説 教 「まことの知恵」牧師 藤掛順一
旧 約 箴言第8章1-36節
新 約 マタイによる福音書第11章16-19節
今の時代はどのような時代か
本日はマタイによる福音書第11章16節以下からみ言葉に聞くのですが、その冒頭の16節に、「今の時代を何にたとえたらよいか」という主イエスのお言葉があります。「今の時代」、今私たちが生きているこの時代はどのような時代なのだろうか。それは私たちにとっても深刻な問いです。今ウクライナやガザ地区で起っているような戦争が、21世紀になって起るとは思っていませんでした。世界の多くの国々で、自分の国の利益のみを追求しようとする政党が、選挙で勝利するようになっています。各地で対立が深まり、いつどこで軍事衝突が起こるか分からないような世界になっています。また温暖化による気候変動は激しくなり、これまで体験したことのないような災害があちこちで起こっています。地球全体が危機的な状況に置かれているのです。そのような今のこの時代をどう捉えたらよいのか、そして迎えようとしている2025年がどのような時代になっていくのか、それは私たちにとっても大きな問題なのです。
主イエスは、「今の時代を何にたとえたらよいか」と問うことにおいて何を見つめておられたのでしょうか。本日の箇所は、15節までと繋がっています。前回、12月15日に15節までを読みましたが、その時に一気に19節まで読んだ方がよかったのかもしれません。しかしそれでは余りにも語るべきことが多くなるので、15節までで区切ったのです。ですからもう一度、7節以下を、あるいはさらに2節以下をふりかえりながら、主イエスがここで何を見つめておられたのかを考えたいと思います。
信仰の決断が求められている時代
7節以下で主イエスは、洗礼者ヨハネのことを人々に語っておられます。ヨハネは、主イエスが伝道を始める前に、ユダヤの荒れ野に現れて、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語り、人々に悔い改めの印としての洗礼を授けた人です。そして彼は「自分の後に、自分よりも優れた方が来られる。その方こそ、あなたがたに本当の洗礼を授ける方だ」と語りました。つまりヨハネは自分が来たるべき救い主の道備えをする者だという自覚を持っていたのです。そのヨハネが時の権力者ヘロデの怒りをかって捕えられた後、主イエスが活動を開始されました。主イエスも、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語って伝道を始められましたが、主イエスがなさっていったことは、神の恵みのご支配がいよいよ実現しようとしていることを告げ、そのしるしとして病気や悪霊によって苦しんでいる人たちを癒す、ということでした。その主イエスのみ業を伝え聞いたヨハネが、獄中から弟子を遣わして「来るべき方はあなたですか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問わせたのです。つまり、私が道備えをした、来るべき救い主はあなたなのですか、それとも違うのですか、ということです。それに対して主イエスは、ご自分が行っているみ業のことをヨハネに伝えよ、とおっしゃって、そして「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われました。ヨハネに、主イエスこそ来るべき救い主であると信じる信仰の決断を求めたのです。それが6節までのところです。
ヨハネの弟子たちが帰った後、主イエスは今度は集まっていた群衆たちに、「ヨハネは、預言者であって預言者以上の者だ。預言者と律法の時代の終りに立っている者だ。来るべき救い主の先駆けとして道を備えるために遣わされたエリヤだ」と語っていかれました。それが7節以下です。そこには、14節にあるように「あなたがたが認めようとすれば分かることだが」とあり、また15節には「耳のある者は聞きなさい」とありました。主イエスは今度は群衆たちに、ヨハネのことを救い主の道備えをしたエリヤとして認め、主イエスこそ、ヨハネが指し示した救い主だと信じる信仰の決断を求めたのです。このように主イエスはここで、ヨハネにも、人々にも、主イエスを救い主と信じる信仰の決断を求めておられます。それが、主イエスが見つめている「今の時代」です。主イエスはここで、当時の政治的、社会的な時代情勢を見つめておられるのではありません。当時のユダヤ人たちはローマ帝国に支配されており、人々はその支配からの解放を願っていましたが、主イエスはそういうことを見つめて「今の時代」と言っておられるのではないのです。救い主の先駆けとしてヨハネが遣わされ、そして神の独り子である主イエスが人となってこの世に来て、神の言葉を宣べ伝え、救いのみ業を行っている、そのようにして神が人々に救いの手を差し伸べ、語りかけ、救い主を信じる信仰の決断を求めておられる、それが主イエスの見つめておられる「今の時代」なのです。
