説 教 「誰が一番偉いか」 牧師 藤掛順一
旧 約 詩編第8編1-10節
新 約 マタイによる福音書第18章1-9節
教会について語られている二つの章
本日からアドベント、待降節に入ります。クリスマスに備えていく日々が本日から始まるのです。アドベントの第四主日、12月21日が今年はクリスマス礼拝です。その前の三回のアドベントの主日に読む聖書箇所をどうしようかと考えましたが、今年は、今読んでいるマタイによる福音書の続きを読むことにしました。本日から第18章に入ることになります。この18章は、マタイによる福音書の中でも特に大事な所です。他の所は大事でない、というわけではありませんが、この18章が特に大事だというのは、17節に「教会」という言葉があるからです。マタイによる福音書に「教会」という言葉が出て来るのは二箇所だけです。最初は16章の18節でした。フィリポ・カイサリアにおいて、弟子のペトロが、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いかけに答えて、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白しました。それを受けて主イエスは18節で、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃったのです。「わたしの教会」つまり主イエス・キリストの教会がこれから築かれていくことをマタイは見つめています。その教会は、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白という岩の上にこそ建てられていくのだ、ということを主イエスご自身が16章18節でお語りになったのです。
その直後の16章21節以下には、主イエスがこの時から、ご自分が捕えられて殺されること、そして三日目に復活することを予告し始めたことが語られていました。つまりここから、主イエスの十字架の死と復活への歩みが具体的に始まったのです。主イエスの教会は、この十字架と復活による救いのみ業によって築かれていきます。つまりこの受難の予告も、主イエスの教会が築かれていくことと関わっています。マタイによる福音書は、主イエス・キリストのご生涯、とりわけ十字架の死と復活によって、「わたしの教会」、イエス・キリストの教会が築かれていったことを語っているのです。そのことは、この福音書の締めくくりのところからも分かります。28章の19、20節です。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。これは、全世界の人々に、主イエスによる救いの福音を宣べ伝え、洗礼を受けた者の群れである教会を築いていくように、という命令です。復活した主イエスによって、弟子たちが、教会を築くために派遣されることをもってこの福音書は終わっているのです。主イエスのご生涯は、教会の誕生へと向かっていたことを、マタイによる福音書は語っているのです。
16章においては、ペトロの信仰告白を受けて「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と語られることによって、教会が築かれていく土台は何かが示されました。それと並んで「教会」という言葉が出てくるもう一つの箇所が18章17節です。この17節の内容については、そこを読む時に触れたいと思います。しかし今日この時点で確認しておきたいのは、16章と並んでこの18章においても「教会」のことが語られている、ということです。この福音書の中心的な主題である教会について語られている、そういう意味で大事な箇所である18章を、今年のアドベントには読み進めていくのです。
誰が一番偉いか
前置きが長くなってしまいましたが、18章は、弟子たちが主イエスのところに来てした一つの問いから始まっています。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」という問いです。要するに、「我々の中で誰が一番偉いのか」「俺だ」「いや俺だ」という対立、諍いが弟子たちの間に起っていたのです。教会のことが語られている大事な章である18章が、弟子たちのこのような対立、諍いから始まっていることに私たちは複雑な思いを抱きます。しかしまさにこれが教会の、私たちの、現実なのではないでしょうか。私たちの間にも、「誰が一番偉いか」という思いがあります。口には出さなくても、心の中でいつも人と自分とを比べて、どちらの方が上か、と量っているのが私たちです。それは決して、信仰と関わりなく生きているこの世の人々においてのみ起っていることではありません。弟子たちは「天の国で」と問うたのです。天の国とは神のご支配です。神のご支配の下で誰が一番偉いか、をめぐって対立しているのです。私たちの中にも、この世における上下関係はともあれ、神のもとでは、教会では、誰が一番偉いのか、と問う思いがあるのではないでしょうか。神を信じそのご支配の下で生きる信仰においても、人と比べ合い、どちらの方が上か、と競おうとする思いからなかなか自由になれないのが私たちなのです。
子供に関する二つの教え
弟子たちのこの問いに答えるために、主イエスは一人の子供を呼び寄せて彼らの中に立たせました。そして先ず3、4節でこうおっしゃいました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。弟子たちの間に誰が一番偉いかという議論が起ったことは、マルコ福音書とルカ福音書にも語られていて、それはどちらも9章にあるのですが、そこにはこの「子供のようにならなければ」というお言葉はありません。そこにあるのは、マタイでは5節に語られている、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」というお言葉です。「子供のようにならなければ」というお言葉は、マルコとルカにおいては、別の話、つまり、子供たちを主イエスのもとに連れて来た人々を弟子たちが叱ったのに対して、主イエスが、「子供たちを来させなさい。天の国はこのような者たちのものである」とおっしゃった、という話の中で語られています。おそらく、「子供のようにならなければ」というお言葉は元々はその話の中で語られたのでしょう。