主日礼拝

目を開かれて

説教題「目を開かれて」
旧約聖書 列王記下第6章8-23節
新約聖書 マタイによる福音書第9章27-31節

信仰によって癒された
 マタイによる福音書第9章27節以下には、主イエスが二人の盲人を癒し、その目を見えるようにしたという奇跡が語られています。彼らの癒しはどのようにして実現したのでしょうか。29節には、主イエスが彼らの目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われたとあります。すると彼らは見えるようになったのです。つまりこれは、彼らが信じていたことがその通りに実現した、という出来事でした。彼らは信仰によって癒されたのです。その信仰とはどのようなものだったのでしょうか。

救いを求める叫び
 27節には、「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と言いながらついて来た」とあります。「そこから」というのは、26節までのところに語られていた、主イエスが、ある指導者の娘を生き返らせた、という大きな奇跡が行われた、そこから、ということです。その時主イエスの周りでは、死んだ娘が復活したという奇跡に驚き、興奮した多くの群衆たちが大騒ぎをしていたでしょう。その騒ぎの中で、この二人の盲人は、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。実はマタイはこれと同じような話を20章の終わりでも語っています。そこでも二人の盲人が、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。周りの人々が彼らを叱って黙らせようとしたが、彼らはますます大きな声で叫び続けた、と語られています。彼らは、多くの人がひしめいている中で、自分たちの声を主イエスの耳になんとか届かせようとして、大声で、必死に叫んだのです。この9章の話もそれと同じような状況だったのでしょう。

ダビデの子よ
 彼らは主イエスに「ダビデの子よ」と呼びかけました。「ダビデの子」とは「救い主」という意味です。ダビデ王の子孫として、神からの救い主が遣わされる、と旧約聖書に語られています。ユダヤ人たちは誰もが、救い主は「ダビデの子」として来る、と信じていたのです。彼らは、イエスこそがその救い主だと信じて呼びかけ、救いを求めたのです。主イエスこそ約束されたダビデの子、救い主であると信じて、その憐れみを求めて叫びながらついて来る、そこに彼らの信仰があった、と言うことができるのかもしれません。しかし別の見方をすれば、彼らは、目が見えない苦しみの中で、自分たちを救ってくれるかもしれない人に、藁をもつかむ思いですがっただけだったのかもしれません。主イエスがいろいろな病気を癒し、死んだ人を復活させさえしたことを聞いた彼らは、この人なら、自分たちを見えるようにしてくれるかもしれないと期待したのです。「ダビデの子よ」という呼びかけも、彼らが主イエスこそ約束された救い主だと信じていた、というよりも、ダビデの子である救い主が来れば、力ある癒しの業を行なって下さり、苦しんでいる者たちを救って下さる、という誰もが抱いている期待のゆえにそう呼びかけただけなのかもしれません。つまり「ダビデの子よ」という彼らの呼びかけに、どれだけ本当に主イエスに対する「信仰」があったのかは疑問です。なぜなら主イエスご自身も、この彼らの呼びかけに直接応えてはおられないからです。20章の話とはそこが違っています。主イエスが彼らと向き合ったのは、28節にあるように、家に入ってからでした。主イエスが家に入ると、この盲人たちがそばに寄って来たのです。主イエスはそこで初めて彼らに声をかけたのです。つまり主イエスは彼らの叫びに応えて立ち止まって癒しのみ業をなさったのではなくて、家に入ってから、彼らと向き合われたのです。これは、多くの人々が興奮して騒いでいるところを避けて、家に入って落ち着いた所で彼らと向き合おうとされた、ということなのかもしれません。しかしマタイはこれによって、ここでの癒しのみ業は、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という彼らの叫びに応えてなされたのではなかった、ということを示しているのだと思います。この癒しのみ業は、彼らの叫び求めからではなくて、主イエスが彼らに語りかけたことから始まったのです。
わたしにできると信じるのか
 主イエスは彼らに、「わたしにできると信じるのか」と問いかけました。つまり「あなたがたはわたしを信じているのか」と彼らの信仰を問われたのです。主イエスは私たち一人ひとりに対してもこのように問いかけておられます。私たちが主イエスを信じる者となり、その救いにあずかるのは、主イエスからこの問いかけを受けることによってです。信仰者、クリスチャンとは、主イエスからこの問いかけを受けて、それに答えた者たちなのです。主イエスに向かって「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶことが信仰なのではありません。私たちはしばしば、そういう叫びに似た思いを抱きます。様々な苦しみや悲しみに直面する時、自分の力ではどうにもならずに途方に暮れてしまう時、「主よ、私を憐れんでください。イエス様、私を救ってください」と願うのです。けれども主イエス・キリストとの本当の出会いは、私たちがそのように願うことによって起るのではなくて、そのように願っている私たちに、主イエスご自身が向き合って下さり、「わたしにできると信じるのか」と問いかけてこられるところで、そして私たちがその問いに答えていくことの中でこそ起るのです。

