夕礼拝

クリスマスの夜に

「クリスマスの夜に」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書 第11章1-10節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第2章16-23節  
・ 讃美歌:263、261

 「クリスマスの夜」はなんてロマンチック。クリスマスの夜は、輝くイルミネーションを見ながら、愛する者と過ごし、一緒に語り合う。そのような、クリスマスの夜を過ごすというのが、今巷で考えられているクリスマスの夜の過ごした方でしょうか。私にも友人がおりまして、その彼は独り身の男なのですが、彼はクリスマスが近づくと、なんだかイライラしており、「クリスマスは恋人たちのためのもんじゃないだろ、イエス・キリストの誕生を祝うのが本当のクリスマスだろ。だからカップルは別れろ。」と理不尽で意味不明な暴言を吐きます。そのような暴言を吐く彼でも、クリスマスはイエス・キリストと関係していると知っていて、イエス様が生まれたことをお祝いする日であるということは知っているようです。
今日ここに集まった方は、イエス様を信じている信仰者の方以外には、今年は一味違うクリスマスを過ごしたいと思って来たか、クリスマスの本当の過ごし方を体験してみたいと思って礼拝に集われた方々でしょうか。「クリスマスの夜の本当の過ごし方とは何なのだろうか?」と思って来られた方もいるのではないでしょうか。ここにはおりませんが、あの暴言を吐く私の友人も、クリスマスの夜とはなにかというトピックには興味があると思います。

クリスマスの夜には、二つの面があります。一つは、救い主としてイエス様がこの世に人となって生まれてきてくださったという明るい喜びの面。もう一つは、今日わたしたちが先ほど共に聞きました聖書の御言葉にかかれてあります。そこに書かれているのは、クリスマスの夜の暗い闇の面の出来事です。クリスマスは、救い主イエス様が誕生して、天使が讃美を歌い、羊飼いがイエス様の生まれた馬小屋に来てイエス様を拝み、東方の博士たちも宝をもってイエス様に捧げて拝む、そして皆喜びの内にいる。イエス様が私たちの救い主としてこの世に来て下さったことを喜ぶというのが、クリスマスの夜の明るい喜びの部分です。しかし、その喜びの物語は、長くは続きません。先週ともに読みました2章13節以下では、ヘロデ大王がイエス様を探しだして、殺そうと考えているということを天使が父ヨセフに告げ、母マリアと幼子のイエス様ともに夜の内に、ユダヤの地から離れ、エジプトに逃げるということが書かれていました。ここで、このクリスマスの物語はヘロデの殺意という闇が、ユダヤの地を覆っていくことで一気に暗くなります。神様はその殺意からイエス様とヨセフとマリアを守り、エジプトに逃しました。しかし、今日わたしたちが共に読みました、16節から18節のところには、そのヘロデの殺意の闇が、ユダヤの地ベツレヘム一体を覆ったことが書かれています。ここで、クリスマスの夜の物語は一番真っ暗になると言ってもいいでしょう。ヘロデのイエス・キリストを殺したいという殺意の闇がベツレヘムを覆った時に何が起こったのか。その時、ベツレヘムに住む二歳以下の男の赤ちゃんが一人残らず殺されたという、幼児大虐殺が起こりました。

イエス様が去ったクリスマスの夜には、とても悲惨な事件が起こっていたのです。クリスマスの夜は喜びだけではありません。悲しみであふれています。意味もわからず、子どもを殺されて、嘆き悲しむお母さんたちの声であふれています。18節以下の聖書の引用は、まさに母の嘆きです。
クリスマスの夜に孤独で寂しいという怒りの声は、この声に似ているのかもしれません。冒頭で紹介した友人のカップルに対しての理不尽な怒りは、怒りというより嘆きなのかもしれません。共に愛する者と過ごしたいと思っているけど、一緒に過ごすことができないという、理不尽さに嘆いているその点では一緒でしょう。しかし、彼とこの母親たちの違いは大きい。母親たちは、与えられていたものが理不尽に奪われました。友人はそもそも、彼女がいないけれども嘆いていましたが、お母さんたちには赤ちゃんたちがいました。

