2025年9月7日
説教題「わたしの後ろに」 牧師 藤掛順一
詩編 第34編1~23節
マタイによる福音書 第16章21~23節
受難予告を語るべき時が来た
本日の聖書箇所の冒頭、マタイ福音書16章21節に、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」とあります。主イエスは、ご自分がこれからエルサレムに行って、そこで多くの苦しみを受けて殺され、そして三日目に復活することを、前もって弟子たちに語られたのです。これを主イエスの受難予告と言います。主イエスは合計三回、受難予告を語られましたが、本日のところはその一回目、最初の受難予告です。
主イエスはここで、ご自分がエルサレムで苦しみを受けて殺され、三日目に復活することに「なっている」と言われました。これは、神がそうお決めになっている、ということを意味する言葉です。主イエスが多くの苦しみを受け、十字架にかけられて殺され、三日目に復活することは、父である神のご意志、ご計画によることなのです。主イエスはその父なる神のみ心に従って、十字架の死への道を歩んでおられるのです。しかしそのことを弟子たちにお語りになったのは、この時が初めてでした。それは、これまでは弟子たちの間に、そのことを受け止める準備ができていなかったからです。しかし「このときから」主イエスはご自分の受難について語り始めました。いよいよそれを語るべき時が来た、ということです。弟子たちの間に、主イエスの苦しみと死を受け止める準備が整ったのです。そういう意味で「このときから」という言葉はとても重要なのです。では、「このとき」とはどのような時でしょうか。主イエスは何によって、いよいよご自分の苦しみと死とを弟子たちに打ち明けるべき時が来たと判断なさったのでしょうか。
ペトロの信仰告白
「このときから」は、20節までを受けて語られています。つまり「このとき」とはどのような時かは、13〜20節を読むことによって分かるのです。13節以下には、主イエスと弟子たちがフィリポ・カイサリア地方に行った時に、主イエスが弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問い、それに対してシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた、いわゆるペトロの信仰告白が語られていました。ペトロは、主イエスこそ、約束され、待ち望まれてきた救い主メシアであり、生ける神の子、まことの神であられる方だ、という信仰を言い表したのです。そのペトロに主イエスは、「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とおっしゃいました。つまりペトロがここで語った主イエスへの信仰は、人間の思いから出たのではなくて、主イエスの天の父である神が示して下さった真理なのです。ペトロが父なる神からその真理を示され、それを信じる信仰を告白したことを主イエスは心から喜び、「あなたは幸いだ」「よかったね」とペトロを祝福なさったのです。そして主イエスはさらに「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」ともおっしゃいました。主イエスが父なる神のみ心によってこの世に来られたのは、「わたしの教会」をこの世に築くためです。つまり主イエスを信じてその救いにあずかる者の群れをご自分のもとに結集するためです。主イエスが十字架にかかって死んで、そして復活することによって、いよいよその教会がこの世に築かれていくわけですが、その教会の土台となる岩は、ペトロに与えられたこの信仰告白なのです。ペトロが弟子たちを代表して語った「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰は、父なる神が示して下さった真理であると共に、これから築かれていく主イエスの教会の土台なのです。このペトロの信仰告白を受けて、21節で「このときから」と言われているのです。弟子たちが、主イエスこそ生ける神の子、救い主であられるという信仰を父なる神によって与えられ、それを告白した、主イエスはそのことによって、いよいよ受難の予告を語るべき時が来た、と判断なさったのです。
主イエスが救い主であることと、十字架の死の結びつき
