「明日への不安を主に」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:詩編 第37編1-6節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第6章25-34節
・ 讃美歌: 521、463
「もうあなたは思い悩まなくてよい」「父なる神様が必ずあなたを支えてくださる」「父なる神様が日々支えてくださる」「あなたの命を責任もって導いてくださる」「責任をもって命を導き、意味あるものとして命を取り去ってくださる」「そしてその命を永遠の命としてくださる」「だから命を維持することに、生きることに必死にならなくて良い。」「父はあなたが思い悩みで何も考えられなくなっていても、あなたを愛する子として、しっかりと支えてくださる」そう、イエス様は今日わたしたちに語りかけておられます。
25節でイエス様は「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」といっておられます。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」そういう思い悩みというのは、わたしたちの日々の生活中での思い悩みです。イエス様がこれを語られた時代は、その日の食べ物にありつけるかどうかというような貧しい生活をしていた人が多くいました。ですから何を食べればいいかというのは本当に切実な、生きるか死ぬかという問題でした。しかし、わたしたちは、そこまで食べ物や飲み物のことで悩むことはありません。しかし、わたしたちの時代に置き換えれば、これは、食べるもの、着るもの、住む所を獲得するための資金、またその資金となる収入を得るための職があるかないかということが切実な問題です。職を持っていない人は自分を支えている家族、その家族の収入、家族の職があるか、安定しているかということがわたしたちの問題でありましょう。それらを失ってしまうかもしれない不安、悩みをわたしたちは常に持っています。わたしたちが明日職を失ってしまえば、また自分を支えている家族がいなくなってしまったら、大きく言えば国が滅んでしまったら、わたしたちはたちまち食べるにも飲むにも困り始めるでしょう。「命」と訳されている言葉は、単なる肉体の命のことではありません。むしろそのような肉体的な命のことは「体」といわれている言葉にあてはまります。ここで言われている「命」は「魂」とも訳せる言葉です。わたしたちの魂を本当に養い支えはぐくむ糧とは何か、それはどこにあるのかというのがわたしたちの今の悩みではないかと思います。今の時代の人は、スピリチュアルななにかを求めています。パワースポットにいくこと、瞑想することなどなど、それらを頼りにして魂を潤そうとしています。その魂の渇きを本当に癒やす真の糧はなになのかということを、知らず知らずにもとめています。その魂にとっていいものはなにか、ということで思い悩むという現実はあるでしょう。
体のことつまり肉体的な命のことでわたしたちは悩みます。その命や体をどう守るのかということでわたしたちは悩みます。イエス様が地上におられた当時は、「着るもの」によって、自分の身を守っていました。コートは寒さを凌ぐだけでなく、獣から身を守るためのものでありました。わたしたちは、体に対してなにをしたら守られるのか、長生きできるのかを悩みます。どうやったら長生きできるかという問いは、言い方を換えれば、死からどうすれば遠ざかれるかという問いです。わたしたちは、長生きを求めているとき、死から遠ざかるために、実際に何を食べたらいいか、何を飲んだらいいか、どういうことをすればいいかと悩みます。それだけでなく、なにをしたら、危険ではないか、リスクなしで生きられるか。それらがわたしたちの思い悩みです。
このように、命のこと、体のことについての思い悩みは、新しい形となって、わたしたちを捕えています。自分はそういう思い悩みと関係がない、と言える人はいないでしょう。そのような様々な思い悩みを前にして、わたしたちにイエス様は。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」「あなたの命や体は、食べるもの、着るものよりも大事ではないか。」とこう言われています。わたしたちは、命が食べ物や衣服よりも大切であるというのはなんとなくわかります。しかし、わたしたちは、命は食べ物によって支えられていると考えています。それらが、命のために必要不可欠なものとして認識しています。だから、命のことを考えるのだったら、食べ物のことを大事だと思うこと、体だったらどうやって体や命を守ってくかを考えることは大事じゃないか、それに悩むのは当然じゃないかとわたしたちは思います。その点を考えると、ここでイエス様がなにをわたしたちに伝えたいのかがもっともわからなくなります。