マタイはそれをこの「誰が一番偉いか」という議論の場面に持ってきたのです。つまりマタイは、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」という元々のお言葉に、「心を入れ替えて子供のようにならなければ」という教えを付け加えたのです。そこに、マタイ福音書におけるこの箇所の大きな特徴があります。ですから私たちの本日の課題は、「心を入れ替えて子供のようになりなさい」という教えと、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」という二つの教えの繋がりを捉えることです。この二つはどちらも「子供」について語っていますが、内容は全く違います。子供のように「なる」のと、子供を「受け入れる」のは全く別のことです。にもかかわらず、この二つの教えが、「誰が一番偉いか」という問いへの答えにおいて結び合わされているのです。それはなぜなのでしょうか。そこに、マタイ福音書18章を理解するための鍵があるのです。そしてそれは、マタイがこの18章で語っている教会についての教えを理解するための鍵でもあるのです。
子供のようにならなければ
まず最初の「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」という教えについて考えたいと思います。これを読むと私たちは、子供の頃の純真で無邪気な清い心を回復することを主イエスは求めておられるのだ、と思います。しかし「子供のようになる」とは果たしてそういうことなのでしょうか。4節には、「自分を低くして、この子供のようになる」とあります。子供のようになるとは、自分を低くすることだと言われているのです。それは謙遜になるということでしょうか。人よりも偉くなろうとするのでなく、自分を低くして謙遜になる人こそが一番偉いのだ、と主イエスは言っておられるのでしょうか。けれどもそこには疑問が生じます。子供って果たして謙遜でしょうか。むしろ子供は大人よりもあからさまに、人より上になりたい、一番になりたい、という思いをもって生きているのではないでしょうか。「誰が一番偉いか」という言い争いは、子供たちの間でこそよくあることです。弟子たちはそういう意味では、まことに子供じみたことをしていたのです。子供というのはそのように、模範や目標にはなり得ない未熟な者です。だから「子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」という主イエスの教えの意味を正しく理解するのはとても難しいのです。「心を入れ替えて子供のようになる」とはどういうことなのでしょうか。それはここではひとまず宿題にしておいて、18章全体を読む中でそれを考えていきたいと思います。
一人の子供を受け入れるとは
次に第二の教え、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」を見ていきたいと思います。「一人の子供を受け入れる」ことを主イエスは求めておられます。こちらの方が、「心を入れ替えて子供のようになる」よりもわかりやすいのではないでしょうか。子供というのは、先ほども申しましたように未熟な者です。大人のように周囲への気配りができず、わがまま勝手に振舞うことが多いのです。そういう子供を「受け入れる」ことを主イエスは求めておられます。それは、子供は純真で素直だからではありません。そういうことなら「受け入れる」という言葉は使わないでしょう。受け入れるとは、受け入れにくい、だからともすれば排除してしまいがちな者を受け入れる、ということです。子供は、無邪気でかわいいだけではなくて、時としてわがままで、傍若無人で、大人に迷惑をかけたりするのです。そういう子供を、「わたしの名のゆえに受け入れる」ことを主イエスは求めておられ、それが即ち、主イエスご自身を受け入れることなのだと言っておられるのです。これはもはや大人とか子供という年齢の問題ではありません。「あいつはまだ子供だ」というのは大人に対して言われる言葉です。もう大人なのに、成熟していない、周囲に気配りができずに迷惑をかけている。「わたしの名のために一人の子供を受け入れる」というのは、そのような、大人になれていない、周囲に迷惑をかけてばかりいる、受け入れにくい、だからともすれば排除してしまいがちな、そういう大人を受け入れることなのです。「誰が一番偉いか」と言い争っている弟子たちに主イエスはそういうことを求めていかれたのです。そこには、主イエスが、ご自分の教会がどのような群れとして築かれていくことを願っておられるのかが示されていると言えるでしょう。
つまずかせることへの警告
つまり、「一人の子供を受け入れなさい」というのは、教会についての教えなのです。そのように受け止めることによって、この教えの意味はさらに広がっていきます。そのことが次の6節以下に語られているのです。6節にこうあります。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」。「つまずく」とは、主イエスを信じる信仰から逸れてしまい、信仰を失ってしまうことです。「つまずかせる」とは、人をそのように信仰から引き離してしまうことです。そのつまずきをもたらす者の災いが語られているわけですが、この教えは、「わたしを信じる者」たちの群れである教会の存在を前提としています。教会という言葉は語られていませんが、ここでも、教会のことが見つめられているのです。主イエスを信じる者たちの群れである教会の中で、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」ことが起ってしまうことへの警告を主イエスは語っておられるのです。
受け入れないことがつまずかせること
