主日礼拝

命の光の中を歩く

「命の光の中を歩く」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; ダニエル書 第12章1-3節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第11章1-16節
・ 讃美歌;7、450、505

 
「その兄弟ラザロ」
 ヨハネによる福音書の第11章には、主イエスが、病のために死んでしまったラザロを甦らせるという大変よく知られ、多くの人に親しまれている物語が記されています。この物語は、「ある病人がいた」という記述で始まります。しかし、ここでは、病の癒しを伝える聖書の多くの箇所がそうであるように、匿名の病人が問題になっているのではありません。続けて、ある病人とは誰なのかが語られていきます。「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア出身で、ラザロと言った。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった」。この病人はラザロという人物であり、ベタニア出身で、マルタとマリアの兄弟であると言われています。ここに登場するマルタとマリアとは、主イエスが自分たちの村に来られた時に、真っ先に家に迎え入れた人々でした。その時のことは、ルカによる福音書が伝える、主イエスをもてなすためにせわしなく立ち働くラザロと、主の足もとに座って話を聞くマリアの物語によって良く知られています。おそらく、主イエスは、度々この姉妹の家を訪れていていたのだと思います。聖書がベタニアのことを、「マリアとその姉妹マルタの村」と言っていることに注目したいと思います。このようなことは、私たちにもよくあることだと思います。私は昨年、神学校を卒業して、この指路教会に遣わされました。神学校を卒業すると、それまで、一緒に学んでいた同級生たちが全国の教会に派遣されていきます。親しい友人たちが様々な教会に遣わされて行きました。今までに私が行ったこともなければ、聞いたこともない町の教会に赴任する人も少なくありません。そこがどのような場所なのか想像もつかないのです。しかし、たとえ一度も訪れたことのない町であっても、その町は、私の中ではっきりと認識されます。「わたしの友であるあの人が伝道している町だ」と思い出すのです。関係の深い友人との交わりが、その町を特別なものにしているのです。「マリアとその姉妹マルタの村」という記述が、主イエスと、マルタ、マリアそしてラザロの間の関係を表しているように思います。

愛の交わり
 この関係はただ仲が良い、親しいというだけのものではありません。マリアについて、「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と言われています。この後、12章に記されているのですが、主イエスが十字架に向かわれる前に、マリアは、非常に高価なナルドの香油を主イエスの足に塗り、自分の髪で足をぬぐったというのです。そして、これは、主イエスの葬りのため備えであったと記されています。ここには、マリアがどれだけ深いく主イエスを慕い、愛していたかが示されています。又、当然、主イエスの方もこの姉妹とラザロを愛していました。5節には、はっきりと、「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と記されています。ここには愛によって結ばれた関係があるのです。ここで問題となっているのは、「ある病人」ではありません。マリアとマルタの「兄弟ラザロ」であり、主イエスが愛しておられる、「マルタとその姉妹とラザロ」なのです。主イエスは人々に愛を示されました。しかし、抽象的な人間一般を愛されたのではありません。具体的に名前を呼び人格的な関係を結ばれることによって一人一人を愛されるのです。そして、今、この、兄弟ラザロ、主が愛しておられるラザロが病で死にそうなのです。マルタとマリアは、この兄弟の病を自分のことのように苦しんだでしょう。出来ることなら、その兄弟のために自分が代わりたいと思ったかもしれません。私たちは、「ある病人」に接する時、そのことに同情し気の毒に思うかもしれませんが、それは自分のことではありません。その病人が「兄弟ラザロ」と呼びかけるような、愛によって結ばれた人であり、その関係が、病がもたらす死によって、断ち切られそうになる時、病が自らのこととして迫って来るのです。

