主日礼拝

良い麦も毒麦も

説教「良い麦も毒麦も」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 創世記第18章16-33節
新約聖書 マタイによる福音書第13章24-30節
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天の国のたとえ
 マタイによる福音書第13章には、主イエス・キリストがお語りになったたとえ話が集められています。そのいくつかにおいて題材とされているのは、種が蒔かれ、それが芽を出して育っていき、やがて収穫をする、ということです。当時の多くの人々にとって身近だったこのことを用いて、主イエスは何を語ろうとされたのでしょうか。本日の箇所の冒頭の24節に、「天の国は次のようにたとえられる」とあります。この言い方はこの後のいくつかのたとえ話でも繰り返されていきます。つまり主イエスは、たとえ話によって、天の国のことを語ろうとされたのです。天の国、天国、それは、死んでから行く「あの世」のことではありません。「天」という言葉はマタイ福音書において、神を言い換えている言葉です。「国」とは、ある場所や領域ではなく、「支配」という意味です。ですから、「天の国」とは「神のご支配」という意味なのです。神のご支配が確立する、それが天の国であり、それが私たち人間の、またこの世界の救いです。「天の国はこのようにたとえられる」と言って語られる一連のたとえ話は、神のご支配、神による救いとはこのようなものであり、このようにして実現するのだ、ということを語っているのです。

毒麦のたとえ
 さて前回マタイ福音書からみ言葉に聞いた先々週の礼拝では、13章の1~23節の、「種を蒔く人のたとえ」を読みました。蒔かれた種が落ちた地によって、全く芽を出さなかったり、出してもすぐ枯れてしまったり、育たなかったりする。しかし良い土地に蒔かれた種は豊かな実を結ぶ、というたとえです。このたとえ話において、蒔かれる種とは神のみ言葉を意味しています。それが蒔かれる地は私たち人間の心です。神のみ言葉が私たちの心に蒔かれ、それが芽を出し、育っていき、実を結ぶ、そのようにして、神のご支配が、救いが実現していくことをこのたとえは語っていたのです。本日の24節以下には、この「種を蒔く人のたとえ」に続く第二のたとえが語られています。それは「毒麦のたとえ」と呼ばれています。やはりある人が畑に種を蒔いたというたとえです。その種は「良い麦」の種でした。ところが人々が眠っている夜の間に敵が来て、同じ畑に毒麦の種を蒔いてしまったのです。それで、一つの畑に良い麦と毒麦とが共に芽生え育つということになってしまいました。
 このたとえ話も、前回の「種を蒔く人のたとえ」と同じように、蒔かれた種が育っていき、やがて収穫するということに、天の国、神のご支配、その救いの進展、実現を見ています。しかし違いもあります。「種を蒔く人のたとえ」においては、蒔かれる種は神の言葉で、それが蒔かれる地が私たち人間であったのに対して、このたとえでは、蒔かれて芽を出して育っていく種が私たち人間のことです。「種を蒔く人のたとえ」においては、み言葉を聞く人間の違いが、土地の違いとして表現されていました。しかしこのたとえにおいては、麦の違いが人間の違いです。良い麦か毒麦か、という違いが人間の間にはある、ということが見つめられているのです。

私たちは神の畑に植えられた麦
 このようにこのたとえは、芽を出して育っていく麦に私たち人間の姿を見ているわけですが、そのことは実はすでに前回の18節以下の、「種を蒔く人のたとえ」の説明においても語られていたことでした。その説明においては、「道端に蒔かれたものとはこういう人のことである、石だらけの所に蒔かれたものとはこういう人である、茨の中に蒔かれたものとはこういう人である、良い土地に蒔かれたものとはこういう人である」という言い方がなされていました。それは、蒔かれて芽を出し、育っていく種、おそらくこの場合も麦の種が意識されているのだと思いますが、その麦の種が私たち人間を象徴しているということです。ですからこのたとえは基本的には種が蒔かれる土地の違いにいろいろな人間の違いを見ていますが、そこに蒔かれて芽生え、育っていき、実を結ぶ種もまた人間の姿を表していると言えるのです。そういう意味で本日のたとえは、前回の「種を蒔く人のたとえ」の続きであると言えます。神がご自分の畑に種を蒔き、それが芽生えて育っていく、私たちはその神の畑に育つ麦なのです。

