説 教 「赦しの共同体」 牧師 藤掛順一
旧 約 詩編第113編1-9節
新 約 マタイによる福音書第18章21-35節
18章の締めくくり
先々週の礼拝においても、本日の箇所と同じ、マタイによる福音書第18章の最後の所、21~35節をご一緒に読みました。この箇所の23節以下には「仲間を赦さない家来のたとえ」が語られています。このたとえ話をもって第18章は終わっているのです。ところで、これまで読んできた20節までの所は、マルコ福音書とルカ福音書の両方、あるいはルカ福音書に同じような話がありました。小見出しの下の括弧にそのことが示されています。しかし本日の21節以下の小見出しの下には括弧がありません。つまりこの「仲間を赦さない家来のたとえ」は他の福音書にはない、マタイ福音書のみに出て来る話です。マタイはこの独自のたとえ話を語ることによって、18章全体の締めくくりをしています。18章にこれまで語られてきたことの全てが、この「仲間を赦さない家来のたとえ」に繋がっているのです。つまりこのたとえ話は、18章の締めくくりであると同時に、18章全体を結び合わせる扇の要(かなめ)ともなっています。本日はそのことをご一緒に確かめたいと思います。18章の全体を振り返り、その中で21節以下がどういう役割を果たしているのかを確認したいのです。
天の国で誰が一番偉いか
18章は、弟子たちが主イエスのところに来て、「いったい誰が、天の国で一番偉いのでしょうか」と質問したことから始まりました。天の国で誰が一番偉いかというのは要するに、自分たちの間で誰が一番偉いのか、ということです。「天の国は近づいた」と宣言なさった主イエスに従っている弟子たちは、天の国、つまり神さまのご支配による救いに共にあずかろうとしている仲間です。その弟子たちの間で、誰が一番偉いのかという言い争いが生じたのです。主イエスはそのことを受けて18章を語り始められたのです。
弟子たちのこの問いを私たちは、大人げない幼稚な問いとして一笑に付すことはできないでしょう。教会は主イエスの弟子たちの群れであり、そこに集っている私たちも、主イエス・キリストを信じ、従っている者です。その教会の兄弟姉妹の間でも、人よりも偉くなりたいという思いが起るのです。確かに私たちはこんな単純な問い方はしないかもしれません。私たちの思いはもっと複雑で、人よりも偉くなりたいという思いを、人よりも謙遜になることで達成しようとします。謙遜さを誇り合うという、訳のわからないことが教会ではしばしば起るのです。それは、人より偉くなりたいという思いがねじれた仕方で現れているに過ぎません。「誰が一番偉いか」という問いは、教会における信仰者どうしの交わりにも、常についてまわるのです。当時の教会の人々が、これは自分たちの間でいつも起っていることだと感じたからこそ、この話が福音書に残されたのだと言えるでしょう。
二つの教え
弟子たちの問いに対する主イエスのお答えが2~5節です。主イエスは先ず、「自分を低くして、子供のようになる人こそ、天の国で一番偉いのだ」とおっしゃいました。偉くなりたいと思うなら、「むしろ自分を低くして子供のようになりなさい」と教えたのです。しかし5節には、それとは少し違うことが語られています。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。つまり主イエスは私たちに、「子供のようになる」ことと「一人の子供を受け入れる」という二つのことを求めておられるのです。
つまずかせないように
6節以下に語られているのは、「小さな者の一人をつまずかせる」ことへの警告です。この教えは今の二つの内、「一人の子供を受け入れなさい」という教えと繋がっています。5節の「一人の子供」が6節では「小さな者の一人」と言い換えられているのです。「わたしを信じるこれらの小さな者」と言われていますから、これは共に信仰に生きる教会の仲間たちの間でのことです。その中の一人の小さな者をつまずかせてしまう、つまり、その人が信仰者として生きることを妨げ、教会の交わりから脱落してしまう原因を作ってしまうようなことがないように気をつけなさいと言われているのです。「小さな者」と言われていることに注目しなければなりません。大きな者はつまずかないのです。大きな者とは、重んじられている者、みんなから一目も二目も置かれている者です。そのような人はつまずかされてしまうことはない。つまずかされるのは小さな者、つまり、教会の交わりにおいてともすれば軽んじられたり、無視されたりする者です。そういう小さな者をつまずかせることが、大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められる方がましであるような大きな罪である、と主イエスはおっしゃったのです。
