夕礼拝

あなたの下にいますから

「あなたの下にいますから」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編第130編1-8節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第8章5-13節
・ 讃美歌:352、536

 山上の説教を聞いていたユダヤ人である群集たちは、山上でのイエス様の教えを聞き、権威ある者だと驚きました。彼らはその権威に驚きイエス様についていきましたが、結局は、イエス様を囲み、要求するだけでありました。本日登場する異邦人である百人隊長は、イエス様が権威ある者であることを認めるだけでなく、またその権威を利用しようとも、力づくで奪おうともせず、その権威の下に自分が入ること、イエス様の権威の下に幼子が親の足にすがるように、近づきました。イエス様は、その百人隊長の信仰に驚かれ、感心されました。  わたしたちは今日、2つの道が示されています。イエス様の言葉に驚き、興味を持つが、そのままでいる道か、イエス様の言葉を信じ、イエス様の権威を信じ、イエス様の下に近づいて、イエス様の言葉に従って歩む道です。群集たちの道か、百人隊長の道か。神様はこの礼拝の説教を通して、わたしたちに救いを与らせようとされています。また、すでに信じて従っているが、イエス様に要求するだけになっている者たちにも、この百人隊長の道への立ち帰りを求められています。

●イエス様の信仰発見物語  
 前回も申し上げましたが、このマタイによる福音書、8章1節から4節、5節から13節までを、ある説教者はイエス様の「信仰発見物語」だといっております。本日の5節から登場する百人隊長とイエス様は出会い、彼の言葉を聞いて、10節でイエス様が「感心」されます。この感心するという言葉は、「驚かれる」という言葉です。また10節で、「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と言われます。この見たことがないという言葉の「見る」という言葉は「発見する」を意味する言葉です。「イスラエルの中で」といっておりますが、「イスラエル」とはユダヤ人のことで、特に選ばれた神の民であることを強調する時に「イスラエル」という言葉を用います。イエス様は、選ばれた神の民の中でも、発見できなかった信仰を5節から登場する異邦人であるローマの百人隊長の中に発見されました。5節に、イエス様がカファルナウムの町に入られると、一人の百人隊長が近づいて来たとあります。カファルナウムの町は、イエス様がガリラヤにおける伝道の根拠地としておられた所です。7章までの「山上の説教」を語り終えて山を下りて来られたイエス様が、カファルナウムの町に来られた。その町に入ると直ぐに、ある百人隊長が近づいて来ました。百人隊長とは、ローマの軍隊において、百人の部隊を率いる下級将校です。上には千人隊長や将軍などがいます。この地には、ローマ帝国の軍隊が常駐していました。この地の支配はローマが握っていました。その百人隊長であるこの人は、ユダヤ人ではありません。いわゆる異邦人です。ただ、ローマ人であったとは限りません。ローマは、帝国に組み入れていった各地の人々を軍隊に取り込んでいきましたので、ローマ以外の地の出身者である可能性も強いのです。しかしいずれにしても異邦人であることは確かです。その異邦人である百人隊長が、イエス様のもとに近づいて来たのです。この百人隊長がイエス様に近づいて来たことは、ある意味大変驚くべきことでありました。彼は近づいて来ただけではなく、イエス様に懇願して「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言いました。中風とは、脳血管障害による後遺症である半身不随、言語障害、手足のしびれやまひのことです。この僕という言葉は、「子」とも訳すことができる言葉で、ここは自分の子どもが、中風になり苦しんでいるとも理解することが出来ます。この百人隊長の子または僕は、動くことができず、そしてしびれやまひで苦しんでいたのです。ですから、彼はイエス様に、自分の大切に思っている「子」または「僕」の救いを、癒しを願ったのです。異邦人が、しかもユダヤ人たちを支配しているローマの軍人が、ユダヤ人であるイエス様にこのように救いを求めるというのは、普通はあり得ないことです。この百人隊長がイエス様に近づいていったことは、驚くべき出来事だったのです。  

 7節で、イエス様は、彼の懇願を聞いて、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。中風ですから、その患者が動けないことはイエス様もわかっていたでしょう。だから、そのように、「わたしが行って」と言われたと理解できます。しかしこの言葉は、このように訳すのがよいのかという、議論があります。別の解釈の仕方をするとここは、「わたしが行って彼をいやすのか」という疑問文にもとれるのです。そうするとこれは、「わたしに行ってあなたの僕を癒せと言うのか」という意味になり、そうすると「そんなことはできない」という否定の意味合いが強くなります。イエス様が憐れみをもって「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われたのか、それとも「そんなことはできない」と否定されたのか、正反対の読み方ができます。  