なぜこのようなことが起こってしまったのか。それはユダヤ人の王であったヘロデが、新たなユダヤ人の王と預言されていた赤ん坊を殺そうとしたからです。それは、自分の王としての地位を奪われることを恐れたからです。彼は、自分の地位を守ろうと必死で、自分を揺るがそうとする存在をことごとく、殺していました。彼は自分の地位を守るために、主だったユダヤの指導者たちも殺そうとしましたし、自分の親族さえも殺してしまっています。彼は、イエス様を見に行こうとしていた東方の占星術の学者たちに、「その赤ん坊にあったら、その子のことを戻ってきて知らせてくれ」と約束をしていました。それはイエス様を殺すためです。しかし、学者たちは、ヘロデの所に戻らず、自分の国に帰ってしまいました。そのために、ヘロデは「最近ベツレヘムで生まれた男の子」としかその新しいユダヤの王に関する情報がなかったために、ベツレヘムで最近生まれた子から、2歳くらいになる子どもまでを全員殺しました。

「なんと残虐なのだろうか」、「ヘロデ王は最低だ」と思うのが私たちでしょう。そのようにわたしたちが思うからなのか、クリスマスで教会の子どもたちが行う降誕劇では、このヘロデの残虐なシーンは出てきません。もしそのようなシーンやヘロデの役を作ったとしても、そのシーンや役をやりたがる子どもはいないと思います。そのように、わたしたちの意識には、ヘロデは悪役で、さらにクリスマスにはあまり表には出てきてもらいたくない人としてのイメージがあるのではないでしょうか。

わたしたちはこのヘロデの残虐な行為を聞く時、第三者のようにして、ヘロデを非難します。自分とヘロデは無関係であるかのように考えています。確かに、彼は2000年近く前に生きていた人だし、会ったこともないし、無関係です。だから、わたしたちは容赦なく批判します。ひどいやつだと。では彼と同じことをしたことがあるかと問われれば、わたしたちは「とんでもない、わたしは人を殺したことなんかないし、ましてや赤ん坊を殺すようなことはしていない、何を言っているんだ」と答えるでしょう。このようにヘロデと同じように幼児を大量虐殺した経験を持っている者などいないでしょう。しかし、わたしたちはヘロデと無関係ではありません。決定的な点で、わたしたちはヘロデと同じなのです。その決定的な点とは、それは罪という一点です。実はヘロデの罪はわたしたちの罪と同じです。ヘロデの罪はわたしの罪と一緒なのです。ではヘロデの罪とはなんでしょうか。ヘロデの罪とは、幼児を殺したその残虐な行いのことではありません。その行いは、罪の結果です。そのような幼児を虐殺した行いの根にあるものがヘロデの罪です。

その行いの原因を見ると、ヘロデの、自分の王位を誰にも渡すものかという思いがあります。真の王として、世の救い主としてお生まれになったイエス様を拒否し、自分が王であり続けたいというヘロデの思いがその根の近くにあります。神様をさしおいて、自分がすべてを支配するものであり、自分の世界、自分の領域において、神様のようになることを求めること、これが罪です。

このヘロデの根にある罪は、決してヘロデだけにあるものではありません。私たちも、自分の持っている、ある領域において、常に王であろうとします。そこでは、自分が王でなければ、自分の思い通りにならなければ気がすまない。そのような経験をわたしたちには持っています。わたしも持っています。私は六人兄弟の三番目なのですが、高校生の時に初めて、自分の部屋を親からもらいました。それまでは弟と二人部屋で、弟と部屋で遊んだり、時には喧嘩をしたりしていました。部屋をもらってから、自分の好きなように部屋を飾ったり、好きな音楽をかけて好きなだけ歌う、ゲームとテレビを置いていつでもゲームをして遊べるようにしたりしていました。そこで友達を呼んで、そこで一緒にゲームをして遊んだりする。しかし、そこに弟が混ざりたいといってきても、私は「こっち来んな、どっかいけ」と追い返しました。自分の好きな人だけ部屋に入れて、かまってあげなくてはいけないめんどくさい弟などは、部屋に入れさせない。そのうち、親が自分の部屋に入ってくるのも嫌になり「勝手に入ってこないで」と言うようになっていました。弟と一緒の二人部屋の時はそんなことはありませんでした。私は、その時自分の領域で、支配者になっていました。入ってくる人を選び、少しでも自分の領域で勝手をするようなものは、入れさせない。それが、部屋を与えてくれた親でもお構いなしです。その部屋を誰から与えられていたかも忘れて、私は自分の部屋で王様になっていました。