「あなたの愛しておられる者が病気なのです」
 ラザロが病気になった時、主イエスはベタニアがあるユダヤにはいませんでした。第10章40節にあるように「ヨルダン川の向こう側」にいたのです。この時、ファリサイ派や律法学者たちは、主イエスが自らを神の子と主張して神を冒涜しているばかりではなく、人々を煽動しているとして、主イエスを捕らえようとしていたのです。主イエスはそのような人々から逃れてユダヤから退いていたのです。マルタとマリアは、そのことを知っていたのでしょう。すぐに主イエスの下に人をやって「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせます。主イエスならなんとかして下さるだろうと思ったに違いありません。マルタとマリアが使いの人に言わせた言葉に注目したいと思います。ここで、先ず、「主よ」との呼びかけがなされています。この姉妹は、イエスを自らの主として受け入れているのです。更に、「あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言われます。私たちがマリアとマルタの立場ならどう言うでしょうか。おそらく「すぐに来て、私の兄弟ラザロの病気を治して下さい」と言うのではないでしょうか。しかし、この姉妹はそうは言わないのです。自分たちの兄弟であるラザロは、「主が愛しておられる者」であるということを良く知っているのです。そして、その主の愛を受け入れている故に、主が、その愛を貫いて、最善の形でこの苦しみから救い出して下さるという信頼があるのです。ですから、病を癒して下さいと言わなくても、「あなたの愛しておられる者が病気なのです」とさえ言えば良いのです。ラザロの病という直面している困難の解決を、自分たちの思いで判断して要求するのではなく、ただ、この兄弟が、主であるあなたが愛している者であるということに信頼するのです。ここに、この姉妹の信仰を見ることが出来ます。

神の栄光のため
 それにしても、ラザロの病の知らせを聞いた時の主イエスの反応を見てみると、わたしたちは驚きを禁じ得ないのではないでしょうか。わざわざ知らせに来たことを考えれば、病状が悪いことは容易に想像がつきます。しかし、5節で、「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とあるすぐ後に、6節では、「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」と記されているのです。私たちは、愛する者が病に倒れ命の危機にさらされていると聞けば、万難廃して、一刻も早く駆けつけようと思うのではないでしょうか。しかし、主イエスはそうなさらないのです。二日間何をしていたのか聖書は記していません。おそらく、それ程重大なことをしていたのではなかったのでしょう。主イエスは敢えてすぐに行くことをなさらず、その場に二日間滞在したのです。その結果が17節に記されています。主イエスが、ベタニアについた時、「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」のです。自分たちが信頼する主イエスがもう少し早く自分たちの下に来て下さればとの思いになったのではないでしょうか。たとえ困難な状況にあっても、生きていれば何とかなったかもしれない。でも死んでしまった今は、もはやどうしようもないとの思いであったかも知れません。そのように考えれば、主イエスの行動は、人々の思いを全く顧みない冷たい行動にも見えるのです。しかし、この時、主イエスは、人々とは異なることを見つめていたのです。主イエスがこのような態度を取られたことの理由を知るためには、4節に記された御言葉に注目しなくてはなりません。ラザロの病を知らされた時、主イエスは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言うのです。ここで、主イエスは、「神の子が栄光を受ける」ということを見つめているのです。主イエスは、ラザロの病を癒そうとされていたのではありません。主イエスは、ラザロが死ぬことをご存じなのです。そして、にもかかわらず、この病による死が死で終わるものではないことを示そうとしているのです。主イエスは、ラザロを甦らせることによって、神の栄光を現そうとされているのです。