小さな者の一人をつまずかせないためには何が必要なのでしょうか。それは、その人を受け入れることです。小さな者の一人をつまずかせることへの警告を語っている6節が、5節の「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」という教えと繋がっている、というのはそういうことです。子供はこの当時軽んじられており、受け入れられない小さな存在の代表でした。そういう小さな者、弱い者を、主イエスの名によって受け入れることが、主イエスご自身を受け入れることなのです。そしてそれこそが、その人をつまずかせてしまわないために必要なことなのです。教会の交わりにおいてもしも誰かがつまずいて去ってしまうようなことが起るならば、私たちは、それは自分たちがその人を受け入れなかったからではないか、と振り返って見る必要があるのです。
迷い出た羊のたとえ
これを受けて10節には、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と語られています。「つまずかせる」ことは、「軽んじる」ことによって生じるのです。そしてそれは「受け入れない」ということです。これらは全て繋がっています。そしてこの10節には、小さな者を軽んじてはならないことの理由として、「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」と語られています。その意味は、天の父なる神が、彼ら小さい者の一人のことをいつも気にかけ、見守っておられる、ということだと以前に申しました。小さな者の一人を軽んじることなく、つまずかせることなく、受け入れることが求められているのは、天の父なる神がその一人の小さな者の一人ひとりを大切に思っておられるからです。そのことが12節以下の「迷い出た一匹の羊のたとえ」に語られているのです。この羊飼いは、百匹の羊の内の一匹が群れから迷い出てしまった時に、残りの九十九匹を山に残したままその一匹を捜しに行くのです。神さまは、信仰者たちの内の小さな者の一人をそのように大切に思っておられるのです。迷子になった羊は、18章の文脈においては、群れの仲間から軽んじられ、受け入れられなかったためにつまずいてしまった者です。神はその小さな者の一人が失われてしまっても「仕方がない」とは決して思わないのです。その一人を何とかして捜し出して連れ帰り、他の者たちと共にご自分の民として養い育てようとしておられるのです。神さまが、小さな者の一人をどれほど大切に思っておられるか、をこのたとえ話は語っているのです。
きょうだいがあなたに罪を犯したら
このようにこの18章には、信仰者の群れである教会において、小さな者の一人がともすれば軽んじられ、受け入れられずにつまずかされてしまうという現実が見つめられています。しかし神はその一人の小さな者を大切に思っておられ、その一人が失われてしまわないようにいつも見守っておられる。だから、一人の小さな者をつまずかせてしまわないように、軽んじることなく受け入れ、共に歩みなさい、と教えられているのです。その教えが15節以下においては、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という教えに繋がっています。「一人の小さな者」がここからは「自分に対して罪を犯すきょうだい」と言い換えられているのです。
この言い換えはとても大事なことを示しています。「一人の小さな者」というのは、私たちが見過ごしにしてしてまいがちな、目立たない人ではありません。自分に対して罪を犯し、自分を傷つける人、つまり私たちが好ましくない、目障りだ、いなければいいのにと感じてしまうような人こそが実は「これらの小さな者」なのです。私たちがその人を軽んじてしまうのはそのためです。軽んじるというのは、その人のことを知らない、意識していない所に起ることではありません。知っているのです。意識しているのです。しかしわざと相手にせず、気づかないふりをするのです。それが「軽んじる」ことであり、そこには明確に、その人を受け入れず、拒否する思いがあります。目立たないから見過ごしにしたのではなくて、実はその人のことが嫌いなのです。嫌いなのは、その人が自分に対して罪を犯している、と感じているからです。「罪を犯している」と言うと大袈裟な感じですが、その人がいると事がうまく進まずに迷惑しているとか、その人さえいなければ皆でもっと楽しく和気藹々とやっていけるのに、というようなこともそこには含まれます。要するに、その人とは合わない、うまくいかない、そういう時に私たちは、「その人が自分に対して罪を犯している」と感じるのです。ですから、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように」という教えと、「兄弟が自分に対して罪を犯したなら」という教えは深く繋がっているのです。私たちが軽んじてしまうのは、自分に罪を犯していると思う人なのです。
