「はい、主よ」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:列王記下第6章8-23節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第9章27-31節
・ 讃美歌:496、521
今夕共に聞きました、マタイによる福音書第9章27節以下には、イエス様が二人の盲人の目を開かれたという癒し話しが語られています。また、本日共に聞きました旧約聖書の個所、列王記下第6章8節以下には、主なる神様によって目が開かれたり、閉ざされたりということが語られています。これは預言者エリシャの物語です。エリシャとその召使いのいた町が、ある時、敵の大軍によって包囲されてしまい、その軍勢を見た召使いは「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか」とあわてふためきます。しかしエリシャが、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と祈ると、彼の目が開かれました。すると、火の馬と戦車、つまり神様の軍勢がエリシャを囲んで守っているのが見えた。このように、神様が目を開いて下さると、肉体の目に普通には見えないものまでもが見えてくる、ということがこの話において語られています。
さて、本日のマタイ福音書9章27節以下の記事から、本当に目を開かれるとはどういうことを聞いていきたいと思います。ここに出て来る二人の盲人は、イエス様によって目を開かれます。この出来事は、単なる病気の癒しの出来事ではありません。イエス様は29節で「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われました。すると彼らの目が開かれました。つまりこれは信仰と関わりのある出来事だということです。彼らはイエス様に信仰を認められて癒され、目を開かれたということです。では「あなたがたの信じているとおりになるように」とイエス様に言われて癒されたこの二人の盲人は、どのような信仰を持っていたのでしょうか。それをこの物語を追いながら見ていきたいと思います。
彼らは、イエス様に「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来たと27節には書かれています。この前の箇所で、イエス様は、カファルナウムの町におられたと語られています。また前の箇所では、ある指導者の、死んでしまった娘を生き返らせるという大きなみ業をなさったということも書かれています。26節にあるように、この奇跡を行ったイエス様に関しての噂が、この地方一帯に広がっていきました。そのイエス様が28節に出てくる「家」、-これはペトロの家だと考えられていますが-そこに帰る途中でありました。その家に帰る途中のイエス様を、二人の盲人が見つけたのです。目の見えない彼らが、なぜイエス様と出会うことができたのかは、マタイによる福音書は説明しようとはしていません。おそらく、「癒やしの奇跡を行う、神の人がこの近くに現れた」ということを聞き、また「今どこどこに、その人は向かっている」という噂を聞きつけたのでしょう。人に尋ね回って、やっと、それらしき人のそばまで来た。そしてこの二人の盲人は、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。彼らは、何とかイエス様の耳に届くようにと、必死に、憐れみを求めて叫びながら、イエス様の後についていったと聖書は書いています。
彼らはイエス様に「ダビデの子よ」と呼びかけています。それは「救い主」という意味です。ダビデ王の子孫に、神様が救い主を遣わして下さるという預言が旧約聖書にありました。救い主は「ダビデの子」として来ると誰もが信じていたのです。彼らは、「目の見えない者の目が開き、聞こえない人の耳が開く」、そのようなことを起こす、救い主が来られるという預言を信じていました。その預言されたいた方が、イエス様だと思い、このように呼びかけ、救いを求めたのです。ですが、イエス様を救い主だと「信じた」と言うよりも、「そのような癒やしを行ってくれる」「救い主」ということを期待していたのではないかと思います。その救い主のもたらす「癒やし」を期待して、「憐れんでください」と彼らはイエス様に向かって言いました。彼らにとって、イエス様を「救い主であるダビデの子」と呼んでいたのは、癒やしへの期待が根底にあったからです。もし、自分が癒やされるという期待がないのに、ダビデの子救い主とそのように呼ぶことはなかったのではないかと思います。