わたしたちには、少なからずそのような体験があると思います。それは、部屋だけではなくて、家全体かも知れませんし、会社の中かもしれません。自分に与えられた領域で、自分の好きなように入れ、また追い出す。しかし、次第に入ってくる人が自分の領域を犯すのではないか、奪うのではないかと不安になる。そうすると、わたしたちはその人たちを拒絶します。その点では、私たちの心はヘロデの心と変わるところはないのです。わたしたちは、自分のどこかの領域で自分が王様であり続ける、自分の領域にイエス様を迎え入れ、イエス様を真の王とし、イエス様の国の民となろうとはしない。自分の領域で王であり支配者であり続けようとするのです。神をさしおいて自分が王になろうとすること、それが聖書の語る人間の罪です。そしてその罪から、拒絶が生まれ、暴力が生まれ、苦しみが生まれるのです。その罪の結果、二歳以下の赤ちゃんがクリスマスの夜に殺されてしまったのです。私たちも自分の領域で王として君臨しようとしている、その王の座を力を持って守ろうとする。そのような罪の結果の現れが、今日読んだ聖書に書かている幼児の殺害なのです。子どもたちの死。これは間接的に、また類比としてイエス様の死を表しているでしょう。イエス様はこの物語中では、逃れて、ヘロデの手下に殺されることはありませんでした。しかし大人になったイエス様は、神の子として、正しい方であって、罪なき方で、罪を犯すことが一つも無い方だったのに、最後は人々の拒絶によって、十字架に架けられて殺されてしまいました。罪によって殺された幼児たちは、人としての罪がなかったわけではありませんが、ヘロデに対して何か罪を犯したのではないのに、ヘロデの罪によってただ一方的に殺されてしまいました。ヘロデの罪は、幼児たちの死を招きました。では、わたしたちの罪はというと、わたしたちの罪はイエス様の死を招きました。ここで、「えっ!」と思う方がいるかもしれません。そのように思われた方は「イエス様を殺したのは昔のユダヤ人たちでしょ、わたしは関係ない」と思われたのでしょう。ユダヤ人たちは、最後はイエス様を「偽のユダヤの王」として、自分たちの中から追いだそうして、殺すのです。ユダヤ人は、ユダヤの真の王であるイエス様を自分たちとは関係のないものだとしました。むしろうざったい、邪魔なものだとして、拒絶し。追い払おうとしました。それでも、近くによってこられるイエス様を恐れ最後は殺してしまう。イエス様は、人を愛し救おうとして、近づいてきて来られていたのに、人々は自分を脅かす存在だと認識し、拒絶し、殺してしまったのです。わたしたちは、どうでしょうか。イエス様がわたしの真の王であると、受け止めることができるでしょうか。イエス様を王として、神様の支配に身を委ねることができるでしょうか。そうできないのがわたしたちの現実ではないでしょうか。そんなことよりも、「自分が大事です、自分が今日幸せに生きるのは大事です」となってしまう。信仰者であっても、時と場合によっては、ペトロのように、自分の身が保証されなくなると、「イエス様など知らない」と言う態度をとってしまうことがあります。やはり、自分が大事となって、イエス様を捨てる、傷つけるということが起こるのです。そのわたしたちの罪が、イエス様を十字架にかけたのです。

