主日礼拝

ちっぽけな私を用いてくださる方

説教「ちっぽけな私を用いてくださる方」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第34編1-11節
新約聖書 マタイによる福音書第14章13-21節
音声プレーヤー


深い憐れみによるイエスの奇跡
 今日は、イエス・キリストがなさった一つの奇跡の話を皆さんとご一緒に味わいたいと思います。先ほど朗読されたマタイによる福音書14章13節以下に語られている話ですが、最初の13節に、イエスと弟子たちの一行が舟に乗って人里離れた所に退いた、とあります。イエスは人々に神による救いの到来を告げ、そのしるしとして病気を癒したりという奇跡を行っていました。なのでいろいろな苦しみや病気をかかえていた人々が、救いを求めてイエスのもとに押し寄せて来ていたのです。イエスはこの時、その人々から一旦離れて、弟子たちだけと共に、静かに神さまと向き合う時を持とうとして、人里離れた所に退こうとしたのでしょう。しかし多くの群衆が後を追って来ました。舟に乗ってガリラヤの湖の上を移動して行くイエスの一行を、人々は岸辺を歩いて追いかけて来たのです。その様子を見たイエスは「舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」と14節にあります。この「深く憐れみ」という言葉は、自分自身の内臓に痛みを覚えるような深い同情、憐れみを意味する言葉で、「はらわたがよじれるような憐れみ」と訳されたりします。イエス・キリストだけに使われる特別な言葉です。イエスはそういう深い憐れみによって、舟を降りて群衆の中に再び入って行き、病気で苦しんでいる人々を癒す奇跡を行われたのです。しかし今日ご一緒に味わいたいのは、その後に語られていることです。

五つのパンと二匹の魚による奇跡
 そのうちに夕暮れになりました。そこは人里離れた所でしたから、食べ物を手にいれることができる店など周りにありません。あまり遅くならないうちに群衆を解散させて、近くの村へ食べ物を買いに行けるようにしなければ、と弟子たちは心配しました。しかしイエスは弟子たちに、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言ったのです。しかしそこにいたのは21節によれば「女と子供を別にして、男が五千人ほど」でした。そんなに多くの人々に行き渡る食べ物を弟子たちが持っているはずはありません。弟子たちは「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と言いました。これが彼らの持っていた食料の全てでした。しかしイエスがその五つのパンと二匹の魚を手に取って神に祈り、そして分けると、五千人以上の人々がみんな満腹し、さらに十二の籠いっぱいになるほどの余りが出たのです。これが、今日皆さんとご一緒に味わいたい、イエスのなさった奇跡です。

分かち合うことも大切だが
 この出来事をこんなふうに説明しようとする人がいます。群衆たちは本当はそれぞれ弁当を持ってきていた。しかし自分だけそれを食べるのは気が引けるし、持っていない人に分けてやったら自分の分が足りなくなるので、みんなそれを隠していた。しかしイエスと弟子たちが、自分たちの持っている僅かな食料を全て出して分け始めたのを見て、他の人々も自分の持っていた食料を分け合うようになった。その結果、みんなが満腹することができたし、余りまで出たのだ、という説明です。このような読み方は、「それぞれが持っているものは僅かでも、みんなで分け合えば、みんなが幸せになれる」という教訓を語る話としては面白いし、今もこの世界に現実としてある貧困や格差の問題とどう向き合うべきかの示唆を与える話だとも言えるでしょう。だからこういう読み方にも意味はあります。しかし聖書がここで語ろうとしているのは、「持っているものを分かち合うことの大切さ」ではありません。聖書はこの出来事を、イエスが行った奇跡として語っているのです。その奇跡は、先程も申しました、イエスの人々への深い憐れみによってなされたことです。苦しみ悲しみをかかえて集って来た人々が、今や空腹をも覚えている。その人々をイエスは、自分自身の内に痛みを覚えるほどに深く憐れみ、彼らの空腹を満たす奇跡を行われたのです。そういう意味で、病気の人々を癒した奇跡と、五千人以上の人々を満腹にしたこの奇跡は同じ思いでなされています。苦しんでいる者、悲しんでいる者、弱っている者へのイエス・キリストの「はらわたがよじれるような憐れみ」によってこれらの奇跡は行われたのです。このイエス・キリストの深い憐れみによるみ業にこそ私たちの救いがあるのだ、と聖書は語っています。人間どうしが分かち合い、助け合うことは勿論大切だけれども、それだけで苦しみや悲しみが解消されるわけではありません。私たちの本当の救いは、神さまがこの世に遣わして下さった独り子であるイエス・キリストの、自らのはらわたに痛みを覚えるような憐れみによるみ業によってこそ与えられるのです。