ですので、この言葉の意味を理解するため、その後の26節以下を見ていきましょう。26節以下には、空の鳥を見なさい、野の花を見なさいという教えが語られています。空の鳥は、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない、野の花は、働きもせず、紡ぎもしない、その鳥も花は、思い悩まずに生きています。そういう姿を見なさいとイエス様は言われています。イエス様はここで、空の鳥を見なさい、野の花を見なさいといっておられますが、イエス様は鳥や花がなにもしていないということを見て習えといいたのではありません。もう少しイエス様の言葉を注意深く考えてみましょう。鳥たちは、自分でなにかを栽培して、自分で食糧を確保していない、花はなにかを自分で裁縫して着飾っているのでないとイエス様は言われます。イエス様はそのことを見なさいといわれているのです。彼らは、すべて与えられて、それを得て生きているのです。鳥が木の実を食べるとしたら、それは自分の手で造ったものではなく、神様がそこに生やさせたものから食べています。つまり鳥は神様に養われているということです。花も、なにか自分で選んだり、作ったりして自分を美しくしているのではなく、神様に造られたそのままの形で美しくなり、神様に守られてその美しい形を保っているということです。この神様の支えを見なさいとイエス様は言われているのです。ですから、大切なのは、「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」という言葉です。明日命が失われてしまうかもしれない野の草でさえ、見捨てられることなく神様はしっかりと支えられています。つまり、この地上での最後の最後まで、神様は支えてくださるということです。その神様の養い、守り、導きの恵みを、鳥や花、野の草を通して見なさいとイエス様は言っておられるのです。その恵みはわたしたちにも与えられています。そして、この箇所には、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」という言葉が書かれています。「神様が空の鳥や野の花、野の草を養い、装っていて下さるなら、あなたがたにはなおさら、それ以上の養い、装い、導きを与えて下さらないはずはない、あなたがたは、鳥や花よりもはるかに価値のあるものなのだ」とイエス様はここで語っておられるのです。ここでイエス様は、「人間が動物植物よりも優れた存在なんだぞ」と言いたいのではありません。ここイエス様、「父なる神様が、あなたたち人のことをどれだけ大事に思っていて下さるか」ということをお伝えになっているのです。神様は、ご自分がお造りになった空の鳥、野の花、動物植物、自然を、大事に養い、装っていて下さいます。しかしそれ以上に、わたしたち人間を愛し、養い、守り、導いていて下さるとイエス様はわたしたちに伝えておられます。「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」とあります。神様は「あなたがたの天の父」つまり「わたしたちの父」なのです。わたしたちが、鳥よりも価値あるものであるというのは、神様にとって、わたしたちが子であるからです。鳥や花は、神様に創られた被造物です。わたしたち人もそうです。しかし神様は、わたしたちを、他の被造物とは違って、ご自分の子と呼んで下さる、わたしたちの父となって下さる、父として、わたしたちをはぐくみ、養い、守り、導いて下さるのです。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」というのはそういう神様のわたしたちに対する特別な恵みを意識した言葉です。
25節の「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」という言葉も、この神様の恵みを前提として読むことが大事です。神様は、わたしたちを子として愛しておられ、わたしたちの命と体を養い、守り、はぐくんでいて下さる、そうであるならば、その命のために必要な食物を、体のために必要な衣服を、必ず与えて下さるのです。命と体は根本的なものです。食べ物や着るものは、根本的な命や体を支えるものです。神様は、その命と体という根っこしか守ってくださらないのではなく、その根っこを支えるものも必ず与えてくださるのです。それが、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」という言葉の後ろにあるメッセージなのです。そこに注目すると、「思い悩むな」という教えに込められた大事なメッセージがさらに浮かび上がってきます。父なる神様が、わたしたちを、子として、その命と体、根本的なものを養い、守り、はぐくんでいて下さる、そのことを信じて生きる時に、わたしたちは、支えとなるものを必死で得ようと思う、そのような思い悩みから解放されるのです。