 百人隊長は異邦人です。この異邦人にとっては、本来はユダヤ人の信じる神様は関係ありません。イエス様が神様の子であること、そして父なる神様を信じること、信頼すること、それらのことや山上で語られた一つ一つのことは、異邦人である彼にとっては、関係ないし、関係なくて平気なのです。さらに、彼はその地を支配している側で、戦いに勝った方です。ですから、「わたしが行かねばならないのか」とイエス様が言われたのは、それは「異邦人であるあなたが、わたしの父である神とは関係ないはずのあなたが、わたしにきてくれというのか」という意味での疑問であるといえるでしょう。  

 この百人隊長が、支配している民の一人であるイエス様に向かって、お願いすることも普通では無いのですが、このような否定の言葉を言われたとするならば、ここで怒って、暴力的なもの言いになっても驚きではありません。「自分のしもべの病気を治してもらおうと、わざわざ自分の足でやってきて、あなたのことを「主よ」とまで呼んで、助けを求めたのに、何だその言い方は、わたしを侮辱しているのか、わたしはお前を無理矢理引っ張って連れて行くこともできるのだぞ」と言っても、おかしくない状況であったはずです。しかし、この百人隊長がイエス様に対して言ったのは、こういう言葉でした。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」百人隊長は自分をわかっていました。「自分は異邦人です。あなたの父を、神様とも呼ぶことのできない、子になることもできない、神様の選びから漏れている人間です。神様の恵みに与るにはふさわしくない存在です。」そのような存在であることをわかっているから、自分の家に迎えることができないといっていたのです。さらにこの「自分の家の屋根の下に迎える」ということは、異邦人だから家に呼べないという意味以外にも、象徴的な意味を持っていると思います。家自体が、自分自身であるとするならば、自分の家の屋根の下というのは、自分の内側に、また自分という存在の下に、その人を来させるということです。つまり、この言葉には、自分に密接に関わりかつ、自分の存在の下に置くということが示されているのかもしれません。言い換えならば、自分の権威の下にイエス様を置くということになるということです。「来てもらうように願う」ということは、一見、謙遜な態度で懇願しているように見えます。しかし、言葉の上では、謙遜な態度のようにも見えますが、見方を換えれば、主であるイエス様を「自分の願いで動かしている」ことと、かわりありません。百人隊長の最初の言葉は、願いのようにとれますけれども、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」といっただけです。懇願したと前の文に海底ますが、語った言葉は「願いの形」ではありません。これは報告であります。これは、さながら、上官に向かって、自分の部隊の兵士が傷を負っていることを報告するかのような言葉遣いです。決して、「なになにして欲しい」とは言っていないのです。百人隊長は、イエス様に自分の僕を救ってくださいと要求しませんでした。しかし、彼は信じていたのです。イエス様にこのことを報告すれば、イエス様は自分の子を救ってくださると。イエス様が「わたしがいって癒やされなければいけないのか」「わたしにあなたは要求するのか」と問うたのは、「それはローマ軍の権威によってわたしに来てほしいということなのか」ということを確かめるためでもあったのかもしれません。しかしそれに対して、百人隊長は、「自分の家の屋根の下に迎えられない」、それは異邦人であるということだけでなく、自分がイエス様の下にあるはずのものですから、自分の下に来て頂くことなどできないという正直な気持ちでしょう。百人隊長は「ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕は癒されます」と言いました。その根拠として彼は「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」と語りました。わたしも権威の下にあると言っているように、異邦人でありながらローマ帝国の権威の下に生きており、自分の部下の兵士は自分という者の命令に『行け』といえば行き、『来い』と言えばくる。これをしろと言えば、その通りにする。つまり、戦場に行けと言えば行く、戦場から戻って来いと言えば戻ってくる、命をかけて戦えと言えば戦うということです。自分が死のリスクがあるところ行けというが、部下は自分を信じて言ってくれる。「つまりこのような自分でも権威を持たされ、命を左右するような命令を出している。部下の命を生かすも殺すも自分次第、そのような命を左右するような権威を持たされている。部下に当たるわたしの兵士たちは、自分の言葉を信じて、その言葉通りに従ってくれている。わたしの場合は、自分が間違った指示を出せば、自分の下にいる兵士は死んでしまう。しかし、イエス様、あなたは間違った指示をだされないだけではなく、本当に人を生かす、あなたの下にいる者たちを完全に救う言葉を語ってくださる。だから、一言命令してくだされば、わたしの僕は癒され、救われるのです。」と百人隊長は考えていたのです。百人隊長は、イエス様に与えられた父なる神様の権威を信じていて、また百人隊長は、この権威の下に自分は既に入れられているということを信じていたのです。  

