説教「まことの神殿」牧師 藤掛順一
旧約聖書 エレミヤ書第7章1-11節
新約聖書 マタイによる福音書第21章12-17節
神殿の境内で
主イエス・キリストがそのご生涯の最後にエルサレムに入られたことが語られているマタイによる福音書第21章1節以下を、3月の最後の主日、イースターの前のいわゆる棕櫚の主日の礼拝で読みました。主イエスは、「ダビデの子にホサナ」という人々の賛美の声に迎えられてエルサレムに入ったのです。そこから、主イエスの地上のご生涯の最後の一週間、いわゆる受難週が始まったのです。本日読む12節以下には、エルサレムに入った主イエスが最初になさったことが語られています。主イエスは神殿に行って、その境内で、売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆したのです。当時のエルサレム神殿には、柱廊に囲まれた広い庭がありました。この神殿は、クリスマスの物語に出てくるあのヘロデ大王が大改修をした大変壮麗なものでした。その時にこの広い庭が設けられ、ユダヤ人でない人々、いわゆる異邦人たちもそこまでは入ることができるようになったのです。ですからこの庭は「異邦人の庭」と呼ばれていました。12節に「神殿の境内に入り」とあるのは、この異邦人の庭に入った、ということです。そして主イエスはそこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆したのです。両替人の台の上のお金がそこらじゅうに散らばったでしょう。鳩を売っていた人をその腰掛けから引きずり下ろし、その椅子を力まかせに蹴っ飛ばしたのかもしれません。ここに描かれている主イエスのお姿は、私たちが普通にイメージしている優しく穏やかなお姿とは大きく違っています。主イエスが優しく穏やかな方だというのは私たちが勝手に作り上げたイメージで、実際にはそうではなかったのでしょうか。そうではありません。21章の1節以下には、主イエスがろばに乗ってエルサレムに入ったことが語られていました。それは主イエスが「柔和で謙遜な王」であることのしるしでした。「柔和で謙遜」こそ、主イエスの基本的なお姿なのです。しかしここでは、その主イエスが激しい怒りを爆発させて、暴力的な振る舞いにまで及んでおられます。柔和で謙遜な方である主イエスが、これだけ怒りを露になさったことは、多くの人々の記憶にしっかり刻みつけられました。だからこのことは四つの福音書のすべてに語られているのです。
マルコによる福音書では
しかし、主イエスがここで何に対して激しくお怒りになったのかについては、福音書によって微妙に捉え方が違っています。最初に書かれた福音書であり、マタイも下敷きにしたとされているマルコ福音書と比べてみると、主イエスがお語りになった言葉に違いがあります。本日の13節には、「私の家は、祈りの家と呼ばれる」とありますが、マルコではそれが、「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」となっているのです。これは旧約聖書イザヤ書56章7節の引用であり、元のイザヤ書には「すべての民の」があります。イザヤ書56章は、ユダヤ人でない異邦人たちも、主なる神への礼拝に連なり、神の民の一員となることができる、という恵みの約束を語っているところです。その流れの中で、「私の家」つまり主の神殿は「すべての民の祈りの家」と呼ばれる、と言われているのです。ですから「すべての民の」はイザヤ書においてなくてはならない大事な言葉であり、マルコはそれをそのまま残しているのです。そのマルコ福音書においては、主イエスの激しい怒りの理由はこういうことになるでしょう。「この『異邦人の庭』は、神殿の中に入ることができない異邦人たちが、主なる神を礼拝するための場所だ。その異邦人の礼拝の場を、あなたがたは売り買いの場、商売の場にしてしまっている」。ちなみにこの売り買いは、お祭りの時に神社の境内に屋台が並んでいるようなこととは違います。「両替人」は、一般のお金を、神殿に献げるための特別なお金に両替をしているのです。鳩を売る者も、神に犠牲として献げるための鳩を売っているのです。ですからここで行われていた売り買いは礼拝のための売り買いです。でもそれはユダヤ人たちの礼拝のためです。ユダヤ人たちはここで両替をしたり鳩を買って、神殿のさらに奥の、ユダヤ人のための場所に入って礼拝をしたのです。しかし異邦人たちは、この異邦人の庭までしか入ることができません。彼らはここで遠くから礼拝するしかなかったのです。その異邦人たちの礼拝の場を、ユダヤ人たちが、自分たちの礼拝のための準備の場所にしてしまっており、そこは売り買いする人々の喧騒で満ちている。そのことを主イエスはお怒りになったのです。そしてイザヤ書の言葉を引いて、「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と書いてあるではないか、とおっしゃった。それは、「あなたがたは自分が気持ちよく礼拝をすることしか考えておらず、異邦人がここで祈り、礼拝していることを少しも思っていない」ということです。マルコ福音書は主イエスの怒りをそのように捉えているのだと思うのです。