最後のしるし
 このラザロの復活の物語は、ヨハネによる福音書の中で非常に重要な位置にあります。この福音書は、主イエスの地上の歩みを、主イエスがなさった7つの奇跡によって記して行きます。ヨハネは、それを「しるし」と呼んでいます。第2章を見ますと、カナという場所で結婚式があった時に、主イエスが、水をぶどう酒に変えられたことが記されていますが、その最後の所には次のようにあります。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた」。ここには、主イエスがしるしによって「神の栄光」を示されたこと、そして、その栄光を示された弟子たちに信仰が生まれたことが記されています。主イエスがしるしをなさるのは、それによって、神の栄光が示され、それに接した者が信じるようになるためなのです。主イエスは、このカナでの婚礼から始まり、時に病の人を癒したり、大勢の人を僅かなパンで養ったりと、様々なしるしを行っていかれるのです。しるしを示して行く毎に、徐々に、ご自身が神の子であることを明確に示しつつ、神様の栄光を現していかれるのです。そして、この11章に記されたしるしは主イエスが7つ目になさったものなのです。ですから、最後に行われた最大のしるしと言ってもよいのです。主イエスはこの最後のしるしによってご自身が命を与える救い主であることを明確に示しておられるのです。
そして、このラザロを甦らせることによって、7つの「しるし」の全体を締めくくり、いよいよ十字架へと進んでいかれるのです。11章の最後の部分、45節以下には、ファリサイ派の人々が、主イエスがなさったしるしを受けて、最高法院を召集したことが記されています。そして、主イエスのことについて話し合われるのです。その結果、53節に「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」とあるように、主イエスの殺害が目論まれて行くのです。 主イエスが、「もう一度、ユダヤに行こう」と言われる時、ラザロを病から癒そうとされているのではありません。死の力から解放し、甦らせることによって神の栄光を示そうとされているのです。しかし、この歩みは同時に、ご自身が人間の罪のために十字架の死へと向かう歩みでもあったのです。なぜなら、ラザロを始め、マルタやマリアを苦しめている死の力は、人間の罪によってもたらされるものだからです。聖書は、人間が神さまや隣人から離れ、愛の交わりを絶って歩んでしまう罪を、死と結びつけているのです。つまり、罪に支配されるラザロを死の力から解放することは、ご自身が、十字架によって、死をもたらす人間の罪を贖うことと一つなのです。

主イエスを理解しない弟子たち
 11節で主イエスは、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と語られます。ここで主イエスはラザロを、「わたしたちの友」と呼んでいます。「友」という言葉は、「愛する者」を意味する言葉です。死の力にとらわれているラザロは、ご自身が愛する者であると言われるのです。そして、更に、ここで、主イエスは、「わたしの友」と言うのではなく、「わたしたちの友」と語ります。ラザロは、主イエスの友であるだけでなく、主イエスに従う者たちの友でもあるというのです。ただ、主イエスとラザロの関係ではなく、主イエスに連なる弟子たちとラザロの間にある、友と呼び合う関係が見つめられているのです。そして、死んでしまった、愛するラザロを「起こしに行く」と言われるのです。
しかし、弟子たちは、主イエスがユダヤに向かおうとされることの意味が分かりませんでした。主イエスが、ユダヤに行こうと言った時、殺そうとしている人々がいる中に入っていくことに戸惑いました。又、主イエスがラザロの死を「眠っている」と言われた時、実際に眠りについて話されたものと思って勘違いし、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言ったことが記されています。主イエスの言われたことを表面的に受け取り、主イエスが何をなそうとしているのかが分からないのです。そのような弟子たちに向かって主イエスは、14節で、「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ彼のところに行こう」と語られます。もし、ラザロが病によって今にも死んでしまいそうな時に、主イエスがその場所にいて、ラザロを死から救い出したなら、主イエスは病を癒すことで人間の苦しみを取り除いてくれる人でしかなかったでしょう。しかし、死に葬られたラザロを甦らせることによって、主イエスが、私たちを支配する罪と死の力と戦われ、そこから解放して下さる方であることが示されるのです。そのことによって、弟子たちが、主イエスのことを救い主と信じるようになるというのです。
又、ここでの主イエスと弟子たちとのやり取りの中には、明らかにユダヤに行きたくないという弟子たちの思いが現れています。自分たちは主イエスに従ってきた。ところが、その主イエスを捕らえようとしている者たちがいる所に向かおうとしているのです。もしかしたら自分たちも捕らえられてしまうかもしれないとの思いがあったのかもしれません。そして、そのような弟子たちの思いが最もよく現れたのが、「さあ、彼のところに行こう」と言う力強い主イエスの言葉を聞いた時に、弟子の一人であったトマスが仲間の弟子たちに語った言葉です。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」。ここには、主イエスのことを理解しないままに、感情的になって、主イエスと共に死のうと勇ましいことを言う弟子の姿があります。しかし、これは、ユダヤに行くことによって自分たちに迫るであろう死への恐れを抱きつつ、その恐れを払拭するように、「主イエスと共に死ねるのならば本望だ」と言い聞かせているに過ぎません。

