主日礼拝

まことの命を得る者

説教 「まことの命を得る者」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 イザヤ書第55章1-5節
新約聖書 マタイによる福音書第10章34-42節

敵対関係をもたらす主イエス
 本日ご一緒に読む、マタイによる福音書第10章の終りのところに記されている主イエスのお言葉に、私たちは驚かされます。柔和でやさしい救い主という主イエスのイメージを打ち砕くようなことが語られているのです。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と主イエスはおっしゃいました。さらに畳み掛けるように「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」とも語られています。主イエスは剣、つまり敵対関係をもたらす、そしてそれは、親子、家族の間にも及ぶ。主イエスが来られたことによって、つまり主イエスを信じる信仰によって、家族の間に不和が起り、家庭が崩壊すると言われているのです。何故そうなるのか。それは37節にあるように「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」からです。主イエスは、父や母、息子や娘という家族への愛よりも、主イエスへの愛を優先させよと言っておられるのです。主イエスのそういう要求の下で、家族の間にひびが入り、不和が起るのです。このみ言葉はつまずきに満ちたものです。主イエスを信じている信仰者も、このみ言葉に対しては、「それは困る。主イエスは平和をもたらして下さるはずではないのか」と思います。また、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」と言われると、自分はとうてい主イエスにふさわしい者にはなり得ない、と感じるのです。信仰者ですらそう思うのですから、信仰を求めて、あるいは聖書の教えに関心を持って集って来た方々はどう思うでしょうか。イエス・キリストを信じる信仰は、家族を破壊し、家庭の平和を乱すものなのか、そんな教えはとても受け入れられない、と思うでしょう。そう思われても仕方がないことがここには語られているのです。

あなたは命を得ているのか
 しかし、主イエスはここで、ことさらに私たちの家庭に不和をもたらし、敵対関係を生じさせようとしておられるわけではありません。そのことは、39節からわかります。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と語られています。つまり主イエスがここで言っておられるのは、命を本当に得るためにはどうしたらよいか、ということなのです。「あなたがたは、命を得ようとして努力しているが、本当にそれを得ているのか、むしろそれを失っているのではないか、本当に命を得るための道は、別なところにあるのだ、私はあなたがたに、本当の命を得てもらいたいのだ」、そう主イエスは言っておられるのです。私たちは、命を得ようと日々苦闘しています。肉体の命を少しでも永らえようとして、いろいろな努力をしています。肉体の命のみではありません。本当に生き生きとした、充実した人生を送りたいと願い求めています。家庭の平和や家族の間の愛も、私たちが求めてやまない命の一部です。主イエスが問うておられるのは、あなたはその命を本当に得ているのか、ということです。命を得たいと願ってあれこれ努力しているけれども、それを本当に得ることができていないのが私たちなのではないでしょうか。自分も家族も、心身ともに健康で元気でありたいと願っているが、願い通りにはいかず、むしろいろいろな病気による苦しみが起こるし、老いによる衰えを感じている。家族の関係を良いものにしたいと願いながらも、なかなかうまくいかず、思いが通じないという悲しみ苦しみをかかえている。あるいは、愛する家族を失った悲しみ、喪失感を乗り越えて、前向きに、希望を持って生きたい、そういう意味での命を切に求めているが、家族の死の悲しみがからどうしても自由になれない、ということもあるでしょう。命を願い求めているけれども、それを得ることができないでいる、それが私たちの体験している現実だと思うのです。

自分の命を得ようとする者はそれを失う
主イエスはそのような私たちに、39節で大切なことを示して下さっています。「自分の命を得ようとする者はそれを失う」ということです。それは言い換えれば、「あなたがたが命を得ることができないでいるのは、自分の命を得ようとしているからだ」ということです。「自分の命」を求めるのは当たり前ではないか、と私たちは思いますが、しかしそこに、大きな落とし穴があるのです。自分の命、それは、自分が、自分のものとして持っている、自分の思い通りになる命です。私たちはそういう命を手に入れたいと願っています。しかし命をそのように自分のものにすることはできるのでしょうか。病気や老いは、あるいは様々な障がいは、私たちが自分の命を、体を、自分の自由にすることはできないことを示しています。家族の関係も同じです。自分の家庭をこのようにしたい、こんな家族でありたいと願っても、その通りにはならない。家庭もまた、自分のものでありながら、しかし自分の思い通りにはならないのです。そしてそういうことが最もはっきりと現れるのが、死においてです。自分や家族や親しい者の死を、私たちはどうすることもできません。死の力の前で、私たちは敗北するしかないのです。自分の命を自分のものとして手に入れて、自分の思い通りにすることなどできないということを、私たちはそこで決定的に思い知らされるのです。