このことは、あの迷い出た羊のたとえにおいて既に暗示されていました。群れから迷い出る羊は、神さまのもとから離れ去ってしまうのですから、神に対して罪を犯しています。そして羊飼いがその一匹を捜しに行っている間、他の羊たちは山に残されてしまうのですから、この一匹の羊のために群れ全体が迷惑を受けているのです。つまり、神に対して罪を犯している者は、同時に、群れの仲間たちに対しても罪を犯しているのです。そのように自分に対して罪を犯し、迷惑をかけているきょうだいに対してどうするか、ということが15節以下で問われているのです。
兄弟を得る=罪を赦す
15節以下の主イエスの教えの根本は、「その人をきょうだいとして再び得るために最大限の努力をしなさい」ということでした。それは決して相手の罪を見て見ぬふりをするとか、問題にしない、ということではありません。その人に対して忠告をすること、つまり相手の罪を指摘し、悔い改めを求めることが勧められているのです。つまり、群れから迷い出た羊は、たとえ仲間たちに受け入れられず、軽んじられ、つまずかされた、という面があるとしても、神さまのもとから離れ去ってしまったことにおいて罪を犯しているのだし、きょうだいたちを傷つけてもいるのです。要するにそこには悔い改めなければならない罪があるのです。その罪をきちんと問題にし、神に対してもお互いどうしの間でも、悔い改めて正すべきことは正し、詫びるべきことは詫びることが勧められているのです。しかしそのことの根本には、相手をきょうだいとして得ようという思いがなければならない、と主イエスは言っておられるのです。自分に罪を犯した相手に仕返しをして、自分と同じ苦しみを与えてやろう、という思いでいたのでは、憎しみと対立が深まるだけで、相手をきょうだいとして得ることはできません。きょうだいを得るためには、罪を罪として問題にしつつ、しかし最終的にはそれを赦す、という思いが必要なのです。そのことが18節では、「つなぐ」と「解く」という言葉で語られていました。「つなぐ」とは、「罪につなぐ」、つまりその人の罪を赦さず、あくまでも追求することです。「解く」とは、「罪から解く」、つまりその人の罪を赦すことです。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と主イエスはおっしゃいました。私たちがこの地上で自分に罪を犯す者を赦すのか赦さないのかによって、神が天上でその人をお赦しになるかならないかが決まる、とおっしゃったのです。そのように語ることによって主イエスが私たちに求め、期待しておられるのは、私たちが人の罪を解くこと、つまり赦すことです。そのようにして相手をきょうだいとして得ていくことです。そのために心を一つにして祈り求めるなら、わたしの天の父なる神はその願いをかなえて下さる、というのが19節の「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」という教えです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という20節もこの流れの中で語られています。二人または三人が主イエスのみ名によって集まるところ、それが教会です。教会は主イエスの名によって集まって何をするのか。自分に罪を犯すきょうだいを赦して、きょうだいとして再び得るために共に祈るのです。その祈りの輪の中にこそ、主イエス・キリストが共にいて下さり、そこに主イエスの教会が築かれていくのです。
仲間を赦さない家来のたとえ
18章に語られている教えはこのようにみな繋がっています。これらの教えの締めくくりとして、21節以下が語られているのです。その冒頭でペトロが「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と問うています。先々週に申しましたが、ペトロは、主イエスのこれまでの教えから、自分に罪を犯すきょうだいを赦すことが大切だと思い、その教えを頑張って実行しようと決意して「七回までですか」と言ったのです。しかし主イエスはそれに対して、「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」とおっしゃいました。それは、ペトロの努力はまだ足りない、さらに七十倍努力しなさい、ということではありません。主イエスはこのことによって、自分に罪を犯すきょうだいを赦すことは、人間の決意や努力によって行う「良いこと」ではない、ということを教えておられるのです。そのことを示すために、「仲間を赦さない家来のたとえ」が語られているのです。一万タラントンという、一生かかっても絶対に返すことができない莫大な借金を主人に赦してもらった家来が、兄弟の百デナリオンの借金を赦そうとしなかった。それはあってはならないこと、人としての道に反することです。つまり、兄弟の百デナリオンの借金、罪は、努力して赦すべきものではなくて、それを赦すことが当たり前であって、赦さない方が人としての道をはずれたことなのです。なぜなら、私たちは神によって一万タラントンの借金、罪を赦された者だからです。一万タラントンを赦された者が百デナリオンを赦すのは、努力や決意によることではなくて、当たり前のことです。当たり前だから、私たちはきょうだいの罪を七の七十倍まで、つまり無限に赦すことができるはずなのです。