笛吹けど、踊らず
そこから、「今の時代を何にたとえたらよいか」という問いに主イエスが自ら答えて語られたみ言葉の意味が見えてきます。今の時代は、「広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』」と主イエスは言われました。ここから「笛吹けど踊らず」という諺が生まれたわけですが、これは当時の子どもたちの遊びの中での言葉のようです。どのような遊びかというと、婚礼ごっこと葬式ごっこです。「笛を吹く」というのは、婚礼ごっこでお祝いの笛を吹くことであり、「葬式の歌をうたう」とは、葬式ごっこで弔いの歌を歌うことです。子どもは何でも遊びにしますが、婚礼や葬式も遊びのネタにしていたのでしょう。その遊びの中で子どもたちがほかの人たちに文句を言っているのです。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」、それは、婚礼ごっこをしようとして笛を吹いたのに、みんながそれに合わせて歌ったり踊ったりしてくれなかった、ということです。「葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」、それは、葬式ごっこをしようとして弔いの歌を歌ったのに、それに合わせて嘆き悲しむまねをしてくれなかった、葬式ごっこに加わってくれなかった、ということです。今の時代は、このように相手が自分の願う遊びに加わってくれないと文句を言っている子どもたちの姿に似ている、と主イエスは言われたのです。
ヨハネも主イエスも受け入れない人々
このたとえはいろいろな読み方ができます。一つの読み方は、人々がヨハネに対しても、主イエスに対しても、「こうしてほしい、ああしてほしい」という様々な勝手な要求をしている、しかしヨハネも主イエスも人々のそのような求めに応えようとはしないので、人々が「笛吹けど踊らずだ」と文句を言っている、というものです。この読み方だと、呼びかけている子供たちが人々で、呼びかけられている「ほかの者」がヨハネや主イエスということになります。確かに、ヨハネも主イエスも、人々の願い求めをかなえることによって人々を自分のもとに集めようとはしませんでした。その点でこの読み方は当っているとも言えます。しかし、先ほど申しましたように、この部分は、神が救い主を遣わして人々に救いの手を差し伸べておられ、人々はそれによって信仰の決断を求められている、という文脈の中にあるのですから、呼びかけているのはヨハネや主イエスで、「笛吹けど踊らず」は人々の方だ、と読むべきだとも言えます。しかしここでは、今の時代は呼びかけている子供たちに似ている、と言われているわけですから、相手が呼びかけに応えてくれないと文句を言っているのはやはり今の時代の人々なのです。そこでこの両方のことを生かす第三の読み方がなされます。今の時代は、一方では婚礼ごっこをしようとしており、他方では葬式ごっこをしようとしている子どもたちのようだ、という読み方です。どちらも、相手が自分の思う遊びに加わってくれないと文句を言っているのです。この読み方がここの文脈に最も合っていると思います。婚礼ごっこと葬式ごっこという対照的な遊びが、次の18、19節に語られていることと繋がっていくのです。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」。ここには、洗礼者ヨハネと主イエスとの違いが語られています。ヨハネは、「食べも飲みもしない」、つまり、荒れ野に住んで、いなごと野蜜を食べ、非常に質素で禁欲的な生活をしていたのです。それに対して主イエスは、「飲み食いしている」、主イエスは、9章10節にあったように、弟子となった徴税人マタイの家で、大勢の徴税人や罪人たちと一緒に食事をなさり、宴会の席に着かれました。そのように、ヨハネと主イエスとでは、生活の様子が全く違っていました。そしてここに語られているのは、人々が、このように対照的な生活をしているヨハネと主イエスのどちらをも批判して、どちらの教えをも受け入れようとしないということです。つまり人々はヨハネが禁欲的で厳格な生活をしていると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、主イエスが飲み食いしていると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ、徴税人や罪人の仲間だ」と言って、結局ヨハネの語りかけも主イエスの語りかけも受け入れようとしないのです。つまり、自分の思い通りの遊びを相手がしてくれないと文句を言い合っている子供のように、神が救い主の先駆けであるエリヤとして遣わしたヨハネをも、そして救い主として来られた主イエスをも、自分の期待とは違うと言って受け入れない、それが今のこの時代だ、と主イエスは言っておられるのです。
