「どれに誓っても」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:出エジプト記第20章7節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第5章33-37節
・ 讃美歌:218、459
わたしが夕礼拝を担当している時は、マタイによる福音書を読み進めています。本日のマタイによる福音書5章33~37節は、5章から始まった「山上の説教」の一部であります。前回共に読んだ、「離縁してはならない」ということもそうですが、この箇所でも、イエス様はイスラエルの人が教えられてきた律法を取り上げて、これまで教えられてきた律法を否定するのではなくて、本来の律法が目指している目的を明らかにするために語られます。今回の律法は33節にあるように「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」ということです。「偽りの誓いを立てる」ということは、これは、つまり実は嘘であるのに、「これは本当です、本当ですから主に誓います」と、嘘を真にするために誓うということです。そのような、「嘘のために、誓いを立てるな」ということをここで戒めています。「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」というのは、神様に誓ったのならば、その誓ったことは必ず真実となるように実行せよということです。この律法の大事な所は、「主に誓う」つまり「神様に誓う」ということが、いかに重大なことかを教えていることです。「神様に誓う」ということ、それは神様に自分の発言を、保証してもらうということです。神様が保証人であって、もし自分が約束したことを守れないのであれば、自分だけでなく、神様の信用を貶めることになります。そうであれば、「神様に誓う」時、わたしたちの結ぶ約束や、口にする発言が、本当に真実な事でなければならない。さらには、神様の民であるものたちは誓う時だけでなく、彼らは「神の民」という、神様の名の元にある民ですから、彼らはいかなる時でも、その言葉が真実で誠実なものでなければならないのです。そのことをこの律法は、わたしたちに教えようとしていたのです。
しかし、いつの間にか、この律法は、わたしたちがいかなる時でも、真実で誠実な言葉を発する事が大事であるということよりも、「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」ということが曲解されていき、嘘の事柄でも、誓ったことを自らの力で、真になるように実行することが大事であると思われるようになっていきました。「偽りの誓いを立てても、自分の力で、それを真にすれば、神様の信用を下げることにならない、神様の御名を汚すことにはならない」と考えるようになっていました。それが、当時の律法学者やファリサイ派の考えであり、またわたしたちも陥りそうな考えです。
本来の目的が忘れられ、神様の御名を汚さない、つまり、神様の信用を下げないことが大事であるとなった時、当時のユダヤの人々は、この律法に自分で穴を開け、抜け道を作ろうとしました。当時の、ユダヤ人たちは、事あるごとによく誓っていたそうです。しかし、神様に対して誓う時、その誓い通りにできなければ神様の信用を貶めることになるので、簡単に何でもかんでも誓うということができませんでした。だから、神様にではなくて、天であったり、地であったり、エルサレムという国にかけて誓うということをしていたそうです。それは、誓う対象が神様でなければ、誓いを立てて必ず守ると自分の結んだ約束を、途中で破っても、神様の信用が落ちることはないと考えていたから、そのようにしたのです。これは、神様以外のものにかけて誓うなら、果たせなくてもいいだろう、という思いから生まれる考えです。このような思考に陥っているときは、自分の言葉が真実であるということよりも、とりあえず自分の意見を押し通したい、もしくは相手にわたしが真であると信じこませたいということが大事になっています。
34節以下でイエス様は、そのことについて戒められています。イエス様は、このような抜け道までも作ってしまうそのような律法の解釈に対して、「しかし、わたしは言っておく」と言われその解釈を否定され、「一切誓いを立ててはならない」と言われました。イエス様が「一切誓いを立ててはならない」と言われたのは、そのような人間の思いや考えを打ち砕くためです。そのような抜け穴や抜け道はないということを言いたいがためです。「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である」。天とは、神様がおられる所であり、神様が玉座に座られ、その場所を支配されており、天も神様のものなので、神様の天にかけて誓うのは神様にかけて誓うのと同じなのです。「地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である」。「地は神の足台である」というのは、神様が足をおかれる場所であり、地もまた神様のものであり、神様の支配のあるところなので、地にかけて誓うのも神様にかけて誓うのと同じだ、ということです。「エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である」。エルサレムはイスラエルの王の都ですが、イスラエルのまことの王は主なる神様です。ですから「大王の都」というのは「神様が統べ治めてくださる所」つまり支配されるということで、エルサレムをさして誓うのもやはり神様にかけて誓うのと同じなのです。