 百人隊長は、イエス様に「あなたが一言おっしゃってくだされば、僕はいやされる」と言いましたが、どのような言葉を言って欲しいとは願いませんでした。ここには、この百人隊長の信仰が、表わされています。「イエス様が一言おっしゃれば、癒される」という百人隊長の思いは、「イエス様がなにか魔法のような一言を語れば、癒されるからそれを言ってください」という、そのようなイエス様の不思議な力を信じての言葉ではありません。百人隊長はイエス様の不思議な力を信じていたのではなく、イエス様が一言おっしゃる言葉、それがどのような言葉であれ、間違いなく「自分を生かす言葉」である、そして、自分の下にいる部下たち、僕たち、子どもたちも、そのわたしが受けた「言葉」「命令」「指示」によって、わたしの下にいるものたちも必ず、生かされ、救われるに違いないと信じていたのです。これが、百人隊長のイエス様に対する信仰です。恐らく、この百人隊長は、イエス様のおっしゃる一言が、「あなたが部下のためにこれこれ苦労しなさい、犠牲になりなさい」との命令であっても、百人隊長は、そのイエス様の言葉を信じて従ったに違いありません。なぜならば、百人隊長は、イエス様がこの世のどの権威とも比べ物にならに真の権威を与っていると信じていたからです。百人隊長は、自分の下にいる兵士のように、イエス様の下に置かせてもらい、その権威を信じ、その権威によって指示する方に従うことが、自分も、自分の下にいるものたちにとって、一番である、救いであると信じたのです。  

 この百人隊長の信仰に対して、イエス様は「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と言われました。確かに、このような信仰は、他に類を見ません。あえて挙げるとするならば、「信仰の父」と言われ、「祝福の源」となった創世記に登場するアブラハムくらいでしょう。アブラハムは、自分の持っているものすべてに頼ることを離れて、主なる神様の命令に従いました。また神様の言葉を信じて、やっと与えられた、愛する独り子イサクを祭壇で犠牲として捧げようとまでしました。これが神様の言葉を真に信じ、生きたアブラハムの信仰です。しかし、イエス様が「イスラエルの中で」で言っているようにこの百人隊長はある点でアブラハムを超える信仰をここで示しています。アブラハムは、「~しなさい」との主なる神様の言葉を聞いて、それに従ったものでしたが、この百人隊長は、神様から、直接の言葉も命令も聞いていないのです。アブラハムは「神様に行き先を示されないけれども、神様の言葉を信じて従い歩んだ」ものでしたが、この百人隊長は言葉すら与えられていなかったのに、言葉を信じ、従おうとしていたのです。言葉が語られる前から、この方の語ってくださる言葉は、真実で、完全で、救いに導く言葉だと信じ、従おうとしていたのです。これほどまでにイエス様のことを信頼しているものは、イスラエルの中にも、またわたしたちの中にも、いないのではないかと思います。  

 イエス様は従っていたものたち、つまり山上の説教を聞いて従って着いてきた群集や弟子たちに向かって、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と言われました。群集たちは、7章28節にあるように、山上でイエス様の言葉聞き、イエス様を「権威ある者としてお教えになっている」と非常に驚いておりました。彼らは、驚き、興味を持ち、イエス様に近づいていましたが、イエス様の下には立とうとはしませんでした。イエス様に驚くべき権威が与えられてことを、知っていたのに、そのイエス様の権威の屋根の下には入ろうとしなかったのです。その群集や弟子たちは、イエス様のまわりを取り囲むだけか、または、なにか自分の利益になる時がくれば、それか自分が困ったことがあった時に、自分の所に来てもらって、イエス様の権威や力に与りたいと思っていたのでしょう。わたしたちは、そのような群集や弟子たちになってはいないでしょうか。イエス様がすごいのは、知っている。山上の説教だって良い教えだなーと思っている。自分に救いをもたらす方だと知っている。しかし、そのように知っているだけなのであれば、まわりを取り囲んでいる群集たちと一緒なのです。また自分の益になるから、自分を苦しみから救ってもらうという益に与れるからと、形だけイエス様に従おうとしているのであれば、自分がイエス様の下にいったと見せかけて、それは自分の権威の下にイエス様を従わせようとするということです。確かに弟子たちは、イエス様を救い主と信じていましたが、ローマの支配から救ってくれる救い主として、イエス様のことを見ておらず、イエス様がローマの総督であるポンティオ・ピラトの下で、十字架刑という死刑にあわれた時に、彼らはイエス様を見捨てたのです。彼は、自分の求めている形の救いが行われなかったので、イエス様を捨てたのです。つまり、イエス様を自分の屋根の下に呼んでおいて、自分の意にそぐわないとわかるやいなや、自分の家から追い出しのです。  