イエス様は、この「憐れんでください」と言いながらついて来る彼らの声には全く反応をなさっておられません。二人の盲人にとっては、これはなかなか厳しいものです。何度、叫んでも、なにも答えられない。イエス様は自分たちの願いに関して、沈黙されている。わたしたちも、このことと似たような思いを感じることはないでしょうか。それは「祈っているけれども、何も神様から答えがない。神様は沈黙されている。なにも答えを示してくださらない」というわたしたちの思いです。わたしたちも、彼らと同じように、イエス様を目で見ることはできない者です。この二人の盲人は、すごいお方がいるという噂があり、噂を辿って、ここにおられるということまで突き止めて来てみた。しかし、肝心のその方の声は聞こえない。聞こえなければ、この盲人たちにとっては、救い主は、いないと同じです。呼びかけても、願っても、祈っても、その反応がない。ますます、ここにはおられないのか。わたしたちは、無視されているのかという疑問がでてきてもおかしくありません。しかし、驚くことに、この二人の盲人は、イエス様の姿を目で見ることができず、また何の反応もないのに、イエス様に付いていっています。彼らは、おそらく、イエス様を囲む弟子たちの声を聞いて、その方向に、付いていってのだと思います。自分には見えないし、反応すらもらえないけれども、イエス様を知っており、見ることができる者の声を頼りに、彼らはイエス様に付いていったのでしょう。わたしたちが、信仰者となる前の現実が、これと同じだろうと思います。自分にはまったくわからないけれども、イエス様を知っている人、信じている人の群れ、つまり教会の群れの中に入って、イエス様を探している。自分の救いや癒やしを求めて、群れに入ってくる。しかし、なんにもイエス様から応答がないような思いになる。そういうことはあったのではないかと思います。
イエス様がその彼らと向き合われるのは、28節にあるように、家に入ってからです。この家の中で癒しが行われました。しかし、イエス様に盲人たちが近づいてきて、すぐに目に触れて、癒やしたということではありませんでした。彼らが近づいてきた後に、まずイエス様は、「わたしにできると信じるのか」と語られています。ここに「信じる」という言葉が出てきます。イエス様は彼らの信仰を問われました。「わたしにできると信じるのか」、そうイエス様は問われたのです。この問いは、わたしたちに向けられている問いでもあります。「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶことが信仰のすべてなのではありません。わたしたちはしばしば、そういう叫びに似た思いを持ちます。様々な苦しみや悲しみに直面する時、どうしたらよいかわからず途方に暮れてしまう時、「主よ、神よ、わたしを憐れんで下さい、イエス様、わたしを救って下さい」と願います。わたしは、先週、日本基督教団の正教師試験を受けましたが、合否がわかる面接試験を前にして、わたしは「主よ、憐れんでください」「主よ、憐れんでください」と何度も、祈っていました。自分の不甲斐なさや、自分の弱さを思い返すと、自分は牧師としてふさわしくないんじゃないだろうかと思わざるを得なかったからです。だから、「主よ、憐れんでくださり、わたしを正教師としての選びの内においてください。」と祈っていました。正教師試験を受けるまえに、主から「恐れるな。わたしはあなたを選んだ。」という御言葉を聞かされていたのに、また「主がわたしを召し出してくださっている、だから大丈夫だ」という思いになっていたのに、いざ、面接試験の前になると、自分の弱さや不甲斐なさばかりを思い出し、不安になり、「憐れんでください」と祈っていました。しかし、その時、わたしに向けられた、イエス様からの問がありました。それは「あなたは、わたしが選んだということ、召し出したということを信じるか」という問いでした。不安を抱きながら、面接試験に臨んだ時に、検定委員の先生が開口一番、「あなたは主から召されたことを信じますか」と問われたのです。わたしは、これは、イエス様からの問いだと思いました。これが、まさに、イエス様がこの盲人たちに問われたことと一緒であると思います。わたしは、「主よ、憐れんでください」と祈っていたのですが、どこか、自分の弱さをイエス様に目を向けてもらって、憐れんでもらわなければいけないと思っていのです。