真実な礼拝の場
それに対してマタイは、主イエスのお言葉から、イザヤ書にはある「すべての民の」を省きました。ということはマタイはマルコと違って、「ここは異邦人が礼拝するための場所だ」ということを見つめてはいないのです。それではマタイは、主イエスがここで何に対して怒っておられると考えているのでしょうか。マタイは「すべての民の」を省いて、主イエスが「私の家は、祈りの家と呼ばれる」とおっしゃったと言っています。主の神殿は、祈りの家でなければならない。そこでは真実な祈りがなされ、主なる神に本当に心を向け、神との交わりに生き、そのみ心に従っていくということが起こらなければならない。一言で言えば、神殿は真実な礼拝の場でなければならない、それが「私の家は、祈りの家と呼ばれる」という言葉の意味でしょう。「ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」と主イエスはおっしゃったのです。主なる神に対して真実な礼拝と祈りがなされるべきこの神殿であなたがたがしていることは強盗と同じだ。これも旧約聖書の引用です。先ほど朗読されたエレミヤ書第7章2〜11節をもう一度読んでみたいと思います。預言者エレミヤが、主の神殿の門のところに立って、礼拝をするために神殿に入っていく人々に語りかけた言葉です。エレミヤはこのように語ったのです。
「主を礼拝するためにこれらの門を入るすべてのユダの人々よ、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの道と行いを改めよ。そうすれば、私はあなたがたをこの場所に住まわせる。あなたがたは、『これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ』という、偽りの言葉を信頼してはならない。あなたがたが本当にあなたがたの道と行いを改め、本当に互いの間に公正を行うなら、この場所で、寄留者、孤児、寡婦を虐げず、罪なき人の血を流さず、他の神々に従って自ら災いを招かないならば、私はあなたがたをこの場所に、あなたがたの先祖に与えた地に、いにしえからとこしえまで住まわせる。しかしあなたがたは、無益な偽りの言葉に頼っている。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが知らなかった他の神々に従っているではないか。それなのにあなたがたはやって来て、私の名が呼ばれるこの神殿で私の前に立ち、『我々は救われた』と言って、これらのあらゆる忌むべきこと行おうとする。私の名が呼ばれるこの神殿は、あなたがたの目には盗賊たちの巣窟となったのか。私にはそう見える−−−主の仰せ」。
強盗の巣窟
この神殿は盗賊たちの巣窟になってしまっている、とエレミヤは語りました。それは、神殿が強盗たちのアジトになっているということではありません。この神殿にやって来て、そこで礼拝をし、犠牲を捧げ、「我々は救われた」と言っている人々が、普段の生活において何をしているのかを問うているのです。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、偶像の神バアルに香をたき、元々知らなかった異教の神々に従っている、普段そんな生活をしながら、礼拝の時になるとノコノコと神殿にやって来て、したり顔で礼拝を守り、「救われた。神さま感謝です」などと言っている。それは、主なる神を、礼拝を、ただ自分の平安や安心のための手段にして、自分の願いをかなえ、思いを遂げるために、自分が好き勝手なことをするために利用しているだけではないか。それで本当に主なる神を礼拝していると言えるのか。神殿が祈りの家となっていると言えるのか。神の目から見たら、この神殿は強盗の巣窟になっているのではないのか。エレミヤはこのように語って、主なる神を礼拝するために神殿の門を入っていくユダの人々を批判したのです。
主イエスの厳しい問い
