説 教 「イエスにつまずく」牧師 藤掛順一
旧 約 イザヤ書第8章5-15節
新 約 マタイによる福音書第13章53-58節
故郷に帰った主イエス
礼拝においてマタイによる福音書を読み進めておりまして、13章の終わりのところに来ました。13章のこれまでのところには、主イエスの語られたたとえ話が集められていました。本日の箇所からは新しい部分が始まります。章が変わるのはこの後のところですが、章や節は後の人々が便宜的につけたもので、マタイ福音書を書いた人が章を決めたわけではありません。内容的には、本日のところから新しい章に入ってもよいようなものです。
主イエスが、「そこを去り、故郷にお帰りになった」、と53節から54節にかけて語られています。「そこ」というのは、主イエスがガリラヤにおいて伝道の拠点としておられたカファルナウムという町だと思われます。13章36節に、主イエスが「家にお入りになった」とありますが、それはおそらく、カファルナウムにあった弟子のペトロの家でしょう。そこを根拠地として、ガリラヤ地方のあちこちでみ言葉を語り、癒しのみ業をしておられたのです。その主イエスが、故郷にお帰りになった、その故郷とはナザレという町です。聖書の後ろの付録の地図を見ると、カファルナウムはガリラヤ湖の北、ナザレは南西にあります。主イエスはここで育たれたので、「ナザレのイエス」と呼ばれていたのです。その主イエスが故郷であるナザレに帰り、会堂で教えておられたと54節にあります。どの町にも、ユダヤ人たちが集まって礼拝をし、律法を学ぶ会堂がありました。主イエスは、ガリラヤ湖の湖畔や、丘のような所で、つまり野外で大勢の群衆を相手に教えを語られましたが、また同時にあちこちの会堂でも、律法の教師として語っておられたのです。このたびは故郷ナザレの会堂で、同じことをなさったわけです。
主イエスの教えに驚いた人々
主イエスがこの時何を語られたのかは、ここには記されていません。しかし他のところに語られている主イエスの教えから、それを推察することはできます。例えば5~7章のあの「山上の説教」です。そこにおいて主イエスは、「昔の人々に与えられた律法にはこれこれと命じられている、しかし私は言っておく」という形で、旧約聖書の、律法の教えをさらに深める、あるいはその本当の意味を掘り下げるような教えをお語りになりました。故郷ナザレの会堂でも、同じようなことをお語りになったのでしょう。そして山上の説教の終わりのところ、7章28、29節には、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とあります。主イエスの教えを聞いた人々は非常に驚いたのです。それと同じことがこのナザレでも起こりました。54節に「人々は驚いて」とあります。この「驚いて」は、7章28節の「非常に驚いた」と同じ言葉です。故郷ナザレの人々も、主イエスの教えに非常に驚いたのです。彼らは何に驚いたのか、それは7章29節にあったように、主イエスが、「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」です。人々は、ラビと呼ばれている律法の教師たちの話は聞き慣れていました。彼らの教えは、律法にはこう定められているから、それを守るためにこうしなさい、とか、このことには律法のこの掟があてはまるからこれに従いなさい、というものです。それはすべて律法の権威に基づく教えです。ところが、主イエスは、「律法にはこうあるが、しかし私は言っておく」とおっしゃいました。それは主イエスご自分が律法の本当の意味を、あるいは正しい解釈を示す権威を持っている、ということを前提とした教えです。主イエスがそのように、自らが権威を持っている者として語られたことに、人々はびっくり仰天したのです。故郷ナザレの人々が驚いたのも、そのことだったのでしょう。
イエスにつまずいたナザレの人々
主イエス・キリストとその教えに対して驚きを覚えること、そこに、主イエスを信じる信仰への第一歩があると言うことができます。しかし、この驚きは、直ちに信仰に繋がるわけではありません。主イエスに対して驚いて、さらに主イエスのことを知りたいと思い、主イエスのもとに集ってそのみ言葉を聞くようになり、そしてついに信じて従っていくに至る、ということが起こる場合もありますけれども、必ずしもそうなるとは限らない。驚きが、拒絶を生むこともあるのです。ナザレの人々に起ったのはそのことでした。57節に、ナザレの人々は「イエスにつまずいた」とあります。彼らの驚きは信仰に至るのではなく、つまずきを、主イエスへの拒絶を生んだのです。
よく知っているがゆえにつまずいた