主イエスこそ生ける神の子、救い主であられるという信仰が与えられた時こそ、主イエスの受難が告げられるべき時である。それは、主イエスが神の子であり救い主であられることと、十字架につけられて死ぬこととが分かち難く結びついていることを意味しています。主イエスが救い主であられる、その救いは、十字架の苦しみと死、そして復活によって成し遂げられるのです。生ける神の子、まことの神であられる主イエスが、人間となってこの世を歩み、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことによってこそ、神の私たちのための救いのご計画が実現するのです。逆に言えば、主イエスの受難、苦しみと死は、生ける神の子でありメシア、救い主であられる主イエスが、私たちの救いのために、父なる神のみ心に従って引き受けて下さったことだったのです。主イエスの十字架の死は、人々を救おうと努力してきた主イエスが、敵対する人々に妨害されて失敗し、挫折して悲劇的な死を遂げた、ということではありません。主イエスは十字架にかかって死ぬためにこそこの世に来られたのだし、このことによってこそ、神の救いが実現したのです。そのことは、主イエスがまことの神であり、救い主であることを信じなければ理解できません。主イエスのことを神ではない一人の人間だと思っているなら、十字架の死は挫折でしかなく、悲劇的な死でしかないのです。つまり主イエスの十字架の苦しみと死が神による救いの出来事であることが本当に分かるのは、主イエスが神の子であり救い主であられるという信仰によってなのです。それゆえに、ペトロの信仰告白がなされた時こそ、受難の予告が語られ始められるべき時だったのです。
ご自分がメシアであることを話さないように、との命令
これに関連してもう一つのことを指摘しておきたいと思います。それは、本日の箇所の直前の20節に、主イエスが、ご自分がメシアであることをだれにも話さないように、弟子たちにお命じになったと語られていたことです。三週間前にこの箇所について説教をした時には、このことには触れませんでした。主イエスは何故、ご自分がメシア、救い主であることを誰にも話すなとお命じになったのでしょうか。その理由が本日の箇所から分かります。主イエスがメシア、救い主であることは、その主イエスが苦しみを受け、殺されることと分かち難く結びついているのです。つまり、主イエスの受難を抜きにして、主イエスが救い主であられることを正しく理解することはできないのです。受難を抜きにして、主イエスが救い主であることを見つめようとすると、それぞれが自分の願う勝手な救い主のイメージを主イエスに押し付ける、ということが生じます。当時の人々は、自分たちを今支配しているローマ帝国を打ち破って神の民イスラエルの独立を成し遂げてくれる救い主を期待していました。私たちは私たちで、それぞれ自分の期待する救い主像を持っています。しかしそのような人間の期待によって、主イエスがメシア、救い主であられることを正しく受け止めることはできません。主イエスがメシア、救い主であられることは、主イエスの受難と分かち難く結びついているのであって、主イエスの十字架の死と復活の後でこそ本当に分かるのです。その時こそ、それが語られ、宣べ伝えられるべき時なのです。主イエスが20節においては、「ご自分がメシアであることをだれにも話さないように」とお命じになった理由はそこにあるのです。
主イエスを諌めたペトロ
主イエスがまことの神であられ、救い主であられることと、苦しみを受け、殺されることが分かち難く結び合っていることは、主イエスに従っており、その身近にいた弟子たちにとってすらも、理解しがたい、受け入れがたいことでした。受難の予告を聞いたペトロが、すぐに主イエスをわきに連れ出して諌め始めたことがそれを示しています。彼は「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました。彼はたった今、主イエスこそ生ける神の子、メシアですという信仰を告白したのです。そのペトロが、今度は主イエスの言葉を否定して、そんなことを言うものではありません、と諌めている。正しい信仰を告白したペトロですら、主イエスの受難予告を受け入れることは困難だったのです。いやむしろ、あの信仰を告白したペトロだからこそ、このように言ったのだと言えるかもしれません。主イエスは救い主、生ける神の子であられると信じることは、普通なら、主イエスが神としての力を発揮して人々を救って下さると信じることです。そういう主イエスの勝利と栄光を信じているがゆえに、ペトロは主イエスの受難予告を受け入れることができなかったのです。「そんなことがあるはずはない」、それは主イエスが力ある神の子、救い主であることと矛盾する、と思ったのです。ですから主イエスを諌めたペトロの姿を、主イエスのみ言葉を受け入れない不信仰と理解してしまうのは正確ではありません。ペトロはむしろ信仰のゆえにこう言ったのです。ペトロはこう言いたかったのでしょう。「イエスさまあなたは、『あなたはメシア、生ける神の子です』という私の信仰告白を喜んで受け止め、『あなたは幸いだ。この岩の上にわたしの教会を建てる』と言って下さったではないですか。そのメシア、生ける神の子であるあなたが、人々から苦しみを受け、殺されるなどということはあり得ません。そういう、人々を不安に陥れるようなことは決して言ってはなりません」。「諌めた」にはそういう思いが込められているのです。