弟子たちの持っているものを用いて
 しかし同じ憐れみによってなされたものではありますが、五つのパンと二匹の魚による奇跡には、病人を癒した奇跡とは違う点があります。ここでイエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と命じたのです。弟子たちはそんな食料を持っていないし、それだけのものを買うお金もないことを、イエスはよく知っていたはずです。イエスは何のためにこのように言ったのでしょうか。弟子たちはそれに対して、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と答えました。この弟子たちの言葉は、以前の口語訳聖書では「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」となっていました。「ありません」よりも「持っていません」の方が原文に忠実な訳です。つまり弟子たちは、ここにはどれだけ食料があります、と報告したのではなくて、「私たちはこれしか持っていません。彼らみんなに食べる物を与えることなんて無理です。できません」と言ったのです。弟子たちからこの言葉を引き出すことが、イエスのあの命令の目的だったと言えるでしょう。自分たちが持っているもの、能力、力はほんのちっぽけなものでしかないから、そんなことはとてもできない、無理だ、ということを弟子たちがはっきりと自覚するために、イエスはあのように言ったのです。
 弟子たちのその返事を確認した上でイエスは、「それをここに持って来なさい」と言いました。そして群衆を座らせて、五つのパンと二匹の魚を取り上げ、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」て、そのパンを裂いて弟子たちに渡したのです。弟子たちがそれを人々に配っていくと、そのパンはいつまでもなくならず、ついに全ての人々が満腹になり、余りまで出たのです。弟子たちが持っていたほんのちっぽけな、こんなものではどうにもならない、何の役にも立たない、と思えるものを用いて、イエスは多くの人々を養い、その空腹を満たして下さった、それがここに語られている奇跡なのです。

賛美と感謝の祈りの中で
 この奇跡がどのようにしてなされたのかをさらに見ていきましょう。イエスは、五つのパンと二匹の魚を取って、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」たとあります。「賛美の祈りを唱え」と訳されている言葉は普通は「祝福する」と訳されます。その言葉のもともとの意味は、「良い言葉を語る」です。神さまが人間に対して良い言葉を語って下さる、それが「祝福する」ということです。この場合にはイエスが神に向かって語っているのですから、「祝福する」では相応しくない、人間が神に向って語る良い言葉、それは「賛美し、感謝する」祈りの言葉でしょう。そういうわけでここは「賛美の祈りを唱え」と訳されているのです。つまりイエスはここで、弟子たちの持っていた五つのパンと二匹の魚を取って、天を仰いで父なる神に向かって「良い言葉」を語った。それは、神を賛美し、ここに与えられている五つのパンと二匹の魚を感謝する祈りの言葉です。つまりイエスはここで、五つのパンと二匹の魚を取り上げて、父なる神に、賛美と感謝の祈りをしたのです。それは私たちが食事の前に、ここに備えられた食事を感謝します、と祈って神さまを賛美するのと基本的に同じことです。イエスは、弟子たちの持っていた五つのパンと二匹の魚を喜んで、神に感謝して、人々に分け与えたのです。つまりイエスはここで、「神さまここには五つのパンと二匹の魚しかありません。これでは五千人以上いる人々を養うことができません。どうか助けてください」と祈ったのではないし、パンと魚に向って「増えろ、増えろ」と呪文を唱えたのでもありません。父なる神に感謝して、神を賛美して祈ったのです。イエスが喜びをもって神に感謝し、賛美する祈りの言葉が、弟子たちと群衆たちの上に響き渡ったのです。その喜ばしい感謝と賛美の祈りの中で裂かれ、分け与えられたパンと魚が、五千人を超える人々を満腹にしたのです。
 この奇跡の話が私たちに語りかけている最も大事なことはこのことだと思います。つまりこの話が語ろうとしていることの中心は、イエス・キリストは五つのパンで五千人を養うという奇跡を行う力を持っていたのだ、ということではないし、イエスが深い憐れみによって空腹の人たちを満腹にした、ということですらなくて、イエスは、弟子たちの持っていた五つのパンと二匹の魚という、五千人を超える人々の前では何の役にも立たないとしか思えないほんのちっぽけなものを用いて、皆を満腹にした、そしてその奇跡は、弟子たちの持っていたほんのちっぽけなものを、イエスが神への感謝と賛美の祈りの中で用いてくださったことによって起った、ということなのです。私たちはこの話から、そのことをこそ見つめ、味わいたいのです。

