夕礼拝

捨てて従う

「捨てて従う」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:出エジプト記 第3章1-12節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第4章18-22節  
・ 讃美歌:132、516

「わたしについてきなさい」とイエス様は今日わたしたちに呼びかけておらます。そのイエス様の呼びかけに応えたい、イエス様の所に行きたいと思ってもわたしたちは簡単に、イエス様の後ろをついていくことができません。なぜなら、わたしたちはわたしたちの中にある自己中心という自分の網に引っかかり、動けなくなっているからです。そのためにイエス様についていけません。またあるものは、他己中心、言い換えると他者中心という網に引っかかり動けなくなってしまっているのでイエス様についていくことができません。 わたしたちは、生きるために働きます。わたしたちは、自分の力で、仕事をして、収入を得、パンを得なければなりません。しかし、生きるために働くことが、わたしたちのなかで何よりも重要になる時、わたしたちは、生きるための仕事をしている自分がなによりも大事になります。その時、私たちは、自分の仕事や自分の力が人生の中心となってしまいます。そしてそれから離れることができなくなります。がんじがらめになってしまいます。 またわたしたちは、生まれや、親によって、人生が決定づけられていると考えます。家が裕福か否か。親の容姿。幼少の時の教育。家庭環境などなど。違う家庭だったら、親だったら、自分は違う人生を送れていたであろうと思う。その時私たちは、家庭や親によって、人生が決まっていると考えます。良い家庭であっても、苦しい家庭であっても、今の自分を作り上げているのは、この家族である。この家族から離れると、自分は自分ではなくなる。家族でなくても、この愛する人と離れると自分は自分ではなくなる。この思想から離れると、自分は自分ではなくなるとそのように思い込む時があります。その時、わたしたち他者と自分を縛り付けて、苦しくなって、がんじがらめなって、動けなくなります。 イエス様は今日、そのような、自分自身を縛っている私たちに対して、「私自身」「自分自身」を捨てて、「わたしの後についてきなさい」と呼びかけられておられます。 イエス様は、今日自分によってがんじがらめに縛られて、歩けなくなっているわたしたち捕らえてくださります。イエス様は「さあ、わたしについてきなさい」という言葉の網を使って、わたしたちを捕らえます。イエス様は捕らえたわたしたちを解き放ち、自由に歩かせます。 しかし中心を失ったわたしたちは、どのように歩けばいいかわかりません。人生の目標、歩むべき道が、わからないわたしたちは、どこを歩めばいいかわかりません。そのようなわたしたちをイエス様は導こうとされています。今、「わたしの後ろを歩みなさい」とわたしたちに呼びかけ、歩むべき道をお示しなられています。 今日わたしたちに与えられた聖書の御言葉に登場する人物は、わたしたちと同様に、イエス様に「わたしについてきなさい」と呼びかけられた者たちです。彼らは、ガリラヤ湖で漁師をしている者たちでした。先週申し上げましたが、ガリラヤに住んでいる人たちというのは、わたしたちと似ています。彼らもわたしたちも、神様ということも、あまり気にしないで生きているものたちです。 またガリラヤ人の暮らしと、わたしたちの暮らしが似ているということも、先週申し上げました。ガリラヤ人の暮らしは、極めて豊かであったというわけではありませんでした。ヘロデ・アンテパスが統治するガリラヤは、ヘロデに払う直接税もあり、そして、ユダヤ人は律法に基づく神殿税などもろもろの税金がありました。ユダヤの神を信じるユダヤ人は、直接税プラス、ユダヤ人としての税がありました。 今日登場する漁師たちは、ガリラヤの湖畔に住むユダヤ人でした。漁をして生計をたてている彼らは、裕福ではありませんでした。しかし、食うに困るような貧困ではありませんでしたが、毎日が仕事です。生きるために、仕事をしています。彼らは、日々の生活を送るのに精一杯で、神様の方を向くよりも、仕事や生活、家庭のことでいっぱいいっぱいだという人たちでした。 わたしたちも、決して貧困ではありません。