赦す者から赦される者へ
このことは、自分が神によって一万タラントンの借金、罪を赦していただいたということがわからなければ無意味です。そしてこのことは説明を聞いてなるほどと理解し納得できることではないでしょう。だから私たちはこのたとえ話を根本的にはなかなか受け止めることができません。しかし私たちにも理解できることが一つあります。それは、このたとえ話において、私たちの立場は、赦す者から赦される者へと変わっているということです。18章にこれまで語られてきたことは全て私たちに、自分に罪を犯したきょうだいを赦すことを求めていました。きょうだいを得るために努力するとはそういうことですし、「赦さない」ことこそが小さな者の一人を受け入れずに軽んじることであり、それが、その人をつまずかせることの原因だと言われていたのです。つまりこの18章は私たちに、自分に罪を犯した者を赦し受け入れることを求めています。主イエスの教会はそれによってこそ築かれていくのだ、ということが語られているのです。「仲間を赦さない家来のたとえ」においてもそのことが求められています。しかしここには、そのことの土台、根拠である大事なことが語られているのです。それは、私たちは、きょうだいを赦し、小さな者の一人を受け入れる者となる前に、むしろより根本的には、神によって赦され、受け入れられている者なのだ、ということです。神によって赦され、受け入れられているからこそ、私たちも人を赦し、受け入れることができるのです。つまり、私たち自身が実は「これらの小さな者」なのです。「一人の子供」なのです。その小さな者である私たちを、神は、かけがえのない大切なものとしていつも見つめていて下さるのです。私たちの天使が、天でいつも主イエスの父なる神の御顔を仰いでいるのです。私たち自身が、神のもとから迷い出る罪を犯し、兄弟姉妹にも迷惑をかけている罪人です。しかし神は、他の九十九匹を山に残しておいて、私たちを徹底的に探し回り、連れ帰って下さったのです。神は私たちのことをそのように大切に思っていて下さり、決して軽んじることなく、受け入れて下さっているのです。神の独り子イエス・キリストの十字架の死は、そのことをはっきりと示しています。神は独り子の十字架の苦しみと死とによって私たちの罪を赦して下さいました。それは神が、私たちを赦して下さるために、愛する独り子の命を犠牲にして下さったということです。一万タラントンの借金を赦された、というこのたとえ話はそのことを語っているのです。
赦しの共同体
私たちは、主イエス・キリストの十字架の死によって神に受け入れられた小さな者、一人の子供です。3、4節で主イエスが、「心を入れ替えて子供のようになれ、自分を低くしてこの子供のようになれ」とおっしゃったことの意味はそこに見えてきます。子供のようになる、とは、子供のように素直で清い心を持つことでも、子供のように謙遜になることでもありません。子供のようになるとは、自分があの一万タラントンの借金を赦してもらった家来であることを認めることです。羊飼いが捜しに来てくれたことによってようやく生き続けることができたあの迷い出た一匹の羊であることを認めることです。どちらも、自分ではどうすることもできない絶望の中から、主人の、羊飼いの憐れみのみ心によって救われたのです。自分もそうだ、と認めることが、心を入れ替えて子供のようになることです。自分を低くするというのも、謙遜に振る舞うことではなくて、自分が本当に低い者、自分の力では救いを得ることができない者であることを認めることです。そのことを認める時に私たちは、神がその自分を受け入れて下さり、一万タラントンの罪を赦して下さったこと、神がこの自分のことを本当にかけがえのない、大切な者として見守って下さっていることを知ることができるのです。その時私たちも、これらの小さな者の一人を受け入れ、赦す者となることができます。つまり、子供のように受け入れられたのだから、一人の子供を受け入れることができる、赦された者なのだから、赦しに生きることができるようになるのです。ここに、教会における兄弟姉妹の交わりの要、土台があります。教会は、主に受け入れられているがゆえに互いに受け入れ合って生きる、赦されているがゆえに赦し合って生きる、そういう赦しの共同体なのです。