自分の持っているものを喜べない私たち
 皆さんは、自分の持っているもの、自分の生まれつきの能力、あるいは自分の育った家庭環境や、今置かれている状況などを、喜び、感謝することが出来ているでしょうか。今は以前にも増して、能力とかスキルが求められる時代です。自分には何が出来て、それによってどんな貢献をすることができる、ということをプレゼンにおいて示すことが求められています。それができなければ競争から脱落してしまう、という厳しい現実があります。そのような中で、自分の持っているもの、できること、能力を喜び感謝することはますます困難になっています。むしろ世の中で求められ、期待されていることの前で、自分は全く力がない、役に立たない、自分など必要とされていない、と思わされてしまうことの方が多いのではないでしょうか。またそのような中で私たちはどうしても、自分の持っているものや能力を、人の持っているものや能力と見比べてしまいます。人と比較して自分の方が上だと思えれば、優越感を感じて安心するけれども、逆に人に比べて、自分は何とちっぽけなものしか持っていないのだろうか、それに比べてあの人はなんと豊かな能力と、それを生かすことができる環境を与えられているのだろうか、と劣等感、ひがみを感じてしまうことも多いのです。そしてたとえ人よりも上だと今は思えても、競争の激しいこの社会において、いつその立場が逆転するかもしれない、追いつかれ、追い抜かれてしまうかもしれない、という不安はいつも付き纏います。そのような中で私たちはいつも、「私たちはパン五つと魚二匹しか持っていません」と嘆いてばかりいます。自分に与えられているもの、自分の能力や環境を喜び感謝することができない、自分が自分として生きていることを喜ぶことがなかなかできないのです。

ちっぽけな私を用いて下さる方
 そのような私たちに、イエス・キリストは、「あなたの持っているものをここに持って来なさい」と語りかけておられます。そして、私たちの持っているちっぽけな、何の役にも立たないと思われるものを取り上げて、神への賛美と感謝と喜びの祈りの中でそれを用いて下さるのです。するとそこに、驚くべき奇跡が起こります。何の役にも立たないと思っていた、ちっぽけな私たちが、イエス・キリストによって用いられる時に、そこには思いもよらない神の恵みのみ業が行われていくのです。
 さらに弟子たちは、イエスによって、その恵みのみ業のために用いられました。イエスは神に祈って裂いたパンを、弟子たちにお渡しになったのです。つまり弟子たちに、それを群衆に配って回ることをお命じになったのです。五つのパンと二匹の魚で五千人を超える人々を養ったイエスの奇跡は、弟子たちの手を通して行われました。また、みんなが満腹した後、残ったパン屑を集めると、十二の籠いっぱいになったとあります。それは、十二人の弟子たちがそれぞれ籠を持ってパン屑を集めて回ったということでしょう。その籠全てがいっぱいになったのです。弟子たち一人一人が、このことを通して、イエス・キリストが、その深い憐れみによって、自分たちの持っているほんの僅かな、何の役にも立たないちっぽけなものを用いて人々の空腹を満たして下さった、その救いのみ業を目撃しただけでなく、そのイエスの救いのみ業のためにちっぽけな自分が用いられた、ということを体験したのです。