マタイ福音書は、主イエスをこのエレミヤと重ね合わせています。そのことは、先々週、棕櫚の主日に読んだ10節以下に、「イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、『一体、これはどういう人だ』と言って騒いだ。群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ』と言った」と語られていたことと繋がっています。先々週の説教ではここには触れませんでしたが、この10、11節はマタイ福音書のみが語っていることです。マタイは、群衆が「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言ったことに続いて、イエスが神殿の境内に入り、売り買いしていた人々を追い出したこと、そして預言者エレミヤの言葉を引いて語ったことを描いているのです。そのようにしてマタイは、主イエスを預言者エレミヤと重ね合わせています。エレミヤが当時の人々の礼拝に厳しい警告を与え、それが本当に礼拝となり祈りとなっているかと問うたように、主イエスもこの時代の人々に、そして私たちにも、あなたがたの行なっている礼拝は本物なのか、あなたがたの教会は祈りの家になっているのか、と問うておられるのです。柔和で謙遜な方である主イエスのあのような激しい怒りは、当時のユダヤ人たちが神殿を自分たちのための礼拝の場としてのみ捉え、「すべての民の祈りの家」であることを忘れてしまっていたことに向けられていたとも言えるでしょうが、この怒りは、もっと根本的には、礼拝が本当に礼拝になっておらず、祈りの場となっていないことに向けられていたのです。「私の家は、祈りの家と呼ばれる」という言葉は、あなたがたの礼拝は本当に礼拝となっているのか、祈りの場となっているのか、という主イエスの厳しい問いを示しているのです。そしてその問いはわたしたちにも向けられているのです。
癒しのみ業と子どもたちの賛美
このようにこの箇所は、私たちの礼拝を、礼拝を守っている私たちが日々どのように生きているかを厳しく問うています。主イエスは、あなたがたの礼拝は本当に礼拝になっているのか、あなたがたは主なる神を礼拝することができているのか、と問うておられるのです。そしてその問いと、14節以下に語られていることとは結び合っているのです。14節から16節も、マタイ福音書のみが語っていることで、他の福音書にはありません。まず14節には、「境内では、目の見えない人や足の不自由な人たちが御もとに来たので、イエスは彼らを癒やされた」とあります。これまでに何度も語られてきた、体に障がいを持った人の癒しの奇跡が、ここでも行われたのですが、その癒しが神殿の境内で行われたことに意味があります。旧約聖書の律法には、体に障がいがある人は主なる神の前に出て礼拝をすることができない、とありました。目の見えない人や足の不自由な人は、たとえユダヤ人であっても、異邦人の庭までしか入ることができなかったのです。その人々を主イエスが癒して下さった、それは、彼らが他のユダヤ人たちと共に礼拝を守ることができるようになったということです。礼拝から締め出されていた者を、礼拝することができるようにして下さった、そういう恵みのみ業がここで行われたのです。また15、16節に語られているのは、この神殿の境内で、子どもたちが、「ダビデの子にホサナ」と叫んで主イエスをほめたたえた、ということです。子どもも当時の社会では数に入れられておらず、ある意味人間扱いされていませんでした。その子どもたちが、主イエスを、ダビデの子、救い主としてほめたたえた、つまり彼らは真実な礼拝をしているのです。その声を聞いて、祭司長、律法学者たちは腹を立てました。祭司長は、神殿における礼拝の最高責任者だし、律法学者はイスラエルの民の信仰の指導者です。どちらも、イスラエルの民が神を正しく真実に礼拝することに責任を持っているはずの人々です。その人々が、子どもたちの真実な賛美の声に、つまり彼らがしている真実な礼拝に腹を立てているのです。そして主イエスに、「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか」と言いました。それは、「あんなことを言わせておいていいのか、やめさせろ」ということです。主イエスが神の子であり救い主であることを認めていない彼らにとっては、主イエスのことを「ダビデの子」とほめたたえることは神への冒涜なのです。そのようにして彼らは、真実の礼拝を妨げる者となっています。つまりここには、神への礼拝を司り、導くはずの者たちが真実の礼拝を妨げる者となり、体の不自由な人や子どもたちという、礼拝から締め出され、数に入れられていなかった者たちが、主なる神を真実に礼拝する、ということが起っているのです。それは、差別を受けて苦しんでいる人や、弱い者、小さくされている者たちの方が、神を本当に礼拝することができる、ということではありません。主イエスは祭司長や律法学者たちに答えてこうおっしゃいました。「聞こえる。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あなたがたはまだ読んだことがないのか」。