彼らはなぜ主イエスにつまずいたのでしょうか。主イエスに出会って、つまずく人、信仰に至ることができずに去っていく人は沢山います。その理由は様々です。しかしこの場合のナザレの人々は、彼らが主イエスの故郷の人々であったがゆえにつまずいたのです。彼らの思いが54~56節に語られています。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」。これがナザレの人々の思いであり、彼らが主イエスにつまずいた、つまり主イエスを救い主として受け入れることができず、信じることができなかった理由です。今読んだ彼らの言葉の中に、二度出て来た言葉があります。「どこから得たのだろう」という言葉です。原文はもっと単純で、「どこから」という言葉です。彼らは、主イエスの権威ある言葉と、知恵と、奇跡を行う力を見て、「こんな権威や力はどこから得られたのか」という疑問を抱いたのです。それは彼らが、主イエスのことを昔からよく知っていたからです。55、6節の「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」という言葉がそれを語っています。このイエスという男は、大工だったヨセフの子で、母はマリアであり、長男である彼の下には弟たち、妹たちもいて、みんなこの町に住んでいる、そういうふうに、主イエスの家庭のこと、家族たちのことを彼らはよく知っているのです。ヨセフのことがここに出てこないのは、彼は既に亡くなっていたからだろうと思われます。とにかく、主イエスがヨセフとマリアの家庭で育ち、成長していった様子を彼らは見てきたのです。主イエスの小さい頃からのことを彼らはつぶさに知っているのです。そのイエスが、30歳ぐらいになったある時突然家を出てあちこちを放浪して回るようになった。どうも神の教えを説いたり、奇跡を行ったりしているらしい。そのイエスが帰ってきて町の会堂で、これまで聞いたことのない教えを語ったのです。彼はいったいどこであんな知恵をつけてきたのか、と彼らが思ったとしても不思議はありません。小さい頃からのイエスのことをよく知っているがゆえに、その主イエスが神の子、救い主としてお語りなっていることを受け入れることができないのです。それによって彼らは主イエスにつまずいたのです。
預言者は故郷では敬われない
主イエスはそのような故郷の人々を見て、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」とおっしゃいました。そして彼らがそのように不信仰だったので、ナザレの町ではあまり奇跡をなさらなかった、と58節にあります。
この話はしばしば、「預言者はその故郷や家族の間ではなかなか敬われず、受け入れられない」という現実を示すエピソードとして読まれます。預言者というのは、神のみ言葉を語る人です。伝道する人と言ってもよいでしょう。その代表は牧師です。ですからこの話は、自分の育った教会、出身教会で牧師をするのはなかなか難しい、ということを語る時に持ち出されます。教会の人々が、自分の小さい頃からのことをよく知っている中では、説教や牧会はしにくい。「あの洟垂れ小僧だったなんとかちゃんがまあ立派になって」なんて思われている中ではやりにくいのです。そんな時に、イエス様だってそうだったんだ、ということでこの話が持ち出されます。また、み言葉を伝え、伝道する使命を与えられているのは牧師だけではありませんから、全ての教会員がこの「預言者」に当てはまります。私たちが伝道をしようとする時に、家族に伝道することが一番の近道のようでいて実は最も難しい、ということを痛感させられます。自分のことを、その普段の生活を、他人には見せていない欠点や癖などを全て知っている家族の中では、神のみ言葉を語り伝えることはまことに難しいと感じるのです。そういう時に私たちはこの話を思い出して、イエス様もそうだったんだ、と自分を慰めたりする、そんなふうにこの話を読むこともあるでしょう。けれどもこの話をそのように読むことは間違っています。この話は、身近な人への伝道がなかなかうまくいかない時に、「イエス様もそうだったんだ」と慰めを得るために語られているのではありません。
自分の知識や常識の範囲内で知ろうとするなら
