「御心を行う者」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:詩編第6編1-11節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第7章21-23節
・ 讃美歌: 6、504
山上の説教の終わりの部分に入ってきていますが、今日の7章21~23節以下では、イエス様は、まことに厳しい口調で山上にいた弟子たちや群集たちに向かって語られています。21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」とあります。ここから、この山上の説教を語られた時に、イエス様のことを「主よ、主よ」と言っている人がいたということがわかります。
山上の説教を聞いていた、弟子たちもイエス様のことをそう呼んでいただろうし、イエス様を慕ってついてきている群集たちもそのようにイエス様のことを呼んでいたでしょう。マタイによる福音書では、弟子たちが、「主よ」と呼びかけている場面や、癒やしを求める病人や女性がイエス様のことを「主よ」と読んでいる場面がでてきます。イエス様のことを「主よ」と呼ぶ人がいるのは、イエス様が地上におられた時代の話だけかと言えばそうではありません。わたしたち信仰者もまた、イエス様のことを「主よ」と言うものです。イエス様のことを本当に心から「主よ」と呼ぶものは、自分が主人なのではなく、イエス様こそが自分の主人であると告白するものです。そのようなわたしたち信仰者に向かっても、イエス様は「主よ。と言っていれば、それで天の国に入ることができるわけではない」、つまり「主よ。といえば救いにあずかれるわけではない」、と言われています。これはなんと厳しいお言葉だろうかかとわたしたちは思います。イエス様は、御自身を主と呼べば、だれもが救いにいれられるわけではないと言っておられます。ではどうすれば、天の国、つまり神様のご支配に与れるのか、言い換えればどうすれば終わりの日の救いに与れるのだろうかとわたしたちは思います。イエス様はこういっておられます。21節後半「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」イエス様の父、つまり天の父なる神様のみ心を行う者だけが、永遠の命を得て天の国に入ることができると語られています。21節のイエス様の語られていることをわたしたちが単純に受け取ると、「御心を行う者」とあるから、「主よ、主よ」と口先だけでいっていてはだめで、ちゃんとキリスト者にふさわしい行いをしていないと、救いに入れられないとイエス様は言われているのだなと、わたしたちは理解します。ここをわたしたちは、言葉だけではだめで行いを伴わなければならないということだ、と理解しがちです。そこから、信仰が本物であるとは、言葉だけではなく、行いが伴うことだ、という理解が生まれます。しかし、イエス様が言っておられることは果たしてそういうことでしょうか。次の22節以下に語られていることは、そういう理解とは矛盾することが語られています。22節に出てくる人々は、善い行いをしている者たちです。しかし、その人たちは、「かの日」つまり世の終りの日に、結局イエス様から「あなたたちのことは全然知らない」と言われてしまう、つまり滅びに入ると断定されてしまうと書かれています。その人々はイエス様にこう言うと言われています。「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」。つまりこの人々は、数々の立派な業を行い、しかも「御名によって」つまり主イエス・キリストの名によって行ってきたのです。「主よ、主よ」と言うだけで何も腰をあげず、行動しなかったのではありません。預言し、つまりみ言葉を語り、悪霊を追い出し、奇跡をすらも行ったのです。この人たちは神様の名によって、初代の弟子たちのような行いをし、力ある業をしたと言えるのです。ところが彼らは主イエスから、「おまえたちは私と関係がない」と言われてしまう。ですから、救いにあずかるかとそうでないかを、区別するものは、善い行いがあるかどうか、ということではないのです。勿論、行いはなくてもよい、ということではありません。問題はその行いが、「わたしの天の父の御心を行う」ことになっているかです。彼らがしてきたことは、「神様の御名によって」なした業ですから、神様の名を広めるような、業でした。また人を助け、救うような業でもありました。しかし、それらは「天の父の御心を行う」ことにはなっていなかったのです。ですから問題は、「言葉だけではなくて行いだ」ということではではないのです。
●御心を行う者とは