ヨハネの教えと主イエスの教えの違い
それと同時に、ここで洗礼者ヨハネの教えは、葬式の歌になぞらえられています。ヨハネは、人々に厳しく悔い改めを求めました。自分たちの先祖はアブラハムだ、我々は神に選ばれた民だ、などということは何の役にも立たない、悔い改めに相応しい実を結ぶのでなければ、その木は容赦なく切り倒され、火で焼き滅ぼされるのだ、と語ったのです。その教えは人々に、葬式の歌に合わせて悲しみ嘆くように、自分の罪を嘆き悲しみ、悔いることを求めていたのです。それに対して主イエスの教え、み業は、婚礼の祝いになぞらえられています。そこに流れる基本的なしらべは喜びです。主イエスも、ヨハネと同様に、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って伝道を始められましたが、ヨハネが「悔い改めよ」ということに集中していったのに対して、主イエスは、「天の国は近づいた」ということを、み言葉とみ業によって示していかれたのです。主イエスが示された天の国、神のご支配は、神の深い恵みと憐れみのご支配です。人々の苦しみに同情し、それを取り去り、癒して下さる神の恵みが主イエスのみ業によって示され、神のもとから失われて生きている罪人をも赦し、ご自分のもとに招いて、共に歩んで下さる恵みが、徴税人や罪人たちを招いて食事の席に着かれるお姿において示されているのです。主イエスの教えとみ業には、そのような神の愛と憐れみと恵みが表されています。それゆえにそれは人々に喜びと祝いをもたらすのです。主イエスを救い主として信じ受け入れることによって私たちはこの喜びと祝いに生きる者とされるのです。主イエスを信じて生きることは、花婿を迎えた婚宴の祝いの席に着いて、笛の音に合わせて喜び踊るようなものなのです。このことは既に、9章14節以下の、断食についての問答においても語られていました。主イエスを信じて生きることは、婚礼の客として祝宴に連なり、喜びに生きることなのであって、悲しみの印である断食はそこには相応しくないのです。
ヨハネの教えと主イエスの教え
洗礼者ヨハネが語ったことと主イエスが語ったこととでは、このような違いがあります。しかしそれは決して、ヨハネが教えたことは間違っていた、ということではありません。ヨハネは主イエスの道備えをしたのです。つまり主イエスによって実現する喜びと祝いにあずかるための備えとして、ヨハネの説いた悔い改めがあるのです。自らの罪を認め、嘆き悲しみ、悔いることが、主イエスによる罪の赦しの恵みへの道備えなのです。自分の罪を認め、悔い改めることなしには、赦しの恵みにあずかることはできません。つまりヨハネの歌う葬式の歌に合わせて共に悲しむことなしに、主イエスの吹く婚礼の祝いの笛に合わせて踊ることはできないのです。また逆に、主イエスによる罪の赦しの恵み、神の憐れみによる罪人への招きを知ることなしに、自分の罪を本当に見つめ、それを悔い改めることはできないのです。つまり主イエスの吹く笛に合わせて踊ることなしには、ヨハネの葬式の歌に合わせて共に悲しむこともできないのです。ヨハネの教えと主イエスのみ業はそのように密接に結び合っています。そしてここで見つめられているのは、「今の時代」の人々が、そのいずれに対しても、何だかんだと理屈をつけて拒絶し、受け入れようとしないことです。ヨハネが悔い改めを説くと、「人間の罪ばかりを言い立てて、口を開けば『悔い改めよ』などと言っているあいつは頭がおかしい」と言い、主イエスが罪人をも招いて喜びに生きる道を示されると、今度は、「あんな連中と食事をして酒を飲んでいるあいつもどうしようもない罪人だ」と言う。ああ言えばこう言うという感じで、神からの語りかけに全く耳を貸そうとしないのです。そういう意味では、笛を吹いたり葬式の歌をうたって呼びかけているのは神であり主イエスであると言えます。その呼びかけに人々は応えようとしないのです。