ナザレの人々の言っていることをさらに見つめていきたいと思います。彼らは、自分たちはこのイエスをよく知っている、と言っています。どういう家で育ち、母親は誰で、兄弟姉妹はこういう人たちだということを知っているのです。そのよく知っているイエスが、神として、救い主としての権威や力をもって語っても、受け入れることができないのです。しかし彼らが主イエスについてよく知っていると思っていることは全て、人間としての、目に見える部分におけることです。自分たちと共通している、一人のナザレ人としてのイエスを彼らは知っているのであり、その自分たちが知っていることの範囲内で、イエスのことを捉えようとしているのです。しかしイエス・キリストは、彼らの思いをはるかに超えた方でした。一人の人間であられると同時に、まことの神であられる方、神の生みたもうた独り子であり、神の全能の力と、み言葉を語る権威とを授けられてこの世に遣わされた方だったのです。主イエスを信じるというのは、このことを信じることです。主イエスに、私たちの人間としての常識や目に見える姿を超えたまことの神としての権威と力があることを認めることです。そのことは、主イエスを、自分の知っている知識や常識の範囲内で捉えようとしていたのではできません。そこにはつまずきしか起こらないのです。そのつまずきは、ナザレの人だけに起こることではありません。主イエスの故郷であるナザレの人々は、他の町の人々よりも、主イエスの人間としての目に見える部分についてより多くを知っていたので、その知識に捕えられて、人間を超えた主イエスの本質を受け止めることができなかったのです。しかし同じことは私たちにも起こります。ナザレの人々と私たちの違いは、主イエスについての人間的な知識が多いか少ないかであって、そういう人間としての知識、目に見える部分だけで主イエスのことを捉えようとする時には、私たちも同じようにつまずくしかないのです。主イエスの権威や力を受け止めて主イエスを信じることはできないのです。そういう意味でこれは、決してナザレの人々のみの話ではありません。私たちも、このナザレの人々と同じように、主イエスにつまずくのです。
ホームグラウンドを出なければ
このことは別の角度からこういうふうに言うこともできます。主イエスは故郷であるナザレに帰り、故郷の人々と対面されたわけですが、このナザレは、主イエスにとってだけでなく、その人々にとっても故郷です。自分の生まれ育った所、つまり隅々までよく知っている自分のホームグラウンドです。彼らは、自分のホームグラウンドにイエスを迎えて、イエスのことを、そのホームグラウンドに属している者として理解しようとしたのです。自分が隅々までよく知っているホームグラウンドというのは、自分の手の内にある所です。そこでは自分が主人であることができるのです。ナザレの人々は、自分の手の内あり、自分が主人であることのできる所で、主イエスのことを捉え、理解しようとしたのです。それゆえに彼らはつまずいたのです。主イエスのことが分からなかったのです。同じことを私たちもいつもしているのではないでしょうか。私たちはとかく、自分のホームグラウンドで、自分がよく分かっており、自分の手の内にある、自分が主人であることができる、そういう自分の土俵の上で主イエスを捉えよう、理解しようとします。その時私たちはこのナザレの人々と同じように、主イエスにつまずくのです。つまずかないで主イエスを信じるためには、つまり主イエスこそ神の子であり、救い主であられることがわかるためには、私たちは自分のホームグラウンドを出なければなりません。自分が知っている、人間の常識の世界、自分の手の内にあり、自分が主人であることができる世界から外に出て、神が示して下さる新しい世界、神のご支配の下にある未知の世界へと旅立たなければ、主イエスを信じてその救いの恵みにあずかることはできないのです。
未知の世界へと旅立つことによって
聖書の教える信仰は、神のみ言葉を聞いて未知の世界へと旅立つことです。「信仰の父」と呼ばれるアブラハムが、そのようにして故郷を離れ、行く先を知らずに旅立ったことから、イスラエルの民の歴史が始まりました。新約聖書にも、私たちの国籍は天にある、その天の故郷に向けて旅をしていくのだ、という信仰が語られています。いずれにしても私たちは、自分が慣れ親しんでいる世界から旅立つのです。自分が安心していることができる故郷を離れるのです。そこに、神を信じ、主イエス・キリストに従っていく信仰が生まれるのです。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」という主イエスのお言葉は、「自分のことをよく知られている人たちの間では伝道はしにくいものだ」という私たちの言い訳のために語られたのではありません。この言葉はむしろ、私たちが、自分の故郷、家族の間、つまり自分の手の内にある世界から一歩も外に出ようとしないでいる間は、預言者を敬うことはできない、神のみ言葉を本当に聞き、その恵みを受けることはできない、ということを語っているのです。