では父のみ心を行う者とはどのようなものでしょうか。天の父なる神様のみ心はどうやったら行うことができるのかということがわたしたちの切実な問いとなります。結論から申し上げれば、「天の父の御心を行う」というのは、「天の父なる神様の下で、その子として生きる」ことです。イエス様が、21節後半で、天の神様のことを「父」として語られていることが重要なのです。イエス様は、ここで、ご自分とわたしたちが主従の関係にあるということ以上に、神様とわたしたちが「父と子」の関係であることを、思い起こさせようとされています。父なる神様がわたしたちの主人であることは、間違いではありません。そしてわたしたちが神様の僕として生きることにも、間違いではありません。しかし、放蕩息子のたとえにもあるように、放蕩の限りを尽くした息子が、僕になってもいいから、父の元においてもらおうと決心して、父のもとに帰った時、父は自分の息子が奴隷となることで赦したのではなく、自分の所に戻ってきたことを喜び、その子を僕としてではなく、愛する息子として抱きしめました。ここに父なる神様のわたしたちに対する御心があります。父なる神様はわたしたちが、僕となることや、僕として善い働きをするから、わたしたちをお赦しになったり愛されたりするのではなくて、わたしたちを愛していたから子として受け止めてくださり、愛しておられたから、悔い改めて戻ってきた時に赦してくださったのです。ここにおいて、父なる神様は、わたしたちとの関係を、父と子としての関係であることを望まれていることがわかります。わたしたちは、神様の僕として、様々な事柄を実践したから、働きをしたから、救いに入れられるのではありません。先ほども申し上げましたが、イエス様は、ここで神様とわたしたちの関係が、「父と子」として関係にあることを強調しておられます。その関係性は山上の説教全体においても、大事な事柄でありました。わたしたちが、神様を、わたしたちの「父」であるとして、祈ることをイエス様は勧められていました。イエス様は、山上の説教において、父と子との信頼関係の中で生きることが大事だと強調されていました。信仰者は洗礼を受けます。洗礼を受けるということは、神様がイエス様を通して自分を救われたということ、そして父と子との関係を神様が結ぼうと望んでおられるということを認め、受け止める、実際に関係を結ぶということです。
●不法を働くもの
しかし、そのようにして父と子の関係が結ばれたのに、父と子としての関係に生きるのでなく、自分の都合で、自分の救いのために、神様と主従関係になろうとするのならば、それは救いにはなりません。自分の救いのために「神様を主よと呼ぶ」または「神様の御名を使って善い働き」をすることは誤りであり、それは23節でイエス様が言っている「不法を働く者」なのです。なにが不法なのかと言えば、自分の救いのために生きる者は、神様を愛しているわけでもなく、隣人を愛しているわけではないからです。その者は神様を愛し、隣人を自分のように愛するということが頂点にある神様の律法に従って歩まない、それに従って生きないから不法になるのです。神様の愛の御心の現れである律法を無視するということは、つまり神様から愛され、神様を愛するものとなったこと、神様から愛されそして隣人を愛するものとなったこと、神様から罪赦され、そして隣人を赦すものとなったこと、そのような神様からの愛と赦しを忘れて、そのような関係が無いかのように生きることです。その関係、その律法、その神様の御心を無視して、自分の行った実績や功績を積んでも、それが神様のため、人のためだったとしても、そのような実績や功績、実践によっては、神様の国に入れられない、救いにあずかれないのです。神様の名によって、預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を起こしても、そのように神様の名を借りてすごい業を行っても、それがわたしたちと神様との関係を生み出すものではないということです。神様との真の関係、真のつながりがなければ、だれも救われることはありません。その真のつながりは、イエス様が結んでくださいました。そのつながり以外に、救いはありません。イエス様が十字架に掛かり、父なる神様とわたしたちとの間にあった断絶にはしごをかけてくださったのです。そのはしごは、父なる神様が、愛する独り子イエス様をこの世に遣わし、手放し、十字架上で犠牲とならせることでかけられたのです。つまりそのはしごは、父なる神様がわたしたちにたいして赦しますという、しるしでもあったのです。
ですから、父なる神様とわたしたちは、赦したものと、赦されたものという関係です。イエス様において、わたしたちに対する完全な赦しが実現しました。わたしたちは、わたしたちの罪を赦すために愛する独り子の命を手放すほどに、価値あるものと見なされ、愛されたのです。本当は無価値で、滅び行くしかなかったのに、価値あるものとして、価値あるといっていますが、それはどれほど「使える人間であるか」ということではなく、生まれてきたばかりの幼子のように、何もできない、ただ泣くことと、うちの息子のようにうんちすることだけしかできないのに愛おしいと思う、そのような父と子という関係性からうまれる価値をもって、宝としてわたしたちを見てくださり赦してくださっているのです。
