「山の上で」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:出エジプト記 第19章10-25節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章1-12節
・ 讃美歌:214、155
イエス様は今わたしたちを山の上まで連れて行ってくださり、語りかけてくださろうとしておられます。 イエス様に従って生きているわたし、興味があってイエス様の近くに寄ってきたわたし、そのどちらの者に も、イエス様は語りかけてくださいます。かつてわたしたちは、神様に近寄ることも、教えはおろか神様の 声を聞くこともできませんでした。それが今、神様はわたしたちが近づかれることをゆるしてくださり、神 様に従う神様の民として生きるための指針として新たな戒めと教えを、口をお開きになってわたしたちに与 えようとしてくださっています。その新しい生きるための指針、感謝の指針が本日から語られていきます 山上の説教です。山上の説教と呼ばれる箇所は、マタイによる福音書では5章から7章の部分です。初めに 「~の人々は幸いである」とある「幸いの教え」が語られ、様々な教えが、7章まで語られていきます。ど れも、一度は耳にしたことがあるような大変有名な教えです。本日は、山上の説教の内容や、5章3節からの 「幸いの教え」の内容には入って行きません。来週から、「幸いの教え」を1節ずつ、じっくり味わってい きたいと思います。本日わたしたちは、この山上の説教が語り初められる状況が語られている5章1節から2節 に重きを置いて、この二つの節に表わされている神様の御心を聞いて参りたいと思います。
まず1節でイエス様が「山に登られた」と語られています。山上の説教と呼ばれるのは、イエス様が山に登 って、そこで教えを語られたからです。では、この時の説教を聞いていた聴衆はどのような者たちであった かというと、2節では弟子たちが、イエス様の「近くに寄って来た」と書いてありますので、弟子たちが聴 衆であるのは間違いないでしょう。さらに、1節の冒頭に、群衆を見てと書かれています。この群衆とは4 章23節以下に登場した、イエス様の神の国の到来、病気やあらゆる苦しみを癒していくださるという評判を 聞き実際にそれを見た、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こうからやって来た 大勢の群衆です。彼らは、弟子たちと同様に、イエス様に従って、イエス様の後についていく者たちとなり ました。群衆が、イエス様の教えを聞いていたことがはっきりと確認できるのは、この山上の説教の最後の 部分、7章28節です。ここに、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚い た」とありますので、彼ら群衆がこの教えを聞いていたことは間違いありません。ですので、山に登ってい たのは、弟子たちと群集たちでした。彼らに共通していることは、イエス様に出会い、イエス様のことを信 じるようになり、従った者たちであるということです。信仰の程度は、それぞれでしょうが、イエス様と共 に生きていきたいと思って、イエス様に従って歩んだ者たちです。その中には、かつて仕事を抱えて生きる にいっぱいいっぱいだった漁師たち、重い病を抱えて苦しんでいた者たち、悪霊に取りつかれて苦しんでい た者たち等でありました。しかし、イエス様に出会い、仕事だけが自分の生きる道だと思っていたその自分 を捨てイエス様に従った。重い病にかかり、その病故にあらわれでる自分の弱さを主に癒やされ、歩き出せ るようになりイエス様に従った。彼らの出会い方は、様々です。そして、イエス様との距離も様々でありま した。今日の箇所で、山に登った弟子と群衆たちも、それぞれイエス様に対する距離が違います。弟子たち は、近くに寄っていました。群衆たちは、その弟子たちを取り囲むように集まっていたのか、ちょっと離れ たところに立っていたかだと思います。いずれにしても、イエス様の声の届く距離に彼らはおりました。こ の距離間はわたしたちにとっても、大切であります。弟子たちのようにイエス様のすぐそばにいるものが、 偉いということではありません。しかし、イエス様から、遠く離れて、イエス様の声の届かないところで立 っているのであっていいというわけではありません。信じて、従っているから、イエス様の声が聞こえない 所に立っていても大丈夫ということはありません。