つまり、イエス様の同情を誘わなければ、憐れんでもらえないと思っていたということです。わたしは、そのイエス様からの問を受けた後に、『わたしはイエス様が「憐れみの主」「救いの主」である』ということを、本当の意味で信じていなかったことに気付かされました。わたしは、自分の不安や弱さを通してしかイエス様を見ることができていなかったのです。しかし、イエス様が、その問いを通して、問いという導きを通して、イエス様御自身に、わたしの目を向けてくださいました。その時、わたしは、「わたしが苦しいから、弱いから、イエス様が憐れみ深い方になるのではなく、最初からイエス様が憐れみ深い方であるから、わたしは憐れまれるのだということに」目を開かれました。その時、「わたしがどうであるから、牧師として選ばれたというのではなく、主が選んでくださったから牧師とされるのだ」ということにも、気づかされました。そして、憐れみの主、力強い主がわたしを選んでくださったということに、すべてをお委ねしようと思うに至りました。
この二人の盲人は、そのイエス様の問いに対して、「はい、主よ」と答えました。わたしは、検定委員の先生に、「あなたが主イエスから召されていることを信じますか」と問われたとき、「はい、信じます」としか言えませんでした。たった二語です。盲人たちも二語だけでした。「はい」と「主よ」という、たった二つの単語です。彼らも本当に短い「はい」という言葉で彼らはイエス様の問いに答えたのです。わたしは彼らがそれをどんな思いで、どんな口調で言ったのだろうかと想像しました。確信を持って、元気に、大きな声で「はい」と言っただろうか。そうではないだろう。むしろ彼らは、この「はい」という一言を、小さな声でしか言えなかったのではないだろうかと思いました。わたしは普段は、うるさすぎる程、声がでかいのですが、この面接試験の時の「はい、信じます」は、震えながら小さな声でした。わたしは、「はい。自分の生きてきた人生で、これこれこのようなことがあったから、主に選ばれていると信じます。」などと応えることはできませんでした。その時、今まで自分が生きてきた中での功績、自分の能力などは、何にも理由にならない、ただ主が選んでくださっていて、ここに今立たされている。わたしとしては「その主の選び」しか、根拠が無い。だから、「主に召されていると信じますか」という問いに、ただ「はい、信じます」と一言言うのが精一杯でした。それは、この盲人たちもそうだったのではないかと思うのです。「わたしにできると信じるのか」と問われた彼らは、やはり同じように、自分の中に何も根拠が無いし、今前にいるその方の問いに応えることだけで精一杯だったと思うのです。その中で彼らは、「はい」と答えることができた。わたしも、「はい」と答えましたが、それ自分の中から絞り出して、自分でいったというより、も、イエス様にすべてを委ねさせて頂いたことから「はい」と言えた。つまりそれは、イエス様から「はい」という言葉を引き出してもらったという感覚でした。 この時の二人の盲人も、彼らが自分たちの願いの強さであってり、信じる力の強さによって「はい」と言えたのではなく、イエス様が、彼らの「はい」を引き出して下さったのだと思います。
「わたしにできると信じるのか」というイエス様の問いは、そこで信仰の強さをチェックして、つまり厳しく試験して、合格点を取れない者は容赦なく振り落とす、というような問いではありません。イエス様はこの問いによって、わたしたちと向かい合い、そしてわたしたちの「はい」という一言を導き出そうとしておられるのです。わたしたちはこの主の問いかけの前で、イエス様の導きによって、静かに「はい」と答えていくそれが、信仰者の姿です。
そしてイエス様は、わたしたちの、この静かで小さな震えながらの「はい」を受け止めて、それをわたしたちの信仰と呼んで下さります。「あなたがたの信じているとおりになるように」というみ言葉はそういうことを示しています。彼らがようやく一言発した「はい」を受けて、イエス様は、「あなたがたはわたしを信じている。『はい』と言った。だからあなたがたは信じる者となった。そのあなたがたの信仰のとおりになるように」と言って彼らの目を開いて下さりました。ですからこの「あなたがたの信じているとおりになるように」というみ言葉は、本当に信じれば何でも思った通りになる、ということではありません。この言葉はそんなふうに信仰の持つ力に注目して語られているのではなくて、イエス様が、わたしたちの、本当は信仰とは呼べないような思いを、信仰として受け止めて、それに基づいて救いのみ業を行って下さる、その恵みを語っているのです。