しかしそのことにおいて、神様の愛する独り子イエス様は、私たちの罪をご自分の身に背負って、私たちのために、本当は死ぬべき私たちの身代わりとして死んで下さったのです。神様はそのことによって、自分が王となって神様を拒絶するというわたしたちの罪を赦し、それだけでなく私たちに恵みを与え、新しく神の民として下さいました。人間の罪と、それがもたらす悲しみ、悲惨が極まる、その場所で、その罪と悲惨をご自分の身に引き受けて、救い主イエス・キリストがゴルゴダの丘に立ってくださったのです。そのことが十字架の出来事へとつながる、最初の一歩が記されたのが、このクリスマスの夜の出来事です。主イエス・キリストの誕生は、わたしたちの罪による、この世の悲惨、苦しみ悲しみのその真っ暗闇のただ中に、それを背負う方として神のみ子が来て下さったという恵みの出来事です。そしてわたしたちは今まで、ある知識としてイエス・キリストを知っているだけで、その神のみ子とは無関係であると考えていました。しかし、今日無関係であると思っていたわたしたちの元にも、イエス様は来て下さっているということが聖書に示されています。2章22節、23節「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」とあります。ヨセフはヘロデが死ぬまでエジプトにいて、そのヘロデの脅威が去ったので、ベツレヘムに帰ろうとした、しかしヘロデの息子のアルケラオがユダヤを支配していたので、ガリラヤのナザレという町に行きそこに住んだとあります。ガリラヤとはマタイによる福音書では、「異邦人の土地」とされています。異邦人とは、ユダヤ人ではなく、異教の神々を信じるものたちです。イエス様は神の民と呼ばれるユダヤ人たちの所だけにきたのではなく、まず異邦人に出会ってくださっているのです。東方の占星術の学者たちも異邦人です。イエス様に最初に会って礼拝したのは異邦人でした。わたしたちも極東の日本人、異邦人です。キリスト教などわたしには関係ないと思っている異邦人です。そうだったのですが、クリスマスの夜にイエス様に最初に出会うのは異邦人たちです。そして、クリスマスの暗い闇を超えて、まずやってくるのが、異邦人の土地です。そのことから、神様がわたしたちに、伝えたいことがわかります。神様はわたしたちに「イエス様とは関係ないと思っている、あなたの所にいって、あなたたちに会いに行こう」ということを今日お伝えになりたいのです。マタイによる福音書4章15節16節を見てみましょう。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」異邦人の土地ガリラヤに住む人は、罪の暗闇の中で大きな光と出会うと書かれています。死の影の地、罪の結果が生む悲惨さ、苦しみ、孤独、死の中で生きていたわたしたちに光が差し込むとあります。まさにその光こそがイエス様です。私たちの現実は、またこの世の現実は、わたしたちの罪の闇の中にあります。罪の闇は、例えるならば、「自分が王として君臨している小さな暗い部屋」でしょう。そこでわたしたちは他の人たちを拒絶して閉じ困っている。自分の手で鍵を閉めて誰も入れないようにしたり、許可して中にいれた人でも、気に食わないと攻撃して追い払ったりする。そんなことをしているうちにわたしたちは孤独になるのです。そのような小さな暗い部屋にひとりぼっちな部屋にわたしたちはいました。

しかしそこにイエス様が来てくださったのです。鍵なんか関係なしに、突然来られたのです。それがクリスマスの出来事です。ですから、わたしたちはその突然の真夜中の来訪者である、イエス様をむかえましょう。その方が、私たちが自分で自分を苦しめる罪の闇を背負って下さるのです。そのイエス様の恵みを求めて、そのみ前にひれ伏して礼拝をしましょう。そこにクリスマスの真っ暗な夜に、明るい喜びが生まれるのです。そのように東方の異邦人の学者たちも喜びにあふれて、イエス様を礼拝したのです。それがクリスマスの夜の喜びです。クリスマスの夜を真っ暗にしていたのはわたしたち自身でした。しかし、そのクリスマスの夜が喜びに変わるのは、このようにイエス様と出会うことによってです。出会ってイエス様を礼拝することによってです。まさにここにこそ、私たちのクリスマスの夜の喜びがあるのです。イエス様とわたしたちは無関係ではない。そしてその、無関係ではないわたしたちのためにイエス様がこの世に来て下さったことを感謝して、このクリスマスの夜を祝いましょう。

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