これは詩編第8編3節の言葉ですが、この言葉によって示されているのは、子どもたちに主イエスをほめたたえる賛美の声を与え、真実な礼拝を与えて下さったのは主なる神なのだ、ということです。子どもたちは、大人たちよりも、祭司長や律法学者たちよりも純真で素直だから主イエスをほめたたえ、礼拝することができたのではありません。彼らの賛美と礼拝は、主なる神がその恵みによって与えて下さったものです。取るに足りない、数に入らない彼らが、ただ神の恵みによって、礼拝へと導かれ、まことの礼拝をする者とされたのです。目の見えない人や足の不自由な人も同じです。本来礼拝に加わることのできなかった彼らが、主イエスによって癒されて、礼拝の群れに加えられたのです。主イエス・キリストが来られたことによって、このように、それまでは神のみ前に出て礼拝をすることができなかった者が、神の恵みによって、礼拝する者へと変えられた、ということをこの14~16節は語っているのです。
礼拝は神の恵み
このことが、あのエレミヤの言葉による主イエスの厳しい問いかけに続いて語られているところに、この箇所が語ろうとしている大切なメッセージがあります。主イエスは私たちに、あなたがたの礼拝は本当に礼拝になっているのか、あなたがたの生活は、本当に主なる神の前に立ち、神を拝み、祈り、そのみ言葉に従って生きるものになっているのか、むしろ神をも、礼拝をも、自分のために利用しているだけで、あなたがたの礼拝は強盗の巣窟になっているのではいないのか、と厳しく問うておられます。その問いの前に、私たちはうなだれるしかありません。私たちは本来、神のみ前に出て礼拝をすることが出来る者ではありません。日々の生活において、神に対しても隣人に対しても、強盗のような罪を犯している者なのです。差別を受けて苦しんでいたり、小さくされている者なら礼拝ができる、というわけでもありません。神のみ前に出ることができない罪人であることにおいては、どのような人も皆同じなのです。そのような私たちを、主イエス・キリストが、あの目の見えない人や足の不自由な人たちと同じように、癒して下さったのです。私たちの罪を赦して下さり、神のみ前に出て礼拝をすることができる者として下さったのです。そしてあの子どもたちと同じように、私たちの口に、神を、主イエスをほめたたえる賛美の言葉を与えて下さったのです。この主イエスの恵みによって私たちは、全く相応しくない者でありながら、神さまのみ前に出て礼拝をすることができるのです。うなだれるしかない私たちが、顔を上げて、「ダビデの子にホサナ」と賛美を歌うことができるのです。私たちの礼拝は、神が憐れみのみ心によって与えて下さっている恵みです。私たちは、神の憐れみと恵みなしには、礼拝をすることなどできません。そのことを忘れて、自分は正しい立派な者だから礼拝をしている、などと勘違いをすると、あの人はちゃんと礼拝をしていないからけしからんと人を裁いたりすることが起ります。さらには、「せっかく礼拝をしてやっているんだから、神はもっと自分の願いを聞いてくれるべきだ」などという思いに陥ることになります。そうなったら、私たちの礼拝は、教会は、まさに強盗の巣になるのです。
まことの神殿、真実な礼拝
主イエス・キリストは、神のみ前に出ることができない罪人である私たちが、礼拝をすることができるようになるためにこの世に来て下さいました。そのために、私たちの全ての罪を背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。主イエスの十字架の苦しみと死とによってこそ、私たちは罪を赦されて神のみ前に出て礼拝をすることができるのです。しかしそれだけではありません。主イエスの父なる神は、十字架にかかって死んだ主イエスを復活させて下さいました。神はそのことによって、私たちにも、復活した主イエスと共に生きる新しい命を与えて下さったのです。私たちは先週のイースターに、そのことを共に喜び祝いました。毎週の主の日が、この主イエスの復活を喜び祝う日です。私たちは主イエスの十字架の死によって罪を赦され、主イエスの復活によって新しく生かされて、神を礼拝しつつ生きるのです。そこに、まことの神殿が築かれていきます。私たちの神殿は、エルサレムにあるのでもなければ、築100年のこの建物が神殿なのでもありません。主イエス・キリストこそ私たちのまことの神殿です。私たちは、洗礼を受けて主イエスと結び合わされ、キリストの体である教会に連なる者とされ、毎週主の日にここに集って、み言葉を聞き、聖餐にあずかり、主イエスの十字架の死による罪の赦しと、主イエスの復活による新しい命をいただいて、神を賛美しつつ生きていくのです。このことによって、私たちのこの集いが真実な礼拝となり、また私たちの日々の生活が、神を礼拝しつつ生きる者の歩みとされていくのです。