです。 けれども私たちの現実は、悪事を行う者が繁栄し、豊かに富み栄えております。それに対して、主なる神に従い、正しいことをして歩もうとする自分たちは、かえって苦しみを受け、いつまでも貧しい者であり続けている、という苛立ちを覚えます。7、8節では「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない」と言います。私たちもしばしばこのような苛立ちを覚えます。自らの弱さ、こんな自分の力では、こんな状況では、柔和になどなっておれない、なぜ神はもっと力を与えて下さらないのか、なぜもっとよい条件の下に置いて下さらないのか、とうらみつらみを言いたくなる。主イエスはそういう私たち一人一人に、「柔和な人々は幸いである」と語りかけておられる。
主イエスこそ
柔和な人々は幸いである。この柔和な人というのは、マタイによる福音書で他に2回出て来ます。一つは11章の最後にある主イエスの言葉であります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛を負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」ここで、主イエスは「私は柔和で謙遜な者」だと述べておられます。主イエスがご自身の生き方を指しておられるのです。 もう一箇所は、主イエスがエルサレムに入場されます時に、人々の歓迎の言葉です。ホサナ、ホサナと歓呼をして迎えました。その中を、ろばの子に跨って通られます。旧約聖書ゼカリヤ書を引用しまして、こう語っています。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」とあります。主イエスは「柔和な王」としてエルサレムに来られ、その週の内に十字架につけられます。主イエスの「柔和さ」とはこの十字架の死への道を黙って歩まれたことであります
両方の場合とも柔和な人というその言葉は、「主イエスご自身」に当てはめられています。そうすると、主イエスという方こそ、まず何よりも柔和な人であり、力を攻撃的な仕方で行使することを放棄し、ただ父なる神のよき力に身を委ねられたのです。したがって、この柔和なる方、主イエスの軛を主と共に負う人は、その事を通して謙遜な者にされ、柔和な人とされ、悪しき力から手放され、主と共に神の国を受け継ぐ者にされるのです。神の国は、力の支配するところではありません。「神の愛」の支配するところです。この神の愛に基づいて、互いの重荷を負い合い、神の平和、を生きるのです。主イエスは神の御子であり、この徹底した謙遜と優しさに生きられました。人の弱さを担い続け、重荷に喘いでいる人のくびきを、自ら負おうとされた、その徹底した優しさの中で、本当の愛というもの、そして愛の力強さというものを示されました。そのことを私どもは主イエスの生き方として覚えるのであります。イエス・キリストは、終にはこの世の力あるもの、権力者によって命を奪われるという事に至りました。しかしそこに「最高の柔和さ」というものがあり、主イエスはその事を私どもに文字通り「体をもって」教えて下さったのであります。一見するとこの柔和さというものは、やはりあの死の姿を見ますと、この世の力ある者の手によって抹殺をされてしまっのかと、私たちには思えるかもしれません。けれども主は、この死というものから蘇られて、まさしくそこから新しい地を造り出されたのであります。まさしくこの復活の主の現臨の中で、古い地は力ある者と共に滅びるということが明らかになりました。
そのような愛を受け継ぐ者は、「主の軛を負う」という事を通して、柔和にされた者なのであります。主の軛を負う事とは暴力に訴えない生き方を選ぶという事です。悪巧みをする者に満ちているこの世では、これは辱めを受けるという事もあるでしょう。時には十字架を負うという事も意味します。
主イエスはこのように十字架へと進まれました。けれども最終的には、主と共に悪に打ち勝つ道なのであります。この世の悪巧みは、柔和な方である主イエスを、ゴルゴダの十字架につけました。主イエスはその悪巧みに打ち勝ち、新しい命の道を切り開かれました。主イエスの柔和さのゆえに、私たちは救いの道へと招かれ、私たちを新しい命の道を招いて下さったのです。真実に柔和な方である主イエス・キリストの十字架の死によって、罪の赦しの恵みを与えられた者が、主に望みをおくのです。
十字架と復活によって
十字架の死に至る柔和な歩みを歩み通された主イエスは、復活して天に昇り、父なる神の右に座して、今や私たちを、この世界を、支配しておられる。この世界を支配しておられる、この地を支配しれおられるのです。つまり地を受け継いでおられるのです。この方、主イエスのご支配を信じて生きることが私たちの信仰であります。私たちの信仰は、主イエスが、その柔和さによって地を受け継いでおられることを信じることです。そして柔和な方である主イエスのご支配に支えられて生きること。主イエスの柔和さに支えられて、私たちもまた、様々な苦しみ悲しみがあり、悪を行う者がむしろ栄えていくようなこの世の現実の中にあっても、苛立ちに負けることなく、沈黙して主を仰ぎ、主に望みを置く柔和な者として生きることができる。主イエスが語られる「柔和な人々」とは、一番強い力を知っております。それは人間の悪しき力ではなく、神のよき力を信じる、主に望みを置く者であります。そのお方に自分を委ねようとしている、そこから、強められる人のことです。全てを神に委ねて、生きていく者こそが「柔和な者」であります。主イエスと共に歩む者、主イエスの軛を共に負う者は、この柔和さにおいて、悪に打ち勝つ道を歩みます。そしてその者が、愛と平和と、新しい命の御国を受け継ぐのであります。私達もまた、主イエスの軛を負うという仕方で柔和にされて、地を受け継ぐ者でありたいと思います。