重く厳しい問い
 主イエスに「憐れんでください、助けてください」と願うことと、主イエスにそれができると信じるのは別のことです。論理的には、信じているから願うのであって、できないと思ったら願いはしない、ということになるかもしれません。しかしそれは違うと思います。私たちは苦しみの中から神に、主イエスに、助けを求めて叫びます。しかしいざ主イエスから、「わたしにできると信じるのか」と問われたら、ぐっと言葉に詰まってしまうのではないでしょうか。そう問われて、「信じてますよ。信じているからこそお願いしているんです」と答えるのは、苦し紛れの言い訳だと思います。「お前は私が救い主であることを本当に信じているのか」と主イエスに問われる時、私たちは絶句せざるを得ないのではないでしょうか。「わたしにできると信じるのか」という主イエスの問いは、とても重く、厳しい問いだと言わなければなりません。

はい、主よ
 この二人の盲人は、主イエスのこの問いに対して「はい、主よ」と答えました。これは驚くべきことだと思います。「お前たちは私がお前たちの目を開くことができると本当に信じているのか」と問われて「はい、主よ、あなたが私たちの目を開き、見えるようにして下さることがおできになると私たちは信じています」と答えたのです。そこに彼らの素晴らしい信仰がある、この信仰を受けて主イエスは、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言って下さり、癒しのみ業を行なって下さったのだ、このような信仰によって彼らは救われたのだ、と言うことができるのかもしれません。けれどもそこでもう少し考えてみたいことがあります。彼らは「はい、主よ」と答えました。それは言葉を補って理解すれば、今申しましたような驚くべき信仰の表明となります。しかし彼らが実際に語ったのは「はい」と「主よ」というたった二つの単語です。原文の言葉を紹介するなら「ナイ、キュリエ」です。「ナイ」が「はい」、「キュリエ」が「主よ」です。日本語の「はい」にも似た、ほんの短い「ナイ」という言葉で、彼らは主イエスの問いに答えたのです。彼らはこの「はい」をどんな思いで、どんな口調で語ったのでしょうか。確信を持って、元気に大きな声で「はい」と言ったのでしょうか。そうではないのではないでしょうか。むしろ彼らは、「はい」という一言しか言えなかったのではないでしょうか。「はい、私たちはあなたが目を開いて見えるようにして下さる力を持っておられることを信じています」などと流暢に言うことはできず、ただ「はい、主よ」と言うのが精一杯だったのではないでしょうか。「わたしにできると信じるのか」と主イエスに問われた彼らは、実は私たちと同じように、言葉に詰まり、絶句したのではないでしょうか。その中でようやく「はい」とだけ答えることができた。それは彼らが立派な信仰を持っていたということではなくて、主イエスご自身が、彼らからこの「はい」を引き出して下さった、ということなのではないでしょうか。つまり「わたしにできると信じるのか」という主イエスの問いは、彼らがどれくらい本当に信じているかをテストして、彼らの信仰に点数をつけて、合格点を取れなければ落第にするような厳しい問いなのではなくて、むしろ主イエスはこのように問うことによって彼らと向き合い、彼らの「はい」という一言を引き出そうとしておられるのだと思うのです。彼らも、そして私たちも、主イエスの問いかけの前では言葉を失わずにはおれない者です。「わたしにできると信じるのか」という主イエスの問いかけはそのように私たちの信仰の不確かさを明らかにします。しかしそれと同時に、この問いかけによって主イエスは彼らから、そして私たちからも、「はい」という答えを引き出して下さるのです。「主よ」という言葉がその後に続いていることがそこで大きな意味を持っています。彼らが、そして私たちが、この問いに「はい」と答えることができるのは、主イエスに「主よ」と呼びかけることの中でなのです。つまり、私たちをご自分のもとに呼んで下さっているイエス・キリストを主と呼んで、その恵みと導きに身を委ねることの中でこそ私たちは「はい」と言うことができるのです。
あなたがたの信じているとおりになるように