わたしたちの抱く思い悩み、それは常に自分の支えとなるものに対する思い悩みです。命と体を支え、充実させ、養っていくための、お金、職、経験、能力、地位それらが必要だ、でもそれがない、あるけどちょっとしかない、もっと増やさないと、とそういう中でわたしたちは思い悩んでいきます。それが、食べもの着るもののための思い悩みです。しかしイエス様はわたしたちに、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と言われます。その真意は、あなたがたの命と体を、つまりあなたがたの根本的なところを、養い、守り、育んでいて下さる天の父なる神様がおられるのだ、その特別な神様の恵みに目を向けなさい、ということなのです。
実は、わたしたちはその特別な恵みによって、死さえも問題ではなくなりました。父なる神様は御子であるイエス様を犠牲にされることで、わたしたちの死の問題を解決してくださいました。イエス様の十字架と復活の救いを信じて、イエス様とつながるものは、復活と永遠の命が与えられます。そして、神様を信じる信仰者となったとき、わたしたちは死を恐れずによくなります。そして、死という最後にある障害に対して、わたしたちが無理して抗ったり、避けようとしたり、逃げようとしたりしなくて良くなります。死のみが人生の結末にある時は、その死から逃れようよ、長生きしようとします。そして何を食べたら長生きできるか、何を飲んだら長生きできるかで思い悩みます。または死のみ結末にある時に、わたしたちは「この一回きりの人生だからと思い、精一杯謳歌しないといけない、だから華やかな人生でありたい」と思い、人生において着飾ろうとします。そこで、何を着ればいいか、何をすることで華やかな人生を送れるかということに必死になるのです。そして、自分の人生が華やいでいない時に、あれこれ思い悩むのです。自分がもうすこし頑張っていれば、自分の人生はもっと良かった。こどもの人生にたいしても、もうすこしこうしてあげれば良いものになったかもしれないと、人生の華やかさ、豊かさを基準して考え、思い悩み、時に自分を責めるのです。そのようなことは、人生の最後は死しかと思っている時に起こるのです。しかし、信仰者には死の先があります。死を超えて、永遠の命を与えられて神様と生きる時が来る。神様の導き、支え、支配に完全に与って生きる歩みが、死の先にある。その永遠の命があることがわかった時、わたしたちは今の人生が、死から逃げるための長生きを目標として人生、自分を華やかなにしないと絶対だめと決めつける人生から解き放たれるのです。
神様が今自分の命を支えてくださり、また神様がもっとも良いと思われる時に、わたしたちの地上での命を取り去られます。その地上の死というのは完全な滅びではありません。復活までの眠りです。それがわかった時、わたしたちは、死をも神様にゆだねられます。主が一番良き時に、一番良き死を定めてくださる。神様はわたしたちの死を無意味な死にされません、それは裏を返せば、無意味な人生を送らせないということでもあります。わたしたちは、死が問題でなくなった時、死なないために、どうやって生きるのかという悩みから解き放たれます。
わたしたちは「人生を問題なく生ききる」「なるべく死から遠ざかって生きる」ことを目的のようにして生きてしまっています。なんとか、苦労が少なく、飢えることや、寒さや暑さ、災害、犯罪に巻き込まれることなく、できれば快適にこの人生を過ごしたい。そのために努力をします。しかし、苦労や苦難に直面し、悩みます。カトリックの司祭であり日本に死生学を広めたアルフォンス・デーケン氏は、そのような生き方は、本来の人があるべき、生き方ではないと批判しています。デーケン氏がそのような誤った生き方を「グリーン車のチケットを求める生き方だ」と譬えています。『そのような人は、自分の人生という旅で、駅員さんに目的地をつげることなく「グリーン席をください」といっている状態だ。目的地に到着することよりも、その旅が快適であること、スムーズに行くことだけを考えてしまっている。そのような人生は、旅ではない。そもそも目的地を伝えないとチケットは買うことができない。そのようであれば旅できない。』とデーケン氏は言っています。わたしたちはそのような快適人生だけを望み、地上の人生の行き着くところである死を見ようとはしません。デーケン氏は、死から逃げるのではなく、死を見つめることを勧めています。しかし、わたしたちは、自分が死ぬことを考えるのはあまりしたくないものです。死は、わたしたちにとって、あまりも強大な敵だからです。死の前ではわたしたちは、為す術がありません。だから、普通の人は、死を思わないのです。わたしたちは、イエス様によって与えられる復活と永遠の命の約束があるが故に、自分の終わりをきちんと見つめることができます。死が強大な敵でなくなったからです。死に勝つことが前提で、死の先を見つめることができ、またその死がすべての終わりでないという視点から今の人生を見つめることができるのです。その人生での歩み、父なる神様がわたしたちが生きている時は必ず食べ物を与えてくださり、飲み物を与え、守ってくださり支えてくださる。そしてその地上での人生の終わりもきちんと責任もって意味あるものとして終わらせてくださる。そして、死の先、終わりの日に復活させて永遠の命を与えてくださる。その父なる神様の特別な恵みをわたしたちは与えられているのです。