イエス様の声の届く距離の中に、わたしたちが身を置い ていることが大切です。わたしたちにとって、イエス様の声が、すなわち神様の言葉が語られている場所と いうのは、教会のこの礼拝です。心の中で、神様を信じているので、「教会に行かなくても、礼拝に行かな くてもいいや」と思っている人がいるとすれば、その人は、イエス様の声の届かない所に立っている人であ ると言ってよいでしょう。しかし、それは、聖書が語る「イエス様に従う者」の姿ではありません。聖書が 語るイエス様に従う者は、イエス様の声の届く距離にいる者たちです。声の届く距離の中での、立っている 場所はどこでも構いません。近いから偉い、よく聞こえる場所にいるから偉いということはありません。大 切なのはイエス様の言葉を聞いていることです。
ここで、わたしたちは立ち止まって考えてみたいことがあります。それは、なぜ「山の上なのか」という ことです。イエス様の声が聞こえる場所であれば、「場所はどこでもいいんじゃないか」とわたしたちは思 います。では、イエス様が思いつきで、適当に山に登ったのかと言えば、そうではないでしょう。イエス様 が突然ハイキングをしたくなったからや、ハイキングを通して、弟子たちや群衆と連帯感を高めるために、 敢えて山に登ったのでもないでしょう。山にのぼること、そこで神様の言葉が与えられること、この二点が 共通している場面が聖書にあります。それは、旧約聖書に出てきた、イスラエルの民が十戒を中心とする律法を与えられる場面、詳しく言うと、モーセがシナイ山に登り、神様から十戒を与えられる場面です。本日 共に聴いた旧約聖書の箇所がその場面です。このモーセのシナイ山に登った場面とイエス様が山に登った場 面の両者に、類似点もありますが、相違点もあります。その相違点は、イエス様のまわりにいた弟子や群衆 は山に登ることができているけれども、旧約のイスラエルの民は、山に登ることができなかったことです。 イスラエルの民の中で、山にのぼることができたのは、モーセとアロンでした。実際に山に登ったのはモ ーセのみです。他のイスラエルの民は、出エジプト記19章12節「民のために周囲に境を設けて、命じなさ い。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。」 とあるように、彼らは、主なる神様が降られる山には、登ることができませんでした。登るどころか、山に 触れるだけと死刑に処せられると主なる神様から命じられておりました。彼らは、主なる神様の姿を見るこ ともできませんし、声を聞くこともできませんでした。遠目から見ようとしたものいたかもしれません。し かし、彼らが山に近づくと、全山煙に包まれて何も見ることができなかったのです。雷鳴がなり、山が震え だしたのを見て、イスラエルの民たちは、恐れおののいていました。彼らが、主なる神様が降られる山に、 登れなかったのは汚れていたからです。主が来られる聖なる場所に、入るためには、身を清めなければなら ないということが、この箇所でも、書かれていました。普通の民だけでなく、神に仕える祭司たちも自分自 身を清めなくてはなりませんでした。彼らは、清めるために、衣服を洗い、聖別する儀式をしましたが、そ れでも民も祭司たちであっても、主なる神様の所にいける者はおりませんでした。ここに表わされているの は、わたしたちが、いくら自らの業で、清めの儀式をしようが、衣服を洗って身を清めようが、わたしたち に付いている汚れは落ちないということです。その汚れとは罪による汚れです。その罪の汚れがある限り、 わたしたちは、わたしたちの側から、主に近づくことはできません。ではモーセはなぜ、山に登れたのかと いえば、それは主なる神様のゆるしがあったからです。主なる神様が「汚れがあるけれども、登って良し」 と言われなければ、神様に出会うことができません。汚れがあるまま、主なる神様の前にいくというのは、 本当はとても恐ろしいことです。汚れがあるままで主なる神様の前にでるということは、本来はできないこ とで、本来はそれをしてしまったら、主によって滅ぼされる、命を取られることです。旧約の中では、主な る神様の御顔は見ることができず、見たものは、その主の御顔の栄光によって、滅ぼされると考えていまし た。モーセも山に登りましたが、そこは、煙に満ちていて、密雲の立ち込める場所でありましたから、主な る神様をはっきりと見たのではないと思います。おぼろげに姿を見て、神様の声を聞いた程度であるでし ょう。