 そして主イエスは、この「はい、主よ」を受け止めて、それを私たちの「信仰」と呼んで下さり、そこから恵みのみ業を繰り広げていって下さるのです。主イエスが、「あなたがたの信じているとおりになるように」とおっしゃって彼らの目を開いて下さったことはそのことを示しています。彼らが主イエスの恵みと導きに支えられてようやく発した「はい」という答え、主イエスご自身が彼らから引き出して下さったこの「はい」を受け止めて、主イエスは、「あなたがたは私があなたがたの目を開くことができると信じている。あなたがたは私を信じている者だ。そのあなたがたの信じているとおりになるように」と言って彼らの目を開いて下さったのです。ですからこの「あなたがたの信じているとおりになるように」というみ言葉は、彼らの信仰には現実を変える力があるとか、本当に信じればそのことは実現する、と言っているのではありません。この言葉は、信仰の持つ力を語っているのではなくて、私たちの、本当は信仰とは呼べないような思いを受け止めて、それを信仰と呼んで下さり、それに基づいて救いのみ業を行なって下さる主イエスの恵みを語っているのです。先週読んだ22節にも、主イエスの服の房にでも触れば病気を癒してもらえる、と思って後ろからそっと触れた女性に対して主イエスが、「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃって、病気を癒して下さったことが語られていました。これも、彼女の強い信仰が救いをもたらした、ということではなくて、彼女が主イエスによる救いを藁をもつかむような思いで求めた、その思いを主イエスが彼女の信仰として受け止めて下さり、救いのみ業を行なって下さった、ということでした。主イエスによる救いは、人間の信仰の力によってではなくて、主イエスの恵みのみ心によって実現するのです。本日の箇所の出来事もそのことを示しているのです。

神が目を開いてくださることによって本当のことが見える
 この二人の盲人はこのようにして目を開かれ、主イエスによる救いにあずかりました。私たちが主イエスによる救いにあずかることにおいても、これと同じことが起っているのです。救われるとは、目を開かれることです。それは肉体の目の視力が回復することではありません。肉体の目は見えていても、それだけでは私たちは本当のことが見えていないのです。神によって目を開かれることによってこそ、本当のことを見ることができるようになるのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所である列王記下第6章8節以下には、そのことが印象的に語られています。これは預言者エリシャの物語です。エリシャとその召使のいた町がある時敵であるアラムの大軍に包囲されてしまいました。その軍勢を見て召使は慌てふためき、「ああ、ご主人よ、どうすればいいのですか」と言ったのです。しかしエリシャが「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と祈ると、召使の目は開かれました。すると、火の車と戦車、つまり主なる神の軍勢がエリシャを囲んで守っているのが見えたのです。さらにエリシャは、今度は敵の軍勢の目をくらましてくださいと祈りました。すると敵たちはエリシャを見ても気づかず、むしろエリシャに導かれてイスラエルの本拠地サマリアまで連れて来られてしまいました。そこでエリシャがもう一度、「主よ、彼らの目を開いて見えるようにしてください」と祈ると、彼らは自分たちがイスラエルの陣営の中へと導かれてきたことに気づいたのです。
 エリシャの召使の肉の目は見えていました。しかしその肉の目に見えていたのは、敵の大軍に包囲されていてもう滅ぼされるしかない、という現実でした。この目に見える現実によって彼は慌てふためき、絶望に陥ったのです。しかし神が彼の目を開いて下さったことによって、彼は本当のことを見ることができました。本当のこととは、火の車と戦車が彼らを囲んで守っているということです。つまり、神が共にいて下さり、人間を超えた強い力をもって守り、導いて下さっている、ということです。肉の目が開いているだけでは、この本当のことを見ることができません。神によって目を開かれることによって初めて、この本当のことを、つまり神が共にいて下さり、守り、導いて下さっていることを、要するに神が自分を愛して下さっていることを見つめることができるのです。このように神によって信仰の目を開かれることこそが、神の救いにあずかることなのです。
 エリシャたちを包囲していたアラムの軍勢も、肉の目は見えていましたが、彼らは逆に神によって目を閉ざされたために、本当のことを見ることができなくなりました。自分たちの前に現れた人がエリシャであることが分からず、敵の陣営へと導かれていっても気づかなかったのです。このように、肉の目は開いていても、神が目を開いて下さらなければ、本当のことを見ることはできないのです。神による救いとは、神が目を開いて下さって、神が共にいて下さり、守り支えて下さっていること、神が自分を愛して下さっているという本当のことが見えるようになることです。この二人の盲人は、ただ目が見えるようになったのではなくて、主イエスによってそういう救いを与えられたのです。主イエスは私たちにも、それと同じ救いを与えて下さろうとしておられるのです。