33節で「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とイエス様は言われました。この「神の国」と言われているのは、「神様の支配」を現すものです。神様の支配は、第一にこの世界を支配されていることを意味します。この世界の支配を通して、わたしたちに日々の糧や、魂に必要なもの、生きるに必要なすべてを整えてくださっています。そして、神様の支配は、死に勝利される支配です。死が入ってくる余地のない、完全な神様の支配が終わりの時に来るのです。この恵みに目を向けなさいと、イエス様は言われています。神の義とは、神様が認めるただしさのことです。神様に正しいとされなければ、わたしたちは、神様と共に生きることができず、救いに与ることもできません。どのようにして、神様に正しいとされるのか。それは、なにか良いことをする、善行を積む、祈る、断食をするということではありません。ただイエス様によって、そしてイエス様を救い主として信じる信仰によってわたしたちは神様に正しいとされます。イエス様の救いによって、その救いを信じる信仰によって、わたしたちが神様に義と認められるのです。わたしたちは、その救いの業、救いの恵みをこそ求めなさいと、イエス様は言われています。そして、その救いに既に与ったものは、その救いに感謝して、生きる、感謝して、神様に応答していく、神様のみ心を求め、神様の正しさを見つめ、神様の正しさのなかを生きていくことが求められています。その神様の支配を求める時、そして神様の救いと正しさを求める時には、命を支えるために食べるもの、飲むもの、きるものは必ず備えられるとイエス様は言っています。
神様が、わたしたちの天の父として、わたしたちの命と体を養い、支え、はぐくんで下さる、その恵みに信頼して、まず神の支配と神の義しさを求めて生きていくという、信仰の歩みをしていれば、全く思い悩みがなくなるかといえば、そうではないということをイエス様は語っておられます。34節に「だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とあります。信仰を持ち、神様に信頼して生きる歩みにおいても、日々の苦労はあるとイエス様はいっておられます。現実において、思い悩みはあるのです。しかし、その思い悩みによって、わたしたちは押しつぶされ、明日へ向かって歩んでいくことができなくなってしまうようなことはありません。「今日を生きる苦労はあった。しかし神様の恵みと支えによって乗り切きることができた。だから、明日も主が必ず支えてくださる信じることができる。明日を思う時によぎる不安、不安の原因も父なる神様は知っておられる。だから、明日その神様の支えによって明日を歩もう」とわたしたちは、信仰によって、こう言えるのです。
わたしたちの天の父が、わたしたちの命と体のために本当に必要なものをご存じであり、それを与えて下さる、そして究極の問題であった死をも解決してくださっている、だからこの地上における命が取り去られる時にも、神は父としての恵みをもってわたしたちを導いて下さると、そのわたしの死をも無駄にはされないと、主を信頼して思い悩み潰されず歩むことができるのです。その信頼を与えられている者は、その日の苦労をその日の苦労として背負っていく力を与えられるのです。思い悩みがなくなってしまうことはありません。しかし、自分の命と体のことを、天の父なる神様にお任せして、信頼と安心の内に生きることができるのです。もし明日への不安、将来に対しての不安、死への不安、それらによる思い悩みに押しつぶされて、何も考えられなくなっていても、主の恵みを忘れてしまっている時も、主はわたしたちを見捨てられることなく、その力強いみ腕でわたしたちを支えてくださっています。そして、その不安に怯えるわたしたちに、「恐れるな、わたしを見よ、わたしが今あなたを支えている」といわれます。だから、わたしたちは神様を見つめましょう。そして神様の恵みの支配、そして神様の救いの御業、恵みに目を向けましょう。明日への不安を主に委ねて、今主に支えられていること、主とともに今日を歩んだことを思い、そして今日与えられた恵みを見つめ、明日も主とともに、明日も主の恵みに活かされるという喜び持って、明日を歩みましょう。