神のことを思わず、人間のことを思っている
しかしそのペトロに主イエスは、まことに厳しいことをおっしゃいました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。ペトロは主イエスから、サタンと呼ばれてしまったのです。サタンとは、悪魔、人間を神から、神の恵みから引き離そうとする者、神の救いのみ業を妨害する者です。4章に語られていた「荒れ野の誘惑」においてサタンは、主イエスが父なる神から与えられた使命を果たすことを妨げ、神が望んでおられるのとは違う道を歩ませようとしたのです。つまりサタンは「主イエスの邪魔をする者」です。ペトロもそれと同じことをしている、と主イエスはおっしゃったのです。何故ペトロは「わたしの邪魔んをする者」になってしまったのでしょうか。それは、彼が「神のことを思わず、人間のことを思っている」からです。しかしペトロは神のことを考えていないわけではありません。彼は主イエスこそメシア、神の子であるという信仰に基づいてあのように言ったのです。「人間のことしか考えていない」などと言われるのは心外だったでしょう。けれどもペトロのあの言葉はやはり、主イエスが言っておられるように、「神のことを思わず、人間のことを思っている」言葉なのです。それは、私たち人間が自分の信仰によって思っていることが即「神のことを思う」ことではないからです。主イエスが神の子、救い主であられるなら、苦しみを受け、殺されるなどということがあるはずはない、というのは、人間が自分の信仰において思っていることです。しかし神ご自身は、独り子である主イエスが、多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に復活することを通して、救いのみ業を成し遂げようとしておられるのです。人間の目から見たら、神の力や栄光と矛盾するようなことによって、神は救いを実現して下さるのです。この神のみ心をこそ見つめ、受け止め、信じることが、「神のことを思う」ことです。ところが私たちはしばしば、神とはこういう方で、救いとはこういうものであるはずだ、という自分の思い、願い、期待を信仰と錯覚してしまいます。もっと厳しい言い方をすれば、神とは、救いとは、こうであるべきだ、という自分の思いを神に押し付けてしまうのです。「神のことを思わず、人間のことを思っている」というのはそういうことです。私たちもそういうことをしばしばしているのではないでしょうか。
信仰の中心に主イエスの受難を置く
私たちがそのように、自分の思いを神に、主イエスに押し付けてしまうことの背後には、神はこういう方であって欲しい、救いとはこういうものであって欲しい、という私たちの願いや期待があります。ペトロが主イエスの受難を否定したのは、主イエスに神の子、メシアとしての力と栄光に満ちた歩みを期待していたからです。そしてこの主イエスへの期待の背後には、主イエスを信じることによって自分たちも、力と栄光ある歩みをすることができる、という期待があります。具体的には、主イエスを信じることによって、神の前により正しい、清い者となり、神の恵みによってより幸せな生活が与えられ、苦しみや不幸に遭うことなく生きることができるようになる、という期待です。そういう力と栄光ある救いの大元であるはずの主イエスが、苦しみを受け、殺されてしまっては困るのです。信仰によって、苦しみや不幸に遭うことのない幸せな人生を送ることを期待しているとしたら、主イエスの受難は私たちにとっても「とんでもないこと」なのです。
しかし神が私たちに与えようとしておられる救いは、独り子主イエスが多くの苦しみを受け、十字架につけられて殺され、そして三日目に復活することによるものです。このことによらなければ私たちの救いはありません。それは私たちには、神に背き逆らっている罪があるからです。主イエスは、私たちの罪をご自分の身に背負って、私たちの身代わりになって、苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったのです。神は、この主イエスの苦しみと死によって、私たちの罪を赦して下さいました。それが神の与えて下さる救いです。自分の願いや期待を神に押し付けるのではなく、神が主イエスによって与えて下さるこの救いのみ心を受け止め、それに従うことが信仰です。それは言い換えれば、信仰の中心に主イエスの受難を置くということです。主イエスの受難を中心とする信仰こそが、本当の信仰なのです。そしてこの本当の信仰に生きることによってこそ、様々な苦しみや不幸に負けないで生きることができるようになるのです。