主イエスの十字架
 主イエスは、ユダヤに向かうことの意味を理解しない弟子たちの中で、愛する友、ラザロの下に向かうと共に、十字架に向かって歩まれるのです。主イエスがエルサレムで、十字架に架けられた時、「わたしたちも行って死のうではないか」と豪語していたトマスを始め弟子たちは、主イエスの下にいませんでした。お一人で、愛するラザロのために、又、ご自身に従う弟子たちのために、十字架の死を死なれるのです。十字架で自らの命を捧げることで、死の力に支配されている人々の罪を贖い、その十字架の死から復活されることで、人々を死の力から解放するためです。主イエスは、最終的に、この十字架と復活によってこそ、神様の栄光を示して下さり、死によっても断ち切られることのない神様の愛を示して下さっているのです。そのことによって、私たちを神様の救いにあずかるものとして下さっているのです。この主イエスの、誰からも理解されない中、人間が思いもつかない形で行われた御業の中にこそ神様の救いがあるのです。そして、十字架によって、人々を愛しつつ、罪と戦い、死を克服される救い主であるからこそ、愛するラザロを甦らせることによって神の栄光を現されたのです。
私たちの地上の歩みは、死に支配された歩みです。この死の力は、マルタとマリア、そしてラザロを襲った死がそうであったように、私たちの間の愛によって結ばれた関係を切り離します。私たちは、日々、この力に抵抗しようとします。病にならないように務め、病になれば、治療してくれる医者を捜します。病を癒して下さいと主イエスに祈り求めることもあるでしょう。又、死の力が迫る時に、弟子たちのように、時に恐れを抱き、時に「わたしたちも行って死のうではないか」と空元気の勇ましいことを言ってそれを受けとめようとします。しかし、そのような私たちの歩みの中に死からの救いはありません。大切なことは、そのような私たちの歩みの中で、主イエスが歩みを共にして下さっているということです。ラザロのために、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言ってユダヤに向かわれる主イエスが、愛する私たち一人一人を生かすために、十字架で命を捧げて下さっているのです。それ故、私たちは、死を越えた復活の命の希望を持って歩むことが出来るのです。

命の光の中を歩く
 私たちは、弟子たちがユダヤに行くのを恐れたように、死の力を恐れます。しかし、ユダヤに向かう弟子たちに語られた主イエスの御言葉に注目したいと思います。9節の御言葉です。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の打ちに光りがないからである」。主イエスは、「わたしは世の光である」と言われました。ここで、昼のうちに歩くとは、この世の光である主イエスを見つつ歩むことです。私たちを友と呼んで下さる主イエスにより頼んで歩むことです。逆に、夜歩くとは、主イエスの愛を見失ってしまうことです。
十字架で自らを捧げることによって、私たち一人一人を愛しておられる方の愛に信頼して、その救いに自らを委ねることです。そのような歩みをする時に、地上の歩みにおいて、どのような困難に襲われても、そこで、神さまと愛による繋がりの中に身を置かれているが故に、神様の救いの御支配に委ねて歩むことが出来るのです。
しかし、この方が、愛していて下さることを見失う時、私たちは、この世の歩みの中で、夜の闇の中を歩むように、すぐにつまずいてしまいます。私たち自身の内には、光がないからです。罪の力に打ち勝ち闇に対抗して、救いに至る術を自ら持っていないからです。
ただ、私たち一人一人を友と呼んで下さる主イエスが救いを成し遂げて下さっていることを受け入れて、そのことに信頼して歩む時に私たちは、命の光りの中を歩んでいるのです。

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