しかし、貧しくはないけれども、わたしたちは生きていくことに、いっぱいいっぱいになっています。神様を見ることなどをしている暇などありません。クリスチャンであっても、礼拝に毎週来ていても、日常にもどると、生きること、仕事、家庭それらにいっぱいいっぱいになってしまうことがあります。 今日登場する、漁師たちも、わたしたちと同じ境遇でした。今日登場する漁師たちは、二組のペアでした。ペアというより、兄弟です。一組目の兄弟は、ペトロとアンデレです。彼らが先にイエス様に出会いました。イエス様は、18節にあるように、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時にこの一組目の兄弟を目撃し、いきなり「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。その言葉を、聞いて二人は直ぐに網を捨てて、すなわち自分の仕事を捨ててイエス様に従ったと20節に書かれています。これは実に不思議です。初めて会った人に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と一言だけ言われて、すぐさま自分の仕事を捨てて、その人に着いて行くなど、普通では考えられません。同じように、もう一組の兄弟、ゼベダイの子どもであるヤコブとヨハネも、イエス様に呼ばれて、直ぐについていきます。彼らは、漁をするための舟と父親を残してイエス様に従ったと書いてありますが、この「残して」という言葉は、原文を見ると、ペトロとアンデレが網を「捨てる」という言葉と同じで「捨てる」と訳せる言葉です。ですから、舟と父親を捨ててイエス様に従ったとここで解釈できます。そうすると、ますます、普通ではありません。誰かもわからない人に、「ついてきなさい」と言われただけで、仕事や家族を捨てて、ついていくということは、わたしたちの感覚では考えられません。わたしたちならば、「あなたは誰ですか、あなたについていくとどのような利益になりますか、その利益を保証するものを示してください、あなたについていくことで、仕事や家族を捨てる以上の価値の見いだせる証拠を見せてください。」とここまで、聞いて、その保証や証拠をみて納得するか、それを見てもついていくか悩むと思います。彼らが、イエス様についていくことができたのは、ただ「イエス様が出会って下さって、言葉をかけてくださったからである」としか言えません。このマタイによる福音書には、漁師たちの心情が描かれていないので、彼らがどのような思いで、従ったということを読み込むことはできません。 ですけれども、この淡々と事実だけ書かれている、マタイによる福音書のこの箇所からわたしたちが、知ることが出来ることがあります。それは、「彼らがどのタイミングで、何をしている時にイエス様に話しかけられたか」ということの答えが示す意味です。最初の兄弟ペトロとアンデレは、網を打っている最中にイエス様に呼びかけられました。後の兄弟ヤコブとヨハネは、網の手入れしている時でした。ここでイエス様は、二通りの出会われ方をしておられます。ここには、イエス様との出会いの2つの形が示されています。 まずペトロとアンデレの方を考えていきましょう。網を打つというのは、彼らの仕事である漁をするための行動です。彼らは、自分が生きていくために、仕事をしています。彼らは、趣味で、魚をとっているのでもなければ、その魚を食べて生きるためでもありません。魚を獲って、それを売って、お金にして、国に対して、税金を納めるためでもありますし、自分が生きるためです。生きるために、自分の人生をいきるために、網を打っている最中に、イエス様はこの二人に話しかけられました。イエス様は、わたしたちが、がむしゃらに生きるために仕事をしている時にも、話しかけてこられます。イエス様は、生きるためにやらなくてはいけないことの最中であっても、わたしたちと出会われます。自分の力で網を打っている時、それはまさに自分の力で自分を生かしていこうとしている時です。自分の人生を自分の力で支えようと頑張っている時です。その時に、イエス様はわたしたちにあえて話しかけてこられ、仕事を中断させられるのです。そこで一端、仕事を中断させて、「私についてきなさい」と言われます。わたしたちが、網を打っている時、すなわち生きるために頼ってきた自分の力を使っている時に、それをやめさせて、「ついてきなさい」と言われます。