それらを忘れて、わたしはこれくらい出来る、わたしが御名によって、色々なことをすることで、神様の名が高められる、神様の値打ちを上げられる、わたしたち信仰者の現実に近い言葉で言い換えれば、わたしたちがクリスチャンであることを証して良い働きをすれば、信じている神様が評価され、神様の名が広まって、神様の名が讃えられる、そしてその功績で自分は救われると思っているのならばそれは間違いです。神様の名によって働くこと、またクリスチャンとして善い働きをなしていくことは、だめなことではありません。しかし、肝心要の、父と子という、愛するものと愛されているものの関係、恵みを与えるものと与えられているものの関係、赦すものと赦されているものの関係を無視していたのならば、いくら善い働きをしても、無意味なんです。イエス様において、そのような父と子と関係が結ばれた、赦された、その福音を信じ、受け止めること、それがなければ、救いにはならないのです。その福音を信じ、イエス様に結ばれて生きているものは、隣人愛し、隣人を赦し、隣人に恵みを分け与えるものになります。むしろそれらのことは、しなければならないことであるとイエス様が強調されています。しかしそれら善い業できるのも、善い実を結ぶことができるのも、わたしが父なる神様から愛され、赦されたという恵みに基づいているから、できることなんです。その関係に生きていると認めないで、善い業をしている者がいるとすれば、それらは、偽善という仮面を被った偽善者か羊の皮を被った狼である偽預言者であるでしょう。
今日「主よ、主よ」と言っていたものたちは、「御名によって、御名によって、御名によって」と繰り返し「御名によって働いたこと」を、イエス様の前で強調しています。それは、「そのようにしたんだから、神様、わたしを救ってくださるのは当然でしょう」とまるで、イエス様と自分が対等であると思っており、さらに言えばイエス様をビジネスパートナーであるかように扱っています。「これこれしたんだから、救ってくださるのは当たり前だ。」それは「120円入れたら、ジュースを必ず出す自動販売機」と同じように、イエス様を扱っているということです。イエス様をそのように扱っているということは、父なる神様のとの関係もそのようなものであると考えているはずです。そうではなくて、自分の罪を見つめ、悔い改めて、神様のもとに戻る。そして、戻って来た時、神様がわたしを子として愛してくださった。そして無価値な自分が価値ある宝として受け入れられた。それらを知ることが大事なのです。
●「わたしから離れ去れ」にある憐れみ
イエス様は不法を働いている者に対して、23節で「あなたたちのことは全然知らない。わたしから離れ去れ。」と言われました。これは「かの日」つまり「終末に起こる最後の審判の時」の言葉です。最後の審判の時にイエス様に知らない、つまり関係がないと言われたものは、救いではなく「滅びだ」ということです。わたしたちも、イエス様のことを「主よ」と呼ぶもののひとりですから、この言葉だけ聞くと、大変不安になります。終わりの日に、イエス様に知らないと言われるかもしれない。しかし、この言葉を、終わりの日ではなく、「今」聞いたわたしたちは幸いです。わたしたちは時に、神様と自分が父と子であること、愛されていること、恵みを受けていることを忘れて、自分のために生きてしまったりすることがあります。また、逆に信仰者としてこれほど働いているから、教会のために尽くしているから、神様の御名ために生きているから救われるだろう、報われるに違いないと思うことがあります。そのように思っている時は、ひとたび苦しいことや不幸なことがあると、「なんで信仰者として生きているのに、あれこれ奉仕したのに、報われないの?評価されないの?」と不平不満をいうことがあります。そのような時、神様のことを働いた分に対して正当に報いてくださらない方だと決め付け、誠実な方ではないと、決めつけるようなことをしてしまいます。そのように考えている、わたしたちは、「御名によって、これこれしたではありませんか」という不法な者と変わりないということです。わたしたちが神様のことを、どんなに小さな存在でも、貧しくてもちゃんと恵みを与えてくださる方、愛してくださる方、天において報いてくださる方としての信頼関係を忘れて、ビジネスライクな関係、ギブアンドテイクの関係として見ているのならば、イエス様は、わたしたちに向かって「わたしから離れ去れ」と言われます。その言葉は、冷酷に聞こえますが、わたしは、その言葉には、憐れみが込められていると思います。何故ならば、それは間違った関わり方で神様と繋がろうとしているわたしたちに対して、「離れなさい」とイエス様はわたしたちに言われているからです。