その後に、「あなたの頭にかけて誓ってはならない」とイエス様は言われます。ここまで聞いて、「あれ、自分の頭は、自分のものだからなんで誓っちゃだめなの」とわたしたちは思います。イエス様は言われます。「あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」と。自分の髪の毛一本すら、白くも黒くもできないということは、つまり、自分の髪の毛すら、自分で支配できていないということです。わたしたちは、自分の体を完全に所有し、コントロールできていると思いがちになります。しかし、このイエス様のご指摘のように、わたしたちは髪の毛を白髪にすることすら、自分の力ではできません。白髪染めしたら黒くできるし、白くなるように脱色すればできるでしょと思った方がおられるかもしれません。それらは自分たちで髪の毛を支配できているように見えるのですが、白髪染は、髪の毛の表面を塗っただけ中は白髪です。脱色して髪の毛の中の色を抜いても、根本から生えてくる髪の毛は、色がついています。そのように、完全には、わたしたちは自分や自分の体を、コントロールも支配もできていません。わたしたちの体やわたしたち自身を、支配し、導き、守られているのは、神様です。神様がわたしたちの本当の所有者です。だから、自分にかけて誓っても、所有者である神様の支配の中のものなので、その誓いも神様と関係します。イエス様はこのようにして、私たちがどれにかけて、何にかけて誓うとしても、神様にかけて誓っているのと同じことなのだ、と言っておられるのです。ここに挙げられている四つのもの以外のものにかけて誓えば神様とは関係なくなる、ということではありません。わたしたちが、何を引合いに出して誓おうとも、それは神様と無関係ではあり得ないのです。いや、これはもはや誓いということを越えています。誓うとか誓わないではなく、私たちの語る全ての言葉が、神様と無関係ではあり得ない、神様のみ前での言葉となるということです。わたしたちが語る時、神様がそれをいつもちゃんと聞いておられ、その語られたことが真実であるかどうかを知っておられ、語られた約束が果たされるのかどうかを見ておられるのです。そこで、わたしたちが、真実で、誠実な言葉もって語っていくことを神様はわたしたちをいつも見つめられながら、望まれておられるのです。
わたしたちが、自分の言葉が真実かどうかを問わなくなっていく時。もし、自分の言っていることを、神様の前でそれが本当に真実であるかを問わなくなっていくのならば、その時は、神様の御心や基準を尋ね求めるのでなく、自分のものさしが基準になってしまっています。「誓う」ということは、例えるならば、自分で神様の名前が掘ってある判子を作って、それを自分の裁量で押して、この自分の言葉は真実であると保証しているということです。そうなると、神様の名が刻まれた判子が押されていない手紙というか、誓いをしていない発言は、信用ならないということになります。判子が押されていれば信じるけれども、押されていない発言、誓いを立てていない発言は、嘘の可能性があるから信じないとなるでしょう。そうなれば、すべてのものは、他者と会話をする時、大事な約束を結ぶ際や、昨日こんなことをしたよという事実を告げる小さな日常の発言に至るまでいちいちすべて神様に誓わねばならなくなります。その根底にある思想は、人間が語る言葉は、まったく信頼ができないものであるという考えです。これは、人間は嘘しかつかないという、不信頼を基盤としている考えです。このような誓いは、不信頼を前提として成り立っています。
イエス様は、誓うということを捨て、わたしたちが語る、日常の言葉を含むすべての言葉が、誠実で真実なものとしなさいと言っておられます。わたしたちの語るすべての言葉を、誠実で真実のものとしなさいというイエス様の要求はわたしたちにとってはとてつもなく、厳しいものです。しかし、それは同時に、わたしたちにイエス様が望みを置かれているということの表れです。わたしたちが自分は、どうしようもなく、相変わらず、いまだにずっと罪人のままであり、誠実なものでないと思っている。思っているというか、事実そのような罪深さを己に感じます。教理的にも洗礼を受けた人が、ただちに完全に聖なる者となるわけじゃないと頭で知っている。だから、わたしたちはどこか罪人である現実を受け入れてしまって、諦めてしまっている所があります。しかし、そのように私たちが、生きている限り誠実で真実な言葉を語ることができないと考えていたり、そのようなものにはなれないと諦めてしまっていたりしても、イエス様は、私たちに望みを於いておられます。御自分と同じようにわたしたちが、真実に生きるものとなることを望み、そのように実際に真実な言葉を語り真実に生きることが出来るものとなれるように成長させて下さることを約束してくださっています。
イエス様は「あなたがたはいまだに、そしてこれからずっと罪人であるから、何に対してでも、誓ってしまうと神様の権威や御名を汚すことになるから誓うことを止めなさい」といっているのではありません。イエス様が、「一切誓いを立ててはならない」と厳しく戒められたのは、わたしたちが誓ったことを守れなかった時に、神様の御名が汚れされるので、それを予防したいから「誓うな」といったということではありません。それならば、わたしたちは、「何も発言しなければよい、そうすれば神様の名が汚されることはない」という、消極的な解決を導きだしてしまいます。イエス様は、そのように、わたしたちが無言になることを望まれているのでしょうか。そうではありません。イエス様は、言葉をもって神様と隣人と交わっていくことを望まれておられます。それは、十戒の本当の目的である、神様を愛し、隣人を愛するということと重なっています。