主イエスの十字架の死によって
 彼らが目を開かれてこの救いにあずかることができたのは、主イエスが「わたしにできると信じるのか」と問いかけて下さったことによってでした。その問いに対して「はい、主よ」と答えたことによって彼らはその救いにあずかったのです。彼らがそのように答えることができたのは、先ほども申しましたように、彼らが強い立派な信仰を持っていたからではありません。「わたしにできると信じるのか」と問われたら言葉を失ってしまうのは彼らも私たちと同じでした。にもかかわらず彼らは「はい、主よ」と答えることができました。主イエスがその答えを彼らから引き出して下さったのです。同じように主イエスは私たちからも、この答えを引き出して下さいます。そのために主イエスは人間となって下さり、十字架にかかって死んで下さったのです。私たちが主イエスに「はい、信じます」と答えることがなかなかできないのは、神を無視しており、自分が主人となって生きているからです。普段、神と共に生きておらず、自分の思いに従って生きているのに、何か苦しいこと、つらいことがあると「助けてください、救ってください」と願う。そんな私たちは、主イエスから「あなたはわたしを信じるか」と問われたら口ごもらざるを得ません。主イエスによる救いを固く信じ、信頼している、などとはとても言えないのです。しかし主イエスは、そのような私たちのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。ご自身の命を犠牲にして、神を無視して生きている私たちの罪を赦して下さったのです。つまり、罪と弱さに満ちた私たちのことを心から愛して下さっているのです。その主イエスが、「わたしを信じるか」と問いかけて下さっています。この主イエスに導かれて私たちは、「はい、主よ。私はあなたを信じます」と答えるのです。そして主イエスはその答えを「あなたの信仰」と呼んで下さり、そこから豊かな恵みのみ業を繰り広げていって下さるのです。私たちの目を開いて、神が私たちを愛して下さっており、主イエスが常に共にいて守り導いて下さっているという本当のことを見させて下さり、それによって私たちを新しく生かして下さるのです。
 これからあずかる聖餐も、肉の目には、ひとかけらの小さなパンとほんのわずかなぶどう液でしかありません。しかし信仰の目を開かれることによって私たちはここに、私たちのために肉を裂き、血を流して下さった主イエスの愛を見つめ、それを味わうことができます。そしてその主イエスの愛に支えられて生きていくのです。私たちをこの救いにあずからせるために主イエスは、「あなたはわたしを信じるか」と問いかけ、私たちから、「はい、主よ」という答えを引き出そうとしておられるのです。主イエスの導きによってこの問いかけに「はい、主よ」と答える、それが洗礼を受けることです。洗礼を受けた者は、主イエスが招いて下さる喜びの食卓である聖餐にあずかり、主イエスの愛を見つめ、味わいながら生きていくのです。

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