つまりイエス様は、「あなたが、父やわたしとの関係を勘違いしているのならば、一度きっぱりと切れてしまったほうがよい。」と勧められているといことです。この言葉を終わりの日に言われていれば、それは滅びの宣言ですが、まだ終わりが来ていない「今」ことの時に、聞かされているわたしたちにとっては、もう一度正しい関係に戻りなさいという、立ち帰りを促す言葉です。この立ち帰りは、放蕩息子が父のもとへもどるような立ち帰りです。放蕩息子は、一度父親のもとから離れ去ることで、自分の罪に気づきました。放蕩息子は、家を出る前は、父親のことを、「財産をくれる人」としか、見れていなかったのかもしれません。しかし、父から離れ去ってから、父親のそれまでの愛や恵みや支えに気づきました。イエス様がここで「わたしたちに離れ去れ」と言っているのであれば、それは「もう一度父親との関係を思い返せ」という意味であるといってもいいでしょう。イエス様も父なる神様も、わたしたちに戻ってきて欲しいから、救いを与えたいから、滅ぼしたくないから、愛し愛される関係を結びたいから、終わりの日が来る前に「父との関係を思い返せ」と言われているのです。
イエス様は今日、わたしたちに、もう一度わたしたちが、父なる神様から「子として愛されていること、支えられていること、恵みを与えられていること」を思い返せてくださろうとしています。それは、時に、わたしたちが、父なる神様やイエス様のこと、誤った見方をしたり、間違った関係性の中で生きていると勘違いするからです。わたしたちは、勘違いだけでなく、父なる神様やイエス様を見失ってしまって、自ら滅びへの道に進もうとしてしまうことがあるからです。ですからイエス様は、わたしたちが、滅びの道にいかぬように、強い口調で神様との関係を思い起こせと言われているのです。そのような、自分ひとりで歩むこともできないわたしが、イエス様のことや父なる神様のことを勘違いしてしまうわたしが、自分のためばかり生きてしまうわたしが、今天の父に愛されていると確信すること、赦されているということを受け止めること。それが父なる神様が望まれていることです。御心です。さらには、その父に愛されているものは、今度は隣人を愛し、赦していくようになります。そのように、変えられていきます。あの救いを約束されている「狭き道」を隣人と歩む時に、隣人との関係の中で生きることになります。その時、道が狭いですから必ず隣人との衝突が起こります。隣人を傷つけたり、傷つけられたりします。しかし、わたしたちは、そこで赦されたり、赦したりを実践していくことになります。時にゆるせないという葛藤と戦うことにもなります。しかし、これが狭き救いの道を歩むものに与えられた、父なる神様からの試練です。この道を歩む時に、その試練にあいますが、その試練を通して、わたしたちは赦すものへと変えられていきます。隣人を赦すことが起こる時、まさにそこで、わたしたちは父の御心を行っているのです。そのように、イエス様を信じ、狭き道を歩むものは必ず、赦すものへと変えられていきます。父なる神様から愛され赦されていることを本当に受け止め、確信し、隣人を愛し隣人を赦すもの、これが「父の御心を行う者」です。イエス様は、わたしたちを見捨てておられません。神様との関係について間違った捉え方をしてそのように生きてしまっても、間違った道を歩んでしまっていても、イエス様は救いに至る狭き道に戻そうと、必死に強い口調でわたしたちに呼びかけてくださいます。今わたしたちそれぞれは、今どこを歩んでいるかはわかりません。しかし、今この礼拝で、イエス様はわたしたち全員に、神様が、父として、救いと恵みを与えてくださる父としてわたしたちと向き合ってくださっていることを知らされました。イエス様は、山上で弟子となっていない群集にも、この話をされているということは、まだイエス様に従っていない者に対しても、洗礼をまだ受けていないものに対しても、「神様があなたの父である」そして、「あなたに罪の赦しと永遠の命を与えてくださる方として待っておられる」ということを伝えたいからです。イエス様は、まだイエス様を信じるに至っていないものの「立ち帰り」を今も待っておられます。洗礼を受けて、父と子との関係をはっきり結ぶことをまっておられます。
またイエス様が弟子たちにもこれを語られていますから、既に信仰者となっているものにも立ち帰りを求めておられます。それは、もう一度洗礼をうけろということではなく、もう一度、父なる神様との関係を思い起こせということです。既に洗礼をうけた者はこれから聖餐に与ります。この聖餐を通して、わたしたちは、今も父なる神様に愛され赦されている、救いに入れられている、終わりの日の永遠の命が約束されている、そのような救いと愛を頂いるものであること、今もその父との関係に生かされているということを、わたしたちに思い起こされます。イエス様は、礼拝の説教を通して、また聖餐を通して、わたしたち全員に、父なる神様への立ち帰りを望まれておられます。