これは先週語られました17節の「悔い改めよ。」ということと繋がります。ペトロとアンデレに対して、またわたしたちにイエス様が述べられているのは、「自分の力で努力して生き、自分中心でいきるという生き方をやめて、悔い改めてわたしのほうを見なさい、そして私についてきなさい」ということです。「網を捨てる」ということは、まさに、自分が頼りにしていた自分の力を放棄するということです。かれらは、頼っていた自分の力を放棄するとともに、そのように自分の力でがむしゃらにいきなくてはならない、そのように生きるのが人生だと考えていた「自分」も同時に放棄しています。 もう一組の兄弟ゼベダイの子のヤコブとヨハネは、網を手入れしている時にイエス様に呼びかけられました。彼らは、網を手入れしているので、おそらく一日の漁を終えているか、網を直してこれから漁を始めようとしているときです。いずれにしても、漁をしていない時です。イエス様は、仕事が一時中断している時でも、次の仕事のための準備をしているときでも、わたしたちに出会われます。イエス様がわたしたちに出会ってくださるのは、仕事に頑張っているときだけではありません。 このヤコブとヨハネの呼び出された時の状況を、掘り下げるとさらに意味が見えてきます。この彼らの状況が、象徴的に物語っていることがあります。一つは「網の手入れをしている」ということです。網の「手入れをしている」の「手入れする」という単語は、元の言葉では、「直す」や「元の状態にする」と言う意味を持っています。彼らは、次の仕事のために網を直し、元の状態にしようとしていました。2つ目は、「舟の中」です。彼らは、仕事をしている最中ではないけれども、「舟の中」にいました。そして、3つ目は、「父親と一緒に」ということです。父親もこの仕事を一緒にしているので、この漁をするという仕事は家業であるということがわかります。 この3つを並べて考えるとわかることがあります。彼らは、漁という仕事の一番中心である網を打って魚をとるということをしていないけれども、彼らは仕事の中に、縛られています。「舟の中」にいるというのは、職場の中にいるようなものです。そこで、彼らは次の仕事のために、網を直し、準備をしようとしています。準備をするために、舟の中に入れられているのです。次の漁のために網を直しているのは、彼らが明日も漁師であることを示します。ここからわかるのは、ヤコブとヨハネは、これから先の将来も漁師であるということの運命の中にいたということです。またこの魚をとる仕事は、家業であるので、彼らがこの仕事を継いでいかなければなりません。そして、舟の中にいる父親の姿というのは、まさに自分の将来の姿です。自分が父親ぐらいの歳になっても、同じように、明日のために、網の手入れをして備える。そして、漁をする。そして次のために手入れする。彼らには、そのような将来が見えていましたが、それに従って、生きようとしていました。 その時に、イエス様が来てふたりを呼ばれました。おそらく、イエス様はペトロとアンデレと同じように「わたしについて来なさい。」と言われたでしょう。そうすると、彼らは、「舟と父親」をそこに置いてきて、イエス様に従いました。 ここで「舟と父親を残していったこと」、言い換えると、「舟と父親を捨てていったこと」というのは、彼らが「自分を縛っていた漁師という運命」と、「父親に見える未来の自分の姿を捨てた」ということではありません。また、単純に、家族の繋がりを捨てたというのでもありません。彼らが捨てたのは「自分」です。「父親や漁師である運命というものが、自分の人生を決定づけるものであると信じていた自分」「他者中心の自分」を彼らは捨てたのです。わたしたちも、生まれや、親や、仕事が自分の人生を決定づけるものであると信じがちです。 イエス様は、そのような誤った思いに縛られていたわたしたちに近づかれます。そして「それがあなたの人生を決定づけているものではない」「だから、わたしたちについてきなさい」とイエス様は言われます。わたしたちも仕事や家族が、それらのものを、捨てるというのではなく、それらのものが自分の人生のすべてであると思っていた「自分」を捨てるのです。 それは、イエス様の後についていくことによって起こります。イエス様に後に従って、ついていくことによって、わたしたちはイエス様を見つめることになります。