私たちもそういうことをしているのではないでしょうか。聖書の教え、教会の教えが自分の思っていること、期待している救いと少しでも違っていると、私たちは何だかんだと理由をつけて、それを受け入れようとせず、耳を塞いでしまうのです。ですから主イエスが「今の時代」について言われたことは、そのまま私たちにも当てはまると言わなければならないでしょう。
知恵の正しさはその働きによって証明される
主イエスは19節の最後で、「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」とおっしゃいました。突然「知恵」という言葉が出てきて、私たちはとまどいます。一体誰の知恵のことを言っているのだろうか、と思うわけです。しかし旧約聖書においてこの「知恵」は、誰かが持っている知恵ではなくて、むしろそれ自体が命を持ち、人々に語りかけ、何事かを実現していく力を持った存在として語られています。本日共に読まれた箴言第8章がその代表的な所です。その1節には、「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか」とあります。知恵自身が、呼びかけ、声をあげているのです。4節以下がその知恵の呼びかけの言葉です。「人よ、あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる」。知恵が、自らを「わたし」と呼んで、人間たちに語りかけているのです。12節にも「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている」とあります。そしてさらに22節以下にはこう語られています。「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた、深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが、わたしは生み出されていた。大地も野も、地上の最初の塵もまだ造られていなかった。わたしはそこにいた。主が天をその位置に備え、深淵の面に輪を描いて境界とされたとき、主が上から雲に力をもたせ、深淵の源に勢いを与えられたとき、この原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定められたとき」。これは、主なる神がこの世界をお造りになり、混沌であった世界に秩序をお与えになった時、「わたし」、即ち知恵がそこに共にいたということを語っています。このようにここには、独立した人格として人々に語りかけることができる者である知恵、天地創造の時に既に主なる神と共にいた者である知恵が描かれています。この知恵は、神の独り子主イエス・キリストのことだと考えてよいでしょう。つまり19節後半は、まことの知恵である主イエスの正しさは、その働き、つまり主イエスのみ業やみ言葉によって証明される、と語っているのです。そのみ業やみ言葉とは、5節に語られていたことです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。主イエスは、洗礼者ヨハネに、このみ業をお示しになりました。そして「わたしにつまずなかい人は幸いである」と言われました。これらのみ業によって、主イエスこそ来るべき救い主であることを信じる信仰の決断をお求めになったのです。ヨハネだけではありません。何だかんだと理屈をつけて主イエスを受け入れようとしない今の時代の人々全てに対して、わたしのこれらの働きを見なさい、そして私こそまことの知恵、父なる神から遣わされた救い主であると信じなさい、と信仰の決断を求めておられるのです。私たちにもその決断が求められています。私たちが見つめている主イエスのみ業、お働きは、先ほどの5節のことのみではありません。私たちは更に、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったこと、その主イエスを父なる神が死に勝利して復活させて下さったことを知らされています。そこには、私たちの小ざかしい知恵のとうてい及ばないまことの知恵、私たちに悔い改めを与え、罪の赦しの恵みの中で喜びをもって新しく生かす神の知恵があります。この知恵が、今この礼拝において私たちに語りかけ、信仰の決断を求めておられるのです。
迎えようとしている2025年がどのような時代になるのか、私たちには分かりません。まことに不確かな、不安な時代を私たちは生きています。しかし私たちは、まことの知恵であられる主イエス・キリストの、恵みに満ちた語りかけを毎週の礼拝において受け、信仰の決断をもってそれを受け入れ、主イエスが吹いて下さる喜びの笛の音に合わせて踊りつつ、希望をもって新しい年を歩み出すことができるのです。