ではどのようにすれば、真実な言葉を語っていくことができるのか。それがわたしたちの気になる所です。それをイエス様は教えてくださっています。イエス様は37節で、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」と教えてくださっています。わたしたちが、隣人に対して、真実の言葉を語るためには、「然りを然り」とすること、そして「否を否とする」ことをイエス様は教えてくださっています。これは、ただ何か尋ねられたりした時に、ただ単に、イエスかノーかで応えなさいということではありません。イエス様は、わたしたちが「然り」すなわち「イエス」と言っておいて、後から「否」「ノー」と言い換えるのは、不誠実であるということを、教えてくださっています。「これがほんとですといって信用させて、実はそれは嘘でした」と言われれば、わたしたちは、その人のことを信用しなくなります。「然り」と言っておいて「否」という、つまり肯定しといて、後に否定するというのは、嘘つきであり、それが約束であれば約束破りとなります。それが、おかしいというのは、わたしたちは、感覚的にもわかることです。だから、ここで、「然り」ならば、「然り」、「否」なら「否」を貫き通しなさいということをイエス様がいっておられるはということは自然に受け止められると思います。しかし、イエス様がここでおっしゃろうとされていることは、それだけではありません。然りでもなく、否でもない。つまり、肯定もせず、否定もしないという、自分の立場をはっきりさせないという、態度や姿勢をも、イエス様は求めておられません。これは、わたしたちが罪人であり、間違いを犯すことがあると消極的に受け止め、そのように自己認識した時に起きやすい態度や姿勢です。「然り、然り」「否、否」と言いなさいとイエス様がおっしゃっています。つまりこれは、はっきりと返事をするということです。例えば、妻に「明日赤ちゃんのおむつを買いにいくから手伝ってもらえる?」と頼まれて、「いいよ」といっておいて、当日になって「やっぱり仕事がいそがしいから行けない」と言うと、夫婦の仲が悪くなります。これが、先ほどのケースです。こういうことは起きてしまいます。しかし、そのように後でコロコロと気持ちが変わってしまうかもしれないから、返答をうやむやにしていいかと言えば、そうではないでしょう。「明日赤ちゃんのおむつを買いにいくから手伝ってもらえる?」と頼まれて」「うーん、わからない」と答えていたとしても、相手の言葉に対して何も回答していないことになり、関係は不仲とまではいかないですが、微妙になるのではないでしょうか。イエス様は、はっきりと、「然り、然り」「否、否」と言いなさいといっておられます。ですから、少なくともイエス様は、答えを曖昧にしたり、無視したり、無言になるということは、求めておられないことだけは、わたしたちはわかります。
そうは言われても、わたしたちは「然り」「その通りです」「イエスです」と答えても、その返答が誤りであることに気付いたり、それに自信が持てなくなったりして、その「然り」をヒックリ返すことが多い者です。だから、「然り」か「否」かで応えなさいと言われても、そのイエス様の求めに完全に応えることができないのがわたしたちの現状です。イエス様は、そのわたしたちの現実を無視して、これを要求されているのかと言えば、そうではないでしょう。イエス様が第一にわたしたちに求められておられるのは、その返答や発言が神様の前で真実であるかをわたしたちが問うことです。その神様のみ前で真実であるかどうか、つまり神様の御心がどうかを祈って問うた上で、わたしたちは「然り」か「否」かを、まず神様の前で、決断する時がきます。そして、わたしたちは祈って、御心を尋ね求めることで、この「然り」か「否か」の決断を神様に委ねます。
神様の決断に委ねるといっても、最終的に決断にするのはわたしたちではないかと思う人がいると思います。しかし、神様を信じて結ばれている人の決断は、自分一人の決断ではありません。それは共に繋がっていてくださる神の子であるイエス様の決断でもあります。わたしたちは信じてイエス様につながっている時に、心に聖霊を送られます。その「わたしたちの心に聖霊を与えてくださった」のは父なる神様です。その聖霊を通して、神様が「その通りだ」「然りである」と思われていることを、わたしたちに実現させてくださるのです。
わたしたちは、自分では、なにが正しい選択なのか、この世のことでなにが「然り」でなにが「否」なのかはわかりません。だから簡単に決断できないし、そのために隣人とのコミュニケーション、交わりが困難でした。しかし、わたしたちは神様を信じて、神様の前で、真実を求めて祈る時、父なる神様はその祈りに応えてくださって、聖霊なる神様をわたしたちの心に住まわせて、神様の御心を教えて下さり、決断を与えてくださいます。
イエス様は、今日わたしたちに、神様の前で、神様に対して祈りをもって相談することを勧められておられます。イエス様は今日わたしたちに、抜け道を作って好き勝手に誓うことを戒められています。またイエス様は今日わたしたちに、神様の信用を失わせないために、恐れて言葉を発することをやめることをもうしなくて良いと言われております。父なる神様は、イエス様の救いを信じるわたしたちに聖霊なる神様を送り、「然り」か「否か」しっかりと決断させてくださいます。だから、わたしたちは、愛する隣人に対しても、はっきりと言葉を伝えることが出来るようになります。そのようにして、神様は、わたしたちと隣人が、本当に愛し合うことのできる関係を整えていってくださっているのです。感謝して祈りましょう。