イエス様と弟子や群衆たちは、全員山に登ることができました。「あれっ。この話には、父なる神様が出 てくるシーンがないから、両者はあんまり関係ないんじゃないの」とわたしたちの中で、そのように考えた 方がいらっしゃるかもしれません。確かに、主なる神様が、この山に降られて、語られるということは出て きません。でも、語られる神様は既に登場されております。それは、イエス様です。イエス様は旧約のモ ーセのポジションではありません。イエス様は父なる神様の子であって、神の子は神でありますので、イエ ス様は神様です。実はその神様であるイエス様が、山に登る前からも、人々に出会ってくださっていまし た。罪があり、汚れがあり、弱さを持っている人々の中にイエス様は、山に登る前から出会ってくださって おりました。これは、とても、おどろくべきことなのです。旧約の民が恐れていたように、本来は、わたし たち人が、神様の前に立つならば、罪の汚れを持つわたしたちはそこにいることができず、そこにいるなら ば滅ぼされてしまう存在であったはずです。ですから、イエス様に出会った聖書の中の人々も、わたしたち も、本来は罪故に、恐れの中で滅ぼされるはずでした。しかし、イエス様がこの世に来てくださった時から そうでしたが、イエス様は罪をその場で裁き、出会った人をことごとく滅ぼすということはされずに、むし ろ出会った人の罪、いや出会っていない人の罪も、すなわちすべての人の罪を御自分の中に受け入れ、自分 がかわりに裁きをうけてくださいました。それが目に見える形となって出来事となったのは、十字架の刑に おいてです。しかし、この十字架上での裁きが行われる前から、イエス様は、すべての人の罪を担ってくだ さっていました。ですから、弟子たちも、群衆たちも、イエス様出会うこともできましたし、共にいること もできたのです。
そのイエス様が弟子と群衆たちを従え、山に登っていかれます。山では、神様の戒め、教えが語られま す。モーセは、この山で、十戒を中心として律法が与えられました。十戒や律法がイスラエルの民に与えら れるまでに、前提となっていたことがあります。それは、彼らが奴隷として苦しみの中で生きていたエジプ トから救い出されたということ、つまり神様によって奴隷状態から救われたということです。そしてこの律 法が与えられる時に、シナイ山において、神様とイスラエルの民との契約が結ばれたということです。その契約の内容は、「主なる神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となる」ということでした。イエ ス様が、弟子と群衆たち、そしてわたしたちを今、山の上に連れて行かれ語り始めようとされております。 しかし、その前に、わたしたちの前提となっていることがあります。それは、わたしたちが、イエス様によ って、罪の奴隷状態から解放されているということです。罪の奴隷状態というのは、わたしたちが、神様か ら距離を置き、自分の声しか聞かず、神様の声も、他者の声も聞かず、好き勝手にいき、自分が中心であ り、神様を無視し傷つけ、他者を傷つけてしまうような状態です。根本は、神様など、どうでもいいという 心、都合の良い時だけ、神様を利用しようとするように、自分が神様の主になってしまうようなことです。 このような罪にわたしたちは支配されています。
イエス様はこのわたしたちの持っている罪を十字架の死によって贖い、その罪に対する神様の罰を代わり に受けてくださいました。また十字架の死によって、罪に支配ではなく、神様の支配に委ねることができる という道をイエス様は切り開いてくださいました。これが、わたしたちの罪からの脱出の道です。出罪人の 道です。イエス様を信じ、この救いの道を信じ、従っていくというのが、出罪人の道です。イエス様に従 っていった弟子たちや群衆たちも、色々な事柄から救われました。彼らは、自分の生き方や、病や悪霊など からの、解放を経験しておりました。それらは罪の支配からの解放ではありません。しかし、彼らはイエス 様の癒しと解放の業を見て、その身で救いを体験して、この人は「このどうしようもないわたしを、救って 下さる」ということを信じることができたのです。わたしたちは、弟子たちや、群衆たちと違って、イエス 様を目に見ることができませんし、病もイエス様によって完治したということを経験することは、難しいで しょう。しかし、わたしたちは弟子たちや群衆たちもこの時は、知らなかったイエス様の十字架の尊い死に よる、罪の奴隷状態からの解放という喜ばしい知らせ、福音を知っています。この解放の知らせを知り、主 に従う者という点でわたしたちもまた、イエス様に山に連れて行かれた従う者たちの中の一人です。