それまではわたしたちは、自分自身や家族、自分の将来や運命だけを見つめていました。そうではなくてわたしたちが「わたしについきなさい」というイエス様のお言葉に従う時、先を歩んでおられるイエス様だけを見つめることができます。悔い改めて、イエス様を見つめること、これがわたしたちの弟子としての第一歩です。 ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人は、網を捨て、舟を捨てました。しかし、四人は漁師のままです。四人とも漁師のままです。しかし、四人は、まったく違う漁師になりました。彼らは、イエス様がいわれたように、「人間をとる漁師」になりました。彼らは、今まで持っていた網も、舟も使いません。彼らは、のちにイエス様のことを証言する者となりました。マタイによる福音書の最後の所、28章19、20節に、復活されたイエス様が弟子たちにこういう命令を与えるところがあります。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。「すべての民をイエス様の弟子にしなさい」と彼らはイエス様から使命を与えられて、全世界に述べ伝えるために、教会をたて、多くの者をキリスト者にしました。この「宣教命令」、そして、「人間をとる漁師にしよう」という宣言は、この四人や、十二使徒だけに言われている言葉ではありません。これらの言葉は、わたしたちにも向けられている言葉です。ですから、「わたしたちも人間をとる漁師しよう」と今イエス様わたしたちに言われています。しかし、わたしたちは網もなければ、舟もない、さらには弟子たちのようにイエス様を生でみたこともないし、どのようにして、隣の人をイエス様の弟子にすればいいかわかりません。そのような何ももってない、何もわからないわたしたちにも、イエス様から与えられているものが二つあります。それは今日登場した弟子たちに与えられたものと同じものです。それは、一つは「わたしについて来なさい」というこの言葉です。この言葉が、「人間をとるための網」です。そして2つ目は、この教会です。これがわたしたちの「漁船」です。 「私についてきなさい」というこの言葉の網は、わたしたちにとってはとても重いものです。わたしたちには、今イエス様を信じイエス様に従って歩いています。そのわたしたちについてきた人は、同じようにイエス様の後を歩むことになります。しかし、わたしたちは決して完璧にイエス様の後を追って歩むことはできません。時に、ふらふら歩き、時によそ見をし、まっすぐイエス様のあとを追えない時が多々あります。『ああぁだったら、やっぱり、「わたしについてきなさい」なんていうことはできないです。その人を迷わすことになっちゃうから、むしろ言わない方がいい』とわたしたちは思っていまします。 しかし、イエス様はそのようにちゃんと従って歩むことができないわたしたち、すぐぶれてしまう信仰をもっているわたしたちを、見捨てることなく導いてくださっています。必ず、イエス様は道に引き戻してくださいます。だから、安心して、「私についてきなさい」とわたしたちは、隣の人に伝えることができます。わたしたちが歩む道の先に待っておられるのはイエス様です。そのイエス様の元に隣の人を一緒に連れて行くことがわたしたちの使命です。「私についてきなさい」という言葉で、わたしたちは教会に、人を導きます。この言葉の網で、わたしたちは教会という舟に隣人を導きます。そうして、隣人はイエス様との出会いが与えられます。イエス様に出会いは、教会においてなされる礼拝で与えられます。 今ここにいるわたしたちは、既に、その言葉の網に捕らえられてイエス様との出会いが与えられているものたちです。そのわたしたちにイエス様は今、「私についてきなさい、人間をとる漁師にしよう」と言われております。ですからわたしたちはイエス様を見つめながら今日からイエス様についていきます。今日から、わたしたちは弟子として一歩を歩み出します。自己中心の人生を捨て、また他者中心の人生をも捨てます。自分の力と思いに従う歩みでなく、また家族や友人というに他者だけに従う人生でなく、イエス様に従う人生を歩みだし、今日から一歩、イエス様の後を追って歩み出すのです。

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