教会には、良い麦と毒麦が混在している
 この神の畑とは教会のことです。神が、教会というご自分の畑に私たちを蒔き、手入れをし、育てて下さっているのです。私たちが信仰者となり、洗礼を受けて教会に加えられるというのは、この神の畑に植えられることです。私たちは、神の畑に育つ麦なのです。麦は一本だけ鉢植えのように栽培されているのではありません。畑の中に、他の麦と一緒に植えられ、一緒に養われ、育てられているのです。ところがその神の畑、教会に、敵が来て、毒麦の種を蒔いていった。それで麦と一緒に毒麦も芽を出し、生え育っているのです。教会という神の畑には、神が蒔いた良い麦だけが育っているのではない。そこには、敵、つまりサタン、悪魔が蒔いていった、毒麦も一緒に育っている、とこのたとえは語っているのです。
 私たちはこのたとえを読むと、どきっとさせられます。神の畑に紛れ込んだ毒麦、それは自分のことではないか、自分は神を信じて洗礼を受け、教会に加えられたつもりでいたけれども、実はサタンが蒔いていった毒麦で、自分など本当は神の畑である教会にいるべきではない者なのではないだろうか、と思ったりするのです。そのようにこのたとえは私たちに不安を与えますが、一方で、少し冷静に考えると、このたとえほど教会の現実をはっきりと言い表しているものはない、とも言えます。教会に来て間もない人の中にはよく、「教会の人たちは皆さんは親切で、良い人ばかりだ」などとおっしゃる方がおられますが、洗礼を受けて群れに加えられ、次第に長く、深くお互いのことを知り、関わっていくと、そんなことはない、ということがよく分かってきます。教会は、決して良い人たちだけの集団ではありません。決して人を傷つけたりしない聖人君子の集まりではありません。教会という群れの中で、あの人に傷つけられた、この人にこんなひどいことを言われた、ということが実にしばしば起こります。そして多くの場合そのように言っている人自身も同じように他の人を傷つけているのです。つまりお互いにぶつかり合い、傷つけ合うようなことが、教会の中にもいくらでもあるのです。教会も人間の集団であって、世間の様々な集団と何の違いもないのです。世間の集団ならば、私たちはもともとそういうものだと思っていますから、そんなに気にならないかもしれません。しかし教会においてそういう思いをすると、「教会なのにどうして」と思ってしまって、受けるショックがより大きいということがあります。そういうこと一つをとってみても、教会という畑が、決して良い麦だけで成り立っているのではないことは明らかです。さらに、教会において私たちがしばしば体験するのは、一旦信仰を持っても、それを捨ててしまったり、群れから脱落してしまう人がいる、ということです。そこにはいろいろな理由がありますが、一つには、その人の信仰が本物でなかったと言わざるを得ないことがあります。本当に神を、主イエスを信じているのではなくて、他の何か、例えば親しい友人がいるからとか、あの牧師の話が面白いから教会に連なっていただけ、ということも確かにあるのです。そこにも、教会が必ずしも良い麦だけの群れではない、毒麦も混在している、という現実があります。この毒麦のたとえは、そういう教会の現実を赤裸々に描いているのです。

毒麦を抜き集めようとする僕たち
 敵が蒔いていった毒麦も一緒に芽を出し、育っている、そういう神の畑の現実が描かれていますが、このたとえではそこに「僕たち」が登場します。この畑の持ち主であり、良い種を蒔いた主人に仕える者たちです。彼らは「では、行って抜き集めておきましょうか」と言っています。敵の蒔いた毒麦を、今のうちに抜き集め、畑を本来の良い麦だけの畑にしよう、ということです。この僕たちは、神の畑に良い麦と毒麦が混在しているのはいけない、何とかしなければ、と思ったのです。毒麦は早めに抜き取って、教会を良い麦だけの、本当に神が種を蒔いた、つまり神が選び、招いて信仰を与えて下さった、その人たちだけの純粋な群れにしなければ、と思ったのです。そういう思いは私たちの誰もが抱くのではないでしょうか。私たちは、例えば先ほど申しましたような、誰かによって傷つけられるようなことを経験した時に、「教会でこんなことがあってはいけない、あの人を何とかしなければ」と思います。あるいは、「神を信じて従っていく信仰の生活とはこういうものであるはずだ」という信念を持つ時に、「だからあの人のああいう姿勢や態度は問題だ」と思うことがあります。信仰者ならもっとこうあるべきだ、という思いで人を批判し、裁いてしまうことが起るのです。そのような思いは、先ほど申しました、信仰から脱落した人々にも向けられていきます。私たちはそういう人々がもう一度信仰に立ち戻り、共に神を礼拝するようになることを願い、そのために祈り、働きかけます。しかしその私たちの思いのどこかに、自分は良い麦に留まっているがあの人は毒麦になってしまった。あの人も良い麦になるべきだ、教会は良い麦の畑であるべきなのだ、という気持ちがあって、心配しているような言い方をしながら実はその人を裁いている、ということはないでしょうか。これらはすべて、教会に毒麦がいることを「これは問題だ、何とかしなければいけない」と思う、そういう気持ちから生じてくることです。そういう思いを持っている人がこの「僕たち」なのです。