「これらの小さな者の一人をつまずかせる」ことへの警告を語っている6節と、「一人の子供を受け入れる」ことを求めているその前の5節の間には段落が設けられており、小見出しまで置かれているので、何の関係もないように思われるかもしれません。しかし、「これらの小さな者の一人」という言葉は、5節の「一人の子供」を言い換えているのです。原文においては5節と6節の間に区切りも小見出しもありません。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は…」と続いているのです。つまり、「一人の子供を受け入れる」ことと、「これらの小さな者の一人をつまずかせる」ことが、対照的なこととして見つめられているのです。一人の子供を受け入れることの反対が、小さな者の一人をつまずかせることであり、小さな者の一人をつまずかせることの反対が、一人の子供を受け入れることなのです。つまり主イエスがここで語っておられるのは、人をつまずかせることは、その人を受け入れないことによって起る、ということなのです。
私たちは、教会において、他の信仰者たちをつまずかせてはならないと思うし、自分の言動が、家族や友人などまだ信仰を持っていない人々へのつまずきになってはいけない、とも思います。しかしその「つまずかせること」が何によって起るのかを分かっているでしょうか。つまずきは、私たちの言葉や行いが信仰的に至らない、不十分なものであることによって起るのではありません。私たちがその人を受け入れないことこそが、その人をつまずかせるのです。このことを私たちは、このみ言葉からしっかりと聞き取り、自らを省みなければなりません。一人の子供を、つまり未熟で人に迷惑をかけている一人の小さな者を、受け入れようとしない思い、それが、その人をつまずかせ、信仰を失わせ、教会の交わりから追い出してしまうことを生むのです。主イエスは、「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」とおっしゃいました。また「つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」ともおっしゃいました。人をつまずかせる者の災い、不幸がこのように強調されています。それは、一人の子供を受け入れない者の災いであり不幸なのです。
神が受け入れて下さっているから
このように、相手を受け入れないことがその人をつまずかせるのであれば、逆に相手を受け入れることによってこそ、その人を信仰に導くことができる、と言うことができます。受け入れられることによってこそ、信仰は生まれ育つのです。それは人を信仰へと導くための単なるテクニックの話ではありません。聖書の教える信仰の根本と関わることです。私たちの救いは、神が独り子主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちをご自分の子として受け入れ、愛し、赦して下さっている、ということです。神が私たちを子として受け入れて下さっていることを信じて、神の子とされた者として生きることが私たちの信仰なのです。その信仰へと人を導くために最も有効な道は、私たち自身がその人を受け入れ、愛し、赦すことです。それによってこそ、神があなたをも子として受け入れて下さっている、ということを知らせることができるのです。逆に私たちがその人を受け入れなければ、その人は神に受け入れられていることを知ることができずに、つまずいてしまうのです。
つまずきとなるものを切り捨てよ
主イエスは、人をつまずかせることへの警告と共に、8節以下では、自分の片手片足あるいは片目が自分をつまずかせるなら、それを切って捨てなさいと言っておられます。ここでは自分自身がつまずいてしまうことが見つめられています。私たちは、人をつまずかせたりつまずかされるというだけではなくて、自分でつまずいてしまうこともあります。つまり、自分のような者を神が子として受け入れてくれるはずはない、と自分で勝手に思い込んでしまうのです。そういうつまずきを自分の内に引き起こす全てのものを切って捨てよ、と主イエスは言っておられます。それは、私たちが手や足や目で何か罪を犯しそうになったら、それを切り捨てよということではありません。そんなことをしていたら、手が何本あっても、足が何本あっても、目がいくつあっても足りません。そうではなくてこれは、神が自分を子として受け入れ、愛し、赦して下さっていることに疑いを抱かせようとするものが自分の内にあるなら、それがどんなものであっても躊躇なく切り捨てて、神が自分を子として受け入れ、愛し、赦して下さっていることを疑わずに信じなさい、ということなのです。神の独り子である主イエスが、自分の罪を全て背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さり、そして復活して下さったのですから、私たちはどのような罪人であっても、神に受け入れられ、愛され、赦されている子供として生きることができるのです。
子供のようになることと一人の子供を受け入れること
先ほどは、「心を入れ替えて子供のようになる」とはどういうことなのか、それは今は宿題にしておいて、18章全体を読む中で考えていきたい、と申しました。しかしその答えは今申しましたことによって既に示されている、と言うことができます。「子供のようになる」というのは、子供のように純真になることでも、子供のように謙遜になることでもありません。親に受け入れられ、愛されている、それが子供です。それは子供が立派だからでも、純真だからでも、謙遜だからでもありません。子供は子供だから、親に受け入れられ、愛されているのです。悪いことをして叱られても、赦してもらえるのです。罪人である人間の親子の間には、そのような関係が必ずしも築かれていないことがありますが、天の父なる神は、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちをご自分の子として受け入れ、愛し、罪を赦して下さっているのです。「子供のようになる」というのは、子供が親の愛を疑わずに甘えるように、神の愛を信じてよりすがることです。神が自分を子供として受け入れ、愛し、赦して下さっていることを疑わずに信じて、神の子供となって生きることが私たちの信仰なのです。そしてそのように神が自分を受け入れて下さったのだから、私たちも、一人の子供を、これらの小さな者の一人を、受け入れるのです。「子供のようになる」ことと「一人の子供を受け入れる」ことは、そのように結び合っています。神に受け入れられている子供となることによって、私たちも、一人の子供を受け入れることができるようになるのです。主イエス・キリストの教会はそのようにして築かれていく。このことが、これから読んでいく18章を理解するための鍵となるのです。