預言者が敬われないのは故郷でのみ
私は以前から、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」というのはおかしな言い方だと思っていました。どうして、「預言者は自分の故郷や家族の間では敬われないものだ」と言わないのだろう、その方がこの場面に合っているのに、と思ったのです。このみ言葉を素直に読めば、預言者が敬われないのは故郷や家族の間だけで、その他の所ではどこででも敬われる、敬われないところはない、ということになります。けれども、主イエスは故郷であるナザレの町以外の所ではどこででも敬われたのかというと、決してそうではありません。主イエスは最後にはエルサレムで、十字架につけられて殺されてしまうのです。だから、「敬われないのは故郷だけ」というのは当っていないのです。しかし、このみ言葉を、先ほどのように読むならば、その意味がわかってきます。「故郷では」というのは、私たちが、自分の故郷で、自分の手の内で、自分が主人であろうとしているところで、主イエスを捉えようとしている間は、ということです。私たちがそのようにしている所では、預言者は、神のみ言葉は、主イエスは、敬われないのです。しかし私たちがその故郷を出て旅立つなら、自分のホームグラウンドを出て、神が示して下さる新しい世界を求め、神が私たちのためにして下さる恵みのみ業に心を開かれていくなら、私たちはそこで、神のみ言葉による恵みを豊かに示されていくのです。その恵みは、神の独り子イエス・キリストが、私たちのために、私たちの罪をすべて背負って、十字架にかかって死んで下さったという、まさに人間の常識をはるかに超えた、とうてい考えられないような恵みです。自分の手の内にある世界、人間の思いや常識が支配しているところに留まっている間は、この恵みはわかりません。しかしそこから出て、自分の知らない、人間の思いを超えた神の恵みに心開かれていく時に、私たちはこのとてつもない恵みを示され、そして神をほめたたえる者となるのです。預言者が敬われないのは故郷、家族の間だけです。それは、私たちが、自分の故郷、自分が主人として生きることができる自分の世界の中にいる間は、主イエスによる神の恵みはわからない、敬うことができずにつまずいていくしかない、ということです。しかし預言者は、その故郷、家族の間以外のところでは必ず敬われる。それは、私たちが自分のホームグラウンドから外に出れば、どんな者であっても、どこにいようとも、主イエス・キリストにおける神の驚くべき恵みに触れて、主イエスを敬う者となることができる、ということを語っているのです。
信仰の旅立ちへの促し
つまりこのみ言葉には、私たちに対する主イエスの大いなる恵みの約束が示されているのです。私たちは、必ず、主イエスを敬い、信じ、その救いにあずかることができるのです。どんな者であってもです。どんな罪を犯していても、どんな大きな悲しみの中にあっても、にっちもさっちもいかない困難に直面していてもです。そういう人間のあらゆる罪や悲しみや困難を超えて、神は主イエス・キリストによる恵みを、罪の赦しと慰めを、私たちに与えて下さるのです。ただその恵みを受けるためには、私たちは、自分のホームグラウンドから旅立たなければなりません。自分が知っている、自分の手の内にあり、自分が主人であることができる世界に留まっているうちは、罪の赦しも、悲しみへの慰めも、困難を乗り越える力も、与えられないのです。そこでは私たちは主イエスにつまずくしかないのです。自分の故郷を離れて旅立つことは不安なことです。慣れ親しんだ、よく分かっている世界、自分の知らないことや分からないことは起こらない世界の中にいる方が、安心できるのです。しかしそこでは、私たちの知っていることしか起こりません。私たちの知っていることは、人間の限界の中にあります。それを超えるようなことはそこでは何一つ起こらず、与えられないのです。ナザレの人々が不信仰だったので、主イエスはそこではあまり奇跡をなさらなかった、とあるのはそのことを語っています。自分の知っている世界の中に閉じこもって、そこから出ようとしないという不信仰の中では、主イエスの、人間を超えた恵みの力は発揮されず、私たちがそれにあずかることも起こらないのです。しかし私たちが、自分の知っている世界から出て、神が語って下さる恵みのみ言葉に耳を傾け、神の恵みのご支配の下にある新しい世界へと旅立っていく時、そこでは、主イエスが、すばらしい力を発揮して、奇跡を行って下さるのです。人間の知識や常識を超えた恵みを与えて下さるのです。そのような信仰の旅立ちへの促しを、主イエスはここで私たちに与えて下さっているのです。