 洗礼を受け、信仰者となったわたしたちが、もしかつての弟子たちと同じ目でしか、イエス様のことを見ていないだとすれば、わたしたちは、いまだイエス様を取り囲んでいる群集たちや弟子たちと一緒です。イエス様は、このユダヤ人である群衆たちに向かって「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」言われました。ここで御国の子らと言われているのは、神様の選ばれた民であるユダヤ人のことです。取り囲んでいる群集や弟子はユダヤ人です。このままでは、選ばれた民が、終わりの日に、父なる神様の家に迎え入れられことなく、外の暗闇に放り出されるということが書かれています。わたしたちが、ここを読む時に、わたしたちは、ユダヤ人じゃなくて、ここでいう東や西からくる異邦人だから、大丈夫だ。ユダヤ人の人たちかわいそうと思って終わりになることが多いのではないかと思います。しかし、ここでイエス様が「御国の子」と言っているのは、単にユダヤ人のことだけでなく、既に神様を信じて、信仰者になった、神様の子の一人とされたわたしたちに向けられて言っているのではないかと思います。イエス様の救いの御業を信じて、受け入れた信仰者だったとしても、それが形だけで、今でもイエス様を「自分を救うもの」とだけしか見ていないのだとすれば、ここで言われている御国の子らと一緒なのです。この百人隊長が示した、自分を救ってくださる方を信じ、そしてその方の言葉にまったく信頼して生きる。言葉を強くして言えば、部下が上官の命令に従うように、信頼して服従して生きるということがなければ、本当に信じていることにならないのです。ここでイエス様は、従ってきている人に向かってこの言葉を語られたのは、終わりの日にそのようになるという預言を語ったのではなく、「このままでは外の暗闇に放り出されてしまうぞ、だから、そうではなくて、この異邦人の持っているような信仰に生きなさい」という立ち帰りへの招きをここで語られたのです

●幼子のように  
 この百人隊長の話は、イエス様の信仰発見物語であると最初に申し上げました。そのイエス様が、この信仰を発見したことにたいして父なる神様に感謝したことが、マタイによる福音書の11章25節以下にかかれています。25節以下「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」と言われました。この百人隊長のことを、イエス様は幼子のように者とおっしゃっています。あの信仰を持っていた百人隊長は、賢いものとは言われず、幼子のような者と言われました。そうです。百人隊長は幼子になったのです。赤ちゃんになったということではなくて、幼子が親を求め、足元に這って近づいてくるかのごとく、イエス様の下に信頼してきたからです。うちの息子のことですが、わたしが家に帰ってくると、彼は、違う部屋からひょっこり顔を出して、ハイハイをしてわたしに近づいてきて、わたしの足元に来て、足を掴み、立ち上がり、抱っこされるのを待っています。その姿を見て、ああ幼子のような信仰とはこのことかと思いました。彼は、わたしが帰ってきても、「わたしにこっちに来い、そして抱き上げろ、飯を食わせろ、おしりを綺麗にしろ」と要求するのではなく、彼はわたしにただ信頼して、足元にきてくれる。彼はわたしが抱っこしてくれることを知っているそれだけで、自分から近づいてくる。それは、今まで、寝返りもハイハイも立つことも出来なった時から、さらには目もちゃんと見えていない時から、守られ、愛され、抱っこされてきたことを知っていたからかなと思いました。  

 百人隊長も、イエス様に出会う前から、父なる神様の導き、守り、愛を知っていたのではないかと思います。彼は、父なる神様が見えてなかったでしょう。しかし、見えていないけれでも、その愛を受けていたこと知っていた。だから、彼は、見える形となった神の子が目の前に来られた時、ハイハイをするように、素直に、イエス様の足元に、イエス様の下に入ってきたのでしょう。父なる神様の愛に触れていたから、父なる神様の愛と権威を持っているイエス様をただ信頼して、抱きかかえて欲しい、ただあなたの言葉によって導きかれ行きたいと願ったのでしょう。

 今日わたしたちは、この幼子のような百人隊長の信仰を見ました。この信仰の道を示されました。ただ父なる神様を、またイエス様を信頼して、イエス様の下にはいる。それは、つまり、言葉を信じて、その言葉に従って、その言葉こそが自分を生かす、救う、良き道に導く、復活の道に、永遠の命の道に導くと信じて、従うということです。群集のように、弟子たちのようになっているわたしたち、外に出されそうになっている御国の子であるキリスト者のわたしたちに、今イエス様が、この幼子のように自分の下に近づいて来ることを望まれておられます。近づいた時、立ち帰った時、わたしたちは必ず父なる神様に抱き上げられます。父なる神様のみ腕に抱かれるとは、赦され、救われるということです。そして、その後父なる神様は、父として、すべての良きものを与え、わたしたちを守り導いてくださります。その父を信じる、その父に従う道が今、イエス様によって提示されています。

関連記事

TOP