終わりの日の裁きの時までは
 この僕たちの提案に対して、畑の主人である神はこうお答えになりました。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」。この主人の言葉が、このたとえ話の中心です。この言葉には、いくつかの大切なポイントがあります。まず第一は、僕たちの意見に対して、主人は、「今毒麦を抜き集めて畑を良い麦だけにしてしまうことはするな」と言っておられる、ということです。ということは、主人は、つまり神は、ご自分の畑に毒麦が混在していることを許しておられるのです。神の畑である教会には毒麦は存在してはならない、とは神はお考えになっていない、これが第一のポイントです。しかしそれなら、良い麦か毒麦かという違いはどうでもよい、ということかというと、そうではありません。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておけ」と言われています。良い麦と毒麦が共に存在することを許されているのは、「刈り入れまで」の間のことなのです。刈り入れの時には、毒麦は全て集められて火で焼かれ、良い麦の束は倉に入れられる、つまり良い麦と毒麦との区別がはっきりとつけられるのです。この刈り入れは、この世の終わりに行われる神による裁き、最後の審判です。裁きの日にはこのように、良い麦は良い麦として救いにあずかり、毒麦は焼き滅ぼされるのです。ですから、神は決して、私たちが良い麦でも毒麦でもどちらでもよい、と言っておられるのではありません。神の救いにあずかることができるのは、やはり良い麦だけなのです。これが第二のポイントです。第一と第二のポイントを合わせるとこういうことになります。つまり神は、良い麦と毒麦とを、つまり救われる者と滅びる者とをお分けになる、しかしその両者を分けるのは、終わりの日の裁きの時であって、それまでは、教会の中に両方の者が共に存在することをお許しになっている、ということです。

裁きは神に委ねよ
 さあそうなると、先ほど申しました不安がまた頭をもたげてきます。ということは、今教会に連なって信仰者として生きていても、自分が本当に良い麦で救いにあずかれるのか、それとも毒麦で結局は滅ぼされてしまうのか、それは終わりの日までわからない、自分が最終的に救われるのかどうかは不確かだ、ということになるわけで、それはまことに不安なことです。しかしここで、この主人の言葉の第三のポイントを見つめなければなりません。それは、今毒麦を抜き集めてしまわずに、刈り入れまで両方とも育つままにしておくのは何のためか、ということです。それは29節にあるように「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」ということです。今は両方ともそのままにしておくのは、毒麦を抜こうとして間違えて良い麦を抜いてしまうことが絶対に起こらないためなのです。ここから私たちはいろいろなことを考えさせられます。良い麦と毒麦の区別は、このように難しいのです。これは毒麦だと思って抜いたものが、実は良い麦だったりすることがあるのです。このことは、今私たちが、私たちの思いや感覚で、「この人は毒麦だ」と決めてしまうことはできないし、するべきではない、ということを教えています。良い麦と毒麦の区別を、私たちが自分でつけようとする時、往々にして間違いが起こるのです。抜くべきでないものを抜いてしまうことがあるのです。つまり私たちが、この人は毒麦だ、と思う人が、実は良い麦であるということがあるのです。だから私たちは、自分でそれを決めてしまってはならないのです。裁きは、私たちがすることではなくて、神がなさることであり、神にしかできないことです。その神の裁きに委ねて、自分で裁くことは差し控える、それが、「刈り入れまでそのままに」ということの第一の意味なのです。

一本の麦を大切になさる神
 しかしここに語られているのは、人間が裁くと間違いが起こるから裁きは神に委ねよ、ということだけではありません。ここから私たちが聴き取るべきもっと大事なことがあります。それは、神が、ご自分の畑に育つ麦の一本一本を本当に大切に思っておられるということです。良い麦の一本でも間違えて抜かれてしまうことがあってはならない、と神は思っておられるのです。そのために、沢山の毒麦もそのままにしていこうとしておられるのです。そこには、一本の麦をどこまでも大切にして下さる神の深い慈しみのみ心があります。合理的に考えるならば、良い麦の一本か二本は犠牲になっても、毒麦を抜き取ってしまった方が、残りの良い麦に栄養が行き届いて、全体の収穫ははるかに上がると言えるかもしれません。しかし神は、「だから一本や二本は仕方がない」とはお考えにならないのです。その一本を守るために、敢えて毒麦をも生かしておかれるのです。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」という主人の言葉に私たちは神のそのような深い慈しみのみ心を読み取るべきなのです。
本日は共に読まれる旧約聖書の箇所として、創世記18章16節以下を選びました。ここは、アブラハムが神を値切ったところとしてよく知られています。悪徳の町ソドムとゴモラを神が滅ぼそうとしておられることを知った時、アブラハムは神に、「その町に五十人の正しい者がいても、その人々を悪い者たちと一緒に滅ぼされるのですか」と言いました。神は、「正しい者が五十人いるなら、町全体を赦そう」と言われます。アブラハムはその五十人という数を値切っていったのです。そしてついに、十人の正しい人がいれば、町全体を赦すという約束を神から取り付けます。十人の正しい人を守るために、他の何千という滅ぼされるべき悪人をも赦して下さる、それが神のみ心であることがこのようにして示されたのです。そのみ心が、この毒麦のたとえにも表されているのです。