「主に従う人」と「主に逆らう者」
先ほど、詩編第34編が共に朗読されました。神への信頼に生きる信仰者の歩みを歌った詩編です。それは決して、災いや苦しみ、不幸に遭わない歩みではありません。むしろ20節以下にはこうあります。「主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる」。主に従う人にはむしろ災いが重なる、信仰者が次から次へと災いに遭うようなことが起るのです。しかしその中で主は、その災いによって押しつぶされてしまわないように守り、支えて下さるのです。その守りと支えが本当に与えられるのは、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによってです。神の独り子である主イエスが、私たちのために、私たちの罪を全て背負って苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったことによる救いをわきまえる時にこそ、私たちは災い、不幸の中でもなお、神に信頼して生きることができるのです。22節には「主に逆らう者は災いに遭えば命を失い」とあります。主に逆らうとは、主なる神のみ心を受け入れるのではなく、自分の思いや願いを神に押し付けようとすることだと言えるでしょう。主イエスが自分の救いのために苦しみを受け、死んで下さったことを思わず、神を信じたら苦しみや不幸に遭わない幸せな人生を送ることができるのではと願っている者こそが実は、「主に逆らう者」、「神のことを思わず、人間のことを思っている」者なのです。そのように生きている者は、苦しみが襲ってくると、それに押しつぶされ、信仰そのものも失ってしまうのです。
私の後ろに
主イエスはペトロに、「サタン、引き下がれ」と言われました。神のみ心を思うよりも自分の思いや願いを主イエスに押し付けようとした「主に逆らう者」だったペトロは、厳しく叱られてしまったのです。この叱責の言葉は、4章10節の荒れ野の誘惑において、主イエスがサタンに対して語られた「退け、サタン」と同じ言葉です。ペトロはまさにサタンと同じように叱責されたのです。しかしペトロに語られた「サタン、引き下がれ」という言葉には、4章10節にはなかった言葉がつけ加えられています。それは「私の後ろに」という言葉です。主イエスがペトロに語った言葉は直訳すれば「退け、私の後ろに、サタンよ」となるのです。この「私の後ろに」という言葉は、4章19節にも語られています。それは主イエスがペトロたちに、「わたしについて来なさい」と声をかけて、彼らが弟子となった場面です。その「ついて来なさい」は、直訳すれば、「従いなさい、私の後ろに」です。つまりペトロは、主イエスに最初に声をかけられ、弟子となった時にも、「私の後ろに」という言葉を聞いたのです。それと同じ言葉を主イエスは、本日の箇所のペトロに対する厳しい叱責においても語られたのです。それは主イエスが、ぺトロをなお弟子として招いておられるということです。弟子とは、信仰者とは、主イエスの後ろについていく者です。その原点に立ち帰るようにと、主イエスはペトロを招いておられるのです。ペトロはかつて主イエスに招かれて、主イエスの後ろについて行く弟子となりました。その信仰の歩みの中で、「あなたはメシア、生ける神の子です」という告白をも与えられました。しかし主イエスがご自分の受難を予告された時に彼は、主イエスの後ろについて行くのではなくて、むしろ主イエスの前に立ちはだかってしまったのです。自分の思いや願いや期待を主イエスに押し付けようとする時に、私たちは、主イエスの前に立ちはだかり、邪魔をする者となってしまうのです。
信仰とは、主イエスの後ろについて行くことです。それは主イエスのあれこれの教えを実行すると言うよりも、先ず主イエスご自身のお姿をしっかり見つめること、私たちのために十字架の苦しみと死への道を歩まれた主イエスを信仰の中心に置いて歩むことです。これからあずかる聖餐はそのために備えられています。聖餐において私たちは、主イエスが私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さったことを見つめ、味わいます。聖餐にあずかる者はまさに、主イエスの後ろについて行き、主イエスのお姿を見つめつつ歩むのです。そのようにして、自分の願いや期待ではなく、主イエスによって実現した神の救いのみ業を見つめ、それを信仰の中心とするところに、主イエスの十字架の苦しみと死と復活に支えられた、災いや不幸に打ち負かされてしまうことのない歩みが与えられるのです。