主イエスのもとにこそまことの命がある
「自分の命を得ようとする者は、それを失う」。それではどうすればよいのでしょうか。自分の命を得ようとするのではなくて、他人の命を求め、人のために尽くせということでしょうか。主イエスが言っておられるのはそういうことではありません。命を得る者は、他人のために尽くす者ではなくて、「わたしのために命を失う者」だと言っておられるのです。「わたしのために命を失う」、それは単純に読むと、「主イエスを信じる信仰のために殉教の死を遂げること」ということになります。確かにこの第10章は、主イエスが弟子たちをこの世へと派遣なさるに際しての教えです。遣わされる弟子たちはこの世で迫害を受け、人々に敵対されるのです。その中で信仰を守りぬき、「天の国は近づいた」という主イエス・キリストの福音を宣べ伝え続けるべきことが語られています。そこには殉教の死ということも当然視野に入っています。しかしここで主イエスが言っておられるのは、殉教の死を遂げるという美徳、あるいは信仰における英雄的な行為によってまことの命が得られるということではありません。本当の命は主イエスのもとにこそあると信じることによってこそ、命が得られるのだ、ということです。そもそも、殉教の死というのは、それによって命を獲得しようと思ってするようなことではありません。主イエス・キリストのもとにこそまことの命がある、主イエスに従うことにこそ、自分が本当に生きる道があるという確信がある所にそれは結果として起るのです。ですから問題は、殉教するか否かではなくて、自分のものであり、自分の思い通りになる命を求めるのか、主イエスのもとにある命を求めるのか、ということなのです。それは以前に読んだこの福音書の第6章19節以下にあった、「地上に富を積むのではなく、天に富を積め」という教えと通じることです。地上の富というのは、私たちが自分のものとして持っている、自分の思い通りになる、自分の富、豊かさ、力です。本日のところで言えば「自分の命」です。それに対して天の富とは、神が私たちのために整え、与えて下さる恵みです。つまり言い換えれば主イエスのもとにこそある命です。天に富を積むというのは、良いことをして神さまのもとにポイントを貯めるということではなくて、むしろそういう自分の正しさや立派さという自分の富を積み上げてそれに依り頼むことをやめて、神が私たちに与えて下さる恵みに信頼して、それに依り頼んで生きることなのです。それと同じことが、本日の箇所では、「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」と言い表されているのです。

主イエスのもとにある命
主イエス・キリストのもとにはどんな命があるのでしょうか。私たちが自分のものとして得る命よりも、主イエスのもとにある命こそが私たちを本当に生かすとは、どういうことなのでしょうか。主イエス・キリストは、神の独り子であられ、ご自身も神である方です。だから主イエスは神としての命を持っておられます。その主イエスが、人間となってこの世を生きて下さり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。主イエス・キリストはこの十字架の死によって、私たちの罪と死とをご自分の上に引き受けて下さいました。そして父なる神はその主イエスを復活させて、永遠の命を生きる者として下さいました。この主イエスの十字架の死と復活によって、神の命が私たちに与えられたのです。私たちは思いにおいても言葉においても行いにおいても、神に背き、神をも隣人をも、愛するよりも傷つけてしまう罪を犯しています。その罪によっていろいろな悲惨なことが起こり、その苦しみ悲しみを覚えています。主イエスはその私たちに、「私があなたの罪を背負って十字架にかかって死んだ、だからあなたの罪はもう赦されている」と語りかけて下さっているのです。また私たちは死の力の前で無力であり、自分の、また愛する者の死をどうすることもできずに悲しむばかりです。しかしその私たちに、復活して永遠の命を生きておられる主イエスが共にいて下さり、死の力に勝利して永遠の命を与えて下さる父なる神の恵みを示し与えて下さるのです。この、罪の赦しと死への勝利こそが、主イエス・キリストのもとにあり、私たちに与えられる命です。このまことの命は、私たちが、自分が持っている命、自分の自由になる命を求めている間は見えてきません。その自分の命を捨てて、主イエスのもとにある命を求めていくことによってこそ、私たちはこのまことの命を得ることができるのです。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」というみ言葉は、このことを語っているのです。私たちは、自分の父や母が、息子や娘が、つまり家族が、本当に命を得て、生き生きと、元気に歩んで欲しいと願っています。そのために時として自分のことをそっちのけにしても家族のために尽くそうとします。けれどもそのようにすることで、家族を本当に生かすことができるのでしょうか。できはしないのです。愛する父や母、夫や妻、息子や娘が、病気や、事故などでその命を奪われていく時に、私たちは、どうすることもできない。彼らの命を取り戻すことはできないのです。私たちが家族をどんなに愛していたとしても、その愛は、死の力に打ち勝つものではないからです。しかし主イエス・キリストのもとには、死に勝利する神の命があります。肉体の死を越えてなお人を生かし、罪の赦しの恵みを与え、永遠の命を与えて下さる神の恵みがあります。その恵みによって与えられる本当の慰めと支えがあります。主イエスのもとにあるこのまことの命をこそ見つめ、自分も、家族も、その命によって生かされていくことを祈り願うこと、それが、父や母よりも、息子や娘よりも主イエスを愛するということなのです。主イエスは、家族を愛することをやめよと言っておられるのではありません。家族など捨てて信仰の道に励めと教えておられるのでもありません。ただ、まことの命、死の力にも打ち勝って慰めと支えを与える命はどこにあるのか、それを見失ってはならないと言っておられるのです。そのまことの命によって生かされるのでなければ、私たちが家族をどんなに愛したとしても、その愛は根本的には無力なのです。また私たちが、既に天に召された家族と心を通わせたいと願ったとしても、私たちの愛は、死んだ人と私たちとを結びつけるものではありません。しかし私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストの恵みの下で、神の命にあずかる時に、私たちは、既に主のみもとに召された人々とも、繋がりをもって生きることができるのです。