毒麦である私たちを忍耐して下さっている神
そうであるならば、私たちがこのたとえから聞きとるべきことは、自分が良い麦か毒麦か、救われる者か滅びる者か、わからない、という不安ではありません。神は、良い麦か毒麦か見分けがつかないようなこの私を、良い麦として、守り、生かし、救いにあずからせようと、深い慈しみをもって見守っていて下さるのです。そのことこそ、私たちがこのたとえから読み取るべき主イエスのメッセージです。従ってこのたとえは、人間には神によって蒔かれた良い麦である者と、敵、悪魔によって蒔かれた毒麦である者との二種類があって、今はどちらがどちらか見分けがつかないけれども、世の終わりにはそれがはっきりして、良い麦である者だけが救われるのだ、ということを言おうとしているのではありません。私たちは皆、神によって命を与えられ、この世を生きている者です。つまり私たちは、神が蒔いて下さった良い麦なのです。悪魔によって蒔かれた毒麦である者などいないのです。しかしその私たちが、造り主である神を忘れ、自分が主人になって生きようとする、自分の主張を通そうとすることによってお互いに傷つけ合ってしまう、また信仰を捨て、教会から離れていってしまう、そういう罪によって私たちは、悪魔の蒔いた毒麦になってしまうのです。神は、その私たちが、悔い改めて神のもとに立ち返り、もとの良い麦となることを、深い慈しみによって待っておられます。そのために毒麦である私たちを忍耐して下さっているのです。その神の忍耐と慈しみのみ心の表れが、イエス・キリストの十字架の死です。神の独り子である主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さった、そこに、神の私たちのための大いなる忍耐と慈しみがあるのです。この神の忍耐と慈しみによって、毒麦である私たちは良い麦へと変えられるのです。麦と毒麦なら、そんなことは起こりません。しかし人間にはそれが起こるのです。毒麦であった者が、主イエス・キリストにおける神の忍耐と慈しみによって、良い麦へと変えられるのです。いやもっと正確に言えば、もともと神の蒔いて下さった良い麦であった者が、神に背き、離れ去る罪によって毒麦となってしまっていたものを、神が主イエスの十字架によってもともとの良い麦へと立ち返らせて下さるのです。前回の「種を蒔く人のたとえ」においても、もともと道端や、石だらけの地や、茨の間だった私たちに、神がみ言葉の種を蒔き続けて下さり、私たちの心を耕して下さり、石を取り除き、茨を抜いて下さることによって、み言葉が豊かに実を実らせる良い地に変えられていくのだ、ということを申しました。それと同じことが、この毒麦のたとえにおいても見つめられているのです。
それゆえに私たちは、自分は良い麦だろうか、毒麦だろうかと心配するのはやめて、主イエスの十字架によって示された神の忍耐と慈しみを信じましょう。自分はどちらの麦だろうかと考えるならば、種を蒔く人のたとえで、最初の三つの、実を実らせることのできない土地こそ自分だと思うのと同じで、私たちは毒麦だとしか言いようがありません。しかし神は、その毒麦である私たちを、ご自分の畑である教会に植えて下さっているのです。そして、大いなる忍耐と慈しみをもって、私たちを良い麦へと変えようとして下さっているのです。

神と兄弟姉妹の忍耐によって
さらにもう一つ見つめるべきことがあります。畑に毒麦があることは、良い麦にとっては迷惑なことです。神はそれでも、毒麦を畑に植えたままにしておき、共に育てて下さっているのです。それは神が、良い麦たちにも、隣に毒麦が生えていることによって被る迷惑を、忍耐することを求めておられるということです。神と、教会の兄弟姉妹の、そのような忍耐によって私たちは、良い麦とされてきたのではないでしょうか。同じことを今度は私たちがしていく番です。自分の周りに、毒麦のような人がいると思う時に、その人を裁くのでなく、裁きは神に委ねて、神の忍耐と慈しみによって共に育てられている麦として受け入れるのです。主イエスの十字架の苦しみと死とを覚えて歩むというのは、そういうことでもあるのです。

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