栄光ある歩みではなく
 イエスのこの奇跡は、この福音書の第4章に語られていることと関係があります。そこには、イエスが活動を始める前に、荒れ野で悪魔の誘惑を受けたことが語られています。その悪魔の誘惑の中に、お前が神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらよいではないか、というのがありました。それは、石をパンに変えて自分の空腹を満たしたらよい、ということではありません。悪魔は、貧しくて空腹に苦しんでいる人がこの世には沢山いるのだから、その人々に、石をパンにして食べさせて満腹にしてやったらよい、そうすればみんなお前に従うようになるぞ、と言ったのです。イエスが本日の箇所でなさった奇跡はそれと似たところがあります。空腹の人々に、神の子としての力によってパンを与えたのです。石をパンにしたのではありませんが、ほんの少しのパンで多くの人々の空腹を満たしたのです。奇跡の力で人々を満腹にする、という点では、悪魔が言ったのと同じことをしていると言えます。しかしそこには決定的な違いがあります。それは、イエスは弟子たちの持っているものを用いてこの奇跡をなさったということです。ご自分の力でそこらの石をどんどんパンにして人々に与えたのではなくて、まず弟子たちに、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と命じ、「私たちはパン五つと魚二匹しか持っていません」という答えを引き出して、その弟子たちの持っているほんの僅かなものによって人々を満腹にしたのです。回りくどいやり方だとも言えます。しかしそこに、神の子であるイエスの思いが表れているのです。イエスは、人間の持っているもの、人間の力、いや力などとは言えない、何の役にも立たない人間の弱さを用いて、神の救いのみ業を行なおうとしているのです。イエスが神の子としての力を発揮して、そこらの石をかたっぱしからパンに変えるというのは、まことにわかりやすく手っ取り早い、また栄光ある歩みです。悪魔の誘惑はどれも、イエスに、神の子だったら神の子らしく、栄光と力に満ちた道を歩めということでした。イエスはその誘惑を退けて、ご自分が栄光を受けるのではなくて、ただ神にのみ栄光を帰し、神のみ心に従う道を選び取ったのです。本日のこの奇跡も、その歩みの中でなされています。イエスご自身が石をパンに変えることによってではなく、弟子たちの持っているちっぽけなもの、何の役にも立たないと思える人間の弱さを用いて、深い憐れみによる救いのみ業を行われたのです。イエス・キリストのそのような歩みの行きつく先は、十字架の苦しみと死でした。イエスは捕えられ、死刑に判決を受けて十字架につけられて殺されたのです。それは人間の目から見れば、弱さ、敗北、失敗でしかありません。イエスの生涯は、その教えもみ業も、結局失敗に終わり、この世の現実を変える力はなかった、と思えるのです。つまりイエスご自身も、五千人の人々の前での五つのパンと二匹の魚だったのです。しかし、人間の目から見たら何の役にも立たない弱さと敗北と失敗に見えるイエスの十字架の死において、神の大いなる救いのみ業が成し遂げられました。私たちは、神さまに対しても隣人に対しても、愛するよりも傷つけてばかりいる罪人です。その罪を私たちは自分の力で償って帳消しにすることはできません。神の独り子であるイエス・キリストが、私たちの罪を背負って、私たちに代って十字架にかかって死んで下さったことによってこそ、私たちは罪を赦され、神とも隣人とも、良い関係をもって新しく生きることができるのです。イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったことによってこそ、私たちの救いは実現したのです。もしもイエスが、悪魔の誘惑に乗って、石をパンに変えるという栄光の道を歩んだなら、イエスの十字架の死はなかったでしょう。その場合には、私たちは、栄光に輝くイエスの姿をはるか遠くに仰ぎ見ながら、自分の弱さと罪の中でのたうち回り続けるしかなかったでしょう。しかし幸いなことに、イエスは悪魔の誘惑に打ち勝って下さいました。そして、石をパンに変えるのではなく、弟子たちの持っている五つのパンと二匹の魚を用いて恵みのみ業を行って下さったのです。五千人を超える人々の前での五つのパンと二匹の魚は、この世の現実の前での私たちの弱さ、無力さの象徴です。しかしイエス・キリストはその私たちの弱さ、無力さを受け止めて、父なる神に感謝と賛美の祈りをささげ、喜んでそれを用いて下さるのです。そこに、大いなる恵みのみ業が、私たちの思いを超える奇跡が起こるのです。弟子たちが体験したそのことを、イエス・キリストを信じて教会に集っている信仰者たちも体験しているのです。

それをここに持って来なさい
 ただこのことを体験するためには先ず、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」というイエスの言葉を聞かなければなりません。つまりイエス・キリストの弟子となり、主であるイエスが私たちに求めておられることを受け止めることが必要なのです。イエスのこの命令を受けた弟子たちは大いにとまどい、困りました。そして、「私たちはパン五つと魚二匹しか持っていません」と言いました。私たちも主イエスの弟子となって歩もうとする時、自分が五つのパンと二匹の魚しか持っていない、何の役にも立たないちっぽけなものであることを思い知らされます。けれどもその時そこに、イエス・キリストのもう一つの言葉が響きます。「それをここに持って来なさい」。何の役にも立たない私たちの弱さ、何も出来ないちっぽけな自分を、神の子であるイエスが、私に差し出しなさいとおっしゃるのです。私があなたを、あなたの弱さを用いて、救いの業を行うとおっしゃるのです。この言葉に従って私たちは、自分自身を、自分のありのままの弱さを、貧しさを、主イエスに差し出すのです。それをせずに、いやこんなちっぽけな私など何の役にも立ちません、もうちょっと立派になってから、と言って自分を主イエスに差し出すのを拒むなら、私たちは、弟子たちに与えられたこのすばらしい体験をすることはできません。私たち自身は、私たちの持っているものは、誰でも皆、五つのパンと二匹の魚です。五つのパンを頑張って倍の十個にしてみたところで、五千人を超える人々の前で無力であることには変わりはありません。しかし私たちが、その無力でちっぽけな自分を、イエス・キリストに差し出し、委ね、用いていただくならば、イエスはその私たちを喜んで受け止め、神に感謝し、賛美し、私たちを用いて救いのみ業を行って下さるのです。「あなたの持っているものを、あなた自身を、ここに、私のもとに持って来なさい」と主イエスは今私たちに呼びかけておられます。その語りかけに応えて、自分を主イエスに委ねるなら、何の力もないちっぽけな自分が、神の子イエスの恵みによって豊かに用いられていくことを、私たちは体験することができるのです。

関連記事

TOP