十字架を担って主イエスに従う
主イエス・キリストのもとにこそまことの命がある。それが私たちの信仰です。この信仰に生きる時に、周囲の人々との間に様々な軋轢が生じます。家族の間においてもです。そのことを主イエスはここで示し、私たちに覚悟を求めておられます。信仰は、周囲の人々といたずらに争いや対立を引き起こすものではないけれども、然し場合によっては、家族の間でも理解を得られず、対立関係が生じてしまうことがあるのです。その時私たちは、信仰による苦しみを体験します。信仰をもって生きることには、喜びや平安のみではなく、このような苦しみが伴うこともあるのです。38節に、「自分の十字架を担ってわたしに従わないものは、わたしにふさわしくない」と言われているのはそのためでしょう。私たちは、自分の十字架を担って主イエスに従うのです。それは特別なことではありません。主イエスに従い、主イエスのもとにこそまことの命があると信じ、それを第一に求めていく中で、いろいろな妨げにあうのです。最も近く親しい家族にも理解されずに苦しむのです。それが私たちの担うべき十字架です。その十字架を、ほうり出してしまわないで、担い続けること、主イエスのもとにあるまことの命を求め続けることが大切です。そこでしっかりと覚えておくべきことは、この十字架は主イエス・キリストが先頭に立って担って下さったものだということです。私たちだけが十字架を背負わされているのではありません。いやむしろ、私たちの担っている苦しみは、本来十字架などと呼べないちっぽけなものに過ぎないのかもしれません。しかし私たちが自分に与えられている苦しみを負って歩んでいく時に、十字架にかかって死んで下さった主イエスが共にいて下さり、「あなたは私にふさわしい」と言って下さるのです。

まことの命を得る者として
主イエスに従う弟子たち、信仰者は、このように、自分の命を得ようとするのでなく、主イエスによって与えられるまことの命を求めて、苦しみをも耐え忍びつつ歩みます。そうすることによって私たちは、まことの命を得る者となるのです。しかし40節以下には、それとはいささか違うことが語られていきます。ここには、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」とあります。つまり弟子、信仰者を受け入れることは主イエスご自身を受け入れるのと同じであり、主イエスを受け入れることは父なる神を受け入れるのと同じだ、というのです。そしてその「同じだ」というのは、同じ報いを受けるということだと41節に語られていきます。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」。つまり、預言者を受け入れるだけで、預言者が受けるのと同じ報いを受けることができる、というのです。さらに42節には「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」とあります。弟子の中の小さな者の一人に、つまり私たち信仰者の中の小さな一人に、冷たい水一杯を飲ませてくれる、そういう小さな好意を示してくれるだけで、神はその人に、信仰者と同じように報いて下さる、つまり主イエス・キリストによるまことの命にあずからせて下さるのです。このことと、先ほどの「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という言葉とでは、随分話が違うようにも思えます。これらの言葉を、救いにあずかるための条件として読んでしまうと、厳しいのか緩やかなのか分からない、という感じになりますが、ここに語られているのは救われるための条件ではありません。先ほど共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第55章の1節に、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、値を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」とありました。つまり、神はその救いの恵みを、まことの命を、何の条件もつけずに、ただで与えて下さるのです。2節には「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」とあります。ご自分の豊かな恵みを人々に与えたくて仕方がない、という気前の良い神のみ心が語られています。主イエス・キリストによるまことの命の恵みも、このみ心によって与えられているのです。私たちはそれをいただくのに、何の値も払う必要はない、何の条件を満たす必要もないのです。そのように私たちにまことの命の恵みをただで与えるために、神の独り子主イエスご自身が、十字架を担って下さり、苦しみを受け、死んで下さったのです。私たちがまことの命を得るための値は、主イエスが、もう支払って下さったのです。神はその恵みを、まことの命を、できるだけ多くの人に受け取ってもらいたいと願っておられます。「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は」というみ言葉にはそういうみ心が表れています。私たちはそのような神のみ心によってこの世に遣わされているのですから、世間の人々が、ほんの少しでも好意を示してくれ、助けてくれ、あるいは私たちが信仰者として生きることを妨げないでくれるなら、そのことを大いに喜んでいいのです。そこに神の恵みの印を見ていいのです。人々の無理解を嘆くよりも、小さな好意を喜びつつ生きる、それが信仰者の生き方です。しかしそれでもなお、信仰のゆえの苦しみを味わわなければならない時もあります。その時には、私たちのために十字架を担って苦しみの道を歩んで下さった、その主イエスに、自分の十字架を担って従っていくのです。まことの命にふさわしい者となるためではなくて、まことの命を得る者として下さった神の恵みへの感謝としてです。

関連記事

TOP