わたしたちの姿は、あのエリシャの召使いに似ています。肉体の目に見えているのは、敵の大軍に包囲されて、もうどうしようもない、自分はもう滅びるしかない、という現実です。そういう苦しみの中でわたしたちは、あわてふためき、パニックに陥るのです。しかしそのわたしたちには、見るべきものが見えていません。目が閉ざされてしまっているのです。本当に見るべきもの、目が開かれたならば見えてくることは、火の馬と戦車が自分たちを囲んで守っているということです。つまり、神様が、人間を超えた強い力をもってわたしたちを守り、導いてくださります。もっと簡単に言えば、神様がわたしたちを愛していて下さるということです。そのことが見えていない、それが目を閉ざされてしまっているわたしたちの姿なのです。神様は、そのわたしたちの目を開いて下さいます。神様がわたしたちを愛していて下さり、強い力をもって守り、導いていて下さる。そのことに目を開かれるのです
この二人の盲人がイエス様に目を開かれた、その決定的な転機となったのは、「わたしにできると信じるのか」という問いに対して彼らが「はい、主よ」と答えたことでした。それは先ほども申しましたように、彼らが強い立派な信仰を持っていた、ということではありません。彼らも「わたしは確かにあなたを信じています」などと胸をはって言うことはできない者でした。しかしそれでも彼らは、「はい、主よ」と答えることができました。そのように答える自信が自分の中にあったからではなくて、イエス様がその答えを引き出して下さったのです。善い者とは到底いえない、救いと癒やしに与るほどの価値もない、その生き方に内実などまったく伴っていないのに、「はい」と言わせてくださり、癒やしと救いを与えてくださったのです。それを実現するために、イエス様は、彼らの罪を全て身に負って十字架にかかって死んで下さったのです。わたしたちの内にある正しさ、義では、わたしたちは救いに与るにはふさわしくなれません。イエス様が死なれることで、その神様の正しさ、義を、わたしたちに与えてくださり、わたしたちは、赦しと癒やしにあずかれるのです。本当は、「はい、主よ」と言えても、内実が伴い、偽善の言葉でしかないのに、それを本当に意味のある、本当の信仰の言葉として神様に受け止めていただけるのは、このイエス様の死の御業があるからなのです。イエス様はご自分の命をささげて、わたしたちが「はい」と答えることが出来るようにして下さったのです。わたしたちは「神様が自分のような罪深い、神様を裏切ってばかりいる、神様に従い仕えるどころか、神様を自分のために利用することしかしていないような者を、愛して下さる、選んでくださる、憐れんでくださる、などということはとうていあり得ない」とわたしたちは思うのです。けれどもイエス様はそのようなわたしたちから「はい、主よ」という答えを引き出そうとなさるのです。そのために、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。
この二人の盲人たちは、イエス様の「わたしにできると信じるのか」という問いかけに対して、「はい、主よ」と答えたことによって、目を開かれていきました。この「はい」という小さな答えから始まっているのです。そしてこの「はい」という答えは、イエス様によって引き出され、神様によって与えられたものです。そのことによって、わたしたちの目が開かれます。見えなかったものが見えるようになります。神様がわたしたちを愛してくださっていることがわかるようになるのです。もともとわたしたちの心には、神様の愛を頑なに拒もうとする覆いがかかってあって、それによってわたしたちの目を閉ざされているのです。神様の愛の招きによって、その覆いが取り除かれて、目が開かれ、その愛を知る。そしてそうすると、まったく新しい世界が見えてくる。同じ世界が、主の愛を知ったあとは、こうも違うのかと気付かされる。その最初の一歩となるのが、「はい、主よ」という一言なのです。その応答なのです。この一言を語ることができたなら、後はイエス様がそれを「あなたの信仰」と呼んで下さり、そこから豊かな恵みのみ業を繰り広げていって下さるのです。その決定的な「はい、主よ」を、神様がわたしたちに語らせて下さるように、今、切に祈り求めてまいりましょう。