この山の上に連れて行かれた者たちは、イエス様が「あなたたちはわたしの民である。神の国の民であ る。わたしの愛する民である」ということを前提として、戒めや教えを語ろうとしてくださっています。民 であるわたしたちは、神の国の民として、ふさわしい生き方を誰にも教わらず生きて生きるかという、それ はできません。これから語られます教えは、誰もが実現不可能な教えであるような気がするほど、難しいも のです。この教えを、守るようにイエス様が要求されるのは、「自分の力で神の民の資格を得なさい」とい うことではありません。これらの、教えを守ったら神の民の一員になれるというものではないからです。前 提には、既に罪から救われて、神の国の民とされているということがありますから、これを守れば、神の国 の民となれるということではないのです。既に民になっているものが、感謝をもって聞いていく、守ってい く教えです。しかし、この教えは、わたしたちとって、とても高い要求です。ですから、この教えは、わた したちをつまずかせます。その時、このようにできないわたしはダメだと思ってしまう人もいれば、こんな の鼻っから無理だからやらないという人もでてきます。できないからこの教えを守ることやめるというのは 間違いです。兄弟姉妹と和解すること、喧嘩していたものと和解すること、自分を迫害をするものために祈 ること、右の頬を打たれたのなら左の頬をも向けること。心の中でも、やましい思いをもたないこと。これ はわたしたちには、簡単にできることではありません。むしろできないといってもよいでしょう。この教え がわたしたちにはできないとわかった時、しかし、同時にこの教え通りに、いやそれ以上になさった方をわ たしたちは知ることができます。自分を迫害をするもののために祈った人はまさに、イエス様です。群衆た ちが「犯罪者だ、嘘つきだ、殺せ、殺せ」といって鞭をうち、唾をかけ、十字架にかけてイエス様を殺そう とした時に、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分がなにをしているのか知らないのです」と迫害をしている もののために祈ってくださっていたのがイエス様です。わたしたちが、神様も、イエス様も知らないで生き ていた時に、神様にも、隣人にも、酷いことをしていたときにも、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分がな にをしているのか知らないのです」と祈ってくださっていたのが、イエス様です。この山上の説教は、ます わたしたちの救いのために生きて下さったイエス様に目を向けるようになっています。そして、この教えを 守りなさいというイエス様を信じるようになります。イエス様はできないことを要求されるのでしょうか。 確かにわたしたちは自分の力や自分の経験でこれをなすことはできません。しかし、イエス様を信じ、従う ものに、聖霊が注がれています。洗礼の時に、わたしたちは聖霊が水とともに注がれています。この聖霊な る神様が、わたしたちを新たに作り変え、この教えを守り、神の国の民にふさわしいものに、作り変えてい ってくださるのです。ですから、「鼻からこれは無理だと」決めつけるのは違います。山に連れて行っても らったわたしたちは、罪赦された神様の民です。この神の民として、この教え守れるように、主なる神様は 聖霊をわたしたちにお送りになっておられます。
今イエス様は口を開いて語り始められようとしておられます。わたしたちの心に新しい戒めを刻むため に、口を開いて語りかけてくださろうとしております。近寄ることも、言葉を聞くことのできなかったわた したちが、自分自身から解放され、癒やされて、足が動き、耳が開こえるようになった今、腰を下ろされて 語り始めようとしているイエス様に、あの弟子たちのように、近づこうではありませんか。この礼拝で、主 は今、「語り始めよう、あなたたちがわたしの民だから、わたしの民、わたしの愛する民に語り始めようで はないか」言っておられます。わたしたちは、このイエス様の言葉を楽しみに、そして大胆にイエス様に近 づきましょう。教会で、この礼拝で、イエス様は語り始められようと腰を据えて、待っておられます。